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交野歴史健康ウォーク 
2012.11.10 第125回

交野古文化同好会40周年記念行事

郡津の東高野街道を歩く」 パート Y
  行程; 郡津駅前(10:00)→松塚→極楽寺→丸山古墳→藪の下農地→東高野街道→
ものきき→茶屋の清水→中小路集落→明遍寺(12:00頃 解散) 徒歩約3.5km
 2012.11.10(土)午前10時、京阪電車郡津駅前の松塚公園に集合。
定刻前から「広報かたの」で見たのですが一緒に歩けますか?集まるのはここですか?と言いながら新しい顔ぶれの方を含めて沢山の方々に参加いただきました。

 村田広報部長の挨拶の後、古文化同好会40周年記念・ふるさと交野を歩くの第6弾「郡津の東高野街道を歩く」をテーマに、松塚の駅前から郡津の町中を歩き明遍寺まで、案内役:黒田幸男企画部長より「郡津の史跡と伝説・寺院めぐり」の解説を聞きながらゆっくりと歩いてきました。本日の元気な参加者は総勢36名(内会員26名)の皆さんでした。

 先ず最初に、黒田さんより郡津の歴史と地形などについて、本日の散策行程図と郡津の地名地図などを基に詳しくお話を伺うことが出来ました。郡津駅前付近は、昭和42年ごろ、松塚団地が出来てすっかり様相が変わっているが、北川が天野川に流れ込む手前、山崎の西方は、低湿地帯で長淵(ながぶち)と言われていて、ちょっとした大雨が降ると一面湖水に変わり、京阪電車の線路だけが水面に顔を出している光景がよく見られたそうである。長渕、申田(さるだ)の地名があった。

 郡津駅前から歩き、松塚のふれあい館前で「交野の少将」の話を聞き、極楽寺、丸山古墳などを見学。古文化同好会の歴史ウォークでも今まで歩いたことのない、藪の下の農道から丸山古墳を一望、遠くの山並み・交野山など交野の長閑な風景を楽しんだ後、東に出て東高野街道に入る、交野女子学院の裏手付近には、「ものきき」「藪の下」などの地名が残っている。 
 
 茶屋の清水の伝説が残る、中伝次郎様宅の「弘法の井戸」を見学、その後中小路集落のT字路、遠見遮断の道路、カギ型道路など集落内をくねくね歩いて、明遍寺。境内には僧明遍の数珠掛松や腰掛石があり、古式豊かな鎌倉地蔵や層塔の四方仏、板碑や唐臼地蔵、双体仏、一石五輪など沢山の石仏がある。

 郡津駅から東高野街道を通り明遍寺へと歩き、今回もまた新しい歴史に出会うことが出来ました。
案内役の黒田部長、有難う御座いました。

郡津とは・・・・郡津と書いて「こうづ」と読む。おこりは郡衙(ぐんが・役所)の門の前からおこったので郡門村。最初は「こうど村」といった。いつのまにか「づ」と呼ばれ、大坂奉行所の命により「郡津」と改めた。(1804年)

交野郡(ぐん)衙(が)とは・・・・
古代律令社会で地方の民を統卒するのが郡司、年貢米を徴収する中心地が「郡衙」役所であって米倉が林立していた。
※高槻の「郡家」・茨木市の「郡山」、「郡家}・寝屋川の「茨田郡家」など同例

長渕とは・・・・京阪電車郡津駅から村野駅の線路両側に広がる土地は天野川の川床と同じ高さで低い土地である。一雨降ると線路や畑は水浸し、いつまでも水がひかなかった。山崎橋手前の村の住宅の所に「長渕池」が有った。線路脇の用水路は水はけ用として人工で掘られ北川から天の川に注ぐ。

※当日頂いたレジメは、史跡・伝説の解説編と資料編の2編に亘り、詳細に纏められた素晴らしい内容で、黒田さんより快く提供を受けましたこと、誠に有難うございました。
 記して謝意を申しあげます。  


