[ホームページ] へ戻る

 交野歴史健康ウォーク31回

5/25 住吉神社から官田、向井田の
第2京阪国道予定地を歩く

(コース)いきいきランド交野→住吉神社・きゅうせん薮
落合橋大門→中筋地蔵向井田→いきいきランド交野


住吉神社から官田、向井田の第2京阪
国道予定地を歩くMAP

きゅうせん薮
住吉神社の境内の東にあり
空禅(きゅうせん)という
お坊さんが住んでいた
元禄時代、境内に真言律宗、
つまり宮寺の現光寺
があった。
落合橋
北川と南川の合流地点
ここから下流を前川と言う
南側寄りに、生駒の聖天さん
(歓喜天)明治37年
と彫られている伏拝神が
立っている。
中筋地蔵
官田の中筋道に
今も大事に祀られている
中筋地蔵の前で
交野山、旗振山、
竜王山を見るウォーク隊
交野連山を望む
官田(私部南1・2・4)から
官田の水田風景
田植えの真っ最中だった


 5/25(土)天候五月晴れ、いつもの元気な顔が揃った。参加者7人。
 いきいきランドを10時15分過ぎ出発。歩いて5分、交野小学校の「才ケ辻地蔵」にお参りする。新しい祠が出来上がりつつあった。中筋地蔵の前で記念撮影、官田の中筋道に祭られているどうぞ、大切にお祀りして下さい。
 北川沿いを西へ、住吉神社の境内に入る。
 ふるさと交野を歩く・里の巻に西側入り口に立っている灯篭が一番古いと書いてある。全員で、燈篭を囲んで確認した所、願主奥田氏敬白、宝暦4年(1754)の日付が読めた。住吉神社の交野一大きな石の鳥居は、万延元年(1860)に多くの村人達の力によって再建された。
 次いで、境内東側の「きゅうせん薮」と言われている場所を訪ねた。そこは、立派なお墓と沢山の石仏が整然と並べられ、薮に囲まれた厳かな一角をなしていた。入って右奥にある「当寺中興きゅうせん(空蝉)和尚」の石塔の築年が読めず、宿題とした。(ここに、現光寺という宮寺が建っていた)下記のミニガイドに答あり。
 北川と南川の合流地点に架かる橋が落合橋である。落合橋から私市道を南に少し行った所に、大門(砦)があったと言う。戦国武将の戦いの場所である。その近くを京阪第二国道が計画され巨大な高速道路が走る予定であるが、大事にしたい場所の一つである。
 私市道を南に進み、官田(私部南1・2・4)の中ほどの畦道を東に行くと、官田の無事を見守ってくれている、「中筋地藏」さんに出会うことができる。丁度、田植えのシーズンで整然と植えられた水田風景の中に溶け込むように静かに座っておられた。
 ここから見える交野連山は、また素晴らしい。思わず朝日を浴びた交野山に向かって手を合わす。いつも、交野市民の平穏を御守り頂いているアリガタイ山である。これからもよろしくお願いします。
 帰りは、第2京阪国道が予定されている、向井田1丁目を通った。予定地は、多くの住宅が取り壊され青いフェンスで囲まれていた。巨大な高速道路が交野市の真中を縦断する。交野市の環境がどう守られるのか見守って行きたい。
今回も、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

きゅうせん薮概略図ミニガイド
 住吉神社(住吉神社社誌より)
 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。

 きゅうせん薮
 私部の産土の宮、住吉神社の境内の東にきゅうせん藪はある。
 元禄時代、境内に真言律宗、つまり宮寺の現光寺があった。庵梁行三間、桁行五間、わらぶき、前一間しころ付き瓦葺、ここに空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいた。空禅は中興の祖である。
 右奥の墓石がきゅうせん和尚の墓石で、正面に当寺中興空蝉寂超大和尚、背面に正徳二年(1712年)と記されている。歴代の社寺僧の墓で、大変厳かな場所である。沢山の石塔と石仏が安置されている。

 住吉神社境内は、昔から子供たちの格好の遊び場でもあった。大鳥居をくぐって直ぐ右側に手洗いの自然石がある。手洗い石の上で子供達が草餅つき遊びをした、くぼみ石である。

 落合橋
 北川と南川の合流地点の橋、ここから下流を前川と言い、天野川に注いでいる。落合橋の南側寄りに、生駒の聖天さん・(歓喜天)明治37年と彫られている伏拝神が立っている。
  
地 名
 大門
 私部の蜻蛉(とんぼ)から落合橋を渡って私市へ出る道がある。この道を130mばかり行った所の道の両側の地が「大門」と呼ばれている。
 落合橋から南へ一本道が田んぼの中にずうっと付いている光景はすばらしいものであった。今は残念ながら大門の少し南に家が建ち道の見通しが利かなくなり、このだだっ広い中に一本の道のすばらしい眺めはできなくなってしまった。
 戦国時代末期、私部の豪族、北田久左衛門尉好忠が大和郡山の筒井順慶と戦ったという。その時、好忠は落合橋の南に出城を造って、磐船街道から侵入して来る敵に対して私部の前面で防ごうとした。その館跡を「大門」と呼んだ。この道路に覆いかぶさるように門が建ち、上に望楼を備えたものであったと思われる。

 官田

 官田は律令体制下での天皇の供御田(くごでん)をいうのであって、宮内省管轄下の直営田で、大和、摂津、河内、山城に合計100町歩あった。供御とは貴人の食事をいうが、特に天皇の食事を指していう言葉である。米を主として、魚、鳥、野菜、果物などの副食物とがある。供御田は天皇の主食となる米を生産した水田である。
 官田、現在の私部南2〜3丁目付近は、早朝には沢山の野鳥が見られるという。

 向井田
 私部の南川と北川とに挟まれた三角地帯で、現在の向井田一丁目と二丁目である。
 地形的に見ると寺の方から西北へ段々下がりになっていて、その両端に北川と南川が流れ、私部の落合で合流する。北川の北、南川の南がいずれも向井田の土地よりも少しばかり高い。寺から段々に田から落ちていく水が最後に向井田に集まる。その集まった向井田の水は落合の辺りで川に吐き出される。よって、いつも向井田の田は湿田の状態にあった。
 隣の土地や家を「向かいにある田、向かいにある家」とかいった言い方をする。向井田もこの言い方で私部から南東の方向、私部住吉神社付近を出城的な位置にある。(馬場裏という。)その背後の土地であったところから「向かいの土地」として付けられた地名であろう。

 現在、向井田地区の第2京阪国道の予定地は青いフェンスが張り巡らされている。
今年の3月、国道工事事業者より第2京阪国道の標準横断図画が示された。
向井田1丁目附近の横断図は下記のようですが、現在の環境が守られるものになるのか心配されている。

第二京阪国道標準横断図、向井田1丁目附近
第2京阪国道標準横断図、向井田1丁目附近



戻る