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交野歴史健康ウォーク 150回
私部の寺と私部城探訪
交野市役所〜無量光寺〜想善寺〜光通寺〜私部城跡


案内人:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)

 日時 : 2015年10月10日(土) 午前8時45分交野市役所前集合 参加者30名(会員26名)
 行程 : 市役所〜無量光寺〜想善寺〜光通寺〜私部城跡
     11時30分解散
 2015年10/10(土)、天候 晴時々曇り。交野市役所前に集合、午前8時45分出発。
 立花会長の挨拶で始まり、本日の案内人・高尾部長よりウォークの行程など説明があり、「9時から無量光寺の住職のお話しをお願いしていますので」と無量光寺へと出発。
 無量光寺では綺麗に新装された本堂に案内され、住職より浄土真宗の開祖・親鸞聖人の教えや無量光寺の歴史、本願寺の味方をして信長と戦った三世覚心和尚のこと、 また本堂の改修工事などのご苦労話など大変詳しくお話しいただきました。
 その後、想善寺〜光通寺〜私部城跡
まで寺社や史跡について、沢山の写真や資料を用意していただきゆっくりとお話し頂き、色々な歴史があることがお分かり頂けたことと思います。
 また、長年、私部城跡の遺跡保存にご協力いただいています北村七良様が参加されており、本郭まで案内して頂きました。心より感謝申し上げます。

 「今日は無量光寺で住職より有難いお話が聞けたり、私部城跡の本郭まで案内して頂き本当に楽しい一日でした」と言われたことが印象に残りました。


 10月24日の勉強会では、「発掘調査から見た私部城」をテーマに、交野市教育委員会の吉田知史さんを講師に迎えて詳しくご講演を頂戴することになっておりますのでご期待ください。


※高尾さんより当日に頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。記して感謝申し上げます。

当日のウォークマップ


新装なった無量光寺の本堂前で記念撮影

 当日 歴史健康ウォークのレジメ
私部の寺と私部城探訪
今回訪ねる所

市役所前8時45分集合→無量光寺(住職のお話を聞く)→
想善寺→光通寺→私部城跡(解散)
 
新装なった無量光寺本堂


今まで上がっていた獅子口
無量光寺 浄土真宗西本願寺派・

本尊は阿弥陀如来立像で平安時代末の木造で像高90cm余り。
 かつては、住吉神社の西の方に天台宗の尼寺として建立されました。 
 しかし嘉吉の乱(嘉吉元年「1441年」播磨の領主赤松満祐が六代足利将軍義教を殺すという事件をいう)の時播磨に逃げ帰る赤松軍を追った足利軍に焼かれたといわれる。

 明応3年(1494年)足利につかえた星野親忠はその晩年を私部で過ごすためこの無量光寺の旧跡を再興し仏門に入った。そして子能末は父の後を継いで僧となり了道と号した。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧了道は教えを受けて浄土真宗に転じた。
 戦国時代、信長の石山本願寺攻めの時(1570〜1580)、住職の三世覚心は本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見氏と戦ったため、寺は焼かれたとつたえられていますし、そのため20年程寺に帰れなかったともいわれます。

 享保15年頃(1730頃)ようやく再建できたという。また幕末の戊辰戦争の時、敗れた幕府軍がここで救護をしてもらったとも云われております。 
 
想善寺の山門


本堂と地蔵堂(千体地蔵)
 想善寺 宗派は西山浄土宗

 本尊 阿弥陀如来坐像(江戸時代)天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始りといわれ、後に想善寺と称した。その後寛政2年((1790)遍空上人時代、当地の領主畠山義紀公が大檀越となり寛政5年秋に現在の伽欄に再建された。(寺の説明石碑より)
 又本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置し、その左右には佛高12cmの千体地蔵尊を祀っている。新しく生まれた子供の幸せと恵まれなかった水子の霊の安らぎを祈って建てられたのであろう。当地方では、子授け、安産の帯受け、及び子供護りの地蔵として、参詣する人がおおい。