黒田幸男企画部長より、郡津の歴史と地形などについて、
本日の散策行程図と郡津の地名地図などを基に詳しくお話を伺った。
郡   津 (こうづ)
郡津駅(昭和40年ごろ)
交野市内で一番変わったのは、郡津駅付近である。昔、大雨が降ると郡津駅の北側は、水があふれて京阪電車がとまることがあった。
 駅のまわりには、何もなかった。松塚に大きな町ができ、梅が枝の町がその南にできた。
(昭和41年ごろから開発された)
 現在の郡津駅は、昭和47年に建設された



当日の散策MAP 黒田さん作成




黒田さん作成のレジメ集
→ 郡津の東高野街道を歩くレジメ集 (PDF)

レジメ 資料編
交野は海だった!

駅前の松塚ユニライフマンションが建設中、地下33メートルの泥土から海の貝の化石が発見され、郡津のこの付近は、今から5万年から7万年前、海であったことがわかった。 

交野は海だった!
奥に見えるのが、ユニライフ
建設中、貝が出てきた!
今から5万年から7万年前、
海であったことがわかった!

松塚ユニライフマンション前で説明される黒田さん
交野少将のお話
郡津にあったと思われる交野郡衙に交野郡の郡司で宮道弥益(みやじびえき)という豪族の娘が交野少将?に失恋して長渕に飛び込んでしまったという言い伝えがあります。
交野少将の話 (郡津)

都が平城京から長岡京・平安京に移った頃、(かん)()天皇(てんのう)頻繁(ひんぱん)に交野へ行幸(ぎょうこう)され鷹を放って遊猟(ゆうりょう)されている。その後も、嵯峨天皇も遊猟された記録が10回も記録されている。天皇の遊猟に伴って、皇族や宮廷人たちも続々と交野ヶ原へ来るようになった。その中でも、文徳天皇の皇子(これ)(たか)親王(しんのう)在原業平(ありはらのなりひら)などにまつわる伝説が有名である。

郡津にあったと思われる交野郡衙(かたのぐんが)(=役所)に交野郡の郡司(ぐんじ)(現在の交野市長のような人)で(みや)()弥益(びえき)という豪族(ごうぞく)がいました。郡津には、この郡司の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕(ながぶち)」に飛び込んでしまったと言うお話があります。

昔、交野少将(京都の貴族、姿は美しく文章も上手く好い男)が交野に鷹狩(たかがり)に来た時、交野郡司の家に泊まり、その娘と一夜を契ったことがある。その後、待てども少将はあらわれず、娘はいつまでも少将のことが忘れられない。こんなに待っても来てくれないのは、私を見捨てたからだろうと、大変絶望し、近くの水辺に出て身を投げようとしていた。そこに鵜飼(うかい)をする男がいた。娘は袴の腰を引き裂き、鵜飼のかがり火の松の炭で、その布に歌を書いて「これを少将様に」とその男に渡し、身を投げたと言う。

「 かつきゆる うき身の(あわ)と成りぬとも 誰かはとはん(あと)の白浪」
           「風葉和歌集」 巻一四・恋四

 長渕(ながぶち)は、申田川より東で山崎までの郡津では一番低い土地である。現在は京阪電車から東だけ残っている。一番低かった京阪より西が埋め立てられたため、昔の葦(あし・よし)の茂った湿田、酒沢池の景観は消滅してしまった。
 免除川、村野との境界を流れる北川とが合流する手前であるのと、天野川の水を最後にため込むのでいつまでも水が引かない。そのようなことから遊水池の役目をなしていた。埋め立てられる前は電車沿いに長渕の地名どおりの長い池があった。そこから今も電車沿いに川があるが、これが当時の排水路であった。
 大雨が降れば線路だけかろうじて見えるが、架線を支える電柱だけが見えているといった―面湖と化してしまう場所であった。


      

