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交野歴史健康ウォーク 第111回

恒例のバス旅行
木津川流域(加茂・笠置)を訪ねて


午前8時30分 交野・久太郎(駐車場)→岩船街道→163号線→木津川市→
相楽神社→藤原百川夫妻の墓→木津→恭仁宮跡・山城国分寺跡→海住山寺→
笠置寺→笠置いこいの館→交野駅ロータリー午後6時30分到着
 約10km徒歩  

 2010.12.4(土)午前8時30分、焼肉久太郎駐車場に集合。前日の異常な強風の荒れ模様も一転、すっかり回復、朝から絶好の行楽日和となった。時間通り元気な38名の顔が揃った。交野歴史健康ウォークは発足後第111回目を数え、今回のバス旅行は毎年恒例となって3回目を迎え、木津川流域の(加茂・笠置)史跡を訪ねた。
散策当日、配布されたパンフレットや各種の資料を参考に作成しました。
記して、感謝申し上げます。

また、綱分さん、黒田さん、江森さんより沢山の写真を投稿いただきましたこと、心から感謝申し上げます。
 
2010.12.4(土)午前8時30分、焼肉・久太郎の駐車場を出発、168号線(磐船街道)を通って
163号線を左折、木津に向かって走行、京奈和自動車道の山田川の近くで下車。
相楽(さがなか)神社
交通:西木津駅から西南へ約500m。国道163号南側。相楽小学校西側
 祭神は神足仲彦(かみたらしなかひこ)命=仲哀天皇=、気長足姫(おきながたらしひめ)命=神宮皇后、誉田別(ほんだわけ)命=応神天皇である。延喜式内社で古くは八幡宮と称した。本殿(国重文)は三間社流造・檜皮葺で室町時代初期の建築と考えられる。また、境内末社の若宮神社本殿は室町時代後期のものである。
 相楽神社には中世以来の宮座行事がよく残っており、特に正月に行われる一連の行事、相楽の御田(おんだ)と正月行事は有名で、1月14日深夜に豆焼き・粥占い、15日昼の御田。旧暦1月15日本試(みずだめ)の後、2月1日餅花行事があり、稲作の過程を面白く演ずる御田や餅の花が拝殿いつぱいに飾られる餅花が一般に公開されている。
 古くは「八幡宮」と称していましたが、明治に至って「延喜式」に記す相楽神社と認められました。
森の中央に鎮座する本殿は、室町時代初期に建立されたもので、重要文化財となっています。本殿南側の末社、若宮神社本殿は、室町時代後期に建立されたものですが、各所に古様なつくりがみられ、京都府登録文化財となっています。
中世以来の宮座行事も伝えられており、なかでも正月に行われる一連の行事(1月14日の「豆焼」、15日の「粥占」「御田」、2月1日の「餅花」、旧暦1月15日の「水試」)は、京都府指定文化財に指定されています。稲作の過程をおもしろく演ずる「御田」や餅の花が拝殿いっぱいに開く「餅花」は一般にも公開されています。  

宮座の行われる建物
10月17日の秋祭りの大祭は、宮座の総集会といえる行事が行われ
南北両篭り所に九座90人の10人衆が紋付羽織の衣装で当屋から
有職料理の饗応を受ける。