 昭和44年の大雨で本堂の一部が崩れ落ちるという事件があった。たくさんの人の尽力で再建はできたが、この時、はからずも、天井裏から位牌と古文書が出てきた。この古文書はもと私部上河原にあった光蓮寺のものであったことが分かりました。同時にこの寺は元禄時代より古い貞享年間(1684〜1685)には上河原にあったことが明らかになりました。
 この文書はその後住吉神社の神宮寺、現光寺に移り、明治の神仏分離で想善寺に移ってきたと考えれます。
 
光通寺本堂


私部城跡から出た光通寺の鬼瓦
 光通寺 宗派は臨済宗 

本尊 聖観音菩薩立像 ヒノキ材
 像高71,5cm 鎌倉時代の作 

 このお寺は室町時代のはじめに創建され、京都東福寺の末寺となっている。
 開祖は「交野郷土史かるた」にあるように別峰和尚で後村上天皇に寵愛されたかたです。室町時代の終わりから戦国時代には朝廷にお茶を献ずるなど極めて力をもった寺でありました。

 またこの寺の石垣の中には「石垣地蔵」と呼ばれる2体の石仏がみられます。石仏はかなり風化していて、わかりづらいのですが、光線の具合で浮き上がることがあります。
 
 また寛文4年(1664)の年号が入った棟札が残っており、それによりますと信長の時代に家臣の安見右近太夫は仁義や道理もわきまえず、仏法を無視し、ついにこの光通寺を倒しました。仏閣はとうとう無くなり、桃や李の美しい人里は一変して荒原となってしまいました。然し後この安見の首領は敵陣で首を切りおとされ、のちの人達はお互いに戒めあったといいます。
 
私部城跡
 私部城跡 交野市私部6丁目
昔は交野城と呼んでいました。この城は平地にあり「平城・ヒラジロ」と呼ばれます
現在大阪では平城は開発の為殆ど残っておりません。立ち入って調査出来るのは此処だけで非常に貴重なものです。城は本郭、二郭、三郭と周囲の副郭で構成されています。城主は室町時代の豪族・畠山氏の配下、安見氏です。記録に残る城主は安見右近と安見新七郎です。文献によると、元亀2年と元亀3年(1571,1572)に松永久秀が私部城を攻めたと、あります。
又天正6年(1578)信長が私部城に立ち寄ったともあります。この頃迄城は健在だったようです
また今より2200年位前に使われていた稲作に関連する石包丁が、本郭からは松菊
里型の円形建物が出土しました。

 
 市役所前で集合

立花会長の挨拶
 
高尾部長「右端)より行程など説明の後、無量光寺へと出発
長年、私部城跡の遺跡保存にご協力いただいています北村七良様(左端)
無量光寺
無量光寺 
 浄土真宗西本願寺派・本尊は阿弥陀如来立像で室町時代の木造で像高90cm余り。
 かつては、住吉神社の西の方に天台宗の尼寺として建立されました。しかし嘉吉の乱(嘉吉元年「1441年」播磨の領主赤松満祐が六代足利将軍義教を殺すという事件)の時播磨に逃げ帰る赤松軍が逃げ込んだので足利軍に焼かれたともいわれる。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧了道は教えを受けて浄土真宗に転じた。戦国時代、信長の石山本願寺攻めの時(1570〜1580)、住職の三世覚心は本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見氏と戦ったため、寺は焼かれたとつたえられています。そのため安見氏より捕縛命が出され、20年程寺に帰れなかったともいわれます。享保15年(1730)ようやく再建できたという。また幕末の戊辰戦争の時、敗れた幕府軍がここで救護をしてもらったとも云われております。


住職より、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の教えや無量光寺の歴史、
本願寺の味方をして信長と戦った三世覚心和尚のこと、
また、本堂の改修工事などのご苦労話など大変詳しくお話しいただきま
した。
西本願寺の由来と歴史、親鸞聖人のご生涯   (本願寺パンフとWEBより参照) 
 本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山です。正式には龍谷山本願寺といい、一般には西本願寺とも呼ばれています。
 浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人(1173-1263)|こよつて開かれました。

