[ホームページ] へ戻る

 交野歴史健康ウォーク30回

5/11 私部の石仏と石橋と私部城跡を訪ねる
   いきいきランド交野ドーム→才ケ辻→向山地蔵→またべ地蔵→
市場橋(百々川)→私部城跡→北向地蔵→お旅所→旧郵便局→
代官屋敷→住吉神社→いきいきランド交野ドーム

5/11、交野歴史健康ウォーク行程図

道祖神・塞ノ神
交野小学校西角の才ケ辻
現在、祠が作られつつあり、
交野小学校の「学ぶ地蔵」
一緒に祀られるようだ
向井山地蔵
綺麗にお花が飾れている
「向井山」という地名が残っている
近隣の人々によって
大事におまつりされている
またべ地蔵
光通寺の北にある
お茶がお供えされている
石造りの市場橋
百々川に架かる市場橋
近くに洗場があったという
私部城跡の切通し
弥生時代の遺物の出た
私部5丁目(私部城跡)付近
私部城跡切通し
左が天守、右が本郭

 5/11、第30回の参加者は6名。午前10時過ぎ、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。
 最初に訪れたのは、私部小学校の西南角、私部の「才ケ辻」の地蔵様。私部の代官屋敷の辻を歩く
 2週間前には、「賽ノ神」の北側に60cmばかりの土台が出来上がったところだったが、もう今回は5体の地蔵様が祀られていた。5体の地藏さんは、交野小学校の運動場の南に安置されていた「学ぶ地蔵」と賽ノ神らしい。ご奇特な方が「無くなったら困る」と集めて祀られているようだ。これからも大事に祀られることを願うばかりだ。
 交野小学校の正門を西へ市役所方面に200m行き、北へ上がったところに向井山地蔵がある。いつも、綺麗な花が供えられ大事に祀られている。私部の5丁目の町の中を迂回するように歩き、無量光寺の手前を右折、光通寺の東の細い路地を抜けると、畑の中にまたべ地蔵はおられる。お茶が三つお供えされ、赤い前垂れがかわいい。
 私部城の安見右近も通ったいう、大人がひとり通れるような細い道を東へ行き、路地を左に曲がり北に行くと、百々川(どどがわ)に架かる市場橋に出る。市内に残る貴重な石造りの橋である。この橋の上手に洗濯場があったそうである。その洗場の踏み石であったものが、住吉神社の木立の下に保存されていたが、最近何処へ行ったのかわからない。
 市場橋を西へ行くと、私部城跡の三郭の南側に出る。この角地付近から弥生遺物が出た。石器や弥生中期の壺が出土。さらに西へと続く畑と藪、木立が見える、ここが私部城跡である。
 私部城跡要図を見てください。
 北側の繁る木立の台地が本郭(城)。その西に切通し(堀)があり、一段と高く矩形状の台地が伸びているのは、城の西の端(二郭字天守)である。屋敷(くるわ)がつながって出来ていた、平城(ひらじろ)の跡。道の南側には、藪や背の高い榎が見え、綺麗な土蔵の前に小さな池がある。これが堀跡の名残だと言われる。交野郵便局の東を北へ行き、水道道へ出て私部城跡を北からゆっくりと私部城跡要図を手に眺めた。土塁の名残も歩いて確認した。
 この辺りは、交野の古い時代を肌で感じ取ることが出来る所である。是非とも後世に残してもらいたい所である。故奥野平次さんが博物館にして残したいと言われていた所だそうである。参加者の中からも「是非とも残してもらいたいねえ」と声があがる。北向地蔵
 交野郵便局の南の細い路地(南に城跡の土塁がのこっている)を西へ抜け南に行った角地に、小さな道標がある。車に当てられたのか?、半分壊れかけた道標が残っていた。右、八幡道、左、こうづ?と読めた。今は、役に立たなくても昔の歴史を知る上で大事な「みちしるべ」である。
 道標から迂回して西へ行くと、北向地蔵が居られる。私部の西墓へ出て、帰って来ると迎えて頂くありがたい地蔵様である。今も、近隣の人々により大事におまつりされている。
 スーパーラッキーの駐車場に出て、市役所の西の辻を南に行くと、住吉神社のお旅所がある。秋祭りには、神様が私部の村に出られて町の状況を見回られると言う。
 ゆっくりと静かな町並みを歩き、旧郵便局のあった場所とか、代官屋敷などを見て廻った。
 最後に住吉神社に寄る。沢山の石燈篭、石の鳥居など築造年代を確認するも分からないものが多い。住吉神社史を参考に後刻勉強することとする。
 交野の昔の歴史をこれからも大事にしなければと強く思うと共に、今まで良くお守りしていただいたことに感謝し、喜びを感じたウォークでした。 平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!


