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交野歴史健康ウォーク
2003.2.22  第44回

がらと川の源流を尋ねて(シリーズ第2回目)
   交野ドーム→長福寺→交野文化会館→春日→倉治橋・出鼻橋→山崎橋→
長淵→郡津・極楽寺→東高野街道→免除川→私部住吉神社→交野ドーム  


 2003.2.22(土)、参加者は10名。 いつものメンバーに松塚、郡津からも新しく参加された。本日の案内は平田さんと中角さん。、前回の2/8は、枚方市津田地区の「がらと川の上流」を歩いた。今回の歴史ウォークは倉治地区から「がらと川の下流」に向かって歩く行程である。
 天気予報では午後から雨のようで、何とか午前中天候が持ってくれる事を祈りながら、午前10時過ぎがらと川下流を目指して、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタートしました。
長福寺の地蔵さん
 いつものように府道久御山線を北上、大阪ガスの時計塔の手前で左折、免除川の堤防沿いの道路を西に行くと、左手に薄汚れた免除池が・・・。池にゴミを捨てる無法者がいるのは残念だ。あちこちの道路沿いの池や川に、或いは空き地にゴミが捨てられそのままに放置されている。交野の里が泣いている。住みやすく気持ちの良い綺麗な交野にするためには、住民一人一人の気持ちが大事だと思う。

 免除川を渡り、私部から倉治の住宅街へと抜ける古い道路を上ると、南町に長福寺がある。簡素な鉄の扉を開け、こじんまりとした境内に入ると、右手に沢山の地蔵さんが整然と並んでおられる。廃仏毀釈の荒波に遭われたか、唐うす地蔵上部が欠けた地蔵さんが静かに座っておられる。ここの境内は、良寛さんが子供たちと楽しく遊んでいる光景を思い浮かべる所だと、いつか平田さんは言われたが、今日の地蔵さんはどこか寂しそうに見えた。

 だらだらとした大仏坂をゆっくりとあがり、堂前に出ると右手に「久池」があり、左手に茶色のレンガ張りの交野市教育文化会館がある。古風な中にも近代的な雰囲気を漂わせた昭和初期の建物だ。30数年前まで交野市の庁舎として利用されていた。是非とも、残しておきたい建造物の一つだと思う。敷地内の庭に、灯篭や道標、五輪塔、開元寺の礎石、石樋などが保管されているが、大切にしたいものばかりだ。交野の歴史を静かに語ってくれているようだ。 

交野教育文化会館の庭
敷地内の庭に、灯篭や道標、五輪塔、開元寺の礎石、石樋などが保管されているが、大切にしたいものばかりだ。交野の歴史を静かに語ってくれているようだ。 
落ち着いた風情のある倉治の住宅街
古い道は、T字型
に結ばれていて、遠見遮断(辻から辻が曲がっていて見えない)になっているうえ、くねりが細かい道かと思って飛び込んだら家で閉ざされた袋小路であったりする

交野市立教育文化会館 (交野市文化財事業団の「民具のへや」パンフレットを参照)
 会館は、昭和4年5月に交野無尽金融の新社屋として新築されたもので、建坪282.7u、高さ13.6m、鉄筋コンクリート2階建、外壁にはスクラッチタイルがはめ込まれており、当時としては大変モダンな建物でありました。
 近畿無尽叶V立合併に際し、同社の設立者である金沢泰治氏によって昭和17年11月3日、建物及びその土地全てを発祥の地、交野の地方自治向上のためにと庁舎として交野町に寄贈されたものです。趣のある交野市教育文化会館敷地内に、設立者である金沢泰治氏の銅像が建てられている。
 その後、昭和45年に庁舎が現在の位置に移動したのに伴い、交野市教育文化会館と名を改め、図書室・資料室を中心とした文化的な活動施設として利用されることになりました。
 平成8年4月、同敷地内に倉治図書館が新設されるに伴いようやく同館が「民具のへや」として生まれ変わったものです。

