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 交野歴史健康ウォーク
2002.7.27、 第35回

 獅子窟寺・本尊国宝・薬師如来坐像を拝観、
獅子窟岩、王の墓などを訪ねる
  

7/27(土)午前9時 集合場所交野ドーム(噴水広場前)
行先:交野ドーム→獅子窟寺→交野ドーム
獅子窟寺本尊国宝・薬師如来坐像を拝観


獅子窟寺歴史ウォークMAP

 7/27(土)天候晴れ、参加者9人。交野ドーム前を9:15分過ぎ、獅子窟寺を目指して出発した。
 今回は、山と渓谷社の大阪支局の記者さんが同行された。同社では、『ちちんぷいぷいの山歩き』という雑誌を作成中で、その中で、磐船神社とその周辺の地域情報を紹介したいということで、取材をかねて急遽歴史ウォークに参加されることになった。
 いつもの石の座卓に座って打ち合わせをしているところへ、今回も新しい方がお見えになった。6月18日の読売新聞の記事を見て、私のHPにアクセスされ交野歴史ウォークのコピーを持参された。皆さんと一緒に歩きたいと大東市からJR学研都市線を乗り継いでやって来られた。新聞の宣伝効果でHPが広く知れ渡って、会員さんも増え大変ありがたいことである。

獅子窟寺薬師仏
獅子窟寺の御本尊で国宝
その鋭い彫法に弘仁期の様式を見せながら、おだやかな面相、流麗な衣文に藤原期の様式をただよわせた、両時代過渡期の作である(交野市史より)


 府道久御山線に出て森北(船戸)の交差点で南に左折、岩船小学校を通り過ぎJR学研都市線を渡り、森の静かな町を通り抜けると天田神社に到着。天の川の流域は、どこよりも稲作に適していて良く実った。特にこの神社の流域は特等地でありがたい甘田であった。また平田さんからは、神社にまつわる大変興味深いお話も伺い、一同感心するばかり。宮の西にある鳥居をくぐり左に100mも行くと条里制の一条通である。

 お宮を出て、左に上ってゆくと坂口と言う村に出る。井上姓が多く、長慶天皇と関係のある方々だと聞く。獅子窟寺の上り口に、「獅子窟律寺」「南無阿弥陀仏」「従是六丁」などと刻まれた石柱が立っている。急な山道をゆっくりと登ってゆくと、首なし地蔵が祀られている。私市の昔のお母さんたちは臨月になると安産を祈り、お乳が沢山出るようにと祈り、適度な運動も出来た。安産地蔵と言われている。

 さらに上ると、左右に「聖武天皇勅願、行基菩薩開創、役行者、弘法大師、修行旧蹟」「当山禁 殺生 制酒辛」と刻まれた石柱が立っている。昔は、ここに山門があり、牛臥石の上を越してお参りした。参道は平らで広い、ここまで登るとほっと一息できる。
 昔、両側には松並木があったが、昭和9年(1934)の第1室戸台風で倒れてしまった。参道の奥まった所の石組みの中央に仁王門跡の立札が立っている。仁王さんは今は薬師堂におられる。右に折れ、少し崩れた道を行くと百四つの石段がある。亀山上皇が薬師如来にご病気平癒を祈願され、全快するや寺の修復をされ、石段もお造りになった。

 薬師堂は西面して建っている。大きな岩の上に建っているので地震にもビクともしない、またその岩は大きく掘られて水が貯められているそうで、万一の時、仏様を火災から守るのだそうだ。
 獅子窟寺の本尊・国宝薬師如来像は、昭和43年国宝に指定され、昭和51年に収蔵庫にお移りになった。
 当日は、平田さんより事前に国宝拝観の予約をお願いされていたので、特別に立派な庭園のお座敷に上げて頂き、冷たいお茶にお絞りのお世話を頂き、ありがたく頂戴した。この庭園には、松の大木があり遠く守口方面からでも見えたそうであるが、室戸台風で倒れてしまったそうだ。
 国宝・薬師如来像について詳しく説明を受け、改めて薬師如来の仏様のありがたさに感動を覚えた。また当ホームページでも平田さんの「今日の話はなんでっか」の獅子窟寺シリーズNo10〜No14で、詳しくご説明頂いているのでご参照ください。