 親鸞聖人は1173(承安3)年に京都日野の里でお生まれになり、9歳で青蓮院にて出家得度されました。
 その後、比叡山で学問修行に励まれましたが、29歳の時、師である源空(法然)聖人のお導きによって阿弥陀如来の本願を信じ『南無阿弥陀仏Jという念仏の教えに帰依する身となられました。

 35歳の時、念仏弾圧により越後に流罪となった後、妻の恵信尼さまと共に関東に移つて念仏の教えを弘められ、晩年は京都で『教行信証』等多くの著述に力を注がれ、1263年1月16日(弘長2年11月28日)に90歳で往生されました。
 親鸞聖人の滅後、娘の覚信尼さまは、聖人の遺弟たちと共に京都東山大谷に廟堂を建て、聖人の遺骨と影像を安置しました。やがてこの廟堂が本願寺となり、宗門の礎となりました。

 その後、中興の祖である第8代宗主蓮如上人(1415-1499)の時には教線が拡大され、さらに第11代宗主顕如上人(1543-1592)の時には、本願寺の寺基が現在の京都堀川六条に定められました。
 境内には、阿弥陀堂、御影堂の両堂(国宝)をはじめ、唐門や書院、飛雲閣などの国宝や、経蔵や手水舎などの重要文化財があり、1994年(平成6年)12月には「古都京都文化財」として、「世界遺産」に登録されたいます。
 
  親鸞聖人は『正信偈(しょうしんげ)』に何を書かれたのでしょうか。
 
 一言で言うと、『正信偈』には「何としてもあなたを助けてやりたい」 という阿弥陀仏の願いが記されていたのです。

  仏は、「すべての人の苦しみは私の苦しみ、すべての人の幸せが私の幸せ、何とか苦しみを抜いてやりたい」
 と苦しむ人ほど哀れみをかけられるのだそうです。

 確かに人間の親でさえ、子供に対する深い愛情は、できのよい子より悪い子、器量のよい娘より悪い娘にかかります。
 できのよい子なら、いくらでも自分で生きていけるだろうが、できの悪い子ほど、「この子は将来どうして生きていくんだろう」
 と心配になるものです。

 ましてや大慈悲心の仏さま。

 仏の慈悲は苦しむ者にひとえに重し 苦悩の人こそが仏さまのお目当て。 決して、苦しむ者をお見捨てにはならないのです。

 親鸞聖人は、貴族のお生まれでありながら、貴族や一部の者に独占されていた仏の救いを はじめて万人の手の届くところに開いてくださいました。
 欲や怒りの煩悩を、減らしも無くしもしないままで体験できるすべての人の「真の生きる道」を開かれたのです。

 そんな親鸞聖人の他力至極の信心が詩情となってほとばしり出たのが『正信偈』です
 その親鸞聖人90年の教えが凝縮した『正信偈』は、
 親鸞聖人が一字書かれては一粒の涙を流され、一字一涙の思いで、「必ずあなたを助けてみせる」
 という仏さまの願いを伝えてくだされたものだったのです。

 しかも、私たちが誰でも口ずさめるように、歌の形であらわしてくださいました。

  そして今日、多くの人々が、『正信偈』を、朝晩、拝読しているのです。
 
  阿弥陀仏の本願とは、どんなことかといいますと
   本願とは誓願ともいいまして、お約束ということです。

 では、阿弥陀仏は、どんなお約束をなされているのかといいますと、すべての人は、煩悩具足で苦しみ続けている。有れば有るで苦しみ、無ければ無いで苦しむ。所詮、苦より離れ切れない私たちを見て、何とか絶対の幸福に助けてやりたいという、大慈悲心を起こされたのです。

