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交野歴史健康ウォーク
2005.3.12 第69回

私部の墓地から寺・森・私市を歩き
郷土史カルタの里と石仏を訪ねる

つづり方兄妹の墓、泉ヶ丘石仏、かえる石など

2005.3.12  森と寺の境界地に祀られている「泉ヶ丘地蔵」の前で記念写真
昔は、ここから寺村へと道があり、傍示から流れてきた南川には水車が廻っていたそうだ

行程 : 交野ドーム→私部墓地(つづり方兄妹の墓参り)→寺→かさんど池→大畑古墳→泉ヶ丘地蔵→須彌寺→大門酒造付近の石仏→燈籠の辻(かえる石)→天田の宮→松宝寺→岩屋橋の石仏→若宮神社→開き→天野川→加賀田用水→私市仁左衛門跡→西川原→千手寺→河内磐船駅→船戸→交野ドーム

 今回のウォークで69回目。春まだ遠く、三寒四温の気候がくるくると変り、冬に逆戻りかと思わせる寒風の中、午前9時、元気なメンバー16名が揃った。今回のウォークは、郷土史カルタに歌われている、寺村、森村、私市を歩いて、村の中に祀られている石仏たちを訪ねた。

 平田さんの案内で、先ず交野ドームの北側の発掘現場をみたあと、久御山線をわたり私部墓地へと続く昔の野辺送りの道・南後(南郷)を通って、青山の田圃道に入り訪れたのは、「水守り地蔵」。こんなところにも地藏さんが居られると、皆さん感心しきり。水守り地蔵の名前の通り、直ぐ東側のこんもりした森には湧水をためた小さな池を発見。鯉が沢山元気に泳いでいた。

いきいきランドの北側は、第二京阪国道の予定地で、現在発掘作業が行われている。 第二京阪国道の予定地の傍の青山の田圃の畔に「水守り地蔵」が健在。(平田さんの足下)
  水守り地蔵から東を望んだ青山の国道予定地では住宅が取り壊されて整地された
 第2京阪予定地よりわずかにはずれた田圃の畦道に、「水守り地蔵」は健在。左側の双体仏は少し右に傾き、右の阿弥陀さんとともに長い風雪に耐えながら田畑の水を良くお守りいただきました。すぐ東の森からこんこんと清水が湧き出し私部の田圃を潤している。いつまでもお守りください。今回初めて、湧水がたまった小さな池を発見。沢山の鯉が元気に泳いでいた。
つづり方兄妹の墓
 続いて私部墓地に案内され、「つづり方兄妹」の主人公・野上房雄さんの「ふうちゃんのお墓にお参りした。今年の正月の初歩きでも訪れたが、今回の参加者の中には、つづり方兄妹のお父さん(野上さん)をご存知の方も居られて、「屋根のトユを治してもらった事がある」と懐かしく語られていた。

 初歩きのホームページにも紹介していますが、少し触れたいと思います。
つづり方兄妹」ものがたり
 敗戦の翌年に開設した香里小学校は、陸軍の施設、病院と事務所を転用した不便なもので、タイル張りや広さがまちまちの部屋を教室に使った。
 運動場は山が迫って狭く、10学級の小さな学校だった。ふうちゃんのお墓(私部共同墓地)
 昭和27年、火薬製造反対運動の頃、この香里小学校に、野上丹治、洋子、房雄の三兄妹が通っていた。野上一家は、戦後台湾から引揚げてきて旧香里製造所跡の雨漏りの激しい小屋で一家5人が暮らしていた。
 貧しい生活だったが、兄妹仲良く、協力し合って向学心に燃え、社会のこと暮らしの事にも、子どもらしい正義感でみつめ作文(つづり方)を綴った。
 3人の作品は、国内外のつづり方コンクールで一等をしばしば受賞した。そして、1958年3人の作品をまとめて、理論社から「つづり方兄妹」が出版された。
 すぐれた作品集だったので、話題を呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。

 交野でも交野小学校の北川沿いの道路で、野上房雄(ふうちゅん)の野辺送りの映画ロケがあり、大勢の人々が見学したそうである。
 
 久松静児監督の手により映画化されたのは1958年(昭和33年)。出演者は望月優子・織田政雄・香川京子・津島恵子・森繁久彌・乙羽信子らに、京阪神の劇団関係子役から選抜された藤川昭雄・竹野マリ・頭師孝雄が三兄妹弟に扮している。
11月の古文化の勉強会でビデオを鑑賞し、房雄(ふうちゃん)の次の詩が特に印象的でした。

 「ぼくのところからみると  下の方は ずうっと かたのの のはらや 
    そのむこうに いこま山が むっと たっている 
       あのてっぺんに よう 白いくもがねている
    ぼく あのくもにのりたいねん 百円でけたら でんしゃにのっていく」


