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第17回 交野歴史健康ウォーク

2001.7.14 磐船峡・鮎返しの滝から磐船神社を訪ねる

  7/14(土)、交野歴史健康ウォークが交野古文化同好会・平田さんの企画で開催されました。
 第2、4の土曜日に「交野歴史健康ウォーク」として、次のように実施していますので、お一人でも多くの方の参加をお待ちしております。 (交野古文化同好会・平田さん

(とき)平成13年7月14日(土)はれ
(コース)私市駅⇒車⇒磐船鮎返しの滝⇒磐船神社⇒車⇒私市駅




鮎返しの滝で
説明される平田さん
鮎返しの滝
ここまで昇ってきた鮎も
引き返したと言う滝
岩船峡
素晴らしい渓谷美
鮎返しの滝の上を
旧磐船街道が通っていた
今は崩れて通れない
景勝岩船峡近くの
民家の奥に見える
切りだった山が哮ヶ峰
磐船神社の四社明神
鎌倉時代の末頃の作
昔は川の中の岩から拝んだ
磐船神社の不動明王
仏高1.23m 右の手に剣
火焔を背に怒りに満ちた容貌で
どっしりと立っておられる
不動明王前で
説明される平田さん
岩船神社の鳥居をくぐった
西側の大石に彫られている
おじいさんの古時計
磐船神社の北にある
馴染み客で連日賑わう
ログハウスのレストラン

 7/14(土)天候晴れ、参加者7人。私市駅前を9:00過ぎ出発。駅前広場を抜け、168号線を一路車で生駒方面に向かう。
 バス停梅ノ木を過ぎ、名勝磐船峡の標石の手前を右折し天の川を渡り、平田さんのお知り合いの民家に車を停めさせてもらい、早速鮎返しの滝へと向かった。大きな岩(7mほどの一枚岩)の上から水が滝となって流れ落ち、滝壷は深く、ゴロゴロと転がった沢山の大きな石の間を川下へと流れていく。
 今年は、晴天続きで水量は少なく迫力は今ひとつだったが・・・。
 素晴らしい眺めである。平田さんから詳しくご説明を受ける。鮎返しの滝
 昔、この滝つぼに獅子窟寺の賓頭盧尊(びんずる)さん吊るして雨乞いをしたという。
 また一転して、天の川の上流で大雨が降ったときには、滝つぼから水があふれて川一杯に洪水となり、直ぐ下手の民家は床下浸水したり、磐船街道が崩れて通行不通になることが度々あった。その為、現在磐船神社の南側で天野川を堰止めして遊水池とダムトンネル工事が進められ殆ど完成している。
 今は、残念ながら名勝磐船峡には、入る事が出来ない。昔あった、鮎返しの滝の上を通っていた磐船街道も崩れ落ち通行出来ない。
 毎年、交野市古文化同好会の方々は、この滝の下に流れ着いた沢山のゴミを掃除されているそうである。相当なゴミの量で大変な作業だと聞く。
 
 鮎が引き返したと言う、この名勝を是非とも昔の面影が窺えるように蘇らせて欲しいものである。

 再び、車に乗り直ぐ近くの磐船神社へと向かう。
 旧磐船街道から鳥居をくぐり境内に入ると、右手にご神体の巨石があり、その東側に、西面した大岩に四社明神が彫られている。よく見ると、四社明神の彫られた大岩には、半円形に溝が彫られており、川の中の下の大岩には柱の跡らしい掘り込みが見える。昔、四社明神からこの大石まで屋形が突き出ていて、ここからご神体の巨石と四社明神を拝んだものだという。
 西側の大石に、幅90cm、低部奥行き55cmの切り込みの面があり、そこに仏高1m23cmの不動明王が刻まれている。戦国時代(450年前)に彫られたもので、今は全身緑色に苔むして、時折葉陰から漏れる朝日が不動明王の顔を明るく照らしていた。
 
 おじいさんの古時計で、冷たいジュースを飲みながら、大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある、この磐船の地を訪れ古代の人々の暮らしに思いを馳せ、次から次へと話が弾み、ふるさとの歴史を訪ねる幸せを味わった。
 平田会長の軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!