 そして誓(約束)われたのが「どんな人も 我を信じよ 必ず 絶対の幸福に救う。もし救うことができなければ 命を捨てる」とまで断言されているお約束です。

 こんな、とてつもない本願ですから、親鸞聖人は『正信偈』に、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり(正信偈) “阿弥陀仏は、十方世界に類のない、無上の大本願を建てられた”とおっしゃっているのです。

 どんな人も、この弥陀の本願を信ずる一念に、お約束通りに絶対の幸福に救われ、死ねば弥陀の浄土へ往生することができるのです。
 無量光寺 本堂大棟獅子口
 
 この獅子口は、瓦の生産地であった当地私部で寛延4年(1751)に製作され、現在の無量寺本堂の建立以来250年以上も屋根を護っていました。屋根の棟仕舞は、6世紀後半に日本に瓦が伝来した当初、鴟尾(しび)にはじまり、桧皮葺などの建物に使うために獅子口が考案されました。その獅子口は、京都御所にある桧皮葺の重要な建物に使用され、獅子口のことを御所棟鬼板と別に称し、「紫宸口」と記すこともありました。
 無量光寺の屋根を護る獅子口は、経之巻、綾筋、巴紋をあしらった伝統的な意匠を順守しています。平成26年(2014)、無量光寺門徒の一大決心と多大なる尽力によって実現した本堂の修復工事(株式会社金剛組)において、従来の意匠を踏襲した新しい獅子口が本堂の屋根に飾られ、新たな歴史を刻んでいます。
                 平成27年3月    無量光寺
 獅子口・・・鬼瓦に相当するところに駒形をした箱型を据える。頂上に「経の巻」(円筒形の巴瓦)を3〜5本のせる。その下に山形の綾筋模様をつける。現在では瓦葺きの棟の仕舞として使われてるが、本来は桧皮葺きや柿葺きなどの屋根の棟重(おも)しとして造られ、装飾を兼ねた瓦として使われていた。その後、桧皮葺きに限らず、鬼瓦と同じように瓦葺き屋根にも獅子口が使われるようになっていった。
 屋根の流れが重なり合う頂部において、雨水などの浸入を防ぎ、棟の端を隠すために造られる瓦には、鬼瓦などがありますが、浄土真宗の寺院の山内には、鬼はいませんので獅子口瓦になります。
 獅子口瓦
 
無量光寺の獅子口瓦
 

西本願寺の獅子口瓦
 
指定樹木のイチョウの木
 
 
指定樹木のカイヅカの木
想善寺
想善寺 宗派は西山浄土宗
 本尊 阿弥陀如来坐像


 天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始りといわれ、後に想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代当地の領主畠山義紀公が大檀越となり寛政5年(1793)秋に現在の伽藍ができました。

 本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置しその左右には佛高12cmの千体地蔵尊を祀っている。新しく生まれた子供の幸せと恵まれなかった水子の霊の安らぎを祈って建てられたのであろう。
 当地方では子授け、安産の帯受け、及び子供護りの地蔵として、参詣する人がおおい。
足痛地蔵
 光通寺の西隣の梶さん宅の入り口に西を向いた丸彫りの足痛地蔵さんにお参りする。
このお地蔵さんは足痛を治してくださるという。

光通寺
光通寺 宗派は臨済宗 本尊 聖観音菩薩立像 ヒノキ材 鎌倉時代に作られたものです。

 このお寺は室町時代のはじめに創建され、京都東福寺の末寺となっている。開祖は「交野郷土史かるた」にあるように別峰和尚で後村上天皇に寵愛された方です。室町時代の終わりから戦国時代には朝廷にお茶を献ずるなど極めて力をもった寺でありました。またこの寺の石垣の中には「石垣地蔵」と呼ばれる2体の石仏がみられます。石仏はかなり風化していて、わかりづらいのですが、光線の具合で浮き上がることがあります。また寛文4年(1664)の年号が入った棟札が残っており、それによりますと信長の時代に家臣の安見右近太夫は仁義や道理もわきまえず、仏法を無視し、ついにこの光通寺を倒しました。仏閣はとうとう無くなり、桃や李の美しい人里は一変して荒原となってしまいました。然し後この安見の首領は敵陣で首を切りおとされ、のちの人達はお互いに戒めあったといいます。
伝説
 「おとなしのどんどん」
  集慶殿(古い光通寺)の開祖別峰和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。
 「ならずの柿」
  別峰和尚がお話中、境内の熟れた柿の実が「ぽつん、ぽつん」と音を立てて落ちるので、「やかましい」と大声で叫ばれた。それ以来、この柿の木には実がならなかったという。
 
