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第106回 交野歴史健康ウォーク

2010.7.10(土)

歴史の道・星田編

行程: 午前9時集合 京阪交野市駅 → 天の川 → 私部城 → 光通寺(想善寺) →
無量光寺 → 代官屋敷 → 住吉神社   (午前12時頃解散)   

ご案内役の高尾秀司さんより、レジュメを頂戴しました!
また、当日の写真は、黒田 幸男さんより投稿いただきました!

高尾秀司さんが作成されました、当日の案内レジメです。
   PDF文書  かるたで巡る歴史道・私部編  ← クリック

歴史ウォーク 当日のMAP

記念撮影  撮影は吉岡さん 当日は14名の参加でした!

天の川と逢合橋
天の川と逢合橋

 大昔、饒速日命の子孫といわれる物部氏がこの地を拓き、天野川がもたらした肥沃な地で米作りを始めたが、甘くておいしい米が出来るので、この田を「甘田」とか「甘野」といい、川も「甘野川」と呼んだといわれる。
 ところが平安時代になると、京の都から貴族達がやってきて「甘野川」を天上の銀河「天の川」に見立てて「天の川」になったといわれております。
 そしてこの川で織姫と牽牛が7月7日一年に一度の逢瀬を楽しんだ所とされこの橋を逢合橋となずけております。
すたこばし・前川を経て、いざ私部城址へ
私部城址
私部城跡この城は府下では珍しい平野部に築かれた城です
私部城は室町時代に豪族畠山氏の家臣・安見氏が築いたといわれています。城は本郭・二郭・三郭からなる主郭と周囲の副郭で構成されています。
 写真にある切通しといわれる部分はかなりはっきりと残っております。城の南側には土塁や堀跡が認められます。
 又、三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていたとみられる、石包丁が出土しております。
古文化同好会寄贈の私部城説明板の前で城の歴史を想う
古文化同好会寄贈の説明板
私部城の二郭(天守)付近を歩く会友
光通寺
光通寺 宗派は臨済宗 本尊 聖観音菩薩立像 ヒノキ材 鎌倉時代の作

 このお寺は室町時代のはじめに創建され、京都東福寺の末寺となっている。開祖は「交野郷土史かるた」にあるように別峰和尚で後村上天皇に寵愛されたかたです。室町時代の終わりから戦国時代には朝廷にお茶を献ずるなど極めて力をもった寺でありました。またこの寺の石垣の中には「石垣地蔵」と呼ばれる2体の石仏がみられます。石仏はかなり風化していて、わかりづらいのですが、光線の具合で浮き上がることがあります。
 また寛文4年(1664)の年号が入った棟札が残っており、それによりますと信長の時代に家臣の安見右近太夫は仁義や道理もわきまえず、仏法を無視し、ついにこの光通寺を倒しました。仏閣はとうとう無くなり、桃や李の美しい人里は一変して荒原となってしまいました。然し後この安見の首領は敵陣で首を切りおとされ、のちの人達はお互いに戒めあったといいます。

光通寺開祖「別峯和尚」のお墓にお参り

光通寺の石垣地蔵

光通寺で修業中の方、厚主さん、吉岡さんお知り合いの人でした
想善寺
想善寺 宗派は西山浄土宗 本尊 阿弥陀如来坐像

 天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始りといわれ、後に想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代当地の領主畠山義紀公が大檀越となり寛政5年秋に現在の伽藍ができました。
 本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置しその左右には佛高12cmの千体地蔵尊を祀っている。新しく生まれた子供の幸せと恵まれなかった水子の霊の安らぎを祈って建てられたのであろう。当地方では子授け、安産の帯受け、及び子供護りの地蔵として、参詣する人がおおい。
無量光寺
無量光寺
 浄土真宗西本願寺派・本尊は阿弥陀如来立像で室町時代の木造で像高90cm余り。
 かつては、住吉神社の西の方に天台宗の尼寺として建立されました。しかし嘉吉の乱(嘉吉元年「1441年」播磨の領主赤松満祐が六代足利将軍義教を殺すという事件)の時、播磨に逃げ帰る赤松軍に焼かれたといわれる。(一説ではこの寺に赤松軍が逃げ込んだので足利軍に焼かれたともいわれる)
 1486年頃今の地に再建されたといわれる。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧了道は教えを受けて浄土真宗に転じた。
 戦国時代、信長の石山本願寺攻めの時(1570〜1580)、住職の三世覚心は本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見氏と戦ったため、寺は焼かれたとつたえられていますし、そのため20年程寺に帰れなかったともいわれます。享保15年(1730)ようやく再建できたという。また幕末の戊辰戦争の時、敗れた幕府軍がここで救護をしてもらったとも云われております。

無量光寺の大イチョウ H25m 447cm

札場の辻を南へ代官屋敷

代官屋敷 北田家住宅
代官屋敷(北田家住宅)

 江戸時代、私部の領主畠山氏の代官をしていたことから地元では「代官屋敷」として親しまれてきました。屋敷の広さは約4千平方メートル(約1200坪)あり、門長屋は55,8mもあり日本最長です。又高さも2,6mもあり馬に乗ったまま出入りが出来るといわれたほどです。

