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交野歴史健康ウォーク 164回

古文化同好会バスツアー

古代の都・飛鳥散策

2017.5.11(木)  47名参加

行   程 :交野9時出発=第二京阪国道=近畿・阪和道=美原北IC=
柿の葉寿司橋本―高野山・中の橋駐車場ー奥の院ー金剛峯寺ー
壇上伽藍ー根本大塔―金堂―三鈷の松―御影堂=かつらぎドライブイン
=岸和田和泉IC=阪和道=第二京阪道路=交野着(5時45分)解散 

 交野古文化同好会の「世界遺産 高野山バスツアー」、役員の皆様、ご参加いただいた会員の皆様のご支援・ご協力のお陰で無事、事故もなく開催出来ましたことを心より感謝申し上げます。

 今回のバス旅行は、天候と高野山公認ガイドさんに恵まれまして、大変すばらしい旅行となり、主催者側としましてホッと胸をなでおろしている所です。

 交野を定刻9時に出発。車内では、高尾さんより、「弘法大師と交野の関わり」のお話をして頂き、その後「歴史ヒストリヤ高野山物語」などのDVDを観賞。高野山へ登るまでに昼食を車内で済ませて、中の橋駐車場で高野山公認ガイドの林さんと落合、早速、奥の院へと案内していただきました。

 ガイドの林さんには大きな声で大変詳しく説明いただき、テキパキと案内していただいたお陰で、予定通り、奥の院→金剛峯寺→根本大塔→金堂→三鈷の松→御影堂などを廻り、午後5時45分頃交野へ帰着いたしました。

 参加された方々から、「何度も高野山へ来ているが、こんなに丁寧なガイドは初めてです。詳しくガイドいただき大変良かったです。」「ガイドさんの説明が良く、なるほどということばかり、大変勉強になりました。」「天候も良く気持ちよく参加でき、最高のバスツアーでした。お世話くださり有難うございました。」など大好評でした。

 今後の課題としては、行程は出来る限り余裕を持てるように、平日で行き先によっては出発時間を30分くらい早める必要があるようです。

 写真の撮影、高尾さんに御協力を頂き誠に有難うございました。
 

 ※本ホームページを記載するにあたり、
 紀伊山地の霊場と参詣道・高野山のパンフレット・チラシ、及び下記のHP、WEB記事など参考に作成させていただきました。記して感謝申し上げます。

  高野山の魅力ホームページ、奥の院をかなり完全ガイド、金剛峯寺公式HP、高野山町HP、和歌山県庁HPなど
切り紙のはなし (高野町HPを参照)

 高野山の寺院や商店、一般家庭まで、建物の中のあちこちに切り絵の奉書がかけてあり、不思議に思う人も多いようです。これは「宝来」と言って、しめ縄の代わりに掛ける縁起物です。
宝来は、弘法大師・空海が中国からもたらしたもので、高野山には農地がなく、しめ縄を作る稲わらを入手するのが難しいことから、この宝来を神棚や床の間、玄関などに掛けます。
基本的には正月に掛け替え、一年中掛けておくところがほとんどです。
 宝来は、様々な縁起物がかたどられていますが、最もよく見かけるのは「たま」と呼ばれる宝珠で、仏様が手に持っている「願いをかなえる宝の珠」のことです。
 また、地元の人が毎年買い求めるのは翌年の干支の宝来で、これを正月に掛け替えます。

 宝来は、表具屋や印刷屋など、昔から紙を扱う職人が作っています。干支は毎年一から型紙を起こして作ります。基本的には周りを雲の形にして、あまり複雑な形は彫るのが大変なので、シンプルに、洗練した形を職人が作ります。高野山を歩きながら、色々な形の宝来を見つけてみてください。

吉祥宝来(きっしょうほうらい)
 宝来とは1200年余前に空海が唐で習得し、弟子たちに手法を伝授した縁起物(吉祥)の“切り絵”。藁のない高野山でしめ縄の代わりに飾るようになったと言われている。宝船や干支など数種類の図柄があり、表紙の“如意宝珠”は仏教において様々な霊験を表す宝の珠。


  交野古文化同好会 特別企画 「古代の都・飛鳥」バスツアー  レジメ
 高野山は、およそ1200年前に、弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。
 標高およそ900m。山の上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があります。そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、仏像や曼荼羅が参拝者を迎えます。また、うっそうと老杉の茂る奥之院には、二十万基を超えるあらゆる時代の、あらゆる階層の人々のお墓が立ち並んでいます。 

