交野歴史健康ウォーク 第139回

ふるさと交野を歩く パートⅡ
=私部城跡に行って・見て・語ろう=

2014.6.14(土) 京阪交野市駅ロータリ前 午前10時集合

行程 : 京阪交野市駅前⇒出屋敷⇒私部街道⇒免除川周辺⇒山根街道⇒
市場橋⇒右近の歩いた道⇒またべ地蔵⇒光通寺⇒無量光寺⇒札場の辻⇒
住吉神社御旅所⇒交野郵便局南の土塁⇒私部城跡⇒私部城跡二郭 
徒歩3Km  12時解散

案内:平田政信氏(交野古文化同好会)
     
参加者 48名(会員31名)

私部城跡・二郭で記念撮影
 交野歴史健康ウオークは6月14日(土)午前10時、京阪電車・交野市駅前ロータリー付近に集合。当日は梅雨の中休みで幸い晴天に恵まれ、48名(会員31名、一般参加17名)が参加され盛大に開催されました。

 先ず、高尾部長と立花昇会長より開会の挨拶があり、続いて、講師の平田政信氏より、ふるさと交野を歩く・私部城周辺の地名などの解説を受けた後、駅前から私部城に向かって元気にスタートしました。

 最初に、私部城の南西に当たる出屋敷(一説に、私部城の武士たちが城を出て屋敷を構えたため呼ばれた地名)にある、輿部屋地蔵(北向地蔵)に案内される。続いて、私部城の西の端を通り郡津へと抜ける「私部街道」から北の要害にあたる免除川をぐるりと回り、山根街道を南に下り市場橋に到着。
 安見右近が通ったと言われる細い小道「右近道」を暫く西へ歩き、普段なら一人では到底歩けそうもない小路を左に折れて、地元の人たちが大事にお守りされている「またべ地蔵」にお参りして光通寺へと歩く。石垣地蔵の2体を確認して、想善寺から無量光寺、遠見遮断の道を右折して札場の辻へ。住吉神社のお旅所から私部街道へと抜けて交野郵便局の南側に残る私部城の土塁を見て、本日のメインテーマ「私部城跡」へとゆっくりと案内していただきました。

 江戸時代前期に書かれた「室町殿日記」によると、私部城の様子が次のように記されている。
 さて、要害(私部城)の様子を尋ねられて、「平城だが、小山のように突き上げてその上に立っていて、北は高津野(郡津)という露深い沼で、馬の足が立ちにくく、南は大手口で平地に続いているといっても、大手の矢倉に鉄砲を2~30挺(備え)たならば、なかなか攻めることが出来ない。外堀は4~50間もあり、深さは水の量がなみなみとあって埋めることが出来ない。内堀も同様に多くの水量があるように見えます」と申し上げました。

 今回、私部城跡をぐるりと一回り、難攻不落だったといわれる私部城の自然の要害を実際に歩いて実感することができました。今後、国の史跡として登録され、永久に保存されることを切に願うばかりです。

 4月に引き続き案内役をお引き受け下さった、平田副会長の楽しく分かりやすい、交野に心底惚れ込んだ平田さんのお話ぶりに、参加された皆さん一様に話に引き込まれ、笑ったり頷いたり本当に楽しい歴史ウォークとなりました。
 本稿を記載するにあたり、講師の平田政信氏よりレジメを頂戴し、併せて「広報かたの」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 
 当日のウォーク行程地図
私部城跡周辺散策
 
 
 
 
 私部城跡周辺散策 レジメ
 
 
 
 平田政信氏作成の「私部城想像復元城郭」
 
 京阪・交野市駅前


(左より)   伊東広報部長、立花会長(中央)、高尾企画事業部長
 
平田政信副会長(中央)の挨拶
 
 出屋敷周辺 
  駅前から踏切を渡りまっすぐに町並みを歩き出屋敷にでると、輿部屋地蔵(北向地蔵)が居られる。私部の西墓へ出て、帰って来ると迎えて頂くありがたい地蔵様である。今も、近隣の人々により大事にお祀りされている。
 
 
 
 私部街道へと歩く
 
 
郡津へと抜ける私部街道
 私部城の北の要害・免除川
 
 
 
 江戸時代前期に書かれた「室町殿日記」によると、私部城の様子が次のように記されている。

 さて、要害(私部城)の様子を尋ねられて、「平城だが、小山のように突き上げてその上に立っていて、北は高津野(郡津)という露深い沼で、馬の足が立ち難く、南は大手口で平地に続いているといっても、大手の矢倉に鉄砲を2~30挺(備え)たならば、なかなか攻めることが出来ない。外堀は4~50間もあり、深さは水の量がなみなみとあって埋めることが出来ない。内堀も同様に多くの水量があるように見えます」と申し上げました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 百々川にかかる市場橋
 
 私部城跡の三郭の南側の角地付近から弥生遺物が出た。石器や弥生中期の壺が出土。ここから東に歩き山根道と交差する「百々川(どどがわ)」に架かる市場橋へと出る。この橋の上側に洗濯場があったそうです。その洗場の踏み石であったものが、住吉神社の木立の下に保存されていたが、今は何処へ行ったか?
 ここで、平田さんより、次の二つの伝説のお話を紹介された。

