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 交野歴史健康ウォーク29回
2002.4.27、私部・寺地区・腰痛地蔵(行方不明)、
沈黙地蔵、水守り地蔵など石仏
を訪ねる  

 私部・寺の石仏を訪ねる
   いきいきランド交野ドーム→才ケ辻→交野小学校→青山→
腰痛地蔵(行方不明)→沈黙地蔵→水守り地蔵→私部墓地→トンド場地蔵→
大畑古墳→泉ケ丘地蔵(阿弥陀様)→いきいきランド交野ドーム

4/27、交野歴史健康ウォーク行程図

道祖神・塞ノ神
交野小学校西角の才ケ辻
現在、祠が作られつつあり、
交野小学校の「学ぶ地蔵」と
一緒に祀られるようだ
沈黙地蔵 青山2丁目
第2京阪国道予定地内
道路工事の行方を
じっと見つめておられる
水守り地蔵
青山2丁目の田圃の畦道
わずかに第2京阪国道
予定地より南側
水守り地蔵より50m
東側の畑の風景
綺麗な花や野菜が
丹精込めて作られている
トンド場地蔵
寺のT字路の辻に祀られている
祠の左が、かってのとんど場である
泉ケ丘地蔵
東車塚古墳の方向、
西を向いて鎮座されている

 4/27、第29回の参加者は10名。 4月は古文化の総会と日程が重なったので、1ヶ月ぶりの健康ウォークとなった。 午前10時過ぎ、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。
 ドームとグランドの間を北に抜けて最初に訪れたのは、ドームの北側、第2京阪国道の予定地の傍に居られる「冷水地藏」さん。全員で合掌。国道予定地のフェンスで区切られた畦道を北川へと向かうと私部の「才ケ辻」に出る。
 1ヶ月前に訪れた時は、「賽ノ神」の北側に新しい祠の基礎が作られたところだったが、もう今回は60cmばかりの土台が出来上がり、祠を立てるだけになっていた。大木の下にあった「賽ノ神」は取り除かれ、他に数体の阿弥陀さんが一輪車の中に置かれ作業途中であった。数体の地藏さんは、交野小学校の運動場の南に安置されていた「学ぶ地蔵」らしい。ご奇特な方が「無くなったら困る」と集めて祀られるようだが・・・。 「地藏さんはその場所に居られる理由がある。多くの人たちの願いが篭もっている・・・。」(石鏃119号参照)

 交野小学校の正門を通り過ぎ右折、右側に見える校庭の大木メタセコイヤは若葉が出揃い青々としてきた。久御山線を越え青山3丁目の住宅街を歩き、行方不明の「腰痛地蔵」を訪ねた。小さな池のほとりにあった阿弥陀様。平田さんから在りし日の地藏さんの写真を見せて頂いた。灌漑用のはね木の錘(おもり)にするために地藏さんを割った百姓が腰痛になったという。宅地開発の時に整備されどこかへ持ち去られて現在は見ることが出来ない。大事な文化財を大切にしたいものである。持ち去った人に災いが起きなければよいが・・・。
 続いて、青山住宅街を抜けて第2京阪国道予定地の青山2丁目に居られる、「沈黙地蔵」さんは、その後どうされているだろうか、とお尋ねした。予定地の青いフェンスを背に、身体は小さくとも大きく頷きながら道路工事の行くへを黙って見つめておられた。
 「沈黙地蔵」から20m東へ行き右折、丹精込めて作られている畑の畦道を100mばかり南に行った、第2京阪予定地よりわずかにはずれた田圃の畦道に、「水守り地蔵」はおられた。左側の双体仏は少し右に傾き、右の阿弥陀さんとともに長い風雪に耐えながら田畑の水を良くお守りいただきました。すぐ東の森からこんこんと清水が湧き出し私部の田圃を潤している。いつまでもお守りください。
 ついで、私部共同墓地を訪れ、故奥野平次さんのお墓にお参りした。奥野さんの遺志を継がれた平田さんに交野の町々を案内して頂いております。石仏や遺跡を見て回りながら、大事に保存しなければとお互いに活動しております。どうぞ安らかにお眠りください。また、時々お参りさせて頂きます。
 北川に出て、JR学研都市線をくぐり寺村に入るT字路に、「トンド場地蔵」は大事にお祀りされている。村境や辻に祀り、悪霊などの侵入を防ぐサイノカミである。
 森への街道を南に進み、南川の手前が「大畑古墳」である。交野で一番新しい前方後円墳であることが最近の発掘で検証された。寺村遺跡(弥生)の上に古墳が出来、今は住宅地となっている。
 最後に、訪れたのは泉ケ丘住宅地の高台に祀られている、「泉ケ丘地蔵」さん。静かに西方向の東車塚古墳を見下ろしておられる。これからも、お守りください。
 昔の歴史をこれからも大事に守っていかなければと強く認識すると共に、今まで良くお守りしていただいたことを感謝し、喜びを感じたウォークでした。 平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!