 平安初期の真言密教の開祖空海が京都と高野山に本拠を置いて以来、京都の東寺と高野山を直結する東高野街道は、民間の大師信仰、高野聖の活動と相まって、多くの信仰者の往来で大いに賑わいました。
     ◆日 時   5月11日(木)(雨天決行)  ※弁当持参
    ◆募集人員  50名(定員に達し次第締め切り)
    ◆参加費   会員 4,500円 一般 5,000円(当日徴収します)
    ◆集合・出発場所  午前9時(時間厳守) 焼肉久太郎駐車場
    ◆案内人  高野山観光案内人 奥之院・金剛峯寺・壇上伽藍
高野山観光MAP

                               
 空海は、宝亀5年(774)、讃岐 (現四国)に誕生した。
15歳で伯父阿刀大足(あとうのおおたり)につき勉学し18歳で大学に入る。しかし、立身出世の風潮を嫌い仏門に入ることを決心。

 19歳の時、奈良大安寺の大徳勤操(ごんぞう)により得導(とくどう)、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を授かり大竜ケ嶽や室戸岬で修した。

 延暦23年(804)藤原葛野麿(ふじわらかどのまろ)を代表とする第16次遣唐使に随行。途中遣唐船が難破して福州赤岸鎮(せきがんちん)に漂着したが同年12月目的地である唐の首都長安に到着。

 翌年夏、長安青竜寺の恵果(けいか)和尚とめぐりあい千人を超える弟子の中から空海ただ一人に密教が伝授された。その結果、空海は密教第8番目の祖師となった。空海31歳であった。その時与えられた名前が遍照金剛(へんじょうこんごう)である。
 また当時世界の中心都市である長安で工学、医学、文学、占星術、文化芸術、サンスクリットの他にキリスト教などの異宗教も学び日本に持ち帰っている。
 このことは今日の日本文化の基礎を築いたばかりでなく、イロハ歌を通じて47かな文字作りに影響するなど日本教育の基礎を作った。

 唐に渡って2年後空海は、大同元年最終の遣唐船により日本に帰国。帰国後平城天皇から真言宗の立宗が認められ真言宗が始まった。

 弘仁7年(816)嵯峨天皇から高野山を修行の山として、また苦悩する人々を救済する為、勉学の為の寺として東寺が与えられた。

 弘仁12年(821)讃岐地方の農地潅漑の為に満濃池(まんのういけ)を築き、天長5年(828)京都に日本最初の大学である綜芸種知院(しゅげいしゅちいん)を開いた。

 承和2年(834)3月21日62歳で高野山奥の院に入定(にゅうじょう)された。



 高野山の空気に触れると人は 何かを感じます。 「目に見えない何かに包まれている」 「厳粛な気持ちになる」、「心が洗われる」、「ゆったりとした気分になる」、「何度来ても新しい」
この高野山の魅力とは?




人間の世界ではない空間  高野山は聖地である。
千数百年にわたりそう信じられてきた。
 中でも「一の橋」から「弘法大師の御廟」に向かう参道に沿って、杉の木と無数の石塔が林立する「奥の院」は人間の世界ではないと言われている。
 聖なる地、霊場と呼ばれる高野山のなかでも弘法大師の御廟のある奥の院は特に尊い場所であると昔から信じられてきました。
 奥の院を歩くという行為は単なる観光ではなく、一つの宗教的体験をするのだと思うのです。 奥の院の石碑はよくお墓と呼ばれたりしますが、埋葬するお墓ではなく、 供養塔として建てられています。

奥の院を歩く楽しみの一つには 歴史的人物の慰霊塔を見て歩くことがあります。 


午前9時予定通り、交野を出発、途中、橋本の柿の葉寿司店で休憩。
高野山・中の橋駐車場に11時40頃到着。
先ずは、全員で記念撮影。


こうやくん
中の橋から奥の院へ

奥の院・かなり完璧ガイドを参照ください!
 高野山の空気に触れると人は 何かを感じます。 「目に見えない何かに包まれている」 「厳粛な気持ちになる」、「心が洗われる」、「ゆったりとした気分になる」、「何度来ても新しい」 この高野山の魅力を味わいたくバスツアーに参加した。

 高野山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。
開山以来千年、さまざまな歴史に彩られた、我々に残されたタイムカプセル。そして今もそこには人間の世界ではない空間が確かに存在しているのです。

高野山公認ガイドの林さん
  
大きな声で分かりやすくテキパキと案内していただきました!
先ずは、中の橋駐車場から奥の院・弘法大師御廟まで詳しく案内頂きました。
入ってすぐ左手に手水場、手と口を清めてイザ奥の院へと進みます。


   
ここからは、各企業先の特異な形をした供養塔が立ち並んでいます。

ロケットの新明和工業

シロアリ

福助

日産自動車

親鸞聖人墓参道

親鸞聖人 供養塔

高野山は真言宗ですが、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞のように
他の宗派の人物の墓もあるのが興味深い。