次いで、163号線を北へ渡り、山田川を越し西へ
藤原百川夫妻の墓
 藤原百川は大化の改新で活躍した藤原鎌足の曾孫で、奈良時代後期の官人(藤原式家・宇合の子)で、称徳天皇が僧侶である弓削道鏡を皇位につけようとして宇佐八幡官のお告げを聞きに行かせた時、勅使の和気清麻呂に働きかけて、その企てを左大臣藤原永手(藤原北家)らとともに道鏡を失脚させ、光仁天皇を擁立した。
 また母が渡来人の出であった山部親王(後の桓武天皇)を皇太子に立てて平安遷都への道を開き、政権を藤原氏の手中に収めた。宝亀10年(779)7月、参議中衛大将兼式部卿従三位の地位で没した(48歳)。
 「日本後紀」延暦16年(797)二月条に相楽郡に墓地として2町6反の田を賜り、右大臣二位が贈られたとある。これはこの時に相楽郡に改葬されたのではなく、本来墓がここにあり、墓域が広げられたのであろうと考えられている。
また、延暦5年(927)12月に撰進された「延喜式」の諸陵寮式には太政大臣正一位が贈られ、夫人の墓も同所にあると記す。その後墓地の所在がわからなくなり、明治27年に至って伝承や江戸時代の文献から藤原百川の墳墓の考証が行われ、当地を百川の墓と認定した。
 明治28年(1895)の平安遷都千百年祭の際に正式に当地に比定された。ただし、現在では信用のおける文献を確認できず確定は出来ていない。
再び、163号線を走行、木津市内の中心部を抜け加茂へと向かう
恭仁宮跡・山城国分寺跡
木津川市加茂町例幣字中切・溝垣内  恭仁小学校の北側
 恭仁小学校の北側に「山城国分寺跡旧恭仁宮跡」の碑が立っている。ここがかつての恭仁宮の大極殿跡で、また山城国分寺の金堂跡と推定されている。
 天平12年(740)聖武天皇は恭仁宮への遷都を発し、右大臣橘諸兄に造営を命じるとともに、その月のうちに恭仁宮に移つた。このようなあわただしい遷都であつたため、742年の朝賀の儀式も大極殿が完成しておらず、仮に四阿殿(あずまやでん)を造つて行われた。その後平城京の建物を移し、大極殿・大安殿等が造られたものの、宮殿としての体裁がどの程度整えられたかは不詳である。しかも、その翌年に廃都となり、ここに都が置かれたのはわずか4年であった。
 宮跡は昭和48年(1973)から発掘調査が行われ、大極殿や建物遺構が発見されている。平成5年(1993)には宮城門も見つかつている。恭仁宮には後に山城国分寺(国史跡)が移された。全国に国分寺造営の詔が出されたのが天平13年(741)2月であるが、山城の国分寺の造立の時期や当初の場所・規模については確かなことは不明で、天平15年(743)正月に聖武天皇が高僧を招いて金光最勝王経を誦読させており、この頃には完成したと考えられる。
 その後、746年に廃都となった恭仁宮の大極殿が国分寺に施入されて現在地に移ったと考えられる。現在までの発掘調査によると、その規模は3町(約330m)四方で、金堂は東西45m、南北20mであったと推定されており、その周囲に回廊が張り巡らされていた。金堂の東100m程のところには五重塔があり、現在その礎石と碑が立っている。
恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。
当時、たびたび疫病や」戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした自体を打開するためか、
宗務天皇は奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の
加茂町の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平16年(744)に
わずか4年余りで廃都されてしまいました。
皆さんの立っている場所は、塔跡の正面に当たり、
周囲を塀で囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から
考えて七重の塔であったと推定されています。

心柱の礎石

巨大な礎石に驚きです!
 天平12年(740)12月、突如聖武天皇が恭仁京遷都を宣言、東国行幸の後平城京に戻らず、瓶原に造営されていた恭仁宮に入りました。宮殿の造営は急ピッチで行われ,平城宮より政治の中心となる大極殿や長堂院、周囲を取り巻く回廊などが移築されました。今では珍しくなりました木造校舎の恭仁小学校のすぐ北側にある基壇が大極殿跡です。壇上には当時の礎石が点在し、壮大な建築物であったことを伝えています。この間南山城の加茂盆地に、都の中心となる恭仁宮が造営され、木津・加茂・山城にまたがる壮大な都が計画されました。都の造営は5年ほどで終わり、宮殿の跡には山城国分寺が営まれました。