《ミニ案内》

私部城跡
 なぜ私部に城が造られたのか、東高野街道、岩船街道、かいがけの道、この三つの道をおさえる城が私部城で監視所的な役目を果たしていた。また、この城は列郭式(れっかくしき)と呼ばれ、畿内ではここだけである。これは屋敷(くるは)がつながって出来ていた平城(ひらじろ)である。私部城を北から見た所、高台が城跡(本郭)
 

 本郭は、東西50m・南北60m
 ニ郭は、東西25m・南北100mで北方は道路によって分断されている。
 三郭は、東西30m・南北60m
 大阪府下で457ヶ所の城館跡が確認されているが、その殆どは俗に山城と呼ばれているものである。中世城郭イコール山城といわれている。山城にたいして、平野部に構築される城を平城という。
 私部城跡は平城で畿内においても有数の残存状態である。
旧北河内における中世城館跡は現在33城跡が確認されているが、その内訳は山城が24城、平城9城となっており、平城で遺構が確認できるのは、交野城跡だけである。

 安見氏は若狭国保見荘より起こる。 安見清賢は南朝方に属して、護良親王に従って吉野山で足利方と戦い討死にした。安見清儀はやはり南朝方で楠正儀に属し活躍する。安見氏代々の居城・私部城は、清儀の頃に築城されたという。
 清時は畠山義就の重臣で、小山城(現、大阪府藤井寺市津堂)に配せられる。以後、小山城は安見氏数代の居城となる。
 直政は清儀より九代後という。主家・畠山氏を追放して自ら河内守護と称し高屋城を居城としたが、三好長慶に攻められ飯盛山城に籠城。ついには大和に逃亡した。しかし、織田信長の河内統一後は畠山氏に帰参し私部城を回復したという。
 なお、安見氏は直政の死後、筒井順慶に居城・私部城を攻められ滅亡する。


郡津への道標
道標:みちしるべ
 村のあちこちに、道標が立っている。
今は、殆ど見向きもされない。昔の人に取っては大事な道しるべであった。
車に当てられたのか?、半分壊れかけた道標が残っていた。
右、八幡道、左、こうづ?と読めた。
今は、役に立たなくても昔の歴史を知る上で大事な「みちしるべ」である。

伝説
 おとなしのどんどん」
 集慶殿(古い光通寺)の開祖別峰和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。
すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。

 「またべ地蔵」:三体をいう。東を向いた横40cm、縦57cmの地蔵さま。北を向いて向か住吉神社のお旅所って右は縦36cmの阿弥陀様。左は縦33cmの地蔵様。歯痛、夜泣きに効くという。
 
 「向井山地蔵」右から板碑、続いて双体仏などの石仏が南面している。板碑は、二条線の下に深い船形光背を彫りくぼめ、その中に阿弥陀さまの坐像を浮き彫りしている。室町時代初期のもの。
 市役所から小学校への道路に沿って、用水路が流れており、この両側は土地が少し高くなっている。石仏のある辺りもなだらかな台地になっていて、「向井山」という地名が残っている。
 

 住吉神社のお旅所
 私部の住吉神社は、秋祭りが近づくと各町の道筋に提灯台が立てられる。10月の16日の本祭りの午後からは神輿が出て、渡御の行列が西崎のお旅所までを往復する。

お旅所とは?
神輿を仮に奉安する場所のこと。また神社の元の鎮座地とという場合もある。
つまり、神社に正式に神を祭る前の祭場を意味していることにある。
人々はこの神の旅によって、神の威力、神霊の新たなよみがりを願ったのであろう。

戻る