 石垣地蔵
 
 
 光通寺の石垣は最近整備されたが、山門への上がり口と庫裏への上がり口との間の石垣の中央に、2つの石仏がおられる。これが「石垣地蔵」である。東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。いずれも見つかりにくいが、朝方の太陽を受ける頃西側から眺めると、投影が素晴らしいと言う。
 
 
 

光通寺 本堂 
開祖は後村上天皇に法話をされた別峰和尚である。
室町時代の終わりから戦国時代にかけて朝廷にお茶を献上するなど極めて力のある寺であった。
 
菊の御紋の瓦


石垣を上がったところの本堂の東側に、「こばか地蔵」が沢山祀られています。
昭和4年、信貴生駒電鉄(今の京阪電鉄交野線)の工事中、
交野駅の南踏切付近、「こばか」から出土したものが主に集められている。

 光通寺開祖「別峯和尚」のお墓にお参り

私部城跡
私部城跡
 府下では珍しい平野部に築かれた城です。
私部城は室町時代に豪族畠山氏の家臣・安見氏が築いたといわれています。城は本郭・二郭・三郭からなる主郭と周囲の副郭で構成されています。写真にある切通しといわれる部分はかなりはっきりと残っております。城の南側には土塁や堀跡が認められます。戦国時代やまとの筒井氏に開城せられ信長によって廃城されたといわれます。又、三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていたとみられる、石包丁が出土しております。

 最近の調査で本郭から弥生時代中期前葉の円形住宅跡が見つかりました。かなり以前から住みやすい所として人々が住んでいたことが分かります。 最近この城の重要性がみとめられ、国の指定史跡に向けた調査が始まっております。

三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていた
とみられる石包丁が出土しております。

稲作のはじまり
 いきいきランド交野から京阪交野線付近までに広がる私部南遺跡から、弥生時代の水田が発見されました。
 この水田は、水路も引かれるなど水田としてきちんと整備されていて、縄文時代の稲作のものとは違うものです。
 私部南遺跡からは、第二京阪道路建設時の調査で、弥生時代前期の住居も発見されました。交野に稲作など、弥生時代の文化の波が、早い時期から伝わっていたことが分かります。
 また、市役所別館の北に、私部城跡という中世の城跡があります。この城跡の下から、弥生時代中期の土器や、稲の収穫に使う石包丁などの石器が見つかっています。このあたりにも弥生時代の水田や集落があったのでしょう。

石包丁(私部城跡)
 最近の調査で本郭から弥生時代中期前葉の円形住宅跡が見つかりました。かなり以前から住みやすい所として人々が住んでいたことが分かります。 最近この城の重要性がみとめられ、国の指定史跡に向けた調査が始まっております。
 
本丸池跡
 
 
 
私部城跡の想像図
 
 

交野かるたにも描かれている石仏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 江戸時代前期に書かれた「室町殿日記」によると、私部城の様子が次のように記されている。

 さて、要害(私部城)の様子を尋ねられて、「平城だが、小山のように突き上げてその上に立っていて、北は高津野(郡津)という露深い沼で、馬の足が立ち難く、南は大手口で平地に続いているといっても、大手の矢倉に鉄砲を2〜30挺(備え)たならば、なかなか攻めることが出来ない。外堀は4〜50間もあり、深さは水の量がなみなみとあって埋めることが出来ない。内堀も同様に多くの水量があるように見えます」と申し上げました。
 
 私部城を巡る実力者 〜安見一族〜
 
 
 最後までご覧いただき有難うございました

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