 恭仁宮の調査は,昭和48年から始まり、30年ほどを費やして宮殿の範囲が確定しましたが、都が難波宮に移ってから、恭仁宮の大極殿が山城国分寺に施入されたことから、跡地には長らく山城国分寺が営まれました。そのため全国でもまれな二つの重要遺跡が複合する事となりました。史跡の指定は、当初山城国分寺として行われましたが、近年南北約750m、東西約560mの南北に長い宮域が確定したことから、平成19年2月6日史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)と名称が変わり、史跡の範囲も拡大しました。
史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)しせきくにきゅうせき やましろこくぶんじあと


木津川市の東部、丘陵地に開けた加茂盆地を中心とする地域は、北から瓶原、加茂、当尾と呼ばれ、三つの地域で加茂町を形成していました。町名「加茂」は、古代の神事を司るカモ氏に由来するものと云われます。
この盆地には、奈良時代の和銅元年(708)以来、天皇が行幸した岡田離宮や瓶原離宮の他、古代の貨幣「和同開珎」を造る鋳銭司も営まれました。和銅3年(710)に平城京から東国への官道が整備され、加茂盆地に岡田駅が設置されるなど、水陸交通の要衝として登場します。
この盆地に天平12年(740)、聖武天皇が都を遷してきます。恭仁京遷都です。盆地の中に壮大な都市計画が行われ、建設の槌音が絶えることなく盆地に響いていました。
恭仁京はわずか5年ほどの短命な都でしたが、廃都後山城国分寺が跡地に営まれ、現在も七重塔跡礎石が往時をしのばせています。盆地を取り巻く美しい山並みと盆地を東西に横切るように流れる大河木津川。この山紫水明の織りなす景観は、旧都の記憶とも相まって、多くの歌人によって詠まれてきました。


山城国分寺跡で記念撮影 (江森利夫氏撮影)

恭仁京跡から海住山寺方面を望む
海住山寺
(かいじゅうせんじ)
山城国分寺跡の北約1.5km、海住山(三上山)の中腹に建つ(真言宗)

 山城国分寺跡の北約1.5km、海住山(三上山)の中腹に建つ(真言宗)。寺伝によると天平7年(735)聖武天皇の勅願で良弁が十一面観音を本尊として建立し、観音寺と号したのが始まりという。良弁はその後、奈良東大寺の建立に尽力し、その初代別当になっている。観音寺は保延3年(1137)に炎上し、一時衰退したが承元2年(1208)に笠置寺の解脱上人貞慶が再興して補陀洛山海住山寺と改めた。その後、貞慶の弟子の慈心上人覚心が寺観の整備に努め盛時には塔頭58を数えたが、豊臣秀吉の検地によって寺領が削られ、以後衰退した。
 約1万坪の境内には国宝の五重塔が建つ。健保2年(1214)覚心が貞慶の一周忌供養の際に建立したもので後鳥羽天皇下賜の舎利を納めている。高さ17.7mと小さいが鎌倉時代唯一の遺構として貴重である。本瓦葺で昭和38年(1963)初層屋根に裳腰を付けて旧姿に復元、堂内に木造四天王立像(国重文)を祀る。
 文殊堂(国重文)は鎌倉時代前期の建築で寄棟造、銅版葺。内部に木造阿弥陀如来座像(平安)と木造文殊菩薩坐像を安置する。本堂は明治時代の建築で、本尊木造十一面観音立像(国重文)は平安時代中期の作で、像高167.9p。
文殊堂前の「正嘉二(1258) 年」銘の石船は寺僧が冷水浴に用いたものである。

海住山寺まで800mの案内板

第一番の山門をくぐる


補陀洛山(ふだらくさん)海住山寺

山門もくぐると海住山寺の本堂に到着

本堂
寺伝によると天平7年(735)聖武天皇の勅願で良弁(ろうべん)が
十一面観音を本尊として建立し、観音寺と号したのが始まりという


本堂は明治時代の建築で、本尊木造十一面観音立像(国重文)は
平安時代中期の作で、像高167.9p


海住山寺の賽銭箱

文殊堂(国重文)は鎌倉時代前期の建築で寄棟造、銅版葺。
内部に木造阿弥陀如来座像(平安)と木造文殊菩薩坐像を安置する


鐘楼

本堂前に なで仏 賓頭廬(びんずる)尊


海住山寺国宝の五重塔
約1万坪の境内には国宝の五重塔が建つ。健保2年(1214)覚心が
貞慶の一周忌供養の際に建立したもので後鳥羽天皇下賜の舎利を納めている。
高さ17.7mと小さいが鎌倉時代唯一の遺構として貴重である。