《ミニ案内》

道祖神・塞ノ神 はともにサイ(エ)ノカミと読み、才の神・幸神・妻神・賽ノ神などとも表記される。古代からの信仰であるが、民間信仰として広く流行したのは江戸時代である。
サイノカミは基本的には境神で、村境や辻に祀り、悪霊などの侵入を防ぐものであった。

 水守り地蔵
 青山の田圃の畦道にへばりつくように祀られている。
何故、こんなところに。自然の中にあって何故と考えさせてくれる地蔵さま。いつまでもおって下さいと願うばかり。
いや、これからは我々が守っていかなければならないでしょう。いままで守りつづけてきて下さった仏様だから。

 トンド場地蔵
 
寺の野道の辻に、祀られている。中世末の墓仏で阿弥陀の小像で、祭祀場所がトンド場と呼ばれる小正月の火祭り場であることから、サイノカミとも考えられる。

 腰痛地蔵腰痛地蔵(行方不明)
 行殿団地の南側の田圃道を東に進み、久御山線を越えると、すぐ右手に小さい池があった。この池のほとりに四体の石仏が祀られていた。
 昔、灌漑用のはね木の錘にするために、土地の百姓が石仏を二つに割って手頃な目方にしたところ、激しい腰痛が起こったという。早速もとに戻してお許しを乞うたのは勿論であるが、以来誰言うともなく「腰痛地蔵」と呼ばれるようになった。
今でも、腰痛を起こした人たちがお参りすると、とく利いてくださるという。4体のうち右から3番目の割れている阿弥陀様がそれである。(交野市史、民俗編参照)
 現在、訪れても地藏さんは居られない。宅地造成され、池もなくなにも見当たらない。
どなたが何処へ持って行かれたか、元の場所に戻せないならばどうなっているか、教えて欲しい。
腰痛で困っておられるのではないか?
 身内の者が、具合が悪くなった。何故かと考えていたら石仏だ。どうしたら良いか困っている、そんなことを聞く。(石鏃119号、参照)

泉ケ丘地蔵

泉ケ丘仏(阿弥陀様)、西向に東車塚古墳の方向を向いている
泉ケ丘地蔵、静かに西方向の
東車塚古墳を見下ろしておられる

巽山(たつみやま)は南川の左岸「南川橋」の西南の丘陵を指して言っている。現在はケ丘団地という住宅地になり、山が削り取られ、周囲より一段高い岡となっている。
 巽(たつみ)は方角を指している。現在の寺からは西南の方角になり合わない。昔あった今井の集落からすれば、ちょうど巽の方角(東南)になる。東に竜王山が正面に見え、朝日を仰ぐ格好の地であった。
 泉ケ丘団地の一番東の高台に座っておられるのが、泉ケ丘地蔵である。静かに西方向の東車塚古墳を見下ろしておられる。
 

 大畑古墳 
 交野で最も新しい前方後円墳である。全長約100m。現在の道路で二分されている。
 この古墳は寺村遺跡(弥生)の台地を利用して作られたもので、過去二次にわたる発掘調査から埴輪破片を採集、復元円筒埴輪から築造年代が確認された。
一片の土器が時代を語る。故・奥野平次氏が採集、記録、保存して下さったおかげです。

 大畑(おばたけ) 地名の由来 (ふるさと交野の地名を参照) 
 南川橋から北、今池を含んだ地域をいう。南川橋の交差点の北一帯は一段高い岡状になっている。古宮ノ上よりは相当高い。(古宮ノ上 37m、大畑 44〜46m)南川はこの当りは開析谷となっているので谷をつくっている。よって水田にはなりえない土地である。畑作として利用するのが精々であったため付けられた地名であろう。
 また、今池は現在埋め立てられ、寺で一番大きな池が消えてしまった。江戸時代に寺と私部とがいっしょになって造った池であった。水の使用に関しては寺が天領であったために権利が強かったと言われている。


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