 ※ 鮎返しの滝と賓頭盧尊(びんずる)さん賓頭盧尊(びんずる)さん
 磐船神杜から北に下った所に鮎返しの瀧がある。昔は、若鮎がここから引き返したという。雨乞いの時は、獅子窟寺の賓頭盧尊さんの顔に白粉を塗って、この滝の滝つぼに吊り下けたといわれている。いつも赤い顔をしている賓頭盧尊が、百姓たちから顔におしろいを塗られて、日照り続きで水のない滝つぼへ下ろされる。
 こうしておけば、賓頭盧尊さんは、「わしは元来いつも赤い顔をしている事をお釈迦さんに許されている。それがこんな白い顔になって恥ずかしくてたまらない。といって、この顔の白粉を洗い落とそうとしても滝の水は日照りのために落ちていない。よし!一つ大雨を降らして滝に水を落として顔の白い粉を洗い落としてやろう」と考えるにちがいない、と思いついたのである。
 昔の百姓は、水を得るためにはどんなことでもしかねなかったので、雨が降るとなると仏様でも滝つぼへ吊り下げたのかもしれない。

 賓頭盧尊とは

・羅漢のひとり⇒解脱をめざす永遠の修行者である
・頭髪が白くまゆが長い
・像を手でなでて祈ると病気が治まる。

 雨乞いの具体例

 日照りが続くと、賓頭盧尊さんの首に穴開き銭をぶらさげて、行列をつくって蓮華寺(私市・若官神社横)へお迎えをした。雨乞いの行には村人が交代で参加し、21日間続けられたそうである。この行の間に雨が隆れば、びんずるさんを白粉で化粧をして獅子窟寺へお送りをした。しかし、21日間を過ぎても雨が隆らなければ賓頭盧尊さんを鮎返しの滝壷へ吊るしたこともあったと伝えられている。夏期旱魃(かんばつ)は昭和14年に、松宝寺の池の水がなくなり、畦の草まで枯れてしまうという日照りが続いた。そのとき、実相院の尼僧が番傘を千本集めて雨乞いをした。このときには、雨が少し降ったそうである。
 「雨たも、たもいの、天に滴(しずく)はないのんか」 そして「雨喜び」
 田に水が一番必要とき、日照りが続き川、池、井戸に水がなくなってくると、村人たちは必死で雨乞いをした。雨が降ってほしいという願いは強く、雨が降ったときの喜びは現在の私たちには想像もできないことである。雨を降らしてくれた神さまへのお礼と、雨が降り稲が助かるという喜びを村中で祝うため、また雨乞いしに全精カを注いだ疲れをいやすためか、雨の降った翌日は一日(または半日)休みとした。
(各地域によって鶏肉・餅・団子
etcの御馳走を食べた)

 雨乞い
 農耕民族にとって雨は不可欠のものである。太陽と水がなけれぱ植物は育たない。われわれの生活に、雨がどれほど深いかかわりを持っているかは、雨乞いの呪法が最も大がかりな方法で行われたことからも理解出来る。

@お籠り⇒降雨を祈って神杜に籠もる。
A雨乞い踊り⇒鐘や太鼓を打ち鳴らし神社の境内で踊る。
B貰い水⇒聖地から水をもらってきて、村の神社や水源地に撒く。
C神を怒らす⇒水神のすむ聖地に汚物を投げ込む。
D女角力⇒秋田県には、日照りの時に女が角力をとる風習がある。
E百枡洗い⇒枡を百個借り集めて洗うという呪法。
F千駄焚き⇒山の上に沢山の薪を積んで火をつける。
(参考文献「日本人の言い伝え・ものしり辞典」より)


 
磐船神社
 磐船神社のご神体は巨石である。
大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある。大昔の人はこの舟の舳先のように見える巨石にどれだけの神秘さを感じたことだろう。
この巨石の東側の岩に「四社明神」が彫られている。幅2.20m、高さ1.05mの彫り込み内に、線刻の光背を背にして、右から地蔵菩薩・阿弥陀如来・十一面観音・勢至菩薩が並んで蓮華の座に座している。これらの石仏は鎌倉時代の末の作と言われている。
 四社明神の南(川の中)の大石に柱の跡が見られる。昔、四社明神からこの大石まで屋形が突き出ていて、ここからご神体の巨石と四社明神を拝んだものと思われる。今は対岸に高い石垣ができて、川の中には降りられない。

 不動明王
 磐船神社の鳥居をくぐった西側にの大石に、幅90cm、低部奥行き55cmの切り込みの面があり、そこに仏高1m23cmの不動明王が刻まれている。右の手に剣、左の手に羂索(けんさく)を持ち、火焔を背に怒りに満ちた容貌でどっしりと立っておられ、いかにも仏敵はことごとく蹴散らしてやるぞといわんばかりのお姿である。
 切込みの左側に「天文14年(1545)」とあり、戦国時代の造立である。

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