本瓦葺で昭和38年(1963)初層屋根に裳腰を付けて旧姿に復元、
堂内に木造四天王立像(国重文)を祀る。


京都の自然200選  ヤマモモの木 
本殿両脇に狛犬(向かって左)
吽の狛犬はオスなんですか?の質問にインターネットで調べましたら、
吽・・・神社を正面から見た時左にいる、口を閉じた狛犬
正式には無性だが、オスとして扱っているものが多い。
阿・・・神社を正面から見た時右にいる、口を開けた狛犬
正式には無性だが、メスとして扱っているものが多い。と、書かれていました。


文殊堂前の「正嘉二(1258) 年」銘の石船は寺僧が冷水浴に用いたものである。

願を叶える なすのこしかけ
海住山寺の展望台より南山城・加茂を遠望


遠くに奈良市のドリームランドの塔が見えました!

直ぐ眼下に、恭仁京跡を


本日の貸し切りバス会社(大阪バスグループ)の社長が
高砂部屋(朝潮)の後援会長をしている関係で、
バス乗車口近くに朝潮のイラストが描かれていました…。

海住山寺を拝観、バスに乗り込む頃は午後12時を少し過ぎた頃となり、
北笠置の三叉路を右折して、昼食場所の木津川河原のキャンプ場へと向かう。
木津川河原 キャンプ場

鉄骨造りの笠置橋

キャンプ場から笠置山を望む


JR笠置駅から笠置山を望む
笠置寺

 「今昔物語」によると、笠置山は古くは鹿鷺山と記されていたが、天智天皇の子大友皇子がこの山に狩猟に来た時に災難にあい、山神の加護によつて難を逃れ、感謝の為に身に着けていた蘭笠(いがさ)を置いたため、笠置山と呼ばれるようになつたという。

 山は笠置寺が創始されて以降、修験の行場や弥勒信仰の霊地として栄え、平安時代藤原道長も訪れている。
笠置山の南麓に笠置寺(真言宗)がある。創建は明らかではないが奈良時代に良弁が東大寺建立のため、当山に籠って秘法を修したと伝え、巨岩信仰から寺が造られたと考えられる。当初、鹿鷺山笠置寺と称し、鎌倉初期に解脱上人貞慶が隠棲して当山般若院に入り、寺観を整え盛時には49院の堂舎僧坊が山中に建てられたという。

 元弘元年(1331)後醍醐天皇は京都を逃れ、東大寺別当尋尊を頼んで笠置山に来て寺を行在所とし、寺を中心に笠置城とし、近在の武士農民を集めて当山衆徒の助けを得て幕府軍と戦ったが、約1カ月で敗れ寺は焼かれた。その後復興計画は実らず、今は塔頭福寿院を本坊とし、江戸時代再建の本堂以外若干の堂宇があるにすぎない。

 寺には庭の鐘楼に銅鐘(鎌倉)があり、他に十三重石塔(室町)と紙本墨書地蔵講式(貞慶筆)、弥勤講式各1巻(共に鎌倉・共に国重文)がある。
 銅鐘は「解脱鐘」ともいい、下縁6弁とした珍しい形で「笠置山般若台」6字と俊乗坊重源の銘を刻む。
石塔はもと木製であったが、元弘の変で焼失し、乱による戦死者を弔うため石造とした。寺の後方の上ノ堂跡の少し上に仁王堂跡がある。元弘の変に足助重範が奮戦した一ノ木戸跡で、近くに名切石には戦死者の名を刻む。