 乾蔵から享保7年(1722)の棟札が見つかり、母屋の建築はそれより少し前頃と思われます。昭和54年、国の重要文化財に指定され、毎年春と秋に公開されています。この北田家は南北時代の後醍醐天皇の重臣、北畠親房の子顕家の子孫と言われ、南朝没落後、その姓をはばかり、北畠の白を除き北田と称したという。

一般公開日が春と秋の2季制に変わりました!
 「広報かたの」などでお知らせします。
 見学は事前に予約が必要です。先着30名
 下記の文化財事業団に申し込み下さい。
  交野市文化財事業団    TEL 072−893−8111    

北田家住宅長屋門

北田家 門長屋 大きな構えは 代官屋敷) (交野カルタ)

私部(きさべ)1丁目に(交野市役所より南に5分) 江戸時代の代官屋敷といわれる北田家がある。
約4000平方メートルの広い敷地に、長さ56メートルの白壁作りで大きな構えの門長屋が続くおもむきは豪壮である。

母屋の玄関が上手に突き出た形式は全国にも数少なく、約300年前の貴重な建物として国指定重要文化財になっている。
北田家所蔵の系譜をたどると、南北朝時代の南朝方に仕えていた武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)につながり、 南朝没落後、足利家の世となったのを機に民間に下り、その姓をはばかって「北畠」の白を除き、「北田」と称したといわれる。

その後、顕家より9代目の好忠の時に私部城主安見氏の重臣となるが、元亀元年(1570)の織田信長による本願寺攻めに参戦した安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢により攻められ遂に開城となった。この時なお残って最後まで奮戦し、下仕9人と共に壮烈な戦死を遂げたのが北田好忠であった。

 その後、20年程経って、京都の叔父の家に送られていた嫡子の好孝が私部に戻り現在の所に家邸を構え、田畑を耕し農業を生業として生活を始めたのが現在の北田家の最初で、そのため好孝が中祖の第1世とされている。

関ケ原の戦いの後、徳川家康が天下を統一し、幕藩体制をしいたのに伴い、元和5年(1619)、畠山の子孫・旗本畠山修理太夫が、私部の3分の2を所領するに及んで、北田家は、この地の庄屋を勤めることになる。そして18世紀前半、第6世佳隆の代には代官職を担うようになった。

代官職就任の時期と主屋建築年代が相前後することとなり、なんらかの関連を想像させる。以後第10世好剛の代まで続くが、元治元年(1864)この職を同村原田伝兵衛に譲る。
                       (重要文化財・北田家住宅説明文書を参照)

住吉神社
住吉神社
 祭神は住吉四神で元禄5年(1692)の私部村寺社改帳によると、いつ勧請したか分からないと書いてある。
 社殿は住吉神社であるから住吉作りと思われるが、春日造りとなっている。これは奈良春日大社の社殿が20年毎に建て替えとなるので、江戸時代にその宮殿を譲り受けたからである。
 また昔境内に現光寺という宮寺があって、空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいたという。会館の裏に空禅藪と呼ばれる所があり歴代の住職の墓がある。また神社の入り口にある大鳥居は万延元年(1860)に私部口山の鳥居谷から原材を運んできて造ったものである。

住吉神社の大鳥居
(住吉神社社誌より)
 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。


 1年も持たなかった「万延」事件続きで改元7連発!
 明治天皇の父・孝明天皇の治世は、1846年(弘化3年)から1866年(慶応2年)の、21年に及ぶ。さまざまな事件が発生したせいか、この治世は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と年号が次々変わった。
特に安政期には、桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860年)3月18日、「万年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて万延元年と改元した。
ところが、実際は凶作、物価騰貴などで人心が動揺。翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。
万年どころか、1年も続かなかった「万延」であった。
(参考)「桜田門外の変」は1860年(安政7年)3月3日に起こった。
    その後、すぐ元号が「万延」になることに。

       つ 
     食 く 
     ら ね 
     っ 飯 
   大 て    
   鳥 運    
   居 ぶ 

私部住吉神社の石の大鳥居は大風で倒れ、万延元年(1860年)に再建された交野一の大鳥居です
私部口山から切り出し、つくね飯(にぎりめし)を腹一杯食べ、音頭をとりながら二、三百人で運んだと記録されています。
   (交野かるた より)

私部住吉神社の大鳥居
万延元年(1860)に
再建された

私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、
北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ
(鳥居谷から住吉神社までの地図)



空禅藪(きゅうせんやぶ)
きゅうせん薮
 私部の産土の宮、住吉神社の境内の東にきゅうせん藪はある。
 元禄時代、境内に真言律宗、つまり宮寺の現光寺があった。庵梁行三間、桁行五間、わらぶき、前一間しころ付き瓦葺、ここに空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいた。空禅は中興の祖である。 右奥の墓石がきゅうせん和尚の墓石で、正面に当寺中興空蝉寂超大和尚、背面に正徳二年(1712年)と記されている。歴代の社寺僧の墓で、大変厳かな場所である。沢山の石塔と石仏が安置されている。



 交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 高尾秀司さんが作成されました、当日の案内レジメを再度、ご確認ください。
   PDF文書  かるたで巡る歴史道・私部編  ← クリック


 次回の歴史健康ウォークは、2010年9月11日(土) 「郷土史かるたで歩く・歴史道
森・寺・倉治編」
の予定です。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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