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 第16回 交野歴史健康ウォーク

2001.5.12 私市共同墓地から洞穴(戦跡)を訪ねる

  5/12(土)、交野歴史健康ウォークが交野古文化同好会・平田さんの企画で開催されました。
 毎週、土曜日に「交野歴史健康ウォーク」として、次のように実施されますので、お一人でも多くの方の参加をお待ちしております。 (交野古文化同好会・平田さん

(とき)平成13年5月12日(土)はれ
(コース)私市駅⇒共同墓地⇒石堰⇒洞穴(戦時中に掘られたもの)⇒私市駅


私市共同墓地から洞穴(戦跡)を訪ねるMAP

私市共同墓地の
六体地蔵
弘安地蔵
説明される平田さんの
お話を真剣に聞く
私市共同墓地の蓮華石
野辺送りのとき使用された
天の川・私市の石堰
石で高く組まれた堰
左手の部分が天の川から
加賀田用水路への取り口
この下が戦時中の子供たちの
水遊びの場であった
交通安全地蔵
168号線の曲がり角
付近にある
事故の無いように
お守り頂いている

洞穴
戦時中に掘られた
高さ2m位で大人が
立った状態で進める
洞穴の中で
見つけた鍾乳
戦後50余年の歴史?

洞穴の中に
身を寄せ合って
おそるおそる入る
懐中電灯を頼りに
洞穴内を探検

奥行き30mはあろうか

 5/12(土)、天候晴れ参加者8人。私市駅前を9:00過ぎ出発。駅前広場を抜け、旧磐船街道を少し南に行くと163号線と交差する三叉路の左手に私市共同墓地がある。
 お迎え仏の手前に、弘安地蔵がおられる。平田さんから詳しくご説明を受ける。

 弘安地蔵私市共同墓地1281年)弘安地蔵
 墓地の「迎え仏」の手前にあり、小さいブロックの屋形の中で東面しておられる。右手に与願印を示し錫杖を持っておられない古い形である。錫杖を持つ形式は新しく、藤原時代の終わりごろから作られるようになる。左手には「与願の玉」を持っておられ、この玉はどんなことをお願いしても、この玉からお出し預けるという有難い宝珠である。

 この石仏には、左右に

「右ハ為二浄林浄雲一石作三郎」
「弘安四年四月十五日立之」という銘が刻まれており、ここから「弘安地蔵」と呼ばれている。
 大阪府下にある石仏の中では、年号のある一番古いもの
でさらに、像の頭上とその左右に地蔵の種子(カ)が見える。
 新仏ができると、仏が生前使用していた杖、帽子、履物などをこの石仏に届けると言う。

 弘安四年(1281)といえば、現在NHKTVが「北条時宗」の大河ドラマを放映中であるが、あたかも蒙古の二度目の来襲を受けた、弘安の役が起こった年である。
 
昭和三十六年十月、大阪府指定文化財、重要美術品に指定されている。

[弘安の役]元は1279年南宋を滅亡させ,81(弘安4)第2次日本遠征を決行した。元・高麗の東路軍4万2000は5月に合浦を出発し,対馬・壱岐を襲い,博多をめざしたが,防塁と日本軍に阻まれ,上陸できなかった。一方,旧南宋軍を主体とした江南軍10万は,遅れて中国の慶元を出発し,平戸付近で東路軍と合流。7月30日,平戸から鷹島へ移動していた元軍を大暴風雨が襲い,元軍は壊滅的な打撃を被った。その後,日本軍による残敵掃討戦が展開した。2回の蒙古襲来は失敗に終ったが,元は日本遠征の意志を撤回せず,日本側は異国警固番役を廃止することはできなかった。またこの蒙古襲来は,鎌倉時代の政治・社会・文化に大きな影響を与えた。
 (岩波日本史辞典より引用)

 続いて168号を横切り、平田さんたちが子供の頃、学校から帰ると急いで集まり水遊びをしたと言われる、私市の天の川石堰を案内頂いた。10mはあろうか、天の川を石で堰き止め左手に加賀田用水路への取り口が造られていた。この石堰の下が戦時中の子供たちの水遊びの場であったそうだ。
 川を覗き込むと、元気な子供たちの声が聞こえてきそうであった。よき時代の思い出である。
 
 洞穴戦跡
洞穴(戦跡)
 最近はめっきり車の往来が激しくなった168号線(磐船街道)を生駒に向かって、私市小学校を過ぎカーブを大きく曲かったら、生コン会杜が見えてくる。左側の山肌に3本の洞穴がある。その内の1本は奥行き30m位はあろうか高さは2m位で大人が立った状態で中に進むことができる。5m間隔で左右にも堀った跡がある。

旧陸軍造兵廠・香里製造所の移転計画地跡
 大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所(香里製造所)を昭和20年の終戦前に交野市の私市に洞窟を掘り移転する計画があった。
 枚方製造所は、100万uを超える広大な敷地に9つの工場が建ち、1万人の工員が砲弾の製造をしていた。香里製造所は日本有数の火薬製造所で枚方製造所で造った砲弾に火薬がつめられ戦争地へ向かった。
 面積は、652u、長さ138m、洞窟5ヵ所、坑木による簡単なもの。立木は終戦時に撤去して現在は3ヵ所の洞窟が残っている。
 今回、3号隋道(奥行き45.3m、総延長73.5m、床面積約147u)を確認した。

 市内に残る戦跡は星田に「陸軍用地」の石標と「中村少尉の鎮魂碑」戦争の貴重な遣産です。
     (交野古文化同好会・石鏃bP14号を参照させて頂きました)

 今回のウォークは、戦時中の苦々しい思い出と、子供の頃の水遊びに夢中になったよき時代を思い起こす良い機会となった。いつまでも人々の記憶にとどめ、次の世代にも語り伝えたいものである。
 
 平田会長の軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!


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