伝説
 「おとなしのどんどん」
  集慶殿(古い光通寺)の開祖別峰和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。

 「ならずの柿」
  別峰和尚がお話中、境内の熟れた柿の実が「ぽつん、ぽつん」と音を立てて落ちるので、「やかましい」と大声で叫ばれた。それ以来、この柿の木には実がならなかったという。

 
橋から北へと歩き直ぐに西へ、人一人しか通れない路地に出た。ここは室町時代以降、交野城の城主・安見氏も通ったであろう小道を歩く。途中、光通寺へと続く小路を行くと、「またべ地蔵」が祀られていた。

 
 
 安見右近が歩いた「右近道」
 
 
 
 またべ地蔵
 
 
 
無量光寺は瓦の葺き替えなど大改修中
 
 光通寺  臨済宗、室町時代初めの創建
 
 
 私部では、想善寺、光通寺、無量光寺がかたまっている。
光通寺の石垣は最近整備されたが、山門への上がり口と庫裏への上がり口との間の石垣の中央に、2つの石仏がおられる。これが「石垣地蔵」である。東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。いずれも見つかりにくいが、朝方の太陽を受ける頃西側から眺めると、投影が素晴らしいと言う。
 
石垣地蔵
 
 
光通寺の西側、かなりの崖となっている
 
  光通寺へと歩き、「石垣地蔵」の由来を聞き、光通寺の西隣の梶さん宅の入り口に西を向いた丸彫りの足痛地蔵さんにお参りする。このお地蔵さんは足痛を治してくださるという。
 
 
 光通寺から想善寺、無量光寺と訪ねた後、静かな佇まいを歩くと、自然と心が静まる。遠見遮断(とおみしゃだん)と言われる町角を通り、札場の辻(札場橋)から北田家へと歩く。
 
無量光寺
 札場の辻
 
 
 札辻(ふだのつじ)
   城の南側に当たる。
 想善寺、光通寺、無量光寺と私部のすべてのお寺が集まっている地域である。
 東の市場からの道、西の出屋敷からの道が合流して代官屋敷のある北田家の方へ抜ける道もここに来る。
 三つの寺に集まる人々や市場の方に買い物に集まる人々と村人が一点に集まるのであるから、高札場としてうってつけである。
       
 ☆市場(いちば)
  無量光寺に集まる人々に対する門前町としての性格を持ち、また他村からの買い物客を吸収する商業的色彩も色濃く持っていたようである。札辻や市場においては防御的性格を持ったT字路や遠見遮断の道もあって城下町としての性格も持ち合わせている。
 
 逢合橋
(あいあいばし〉
 スタコ坂から西へ行くと天野川に架かる橘がある。この橋が「逢合橋」である。この橋にまつわる伝説は「伝説之河内」に詳しい。毎年7月7日の七夕に逢う織姫と牽牛〈けんぎゅう)との天の川の逢瀬となる話である。
 倉治の機物(はたもの)神社の御祭神が織姫に当たる天棚織比売大神(あめのたなばたひめのおおかみ)であり、牽牛は枚方市茄子作にある中山観音であるという。茄子作の中山観音と倉治の機物神社との中間を流れる川が天野川であり、そこに架かる橋でもって年に一度の逢瀬を楽しんだということで「逢合橋」の名が生まれた。

スダコ坂(砂子坂)
 
私部の西、いずみや交野店の西、天野川の堤防の交差点に「スタコ坂」の標識が揚がっている。
 この位置は私部西ノ口から出てきた道(交野市青年の家、武道館の北側の道)が天野川の堤防(前川の堤防)に上がった所になる。そして、この道は逢合橋を通って、上ノ山で東高野街道と交わる。
 「スタコ」の意味であるが、一つには、前川が天野川に合流する地点であるので、昔は、はん濫もあったであろうし、また、土砂のたい積も甚だしかったであろう。とすると、洲(す)が発達する。いわゆる中州である。この中州が大きくなって冠水する心配もなくなると村人はこの洲の開墾を始める。初めは畑、後には田んぼということになるが、砂地であるため水もちが悪い。いわゆる洲田(すだ)である。陸稲(おかぼ)であれば良かったかもしれない「スタコ」の「コ」は接尾語と思われる。例えば「銭(ぜに)」を「ぜにこ」とかいう言い方がある。これと同じである。その洲田のある高台へ上る坂という意味である。
 二つ目は、「洲坂(すさか)」である。中州に上る坂道という意味でこれも的を得ていると考えられる。(現在、交通の要衝「スタコ坂」)
 三つ目は、「守(す)」、防御の意味である。西ノロの出入口に当たる。西の防御の必要から東高野街道からの出入りの守りとして天野川や前川があることは好都合であった。その位置か中州であったので「守田(すだ)」となったというのである。
 いずれにしろ、前川と天野川の合流点に発達した中州が開墾され、その中州への連絡道路に対する坂道であったということである。