 戦後間もなくは、交野も生駒山も香里の地からいまよりもっと近く感じられただろう。その房雄は病気に倒れ、貧しさゆえに入院もできずに死んでいく。房雄の亡骸をリヤカーに乗せて運ぶ際、生駒山を指差した妹の洋子が「(ふうちゅんも)あのくものうえでねているかしら」とつぶやく場面が切ない。
 残念なことに「ふうはちゃん」は8歳で亡くなった
     (2004年11.01 産経新聞を参照しました)

 《特報》交野古文化同好会では、今年の総会(2005年4/9の予定)で映画「つづり方兄妹の」鑑賞会が予定されており、地元の方々には大きな関心を呼ぶことになりそうだ。

 寺村の村はずれの「かさんど池」を通り、静かな寺村から森村へと出るところに「大畑古墳」がある。交野で一番新しい前方後円墳であることが最近の発掘で検証された。寺村遺跡(弥生)の上に古墳が出来、今は住宅地となっている(右上の写真)。
 続いて訪れたのは、泉ケ丘住宅地の高台に祀られている、「泉ケ丘地蔵」さん。西方向の交野高校に眠る、東車塚古墳群を静に見下ろしておられる。これからも、どうぞ交野をお守りください。
泉ケ丘地蔵
交野高校に眠る東車塚古墳群の方向、西を向いて鎮座されている
郷土史カルタ 「八幡の神主 村の名に」
 星田新宮山八幡宮派遣の神主森公文(もりくもん)は延久年間(1069年ごろ)、森の警護観音堂を再興しましたので、村人はこれまでの無垢根(むくね)の里を、この人の名をとって森の里と呼ぶようになりました。
須弥寺の警護観音堂 須弥寺 本堂の扁額

                        須弥寺境内を散策
 古代の人々は、この地に村落一帯の田園を見下ろす丘陵の地に、「陽石」を祀って悪霊を払い五穀豊穣と子孫繁栄を祈る場所とした、村の発祥の地でもあった。
 須弥寺は、浄土宗西山派のお寺で、天長3年(826)のころ弘法大師が草庵を創ったのが始まりとされています。境内は1270平方メートル。享保16年に建立された本堂に庫裏。本尊は阿弥陀仏。「石清水八幡宮警固・十一面観世音菩薩」、男山八幡宮を国家鎮護のため、はるばる九州の宇佐八幡から分霊した時に、八幡宮警護観音として随伴したのをこの地に安置されたものです。
 釣鐘堂前の丸い「陽石」は弥生時代以前のものと言われている。

恐ろしい姿の脱衣婆坐像
三途の川を渡るのに六文銭が必要だ!
「陽石」は弥生時代以前のもの?
悪霊を払い五穀豊穣と子孫繁栄を祈った
郷土史カルタ  酒づくりに 役人の監督
 江戸時代には交野のどの村でも一、二軒のつくり酒屋があり、当時幕府から厳しく規制され、また役人の監督も受け、米の豊凶によって割当が増減されたといいます。
現在市内には二つの酒造会社があります。
 京阪河内森駅から東へ、森に通じる道がかぎ型に合流する地点付近を城戸(きど)と言い、この角に大きな石灯籠があり、そのすぐ西隣に「蛙石」がある。由松とお種の伝説が残る。平田さんの名調子で由松さんとお種さんの秘話が語られた。(交野に伝わる伝説をご参照下さい
「蛙石(かえるいし)」 大門酒造近くの燈籠

私市を歩き 石仏と加賀田用水を辿る

 森から天田神社へと出て、松宝寺のすぐ下の道より、条里制一条通を望み、松宝寺池をぐるりと回り岩屋道を辿り、岩屋橋の石仏に案内してもらった。
 昭和4年に京阪電車・交野線が開通するに当たり、私市の上ノ山を掘り岩屋橋が架けられた。この頃に岩屋道から石仏が出土して付近にお住まいの野田さんが大切に保存されているものだ。軽自動車がやっと通れるくらいの狭い岩屋橋を渡り、私市の「ばばんじょ」と言われる所を通り、廃蓮華寺の石仏たちにお参りして若宮神社に到着。
郷土史カルタ天田の宮は 田の神まつる
 私市天田の宮は古代の田をまつった神社です。このあたりは土地が広く、水が良く行きわたり、稲作には申し分のない良田でした。こうしたことから古代人がこの田を美田とあがめてあま田の名ができました。
そして天野川の上流に田の宮を建てて拝んだのがはじまりです。

私市の鎮守の森・天田の宮 桜満開の頃の松宝寺(2004.4)
郷土史カルタ  月秀山 夜半の月
 眺望もひらけ、昔から月見に最適といわれたため、月秀山の号をもつ私市の松宝寺は獅子窟寺にあったといわれる十二院の中の一つだと思われます。
岩屋橋の石仏
岩屋道から出土して付近にお住まいの
野田さんが大切に保存されている
廃蓮華寺の石仏
歯痛地蔵の話で左頬をさする平田さん