花菱アチャコ句碑・落書塚

一の橋からの合流ルートに入ると杉の大木に目が奪われます。

法然上人 円光大師 供養塔

「結城秀康(家康次男)石廟」 重要文化財
右側が徳川家康の次男 徳川秀康(松平秀康)。左側が母親である、お万の方。

真ん中上の先の尖がった供養塔が信長公

水向け地蔵

明遍上人像  (弘法大師御廟橋手前にあり)

弘法大師御廟橋 
ここからは、脱帽、写真撮影禁止。燈籠堂、地下の法場へと参拝。

この橋を渡ると、俗世界の迷い、すなわち無明と決別し、
大師の懐にやさしく抱き取られ、安らぎの世界に入ると信じられてきた。

この橋は現在鉄筋コンクリート製になっているが、もとは木橋であった。
橋の板は36枚からなり、その裏に金剛界36尊それぞれを象徴する種子、
すなわち1字の真言が書かれていたその伝統は今も継がれている。


玉川に沢山の十字の形をした卒塔婆 
水の事故で亡くなった人やお産で亡くなった人を供養したもの
撮影禁止なので、WEBのイラストで詳しく説明がされており参照させていただきました。
御廟橋から燈籠堂の間にあるのは……
・春日局の供養塔 徳川家光の乳母。非公開。
・歴代天皇陵(後歴代仙陵) 非公開。
・弥勒石(みろくいし) 善人には軽く悪人には重く感じられる石。自由に触れますが、まず持ち上がりません。

燈籠堂(灯篭堂)
石段を登った先にあるのは「燈籠堂」という大きな建物。
空海の甥が建立。その後、藤原道長によって現在の大きさになったとのこと。
現在の建物は1965年(昭和40年)に建造。

燈籠堂には奉納された2万以上の灯篭があります。
お札、お守りなどは、ここで買うことができます。
燈籠堂の地下には、奉納された5万体もの小さな弘法大師像が並んでいます。

御廟(弘法大師御廟)
燈籠堂の裏手に「弘法大師御廟」があります。
御廟の中に入ることはできませんので、その前で多くの人がお祈りをしています。
弘法大師は、御廟の地下で今も瞑想を続けています。
御廟に30センチほどの穴があり、そこから弘法大師が出たり入ったりしているとのこと。
また、燈籠堂の地下に弘法大師が描かれた絵が掲げられていますが、この絵の位置が、弘法大師が瞑想している高さと同じ高さだそうです。
生身供(しょうじんぐ)
   
生身供(しょうじんぐ)

今も瞑想を続ける空海のために、1200年ものあいだ毎日、食事が作られています。
食事が運ばれるのは、午前6時と午前10時半の1日2回。
午後に食事がないのは瞑想に集中するためだそうです。

生身供(しょうじんぐ)と呼ばれるこの儀式は、嘗試地蔵(あじみじぞう)からはじまります。
毒味がおわったあと、食事の入った木箱は燈籠堂へと運ばれ、肖像画が飾られている前に置かれます。
そして、長い読経が始まります。

食事を運ぶ2人の僧の前にいるのが維那(いな)と呼ばれる僧。 年に1度の弘法大師の衣替えも担当しているそうです。

NHK BS「新日本風土記」で献立の一部が紹介されました。
精進料理ではあるものの、チンジャオロース、きのこのポン酢和え、きゅうりの酢物、クリームスパ、コロッケ、ゆで茄子梅肉和え、きのこ炒め、コロッケ、精進カツ、オレンジ、ドラゴンフルーツなど、和食以外の料理も作られているそうです。

嘗試地蔵(あじみじぞう) 御供所のすぐ隣にあります。
生身供で弘法大師に届ける食事を毒味する儀式が行われる場所です。

石仏供養塔
大師の御廟の前に、古くから貴族のみならず名もなき庶民がひそかに土中に納骨したもの
石仏と石碑を集めて、ピラミッド状に供養塔が建てられた。

豊臣家供養塔
秀吉の墓は中央の大きいもので、1940年(昭和15年)に
奉公会という秀吉を信奉する人々が建てた新しいもの。
墓の中には、秀吉の衣冠束帯(正装した姿)の木造がおさめられているという言い伝えがあります。

卒塔婆

英霊殿
第2次世界大戦の供養のため1952年(昭和27年)に建立。

中の橋駐車場へと帰り、ここから金剛峯寺まで乗車する

バスに乗車、金剛峯寺までの町内の案内もお願いする

金剛峯寺に隣接している六時の鐘
午前6時から午後10時まで、偶数時に打たれ、一日に9度荘厳な響きを全山に伝えている。
元和4年(1618)福島正則が亡母の追善に建立、その後焼失したが、
現在の鐘楼は天保6年(1835)に再建されたもの。
 