 
 
北田家の白壁
 地元では代官屋敷と呼ばれているこの住宅は、宝永から享保年間(1708~1734)にかけて主屋が建てられている。建てられた当初は茅葺き屋根であったが、寛政8・9年(1796・7)に本瓦葺きに葺き替えられ、昭和59年からの保存修理工事で茅葺形銅板葺となった。
 間取りの最大の特色は上手の前面に突出した角屋をもつことで、その遺例は最古である。
 中でも立派な長屋門は、天保14年(1843)に建てられたもので、長さ55.9mもあり民家では日本一の長さである。
 そのほか、乾蔵(1722に建築)、北蔵(1785に建築)があり、北側と西側は土塀で囲われている。北方土塀が裏門を除いて59m、屋敷西方の土塀が33mあり合計92mである。
 
住吉神社のお旅所 
 住吉神社の北出口より馬場浦の町中を歩き市役所前に通じる道路を北へ、「向井山地蔵」が祀られている。この近辺の道路でNTTのケーブル敷設工事中に「船を見た」という話が「ふるさと交野を歩く・ひろい話(三)に紹介されている。今の町の姿からはとても想像も出来ないが、交野市役所別館の東側には蓮田が広がり、また近くには住吉池という池もあったようで、私部城の南側の天険の要害となっていたようである。

 北田家(代官屋敷)の立派な長屋門などを拝見、ゆっくりと大きな屋敷をぐるりと巡り、住吉神社のお旅所前と出る。
 お旅所とは?神輿を仮に奉安する場所のことで、人々はこの神の旅によって、神の威力、神霊の新たなよみがえりを願ったのであろう。私部住吉神社からお旅所までの渡御が行われています。(秋祭り) 年に一度神様が町にお出ましになり、民の安全を願われるそうだ。
 
 
 昔懐かしい板塀が続く細い路地を抜けると、交野郵便局の南側に出て東に行くとそこは、かって戦場の跡となった、私部城跡である。
 北側の繁る木立の台地が本郭(城)。その西に切通し(堀)があり、一段と高く矩形状の台地が伸びているのは、城の西の端(二郭字天守)である。屋敷(くるわ)がつながって出来ていた、平城(ひらじろ)の跡。道の南側には、藪や背の高い榎が見え、綺麗な土蔵の前に小さな池がある。これが堀跡の名残だと言われる。
 
 
交野郵便局南側に今も残る私部城の土塁
 私部城跡
 
 
 
 
交野連峰が間近かに見えます
 
 
 
 
 
 
 
 私部城を巡る実力者 ~安見一族~
 
 
 
平成26年2月11日(祝)  歴史シンポジウム より
河内の堅城 私部城 - 国史跡を目指して
ー その城 難攻不落 -
「 発掘調査からみた私部城」  吉田 知史氏 (交野市教育委員会)    
私部城の調査では、土器や陶磁器はあまりみつかっておらず、出土品の大半は瓦の破片です。
実は、大坂城のように瓦を城に大量に使うのは、織田信長の安土城以後のことで、
戦国時代の土の城で瓦が多く出土することは全国でも珍しいことです。
今回の調査以前はこうした瓦は室町時代に私部で栄華を誇っていた光通寺のものと考えていました。
(交野市教育委員会1995、交野市文化財事業団1995)


しかし、今回、瓦の出土状況や年代を詳しく調べて行くと、
私部城で瓦が用いられていたことがわかってきました。
 まとめと課題
 これまでの発掘調査によって、地中に埋まっていた城の堀や郭のあとがみつかっています。
これは「室町殿日記」に記された、堀をめぐらして固い守りを誇る城の様子にあてはまります。
また、出土瓦を調べて行くと、私部城で瓦が使われていたことがわかってきました。
これは、河内の城の先進性を物語っています。
さらに、私部城の三葉唐草文の軒平瓦や、丸瓦の初期内叩き技法は、
織田や豊臣の城郭瓦に通じる要素でもあり、後の城郭瓦に与えた影響もうかがえます。


ただ、瓦がどのような建物の屋根を飾っていたかは不明です。二郭に「天守」という地名が
残ることを結び付けて、大坂城のような天守があったのではないかと思われるかもしれませんが、
これはまだまだ調査不足でわかりません。今後の発掘で明らかにしたいと思います。


今回の報告で、大阪府で奇跡的に残された土の平城であるというのみでなく、
私部城が歴史上とても大事で面白い城跡なのだということをお伝えできていれば幸いです。


参加の皆さん、大変お疲れ様でした!

今回も交野の古代ロマンの色々な歴史・史跡に出会うことが出来ました。
  案内役の平田政信さん有難う御座いました。


次回の歴史健康ウォークは、2014年9月13日(土)、
  大塩平八郎の史跡を巡る=天満界隈を歩く=です。
  集合は午前9時 JR河内磐船駅です。
 9時17分乗車  案内:高尾秀司氏
最後までご覧いただき有難うございました!

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