  駅の北側の踏切を東へ越えて小川を渡り、少し行ったT字路を左折し北進すると、弘法大師の常夜灯(大峰山講、文政10年、1827年の銘がある)に出会います。今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて大切に守られている。郡津の在所、閑静な町並みを歩き極楽寺へ。
弘法大師の常夜灯
(大峰山講、文政10年、1827年の銘がある)
西方山 極楽寺
極楽寺(融通念仏宗、平野大念仏寺の末寺)

1345年(貞和元年)頃に創建され、大阪冬の陣(1614)で全焼、1688(元禄元)年に
仮本堂が出来、1700年代は隆盛したが、その後老朽化が進み、明治35年に再建された。
融通念仏宗
 融通念仏宗の開祖、良忍上人(聖応大師)は平安時代後期の人で、比叡山に入つて修行し、円仁(慈覚大師)がもたらした修行の一環に念仏を取り入れる浄土思想に領注し、自己の唱える念仏の功徳が自他ともに融合し、一人の念仏往生が衆人の念仏往生を約束するという教えで、

   一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切―行

 良忍は摂津平野の大念仏寺で法を説き、元享年間(1321〜 23)には良尊(法名上人:上の山の本尊掛け松)が全国へ融通念仏を勧め、その後門弟たちは京都嵯峨野の清涼寺を中心に活躍。戦国時代以降集団として固定化し、元禄年間(1688〜 1703)に大通融観が大念仏寺の第46世となり、一宗の規定を定め学寮を設けて宗学の研究、学僧の養成を計つた。

郡津丸山古墳
 
 郡津山崎の地に築かれ、現在では円墳のような形から丸山古墳と呼ばれている。が、実際は南北方向の前方後円墳ではなかつたかと推測されている。
 墳丘の最頂部は31.3m、周囲より8mほど高い。仮に前方後円墳とすると、100mにも及ぶ規模になる。古墳の前方部と思われる部分と丸山との接合部分に道路がつけられた際、その断面より土師器片が出土したと伝えている。
 丸山古墳の東と南に小さな池がかつてあった。これが古墳の周濠であつたと推定されている。築造年代・墳形・埋葬施設などは不明である。

古墳の頂に祀られている、「椿さま」(巳さん)

丸山古墳の全景(南から撮影)
藪の下農道を歩く
 古文化同好会の歴史ウォークでも今まで歩いたことのない、藪の下の農道から丸山古墳を一望、遠くの山並み・交野山など交野の長閑な風景を楽しんだ後、東に出て東高野街道に入る。

農道から一望される、丸山古墳
東高野街道を歩く
  郡津駅前から、極楽寺、丸山古墳などを見学後、東に出て、東高野街道に入る、交野女子学園の裏手付近には、「ものきき」「藪の下」などの地名が残っている。 
出鼻橋へと続く東高野街道の交野女子学院の裏口付近で記念撮影
藪の下・ものきき

 =伝説:郡津=

ものきき
 
北川の出鼻橋から南に高野道を進むと左に「しぶり山」(交野女子学院)があり、しばらく行くと右に「ささの山」左前に北尾の集落の建つ梅塚の台地に達する。

この梅塚の台地に上がるために道は切り通し状になっていて、道の両側が崖になっている。
昔はこの崖や崖上に大きな松が茂っていて薄暗くなっていた。

郡津の人々が何か心配ごとや悩みごとが起こったら、朝早くこの松の木に潜み高野街道を、朝一番に通る旅人の会話の中から解決する言葉を聞き取ったという。そのようなことから、このがけ道を「ものきき」と呼んでいる。




茶屋の清水

 
昔、ある日のこと、茶屋に見すぼらしい旅の僧が来て水を一杯ほしいと所望したが、誰も水をすすめる者がなかった。ところが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。
その僧は弘法大師で、そのお礼に清水の湧き出る場所を教えたという。

