[ホームページ] へ戻る

 第20回 交野歴史健康ウォーク

2001.9.22 住吉神社から落合橋、逢合橋、うえん山を歩く 

(とき)平成13年9月22日(土)晴れ
(コース)いきいきランド交野→住吉神社・きゅうせん薮
落合橋砂子坂(スダコザカ)→逢合橋→上人松→
うえん山(拓本を取る)
→落合橋→いきいきランド交野


住吉神社から落合橋、逢合橋、うえんを山を歩くMAP
冷水地蔵(ひやみず)
いきいきランドの北側の
あぜ道にある
冷たい綺麗な水が湧いていた
交野山を眺める
京阪第2国道の建設予定地より
いきいきランドの直ぐ北側の地点
きゅうせん薮
住吉神社の境内の東にある
空禅(きゅうせん)という
お坊さんが住んでいた
落合橋
北川と南川の合流地点
ここから下流を前川という
歴史ウォーキング隊が
立ち止まって平田さんより
説明を受ける
落合橋から私市道を見る
右側の私市道を南に130m程
行った所に大門(砦)があった
私部の豪族・北田久左衛門慰
好忠が大和郡山の城主・
筒井順慶と戦った場所だといい
出城の館があった
うえん山(街道の合流地点)
右が山根街道
左が東高野街道
ここで、道標の拓本を取る

 9/22(土)天候晴れ、久しぶりのウォークに元気な顔が揃った。参加者7人。
いきいきランドを9:10過ぎ出発。歩いて3分の直ぐ北にある冷水地蔵にお参りし、朝日を浴びた交野山に向かって手を合わす。いつも、交野市民の平穏を御守りいただいているアリガタイ山である。うえん山の辻MAP
 北川沿いを西へ、住吉神社の境内の「きゅうせん薮」と言われている場所を案内して頂いた。立派なお墓に沢山の石仏が整然と並べられ、薮に囲まれた厳かな一角をなしている。
 北川と南川の合流地点の落合橋から見える、交野山もまたイイですね。ここから私市道を南に少し行った所に、大門(砦)があったと言われる。戦国武将の戦いの場所である。その近くを京阪第二国道が計画され巨大な高速道路が走る。大事にしたい場所の一つである。
 落合橋から下流は前川となり、天野川に注いでいる。「すだこ坂」の交差点を過ぎ、逢合橋を渡りまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30bほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。
 この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。
 ここは、枚方市茄子作4丁目。
  ※茄子作(なすづくり)の地名の由来
 
平安時代、交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言うハプニングがあった。そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けた故事に由来する

 南に進むと右に、玉垣があり地蔵様がおられる。ここは、上人松の伝説があるが、今はその松はない。二代目と思しき松が玉垣の中に植えられている。
 すこし上ると、「うえんの山」の辻に出る。ここで道標の拓本取りを教えて頂いた。

  平田会長の軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

うえん山の辻で、道標の拓本を取る

うえん山の道標の拓本を取る
右 山根街道 山城道
指導される平田さん
丁寧に紙の上をたたき
拓本の出来上がり
 左 すぐ東高野街道


 きゅうせん薮
 私部の産土の宮、住吉神社の境内の東にきゅうせん藪はある。すだこ坂MAP
境内に真言律宗、つまり宮寺の現光寺があった。庵梁行三間、桁行五間、わらぶき、前一間しころ付き瓦葺、ここに空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいたと書いてある。空禅は中興の祖である。
大変厳かな場所である。沢山の石仏が安置されている。

  砂子坂(すだこざか)
 国道168号線が生駒に向かって右折する交差点に「砂子坂」の標識があがっている。
また、「スタコ」と横断歩道橋に書かれている。変わった地名である。
ふるさと交野を歩く(ひろい話A)には、次の様に説明されている。
 このあたりのから東や西に見える山は花崗岩質で風化し、砂は水に流され、堤を高くしながらどん詰まりに洲ができる。東の低い道から洲の高い処に上って行くのだから「洲さか」、「すだこ」である。
 北田騰造家の古地図を見ても、落合橋から下流を砂子坂といいそれが「すだこ」と変わっている。
原田英二氏所蔵の古記録に
 私部村樋数御改之帳 元禄5年□月2日 字「すだ子」栂の木伏樋長壱□□とある。
これらのよって「すだ子」から「すたこ」になったことがわかる。
 最近になって、「スタコ」から「砂子坂」にかわった。 

上ん山(うえんやま)本尊掛松遺跡大念仏寺

 天野川ににかかっている逢合橋を西に越えると、左前にある薮のある小さい丘が目に付く、この丘を「上人松」とか、「お野立所」とか「上ん山」と呼んでいる。

(現在では、建物が建ち並び見えない。府道20号線を「逢合橋西」より50b南に下がると見える)

 ここへは、逢合橋を渡ってまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30bほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。それに続いて玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。

ここ「上人松」にこんな伝説がある。

 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。

東高野街道と山根街道の分岐点・上ん山の辻

 両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。

以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。そこから薮の坂道を左にとると、すぐ山根街道と交わる。

左が東高野街道、右が山根街道の分岐点(うえん山の辻)

 この分岐点の辻に、上ん山地蔵がおられる。 地蔵様の光背には「私部村地蔵講中 享保十乙巳年(1725年)3月24日とある。また「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」の大きな道標があり、その南側の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。

 元弘の乱(1337)で北条方が楠正成の下赤坂攻めにこの道を急ぎ、近畿平定には織田信長もここを通って岩倉開元寺を焼かせ、足利義昭の反抗の時には秀吉が義昭をつれて急いだと言うこの道は、なるほど権力の道だ。

大正天皇の「閲武駐蹕記念碑」  真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。

 道を隔てた東には、「閲武駐蹕記念碑」がある。大正3年(1914年)大正天皇がここで陸軍大演習を統監されたことを記念して建てられたものである。

 ここで、「東高野街道」と「山根街道」が一つになって星田に伸びている。

戻る