交野歴史健康ウォーク 2009.7.11 第97回
=交野古道を歩く=
行程;交野ドーム→交野車塚古墳→大畑古墳→住吉神社→かいがけの道→ 伏拝の辻→かいがけ広場→傍示の村→菅原神社→里→スマイル地蔵→ 大仏の道→じゅんさいの池→かいがけの道・道標 12時頃解散 徒歩 約 6Km |
午前9時、いつもの元気なメンバー15名が揃った。 中会長の挨拶の後、本日の案内人・平田政信さんの先導で、かいがけの道へと元気にスタートした。府道久御山線のトンネルをくぐり抜けると「東車塚古墳」は近い。車塚古墳は、昭和47年交野高校建設に伴って発掘調査された5基の古墳からなる古墳群で、その一つ「東車塚古墳」の木棺は8mを超える長大な割り竹木棺で、副葬品として、甲冑、銅鏡3面、石釧、刀剣、筒型銅器、巴形銅器などが出土したことなど、平田さんから説明を受けながらフェンス越しに見学。 目の前に広がる田圃の風景は、「てるは村」(寺村の前身)「今井」と言った。昔、寺村は、JR学研都市線の西側、交野高校の北側の「いまい」という小字にあったという。 「昔、寺村は「いまい」にあってな、水が出て困り抜いたすえ、こんなところには、いまい、いまいといって今の龍王山の麓の寺村に移ったんや」と、村の古老の話を紹介された。 車塚古墳群・東車塚古墳について、詳細はこちらへどうぞ。 |
中会長の挨拶 |
||||
平田さんの元気な顔に、みんなは嬉しい! |
||||
東車塚古墳から見える交野山と田園風景 |
||||
交野ドームも間近かに! |
||||
本日のメイン古道、かいがけの道 |
||||
|
||||
かいがけ広場で平田さんの名調子、黄泉比良坂のお話が続く! |
||||
かいがけ地蔵 室町時代後期? |
||||
かいがけ広場で記念撮影 |
||||
菅原神社の鳥居 |
||||
イボ落としの手洗い石 |
||||
傍示の「里」 |
||||
のどかな田園風景 |
||||
↑奥のスマイル地蔵(永禄4年=1561) 、手前の天正4年(1576)の阿弥陀さんに出会える |
||||
大阪府(交野市)と奈良県の県境、大仏道 西傍示から東傍示へと続く! |
||||
東大寺建立の際、大仏の銅の鋳型がうまく出来ないため、この仕事に熟達していた九州の字佐八幡宮にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、宇佐から大和に行くことになった。一行は途中2斑に分かれ、一隊は枚方市の百済寺に、他の一隊は交野の獅子窟寺に宿泊した。そして、この「かいがけ道」を通り奈良の都に到着し、無事、大仏建立を助けたと言われている。ここは、大仏の道と呼ばれている。 | ||||
昔は、「じゅんさいが採れたという池」 |
||||
トウショウガ岳へと登る辻 |
||||
山火事の緊急消防用の水導管 |
||||
大峰山33回大願成就の石碑 |
||||
傍示の里には、綺麗な紫陽花が満開だった! |
||||
ここを下って、12時頃解散しました。 |
《ミニガイド》 【傍示の里】傍示とは、榜(ふだ)を立てて国境を示した。特に街道筋においては、この傾向が強い。傍示は河内国と大和国の境になっている。ここ傍示は交野から高山を経て富雄川を下り、三碓(みつがらす)で左折して奈良に通じる「かいがけ道」である。古代交野は天野川流域の条里制が施行されたごとく、豊かな地であり、かつ、渡来人の活躍の場でもあった。寺、森辺りに古墳や遺跡が散在する。当然この道は頻繁に利用されたことであろう。また、東大寺建立の際、大仏の銅の鋳型がうまく出来ないため、この仕事に熟達していた九州の字佐八幡宮にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、宇佐から大和に行くことになった。一行は途中2斑に分かれ、一隊は枚方市の百済寺に、他の一隊は交野の獅子窟寺に宿泊した。そして、この「かいがけ道」を通り奈良の都に到着し、無事、大仏建立を助けたと言われている。 氷室山八葉蓮華寺から国宝級の快慶作の阿弥陀如来立像(高さ82.4cmの半等身像で、来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して衆生に向かって来迎する有様を表わしている)が発見された。鎌倉時代初期、建久年間から建仁年間(1192〜1203ごろまで)に作られた作品で、快慶の造像活動の中でも自分の様式を確立するための模索していた時期と言われている。 現在の傍示に住んでおられる人の姓が、ほとんどが「伊丹氏」である。この伊丹氏が傍示に住みつくようになったのは天正元年(1573)のことである。 この年、かって摂津国伊丹の城主であった伊丹兵庫守親興が室町幕府の最後の将軍足利義昭に加勢して織田信長と戦争を起こした。しかし、戦況は思わしくなく、宇治の槇島が落とされたため親興は退去し、高槻の芥川城に逃げた。しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも、城主伊丹親興は討死してしまった。残った伊丹一族は淀川を渡って交野へ逃げた。しかし、織田方の追手の厳しさから逃れるため、交野の山中に入り、寺の背後の竜王山の後ろに移り住むことになった。芥川城陥落の功により荒木村重は伊丹の城主になっている。また、大阪冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大阪方の武将として出陣している。 天正年間に伊丹氏が生活を始め、その後もこの小さな谷を切り開いて、あまり人口を増やすことなく、現在まで永々と生活してきているのである。 【北浦(きとら)】 里の北側で、中心に交野市野外活動センターがある。里に集落があり、また、田畑が開かれた後、北浦の谷も開かれたものと思われる。「浦」はこの場合「裏」のことで村の裏側の土地といった意味である。 傍示では「きたうら」をなまって「きとら」と呼んでいる。 |
||||
交野古道を歩く 「かいがけの道」を動画でお楽しみください! | ||||
「かいがけの道を歩く 」
|
||||
|
||||