郷土史カルタ   若宮神社は住吉信仰

 若宮神社
は私市の氏神
です。私市には天田の宮があるのに更に若宮神社があり、昔から一村二社となっています。もともと饒速日命(にぎはやひのみこと)をまつていましたが、中世になり、住吉信仰が流行し、饒速日命が船に乗ってきたことから海神である住吉神も変わりがないとして、住吉神を祭神といたしました。

  若宮神社から西へ狭い路地を通り、旧磐船街道を横切り更に西へと上がるとそこは、「だいっさん(大師さん」と呼ばれる地名に出た。磐船街道の傍には「お大師さんが祀られ、左側の低地には昔、水車が廻っていたそうだ。上記の写真の右が磐船街道で田圃の向こうにお大師さんが祀られている。

 磐船街道を西へと渡ると、天野川と街道に挟まれた広い土地が開(ひらき)といわれる地名の田圃に出る。天野川の堤防の下には、私市の素晴らしい歴史を語る加賀田用水と言われる、人工の用水路が流れている。
 
加賀田用水の歴史と現在の堰と水路の状況
 加賀田用水 : 江戸時代中頃(1700年代)、私市の池堂から森の加賀田に用水を引き、草川を通して私部の官田まで水を流したのが始まりで、明治16年頃、天野川の井堰が完成。
 その後、大正12年10月の大雨で諸川が氾濫し加賀田用水堰が崩壊したため、美田50町あまりが荒野になり村民は悲嘆に暮れた。私市の田圃の持ち主であった西村忠逸氏(1872〜1941)が深くこのことを悲しみ、同志たちと水利組合を組織して復興にあたることにした。同年12月に起工し、昭和10年5月に完成した。上流の堰を復旧しただけでなく、下流に一つ堰を設けて、新たな水路をつくった。かが田の「かが」は利益・利得の意味で、収穫の多い田と言う意味であろう。

 加賀田用水路への取り口は、市大植物園に渡る日の出橋の上流300mの場所にあり、落差10mはあろうか、天の川を石組みで堰き止め左手に造られている。加賀田用水は、私市から森、私部へと広く田圃の灌漑用水として今も利用され続けている。天の川の水を上手く取入た先人たちの汗の結晶である。
 ※ 私市の水利組合としては次の5つの組合がある。
      1.加賀田水利組合 2.上代水利組合 3.開水利組合 
      4.潰れ池水利組合 5.持久水利組合
 
 加賀田用水を辿り、私市橋の東の道路を四辻(旧岩船街道)に向かって歩くと右手に私市仁左衛門の旧宅跡があり、今は駐車場となっている。元禄2年(1689)2月に当地方を訪れた当時六十才の貝原益軒が仁左衛門宅に一夜を借りた(上記左の写真)。右の写真は、加賀田用水を右手に、西川原付近を北へ歩く。
 貝原益軒は紀行文「南遊紀行」に当時の天野川の情景を次のように記している。
 「獅子窟山より天野川を見下ろせばその川、東西に直に流れ、砂川に水少なく、その川原白く、ひろく、長くして、恰も(あたかも)天上の川の形の如しさてこそ、この川を天野川とは、只天野川の流れの末ばかりを渡りて、古人の天野川と名付けし意を知らず。おおよそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天野川と名付けしこと、むべなり。
      私市3丁目(どぼ池付近より)西念寺、雲林寺、松宝寺方面を望む

         ♪さいたか さいたか 西念寺、  ういたか ういたか 雲林寺、
                   まつのたからの 松宝寺(まりつきの唄)


 大正の初めごろ当時の男の子も女の子も夏の遊びは天野川の水遊びと決まっていた。
たれがさそうとはなく、女の児が美しい河原に集まった。白いおこしの子供たちが川に入る前に合掌した。「さいたか さいたか」で始めた唄につれて深みにはいりもって輪をつくった。最後の「「松の宝は松宝寺」と唄い終わった時、皆がいっしょに頭の上で手をひろげた。(ふるさと交野を歩く ひろい話より)
郷土史カルタ 千手寺は亀山上皇 安在所
 千手寺(せんじゅじ)は今は一小庵ですが、亀山上皇が病気の時、獅子窟寺の薬師仏に祈願され、ここを安在所(あんざいしょ)として千手観音をまつってとされました。
左の写真は千手寺、直ぐ北へと続く付近の露地を通って京阪電車・河内森駅へと出る。
本日のウォークも時間が11時半を過ぎ氷雨がぱらつき出し、京阪・河内森、JR河内磐船で自由解散となり、12時丁度交野ドームに到着。皆さん、お疲れ様でした。
 また、次回の歴史ウォークが楽しみである。 最後までご覧頂き有難う御座いました。

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