                            
蚊封じの池

 上茶屋から南に下ると、明遍寺の北から郡津駅に通じる道と交差する。
この交差点を北から南に越した東側が「蚊封じの池」だという。
昔、弘法大師がここでお休みなった時「蚊が地面から三尺のところまで来るな」とお祈りをされた。以来ここには蚊が来なくなったという。

丸山古墳

 平尾兵吾著「北河内史蹟史話」に、「大字郡津字福田に梅塚、本塚二つの塚がある、(中略)又字大塚にも同名の古墳が廣さ三十坪ばかりある、里人、弘文天皇の御陵などとして今は極楽寺の所有に属している」とある。
東村野から西方を見ると、北川の南の藪の下の水田、さらに南に藪をひかえて郡津の台地がある。西の山崎、その東に大塚、高野道を越して梅塚があったというが、墳丘が健康であったころの眺めは雄大であったであろう。
                            交野市史「民俗編」より

茶屋の清水
昔、ある日のこと、茶屋に見すぼらしい旅の僧が来て水を一杯ほしいと所望したが、誰も水をすすめる者がなかった。ところが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。
その僧は弘法大師で、そのお礼に清水の湧き出る場所を教えたという。

茶屋町の瑞塔寺跡とされている場所

中伝次郎宅の「弘法の井戸」
 その後中小路集落のT字路、遠見遮断の道路、カギ型道路など集落内をくねくね歩いて、明遍寺。境内には僧明遍の数珠掛松や腰掛石がある。古式豊かな鎌倉地蔵や層塔の四方仏、板碑や唐臼地蔵、双体仏、一石五輪など沢山の石仏がある。

明遍寺
浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた

明遍寺(摂取山蓮華三昧院)
 交野郷土史かるたには次のように記されている。
      「ね」念仏を 教え伝えて 明遍寺

 明遍寺は摂取山と号し、源平時代、白河上皇の側近で、学者であった藤原信西が平治の乱(1159年)で源義朝に殺されたが、このとき信西には26人の子があったが、内男子13人は出家して僧になったという。
 明遍はそのうちの1人で兄弟の中でも最も優れていたとのことで、治承年間(1177〜81年)高野山蓮華三昧院で修行したが、浄土宗の開祖法然に帰依し、京都と高野山を度々往復するうち当地(交野郡郡門村)に休息のため庵を作り、近在の百姓に念仏信仰を解いたのに始まるという。
 寺号はこの明遍より起こるが、その年代は明らかでなく、当初は阿弥陀寺と号したとも伝わる。


明遍の数珠掛け松


明遍の腰掛石
本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。
  脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。

明遍寺の本堂


現存する観音堂にも『河内西国三十三観音第八番納経札所」
書かれた看板が掲げられている。
・浪華大福寺了吟輯「新撲往生伝」巻五の中に「明遍僧都従高野山出京之時憩息此所、後為一寺」とある。しかし、現在では明遍が法然に帰依して専修念仏に入つたということは史実性に乏しいとされている。

現在境内には本堂・庫裏・門・鐘楼・地蔵堂・観音堂・庭前に九重石層塔が立つ。

・観音堂、九重石層塔は明治初年に廃寺となつた長宝寺から移されたものである。
・本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。
  脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。
・観音堂・本尊:十一面観音坐像、塑像、75.0cm。江戸時代。
・西国三十三所観音像:33体、木造、漆箔。像高は立像で24.8cm。観音堂安置
  この三十三体の観音像は村人が寄進したものである。明遍寺のみならず、他の北河内の寺院でもお祭りする所があり、そうした寺院が巡礼の組合をつくつていた。明治初年頃に須弥寺の第26世住職豊原大賢が発起人となり「河州交野茨田讃良三郡之霊場須礼道中案内表」という北河内の寺院と宿泊を記した木版の絵図を発刊した。この中に、第八番札所として、明遍寺も記されている。現存する観音堂にも『河内西国三十三観音第八番納経札所」と書かれた看板が掲げられている。
・観音堂・本尊:十一面観音坐像、塑像、75.0cm。江戸時代。
・西国三十三所観音像:33体、木造、漆箔。像高は立像で24.8cm。観音堂安置