交野無尽金融
 大正3年8月、倉治の金沢泰治氏によって設立された「交野金融合資会社」を前身とする。同12年に資本金20万円で株式会社として発足した同社は、昭和5年には、1585万円と、全国で第5位の規模を誇るに至った。
無尽金融:頼母子講に同じ。組合員が一定の掛け金をなし、一定の期日に抽選又は入札によって所定の金額を順次に組合員に融通する組織。
スクラッチタイル:外装用のタイルの一種。特殊な成型方法により引っかいたような縦縞を造ったもの。同会館は輸入タイルを使用したと思われるが、国内産地には常滑、瀬戸などがある。

がらと川と北川
 倉治の関西電力の枚方変電所と警察学校との間から流れ出した川が倉治の北を流れる。このあたりの川を「がらと川」と呼んでいる。がらと川とは、小石や土の入り混じった砂礫の多い川、また水の少ない、よく干上がる、枯れる状態の多い川という。
 変電所あたりから学研都市線を過ぎ,倉治の北側を流れている状況はまさに天井川である。
一方、倉治の村中を流れ,交野市教育文化会館の南側に出てきて、その後西進して新田橋でがらと川と合流する。この川を倉治中川とよんでおり、この合流点より下流が北川となる。
 郡津の出鼻橋で枚方市津田春日から流れ出た北川、野々田川と合流して一回り大きな川となって村野との境界を流れて天野川に注いでいる。
 昭和40年代、郡津の松塚団地が造成され、免除川、北川ともに天野川への合流部分が付け替えられたことによって、郡津の低地、長淵あたりの洪水常襲地帯は洪水の苦悩から免れることとなった。

 倉治から枚方市春日への古い道を上ると、そこにがらと川は静かに流れていた。今日は、このがらと川を天野川へと下って歩くのだ。山崎橋の北にある妙見の大灯篭
 川から北には、田圃が開け、目の前に楠木の大木が茂って見えるのは春日神社のお社だ。
 この付近を北代(きたんだい)という。がらと川より北で東西に細長く続く台地と田地を指す。東は関西電力枚方変電所から、西は大阪府村野浄水場近くまでの広い範囲で1から7区画まで分けられていた。
 
 交野の北端を走る枚方大和郡山線に出ると、幾野の工場団地があり一段と車の往来が激しくなり、がらと川も工場敷地内に隠れて流れを確認できなくなる。それでも、途切れ途切れに橋を捜して、川の流れを確認した。
 新田橋を過ぎた頃からがらと川の川幅も広がり、段々と河川らしくなって行く。交野女子学院が左手に見える辺りで、小さい橋があり、やっと、車の喧騒から解き放されて、素晴らしく見晴らしのいい堤防道に出ることが出来た。

 がらと川は、倉治橋で枚方市の春日から流れてくる、野々田川、北川と合流して、出鼻橋を越し、一回り大きな北川となって西へと流れ天野川に注いでいる。

 あいにくの天候ではあったが、東には交野山系を望み、南に広々とした田圃が広がり西は京阪電車の向こうに、大きな住宅団地が見え、雄大な眺めに参加者一同感嘆の声を上げた。堤防の道で、土筆は未だかと探したが見当たらなかった。まだ春は遠いらしい。
 村野から郡津への入り口に、小さな山崎橋が架かっている。この山崎の地は、天野川筋にとって非常に重要な場所であった。天野川筋で両方の丘陵・台地が一番狭まった位置にあることから、交通・軍事上重要視されたようである。山崎橋の北側に2.5mを越える妙見さんの大灯篭がある。天野が原からここを通り、東高野街道の茶屋を抜け南へと人々が動いていったことが伺える。
 長渕を通り、きんもくせい保育園を過ぎて郡津の町並みに入り、極楽寺を訪れた。長福寺で出会ったのと同じ、唐うす地蔵が静かに座っておられた。やはり、こちらの地蔵さんも寂しそうであった。
 東高野街道の地蔵の辻でお参りし、12時近くになる頃ぽつぽつと雨が降り出し、免除川沿いを歩き一気に私部の住宅街を通り住吉神社で小休憩したあと、いきいきランドまで帰った。