 国宝を拝観後、獅子窟岩くぐりをみんなで楽しみ、うまく抜け出せて歓声を挙げた。
 薬師堂から上がった大岩の下に、三十三ヶ所観音の1番が祀られており、八畳岩まで32番を巡り、最後の33番・谷汲山華厳寺の観音さんは、薬師堂の南にある「地蔵尊」に祀られている。昔、京阪電車と提携して、手軽に廻れる「西国三十三番めぐり」として賑わったそうだ。
 境内にある井戸は、平安時代に弘法大師が獅子窟で修法され、水の不便を考え掘られたもので、それ以来枯れたことがないという。一同、冷たい水で顔を洗い歓声を上げそれぞれ水筒に一杯、水を頂戴した。
帰りは、獅子窟寺の墓と王の墓、椿地蔵さんにお参りして、竹薮の山道を下り森へと出て、寺村を廻って交野ドームへと帰った。
 猛暑の中の歴史ウォーク、国宝をまじかに拝見し、また新たな気持ちで活動できる元気を頂いた。

 平田さん軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回(9月)が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

いきいきランドの石の座卓で
朝のミーティング
全員で今日のウォークの
打ち合わせをする
獅子窟寺の上り口より
交野市内を遠望する
獅子窟寺への上り口
(坂口)の寺標の辻
獅子窟律寺と刻まれている
獅子窟岩の前で説明を受ける
淀川を行き来する船の灯台の
役目をした灯がともされていた
獅子窟岩のくぐりぬけ
何かにこだわりのある方は
引っかかってくぐりぬけ出来ない


獅子窟寺の墓の清掃
2002.8.3
(土)交野古文化同好会有志


交野古文化同好会の有志の方々により
毎年、お盆・お正月前の2回の無縁墓の清掃活動が続けられている。
今年は、8/3午前8時から古文化同好会私部・私市地区の有志の方々によって行われました。
連日真夏日が続く猛暑の中、鍬・鎌を手に雑草を刈り熊手で落ち葉を掃き取っていきました。

皆様手際よく作業を進めていただき約1時間半程で終えることが出来ました。
墓の前には美しい花が供えられ、参加者全員でお勤めをいたしました。
これでお盆が迎えられますと、したたり落ちる汗をぬぐいながら笑顔でおっしゃていただきました
失われつつある「心のゆとり」を呼び起こしてくれた。
奥野平次が残してくれた交野古文化同好会の活動が今も継承されております。
これも会員皆様方のご理解と協力のおかげです。
今後も清掃活動をを継続して行きたいと思います。

(交野古文化同好会・平田さん)

竹を切り、花をいける竹筒を作る 王の墓の付近の落ち葉も
綺麗に清掃された
椿地蔵さん
綺麗に清掃され花も生けられた
王の墓
綺麗に清掃された
獅子窟寺の累代の墓
沢山の落ち葉も綺麗に
清掃された
六地蔵
明治の廃仏毀釈の時に
上部が壊されたもの

高野山/真言宗 獅子窟寺(ししくつじ
交野市私市2387番地 / TEL 072-891-6693
国宝の薬師如来は獅子窟寺
「交野郷土史かるた」
より

 京阪電車・私市駅、河内森駅、またはJR河内磐船駅よりそれぞれ徒歩約40分。 獅子窟寺本堂
普賢山獅子窟寺といい、真言宗高野山派に属する。
獅子窟寺の頂上からの眺望は素晴らしく、大阪市街、大阪城、遠くは淡路島、 明石海峡大橋を望み、眼下に淀川河岸から三島連山、六甲山をながめることが出来る。

 開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられ、本尊薬師如来座像は弘仁期(平安時代、西暦900年頃)のものとされ国宝である。
この尊像は行基菩薩が一刀三礼のもとに三年と三ヶ月を費やして刻まれた像で、授乳の霊験が著しいと伝えられている。榧の木(かやのき)の一本刻りで高さ92cm、相貌の眉、切目、口唇的に漂う特徴と衣文の鋭い翻波様式は平安の初期の代表作である。

 奈良時代、聖武天皇(45代)の勅願を受けた僧行基が堂塔を建て、金剛般若窟と云った。のちに、平安時代空海もこの山で修法され、境内にある井戸は水の不便を考え、掘られたもので枯水したことがないと伝えられる。
亀山上皇はこの薬師仏に病気平癒を祈られ、全快した喜びに荒廃した寺を立派に再建された。
嘉元3年(1305年)上皇崩御の時、その徳をしのんで王の墓が建てられた。