古式豊かな鎌倉地蔵
花崗岩の自然石に船形状に彫りくぼめをし
その中に、肉彫りで阿弥陀如来坐像が彫られている
九重の層塔(四方仏)  元は長宝寺にあったもの
南北朝時代から室町時代前期ころのもの
石仏群 板碑や唐臼地蔵、双体仏、一石五輪など、
石仏群



明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。

郡津のミニガイド

こうづ文化ゾーン案内看板

こうづ文化ゾーンご案内看板
京阪電車郡津駅より南300m 府道交野寝屋川線下付近に建てられている

《ミニガイド》

郡津の名のおこり
 古代、律令(りつりょう)体制(たいせい)時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(七世紀後半、約1300年前)郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。
 郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵から財産や身を守る村】、と言われている。村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策(ぼうぎょさく)として溜池(ためいけ)、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。 長宝寺小学校の北側は、春日宮(かすがのみや)お出(おで)待ち(まち)大門(だいもん)、やぐら池、(とり)待ち田(まちだ)など、楽しい歴史的地名が残った土地である。

郡津の「くらやま」は、
明遍時から郡津神社にかけて一段高くなった台地を形成しており、この台地に郡司(ぐんじ)が住み、蔵が建ち、郡司の一族の力で郡衙(ぐんが)の東隣の今の郡津神社の場所に
長宝寺が建てられていたことが確認されている。 長宝(ちょうほう)寺址(じあと)遺跡(いせき)の中央には郡津神社の社殿が建てられているが、その周辺から、多くの白鳳(はくほう)時代(じだい)の瓦片が出土している。

忍冬唐草文(にんどうからくさもん) 外側にある鋸歯文(きょしもん)(のこぎりの歯状の文)白鳳(はくほう)時代(じだい)(645710)の特色、昭和51年、郡津神社の発掘で神殿の東から出土した軒丸瓦(のきまるがわら)


単弁八葉蓮華文(たんべんはちようれんげもん)明遍寺の南へ二本目の道から西で見つかった
免除川
免除川 郡津4丁目付近
交野連山が見渡せる
こうづ文化ゾーン案内板
免除川の由来が紹介されている
免除川の源は、白旗池→源氏滝→源氏池の南を西流→私部領→郡津の南を流れ→京阪交野線をくぐる→私部の山下川・にしゃベ川を合流した後、申田川と名を変え→枚方市浜橋付近で「北川」に合流→天野川に注ぐ。
 
 かつては源氏の滝から機物神社・倉治へ流れていた。倉治村へ流れないように川筋を変えた。変えられる倉治・私部・郡津の田は他の犠牲は免れない。そこでその川筋の土地については当時の年貢が免除されたという。その後も洪水を繰り返し、江戸時代には堤の形や川筋が出来たようである。

・交野線より西側:小字「河原」・・・低湿地地帯で氾濫が数多くあった。中でも明治元年(1868)の天野川の氾濫は被害甚大であった。「わんど」と称する西に迂回した部分に山下・にしゃべ川が合流する。この部分、東側の堤防が西側より高くなっており、川より東側が被害が少なくなるように工夫されていたようである。

・昭和40年下流申田川を中心に大阪府住宅供給公社が宅地造成を計画。
・昭和44年度に23000uに及ぶ大団地(松塚団地)が完成した。
・申田川は改修されて「わんど」付近より天野川に合流するようになった。

今回は、郡津駅から東高野街道を通り明遍寺を歩いた。今回も新しい歴史に出会うことが出来ました。講師の黒田部長、有難う御座いました。

 次回の歴史ウォークは、12月8日(土)のバスツアー「肩野物部氏の足跡を訪ねて」岡山県津山方面へ出かけます。既に定員に達しておりますので申し込みを受け付けておりません。

最後までご覧いただき有難うございました!

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