平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

新田橋付近のがらと川 交野女子学院が見える辺りは
渋りと呼ばれている
東高野街道 野々田川と北川が合流する倉治橋
出鼻橋を越え、北川を西へと歩く 山崎橋付近から交野山を望む

第44回 がらと川の源流を尋ねてシリーズ(2)行程地図

郡津の地名の由来

渋り
梅塚、東ノロ
の北の幅100mほど、深さ10mほどの東西に伸びた谷がある。この谷とその北の交野女子学院の台地をも含めて「渋リ」と呼んでいる。
 そしてこの谷を特に「渋り谷」と呼んで区別しているようである。「しぶ」とは井戸水などの水さびのたまっている所をいう。
梅塚と交野女子学院の間の谷の水田

 それが転じて湿地、沼地、泥池などの所を指す。地名には、渋沢、渋田、渋谷、渋川など数は多い。
 梅塚と交野女子学院の間の谷はちょうどこの渋谷の感じがする。
 両台地の湧き水が谷の水となり常にじめじめしている。おまけに金気水のため茶褐色に泥や砂に色が付き、いかにも名前どおりの渋り谷である。
 もう一つ特色ある風景は、中小路の集落から北の梅塚には純田園風景が残り、そして渋り谷は両側の崖に竹やぶ、松林、笹が生い茂り、深い谷をつくっている。
 高野街道から東を見たこの景観はなんともいえない風情がある。

  
遠の坂
北川より以北、郡津の地域であるが、ここを遠ノ坂というのには、今の水道道では理解できない。
 昔の東高野街道は北側の出鼻橋を渡ると左手に松林の丘、右手に竹やぶが連なる光景に出会う。道は台地の上へと曲がりながら上がって行く。道の左右は水田と畑が段々状にある。
 盆地上に上がれば、右に竹やぶが続き、左手に畑が連なる非常に寂しい道である。四つ辻まで人家はない。郡津の北尾から四つ辻まで約3〜4q寂しい道となる。
 追いはぎが出、きつね、たぬきも出そうな道であった。北川から墓地ヘ、台地上へ右に左に曲がりながら次の集落まで、はるかな道のりをもった坂道といった意味から付けられたものであろう。

ものきき
 郡津の北を東から西に流れる川を北川という。枚方市村野と接している。この北川に架かる出鼻橋から東高野街道を南にやってくると左に交野女子学院の建つ「渋り」、そして、右に「笹の山」、左前に北尾の集落の建つ梅塚の台地に達する。この梅塚の台地に上がるために道は切り通し状になっていて、道の両側が崖になっている。
昔は、この崖や崖上に大きな松が茂っでいて薄暗くなっていた。
 郡津の人々が何か心配ごとや悩みごとが起こったら、朝早くこの松の木に潜み高野街道を朝―番に通る人々の話の中から解決する言葉を聴き取ったという。そのようなことから、このがけ道を「ものきき」と呼んでいる。


長淵(ながふち)
申田川より東で山崎までの郡津では一番低い土地である。現在は京阪電車から東だけ残っている。一番低かった京阪より西が埋め立てられたため、昔の葦(あし・よし)の茂った湿田、酒沢池の景観は消滅してしまった。
 免除川、村野との境界を流れる北川とが合流する手前であるのと、天野川の水を最後にため込むのでいつまでも水が引かない。そのようなことから遊水池の役目をなしていた。埋め立てられる前は電車沿いに長淵の地名どおりの長い池があった。そこから今も電車沿いに川があるが、これが当時の排水路であった。
 大雨が降れば線路だけかろうじて見えるが、架線を支える電柱だけが見えているといった―面湖と化してしまう場所であり、梅雨期の長雨の時にはせっかく植えた稲も冠水してしまい、梅雨明けに他所の残っていた苗をもらって、再び田植えをしている光景が見られたもので、ここを耕すお百姓さんは非常な難儀をされていたことと思います。


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