 後醍醐天皇行在所跡は石の柵を巡らす。笠置城の本丸跡といわれ、北の二の丸跡との間には濠跡がある。
十三重石塔の隣の弥勒石は高さ15m余の巨石で、寺の本尊弥勒菩薩を浮彫にしてあつたが、兵火で焼滅した。その前の本堂は懸崖造。その下の道を進むと虚空蔵石磨崖仏(平安)がある。高さ13m、幅7mの巨岩に線刻されている。
笠置いこいの館の前の駐車場にバスを駐車、
荷物を預けて身軽になって、笠置寺へとゆっくりと登る。

笠置山登山口 是より登り8丁

笠置山まで900mの登り!

史蹟及名勝笠置山の石碑

1丁石     1丁=60間=109m

直ぐ眼下に笠置の町並


二丁石 
かっては下の堂仏像を安置した小堂と休み場があった

三丁石


笠置山一の木戸跡
戦いの時にこの 一の木戸 を守っていたのは
三河国足助次郎重範公で弓の達人である。

この付近に元弘の役の頃、仁王堂があった


登り始めて約20分で、一ノ木戸跡に到着 あと200m


元弘の役に足助重範が奮戦した一ノ木戸跡

近くの名切石には元弘の役の戦死者の名を刻むが、
安政の大地震で90度転がり、
名を刻んだ面が下になり名が読めなくなっている。

笠置寺まであと200m

あと100mの標識

あと100m、急な上りの階段

7丁石 あと一息!

左 柳生まで1.5Km  右 笠置橋1.3Km


登り始めて約30分で、笠置寺山門に到着!
笠置山寺縁起
 笠置山寺の歴史は古く、その創建は不明であるが出土品からみて飛鳥時代すでに造営されていたようである。
奈良時代大和大峰山と同じく修験行場として栄え、平安時代には永承7年(1052)以後世の末法思想流行と共に、笠置山寺本尊弥勒大磨崖仏は天人彫刻の伝として非常な信仰を受けた。

更に鎌倉時代建久2年(1191)藤原の貞慶(解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を当寺から展開する時信仰の寺として全盛を極めた時代であった。

しかし、元弘元年(1331)8月討幕計画に失敗された後醍醐天皇の行在所となり幕府との攻防1ヶ月9月29日全山焼亡、以後復興ならず、室町時代少々の復興をみるも江戸末期には荒廃、ついに明治初年無住寺となった。

明治9年、大倉丈英和尚錫を此の山に止め復興に力を尽くすこと20年ようやく現在の姿に山容を整えられたのである。
 「今昔物語」によると、笠置山は古くは鹿鷺山と記されていたが、天智天皇の子大友皇子がこの山に狩猟に来た時に災難にあい、山神の加護によつて難を逃れ、感謝の為に身に着けていた蘭笠(いがさ)を置いたため、笠置山と呼ばれるようになつたという。

 山は笠置寺が創始されて以降、修験の行場や弥勒信仰の霊地として栄え、平安時代藤原道長も訪れている。
笠置山の南麓に笠置寺(真言宗)がある。創建は明らかではないが奈良時代に良弁が東大寺建立のため、当山に籠って秘法を修したと伝え、巨岩信仰から寺が造られたと考えられる。当初、鹿鷺山笠置寺と称し、鎌倉初期に解脱上人貞慶が隠棲して当山般若院に入り、寺観を整え盛時には49院の堂舎僧坊が山中に建てられたという。

 元弘元年(1331)後醍醐天皇は京都を逃れ、東大寺別当尋尊を頼んで笠置山に来て寺を行在所とし、寺を中心に笠置城とし、近在の武士農民を集めて当山衆徒の助けを得て幕府軍と戦ったが、約1カ月で敗れ寺は焼かれた。その後復興計画は実らず、今は塔頭福寿院を本坊とし、江戸時代再建の本堂以外若干の堂宇があるにすぎない。