 元和元年(1615年)大阪の役、獅子窟衆徒は大坂方に加勢すべく命じられたが、従わず、兵火のため全山焼失した。
昔は、全山12院(吉祥院、松宝院、薬師院、華蔵院、愛染院、溪月院、井上院、杉本院、文殊院、日光院、普賢院、西院)があった。

 中興光影和尚によって再建されたが、往時の10分の1にも及ばなかった。


 百重原(ももえがはら)の地名が示す地形の美しさと国宝薬師仏がこの寺の良さを表している。

獅子窟寺薬師仏は事前に予約をすれば拝観できます。
TEL 072-891-6693

先日、御仏様をお祈りした時、国宝薬師如来御真言は
「オン・コロコロセンダリマ、トウギ・ソハカ」ですと教わった。


 獅子窟寺の本堂の北の石段を上がって、まっすぐ行くと、獅子窟の南側の支え石に突き当たる。
その石の右寄りで、大岩に寄り添うように自然石に刻まれた梵字碑が建っている。
この碑は、胎蔵界大日如来の真言「アビラウンケン」を蓮華座の上に表わしたもので、永禄6年(1563)3月12日に一結衆が逆修供養(死んで極楽に行けるように、生前仏事を修め冥福を祈ること)の為建立したことが一結衆11名の名が刻まれている。
この梵字は、宇宙を現している。我々は、宇宙の中で生を受けている。
その宇宙そのものが大日如来である。つまり、大日如来の力で生きさせてもらっているのである。
その大日如来の真言が「アビラウンケン」であるという。
(木下蜜運仏教大学講師)



獅子窟の男の石

獅子窟寺の山は全山花崗岩質の山である。梵字の碑の大岩を上にあがると、東から西側に突き出した巨石はまさしく男の石である。つけ根から先まで四メートル五十センチである。

この下から西側に降りると、金剛般若窟(こんごうはんにゃくつ)・獅子窟(ししくつである。獅子の口に似たとして獅子窟(ししくつと言われ、現在の寺号が出来たと伝えられている。
この岩にこもって、弘法大師が修行された。


獅子窟の奥にある、弘法大師の石造

金剛般若窟(こんごうはんにゃくつ)・獅子窟(ししくつ)獅子窟の女の岩嵯峨天皇(弘仁年間 810〜824年)のころ、弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、三ヶ所に分れて落ちたと言われている。
八丁三所に星が降った

この岩の奥には、弘法大師の小さな石像があり、昔の伝説がよみがえる思いがします。


王の墓

 獅子窟寺への山道を登って行くと寺の約150M手前、少し開けた所に仁王門跡の石組みがあり、左へ山道を下り、六体地蔵の前を抜けると、湾曲に突き出した所に、亀山上皇と皇后の供養塔・王の墓が重厚なたたずまいを見せている。
 この付近は、見晴らしの良い所から百重が原と呼ばれ、亀山院の分骨陵とか、後亀山天皇陵などと言われていた。辺りには古木が多く、かって王の墓の上のシイの大木の枝を切り落とそうとしたところ、「キイキイ」と泣き、木に触れただけで腹痛を起こしたといういわれがある。
昼なお暗い木立の中にたたずむと、中世の栄華がしのばれる。

王の墓

 ※ 鮎返しの滝と賓頭盧尊(びんずる)さん賓頭盧尊(びんずる)さん
 磐船神杜から北に下った所に鮎返しの瀧がある。昔は、若鮎がここから引き返したという。雨乞いの時は、獅子窟寺の賓頭盧尊さんの顔に白粉を塗って、この滝の滝つぼに吊り下けたといわれている。いつも赤い顔をしている賓頭盧尊が、百姓たちから顔におしろいを塗られて、日照り続きで水のない滝つぼへ下ろされる。
 こうしておけば、賓頭盧尊さんは、「わしは元来いつも赤い顔をしている事をお釈迦さんに許されている。それがこんな白い顔になって恥ずかしくてたまらない。といって、この顔の白粉を洗い落とそうとしても滝の水は日照りのために落ちていない。よし!一つ大雨を降らして滝に水を落として顔の白い粉を洗い落としてやろう」と考えるにちがいない、と思いついたのである。
 昔の百姓は、水を得るためにはどんなことでもしかねなかったので、雨が降るとなると仏様でも滝つぼへ吊り下げたのかもしれない。

 賓頭盧尊とは

・羅漢のひとり⇒解脱をめざす永遠の修行者である
・頭髪が白くまゆが長い
・像を手でなでて祈ると病気が治まる。

 


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