 この名称は 元は弘法大師により名付けられた 高野山ー山を表す総称であった。
現在は高野山真言宗の総本山の名称となっている。
高野山のすべての土地は金剛峯寺の所有。

 また高野山真言宗の一切の宗務を司る宗務所がおかれている。
建物は文禄2年(1592年)豊臣秀吉が母親の菩提のため応其上人に命じて建立した寺で明治2年までは青巖寺と呼ばれていた。 落雷により2度焼失、現在の建物は江戸末期の文久3年(1863)再建。

         

             
 もともと高野山は開創以来、全山が金剛峯寺と呼ばれていた。それは、「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」、すなわち「堅固な悟りの頂点に建てられた楼閣内で行う瞑想・瑜伽に関する経典」の名に由来する。
 案内人の橋本さんの話では、一般に金剛峯寺(こんごうぶじ)と呼んでいるが、「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」に由来することにより、金剛峯寺を「こんごうぶー」と呼ぶのが正式名称だということでした。

門前のシャクナゲが満開!


金剛峯寺の主殿は旧青巖寺の建物である。豊臣秀吉が母君の菩提の為に
文禄2年(1593)に建立。その後、三度の火災による焼失を経て、
現在の建物は本来の形を残して文久三年(1863)に建立。
現在、和歌山県の文化財に指定されている。

また、大屋根の上に載っている二つの天水桶は珍しい。非常時に備えた貯水設備である。

蟠龍庭(ばんりゅうてい)

シャクナゲが満開!
壇上伽藍
     

 伽藍とは本来僧侶が集まり修行する閑静清浄な場所という意味。後になって寺院の主要建物群を意味するようになった。
高野山の伽藍は真言宗総本山金剛峯寺の根本道場。高野山開山の時最初に建物が建造された土地である。
  816年天皇より高野山の土地を賜った弘法大師は819年より、この伽藍地域に寺院の建設を始めたが人里はなれた場所での建設は難航し、835年の大師入定のころにも、まだほとんど進んでいなかった。その後、真然大徳(大師の甥)らにより、大師の構想に従って建設は続けられた。 根本大塔は 887年になって完成した(52年後)。
奥の院が金剛界の浄土と考えられているのに対し、伽藍は胎蔵界の浄土とされる。
     

  

 真言宗の根本的教義である大日如来の象徴。
弘法大師の指導により建設が開始され、大師の死後 887年完成。5度焼失、 現在の建物は 1937年再建。
  高さ 約50m 四方約 30m

本尊の大日如来は江戸時代のもの、それを囲む4如来と16本の柱に描かれた 菩薩たちは曼荼羅を立体的に表す。


                 

鐘楼 高野四郎の鐘
日本で4番目の大きさを意味する高野四郎の通称で知られる鐘
 
高野開山の最も早い時期に建立された(9世紀)、落雷などで6度焼失。 現在の建物は7度目として1934年に再建された。
はじめは講堂と呼ばれていたが、現在は金堂と呼ばれる。
本尊は高村光雲作の薬師如来でかなり大きいものらしいが秘仏であるので 公開されたことが無い。
内部の壁画は木村武山(ぶざん)作、 祭壇裏側の菩薩の絵は移動しても 視線が追ってくるように見える。
本尊の東西の曼荼羅は平清盛が自分の頭の血を採って中尊を描いた「血曼荼羅」の模写(本物は霊宝館)

  
     
 
延暦二十三年五月に入唐した弘法大師が、その二年後、帰朝する際、明州の浜で、「私の学んだ密教を教え広める根本道場として、伽藍を建立しようと思う。

 願わくば伽藍建立に適した地を示したまえ」という誓願を立てて、空に向けて密教法具の三鈷杵を投げられますと、それは東の空へ飛び去りました。

 弘法大師が帰朝の後、伽藍建立の地を探し紀伊の国の高野の山で松の枝に、明州の浜から投げられた三鈷杵が、光を放ちながら掛かっているのを見つけ、この地に伽藍を建立する事となりました。


 伽藍の境内、御影堂の前には今も三鈷の松が立っていますが、その松葉は不思議なことに3本の針を持っています。
この松葉を拾っては持ち帰り、お守りとする方々が絶えません。
幾度もの火災に焼かれ、今ある松は六代目(7代目という説も)の実生(みしょう;種から生えたもの)です。

         

  
弘法大師がお住まいになっていたといわれるお堂。  

 屋根の優美な曲線が実に美しく好きなお堂の一つです。 真如親王によって描かれた大師の肖像が収められている。(非公開)
1847年再建 。

                       

最後までご覧いただき有難うございます。

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