 寺には庭の鐘楼に銅鐘(鎌倉)があり、他に十三重石塔(室町)と紙本墨書地蔵講式(貞慶筆)、弥勤講式各1巻(共に鎌倉・共に国重文)がある。
 銅鐘は「解脱鐘」ともいい、下縁6弁とした珍しい形で「笠置山般若台」6字と俊乗坊重源の銘を刻む。
石塔はもと木製であったが、元弘の変で焼失し、乱による戦死者を弔うため石造とした。寺の後方の上ノ堂跡の少し上に仁王堂跡がある。元弘の変に足助重範が奮戦した一ノ木戸跡で、近くに名切石には戦死者の名を刻む。

 後醍醐天皇行在所跡は石の柵を巡らす。笠置城の本丸跡といわれ、北の二の丸跡との間には濠跡がある。
十三重石塔の隣の弥勒石は高さ15m余の巨石で、寺の本尊弥勒菩薩を浮彫にしてあつたが、兵火で焼滅した。その前の本堂は懸崖造。その下の道を進むと虚空蔵石磨崖仏(平安)がある。高さ13m、幅7mの巨岩に線刻されている。

皇子、鹿を追って絶壁に行き詰まる。
正面の皇子が立ち往生しているのは現在の薬師石の上である


「今昔物語」によると、笠置山は古くは鹿鷺山と記されていたが、
天智天皇の子大友皇子がこの山に狩猟に来た時に災難にあい、
山神の加護によつて難を逃れ、感謝の為に身に着けていた蘭笠(いがさ)を
置いたため、笠置山と呼ばれるようになつたという。


天人が弥勒像を彫り、完成した像を仰ぐ皇子


笠置山に開ける笠置寺全景。中央に弥勒石。右に今も残る虚空蔵菩薩像

毘沙門堂

笠置寺 本坊
 笠置寺山内49院の一子院旧福寿院である。全盛期平安時代笠置山には49院の子院があった画、時代と共に衰微、特に元弘のの戦乱・安政に大地震等で江戸末期には、福寿院、多門院、文殊院、知足院の4子院が無住のまま残された。

 明治9年大倉丈英和尚により福寿院を笠置寺本坊年、文殊院、知足院は取り壊し、多門院は本堂を毘沙門堂として残した。
 創建より明治に至るまで山内49院を総称して笠置寺と称し笠置寺なる建物はなかった。
解脱鐘
(げだつかね)


笠置寺解脱鐘(国指定文化財)

鐘の基底部が六っに切り込まれた意匠は日本に一つしかない。
中国の形式をもった鐘で、1196年東大寺俊乗防重源和尚の作である。
(笠置寺奉替会より)
笠置寺所蔵の現物による出典
重源寄進になる鐘は解脱鐘と称され、元弘の役で全てが烏有に帰した笠置寺に残る解説

元弘の役以前の数少ない文化財で国の重要文化財に指定されている。

この鐘は口径六十七センチ、高さ百六十八、五センチ、その駒の爪の六ヶ所に深さ一センチの浅い切れ込みを造り、これによって六葉に擬えている点に特徴を持つ。
銘文の「大和尚南無阿弥陀仏」とは貞慶と親交のあった東大寺俊乗房重源のこと。駒の爪下面に銘のある鐘は珍しい。このような形式を持つ鐘は、長野県諏訪神社鐘に銘の一部が駒の爪下面にあるのが知られているだけである。
また六葉鐘も珍しく、重源の関係する寺に限って存在が認められる。重源がかって国司上人として駐錫した周防阿弥陀寺の建久八年在銘の鉄製宝塔には鐘楼六葉鐘一口堅三尺口一尺八寸と陽鋳されていて、いま実物は存しないが、当時六葉鐘が存在したことが知られる。

 また東大寺大勧進所鐘は笠置寺の鐘より若干大きいが、全体の釣合、乳の形状とその数、袈裟襷の意匠、駒の爪に至るまで笠置寺のものと極似する。重源の入唐の新知識をもって生み出されたのがこの六葉鐘であろう(以上日本の梵鐘、角川書店、昭和四十五年による)。

この鐘には貞慶が冥官の招請によって法会の導師をした謝礼に持ち帰った閻浮壇金という砂金が溶かし入れられているとの言い伝えがある(山州名跡誌)

二〇〇二年の東大寺展にこの鐘が出品されたとき、梵鐘の笠上面に十個の梵字が陰刻されていることが新たに確認された。金剛界五仏を表す五字と文殊真言を表すと思われる五字である。その意味するところは今後の研究にまたねばならない。

解脱鐘

貞慶(解脱上人)像

椿本神社
この辺りは、笠置山の本丸ともいうべき本堂を背にする最後の守りの位置にあり
笠置落城の折、後醍醐天皇を山上から何とか逃がさんものと、
勇将たちが必死になって北条軍を食い止めた場所である。
笠置山山内 名所巡り
名所巡りは1周約1km、ゆっくり歩いて1時間の行程である。
楓や椎、樫の巨木が鬱蒼と茂る本堂への参道を100ほど進むと
頭上に覆いかぶさるように突き出た高さ12m、幅9mの巨石が
目に入る、これを薬師石という。


薬師石


笠置寺十三重石塔(4.7m)と奥の石は「文殊石」 高さ7m 幅13m


4.7mの十三重塔も周りの巨石のために小さく見える

笠置寺の本尊 弥勒石

今から1300年前、白鳳の時代から天皇をはじめ、
貴顕や多くの庶民の信仰を集め、
笠置寺をして弥勒の聖地と言わしめたその石仏である。


弥勒磨崖仏は、高さ16m、幅13mの前傾した花崗岩の巨石に
線刻で弥勒菩薩立像が刻まれていいた。
8世紀に大陸から渡来した技術者が彫ったと伝わり、
最古級で当時最大の磨崖仏とされる。
末法思想で弥勒信仰が強まった平安時代、
藤原道真など多くの人が笠置詣でに訪れた。


元弘元年(1331)後醍醐天皇は京都を逃れ、東大寺別当尋尊を頼んで
笠置山に来て寺を行在所とし、寺を中心に笠置城とし、近在の武士農民を集めて
当山衆徒の助けを得て幕府軍と戦ったが、約1カ月で敗れ寺は焼かれた。

その際の兵火で石の表面が焼けて崩れ、今は光背部分だけが残っている。


弥勒石を背景に記念撮影 (江森利夫氏撮影)


弥勒石の前の正月堂の屋内に、デジタルで復元された画像が掲示されている

日本最大級の磨崖仏をデジタル画復元 笠置寺



復元された弥勒磨崖仏の画像と笠置寺の小林住職(京都府精華町・文化財復元センター)

 
京都府笠置町の笠置寺の本尊・弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)が高精細のデジタル画像で復元され、1日、報道陣に公開された。傷みが激しい国内最大級の磨崖仏の優しい姿がよみがえり、寺は今秋以降に画像を一般公開する予定。「実物の復元にもつなげたい」としている。

 磨崖仏は高さ約15メートル、最大幅は約12メートル。奈良時代の作とみられ、花こう岩に線で彫られた。元弘の変(1331年)の戦火などで、現在では頭頂部など一部を除き、ほとんど姿が消えてしまっている。

 デジタル画像での復元は、寺が関西学研都市のベンチャー企業「文化財復元センター」(京都府精華町)に依頼。センターが約3カ月かけて完成させた。

 復元作業は、デジタルカメラで撮影した1億〜3億画素の写真約300枚を基に進めた。画質を調整し、かすかに残った肩や足元の蓮華(れんげ)座などの線刻を発見。「笠置曼荼羅(まんだら)図」(鎌倉時代、重文)に描かれた弥勒磨崖仏の絵なども参考に、不明な部分を再現した。

 笠置寺では復元画像を磨崖仏近くの正月堂に飾る予定。小林慶範住職(74)は「新しい技術で、本尊の姿の痕跡が明らかにできた」と喜び、11月初めに完成記念の法要を行いたいという。

(2010.10.02 京都新聞を参照)



デジタルで復元された磨崖仏 (毎日新聞を参照)
現在奈良2月堂で営まれるお水取は
第1回この正月堂で営まれたものである
笠置寺本尊弥勒大磨崖仏の礼拝堂である。またの名を正月堂という。
天平勝宝4年(752)東大寺実忠和尚が千寿窟で修行の折感得された十一面観音を祀る。
現在奈良2月堂で営まれるお水取は第1回この正月堂で営まれたものである

 創立の建物は元弘の戦で焼亡したが、室町時代東大寺の
貞盛和尚により復興されたのがこの建物である。

正月堂
弥勒石の前の本堂は懸崖造。

谷に突き出して造られている。清水寺と同じ懸崖造り


金剛界と胎蔵界の巨石の間が千手窟
天平勝宝4年(752)東大寺実忠和尚が千手窟で修行の折、感得された十一面観音を祀る。
現在奈良2月堂で営まれるお水取は第1回この正月堂で営まれたものである。

虚空蔵磨崖仏
(こくうぞうまがいぶつ)


この仏は茎に宝相華(ほうそうげ)の絡む蓮華の上にふざする。
頭上には宝冠をいただき、胸に瓔珞(ようらく)を飾り、天衣を翻し、
右手は施無畏印(せむいいん)、左手は与願印を作っている。


虚空蔵磨崖仏の拓本
8m×10mの国内最大の拓本


笠置寺胎内くぐり
行場入りする前身を清めるためのトンネル

上の石を叩くと太鼓のような音がするという

揺るぎ石の上から木津川を眺望

平等石


笠置寺平等石付近からの最高の眺め

貝吹石

貝吹石からの眺望

もみじ公園の上の通路に、阿弥陀磨崖仏が彫られている(高さ123cm)
 もみじ公園
素晴らしい紅葉風景
(11月20日頃の写真)


後醍醐天皇の歌

うかりける 身を秋風にさそわれて
おもわぬ山の 紅葉をぞみる


笠置山最高所 標高289mの頂で約300坪の広さの平地がある

宝物収蔵庫の十一面観音立像 平安時代の作

 天平勝宝2年(750)東大寺僧実忠和尚は笠置山千手窟より仏の世界都卒内院にいたり、仏より十一面観音の悔過(けか)の法要をうけつぎ笠置山に正月堂を建立、実際に厳修した。これが今日伝わる東大寺二月堂のお水取りの行法である。この行法の本尊として正月堂に天平勝宝2年十一面観音を安置したが、元弘戦で正月堂共々焼亡。
 以後文明14年(1482)東大寺貞盛和尚により笠置寺正月堂が復興されたとき、その本尊として移されたのがこの十一面観音である。笠置寺は鎌倉期元弘の戦乱で全山焼亡したが現在こうして平安期の仏像があるのはこうして東大寺から移されたためである。
推定3度の修理のため、平安期の姿を変えてしまっているようである。
笠置寺から自動車道を下ってくる途中、
見事な紅葉に思わずカメラのシャッターを押す
わかさぎ温泉 笠置いこいの館
京都府相楽郡笠置町住田
笠置寺から「いこいの館」に着いたのは午後4時頃、
暫く、温泉につかったり、軽い食事やコーヒーで休憩を取り、
午後5時交野へ向かって出発、午後6時30分交野駅ロータリーに到着。

今回のバス旅行は、 海住山寺と笠置寺と約20000歩を超す道程でした!

皆さん、お疲れさまでした!

次回の歴史ウォークは、2011年1月2日(日)
新春恒例の初歩き「第二京阪国道側道めぐり」です。
いきいきランド(交野ドーム)午前10時集合、津田春日神社で初詣
最後までご覧いただき有難うございました!


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