[ホームページ] へ戻る

交野歴史健康ウォーク
2005.2.12 第68回

寺・神宮寺の山根道を歩き
倉治の歴史民俗資料室
を訪ねる

春日との喧嘩唄など

2005.2.12  交野市立歴史民俗資料展示室前で記念写真
2月歴史ウォークマップ
行程

交野ドーム→今井→交野高校(東車塚古墳)→大畑古墳→寺の燈籠の辻→正行寺の石仏団地→山添家→かさんど池→京の山(石仏)→不動明王の石碑→寺共同墓地→倉治共同墓地→神宮寺のそうれん道、新助坂→第二京阪国道の建設現場→鐘撞堂池、松塚下池→桜道→荒神橋(がらと川)→倉治の外池→春日道から倉治へ→歴史民俗資料室→大仏坂→交野小学校→交野ドーム


 今回のウォークで68回目を数えました。集合の15分前にはもう15名を越す方々が次から次へと集合され、午前9時、総勢21名の元気な皆さんと交野ドームを出発、寺から神宮寺を歩き、倉治の交野市立歴史民俗資料展示室を訪ねてきました。
 途中、東倉治の松塚下池、鐘撞堂池付近は池の水が抜かれ、第二京阪国道の工事のためにすっかり姿を変えつゝありました。朝方は寒かったですが、昼頃、交野ドームに帰りついた頃はすっかり汗ばむほどの陽気となりました。

なお、今回訪問しました、倉治の交野市立歴史民俗資料展示室に水曜日から金曜日までの週2回半日程度、展示資料説明ボランティアとして詰めておりますので、是非ともお立ち寄り下さい
お待ち申しております。
 交野ドームから府道久御山線を渡り、田圃道を寺の村に向かって歩くと、直ぐに十字路に出合いますが、ここが辻合(つじあい)と言います。 右の写真は、辻合から龍王山を撮ったもの。
 昔、寺地区は、JR学研都市線の西側、交野高校の北側の「いまい」という小字にあったという。
 「昔、寺村は「いまい」にあってな、水が出て困り抜いたすえ、こんなところには、いまい、いまいといって今の寺村に移ったんや」と平田さんより、村の古老の話を紹介された。
 
また、竜王山の麓から流れ出た北川の湧水が流れ込む、一段と低い地を冷田(ひえだ)という。
左の写真は、今井から交野高校を撮ったもので、交野東車塚古墳が保存されている。
 交野東車塚古墳群
 東車塚古墳は交野市南野10番地にある。現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。 昭和47年、交野高校が建設されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。
 右の写真は大畑古墳で、右が前方部で左の車が停まっている方が後円部である。JRの高架をくぐり寺村に入るところに、弥生時代後期の遺物が出土した住宅地の上が最近の調査で、前方後円墳であることが確認された。墳長90〜95m、後円径50m高さ3m、前方部約50m高さ4mが確認された。これが大畑古墳である。
 静かな寺の町並みに入ると、直ぐに正行寺の西の辻、燈篭の辻に着く。
二月堂、愛宕山、柳谷などと彫られた大きな燈篭が並んでいて、ホッとする場所である。人々はここで静かに手を合わせて、日々の平安と健康をお祈りした所である。右は、正行寺の石仏団地の沢山の石仏。100体近くの石仏が確認されている。何とも微笑ましいですね。
             山添家
山添家は国の重要文化財に指定されている。この住宅は江戸時代の庄屋の家で、11代前の九左衛門平精が宝永2年(1705)に建てたもの。現在では全国でも数少ない茅葺きの屋根がとても珍しいものになっています。
        寺古墳群
寺古墳群は集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期古墳群(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)で、14基の古墳からなり、いくつかの尾根に2〜3基づつ点在し、広い範囲をこえて寺古墳群と呼ばれている。
              京の山の石仏と「不動明王の碑」
 創価学園の入口の南に「京の山」という尾根がある。東西に延びた山で、その頂を南方から見ると、二つの突起部がある。この東側にある突起の裾の薮の中に、不動明王の梵字(カーンマーン)を彫った花崗岩製の碑がある。仏像の種子で表すことは平安以降に見られるが、石に刻む彫法は「平安時代には文字の彫られた面が平面となり、鎌倉時代にはV字形になる薬研彫りで、時代が降るにつれて文字の底面が丸くなる」。京の山の碑はみごとな薬研彫りで鎌倉期のものである。
 保存が望まれる。
   (交野古文化同好会・石鏃bP14号を参照させて頂きました)
寺共同墓地の見送り場
石の柱で造られていた礼場「お見送り場」
も今ではなくなり、駐車場と変ってしまった。

 京の山から右手の創価学園を経て、大和へ抜ける郡南街道を少し行くと左に倉治墓地、右に寺共同墓地がある。寺墓地に入ると、先ず目に付くのは六体地藏さん。何故か地蔵が1体と石仏が多く祀られている。左から2番目の地藏さんには、倉治住と読める字が彫られており、元は倉治の六体地蔵ではなかったか。その隣には沢山の地蔵さまが。何時の頃の物かは判別できないが、高さ20〜30cmの地蔵様があちこちに置かれている。昔の人々が、病から逃れ健康を念じて一心に彫られた素朴な地蔵様たち。先祖を敬い作り続けられたお地蔵様たち。
 死者を葬るしかたのことを「葬法」というが、最近は信仰に対する考え方や他界観が変わってきた。今日では、かつての習俗はなくなりつつある。火葬場へ直行するようになり、野辺送りも見られなくなったが、寺の共同墓地では往時が偲ばれる、綺麗な「蓮華石」や石柱で造られたいた立派な礼場「お見送り場」が残されていたが、最近、 石の柱で造られていた「お見送り場」も今ではなくなり、駐車場と変ってしまった。誠に残念なことである。
  葬列(そうれん)は本来野辺送りを中心としたもので、決まった道筋(そうれん道)を通って遺体を葬地へ送った。葬列が村墓へ着くと、導師は迎え仏の手前で席に着く。そして、迎え仏と席の間を往き来する。輿が墓地に着いたら、「蓮華石」の周囲を左に3回廻っておろした。「町たて」といって・割竹に紙を螺旋状に巻きつけ、上部に椿の葉をつきさし、その上に蝋燭を立てる。この「町たて」を町角・墓地の迎え仏の前に立てたという。
 こんな風習が偲ばれる、共同墓地である。

 次いで倉治墓地を通り、倉治の昔の野辺送りのそうれん道を北に歩き新助坂を抜けると、第二京阪国道の建設現場に出る。

関西電力の変電所手前の松塚下池や鐘撞堂池
水が抜かれて第二京阪国道の工事が急ピッチで進められていた。
東倉治から交野連山を望む!左の山麓に関電の変電所
大きな高圧電線の左奥に見えるのが交野山、右へ旗振山、龍王山と続く。
右奥の青いフェンスが第二京阪国道の建設現場で、
変電所の手前から左手の津田へ向かって国道が建設される予定。
     左の写真は、倉治の外池。右は、広大な田圃が広がる、北代(きたんだい)
 府道久御山線に架かる橋が「荒神橋」で、下を「がらと川」が流れている。そこからすぐ左に見えるのが「外池」、橋を渡り右手に現在は、レストラン「フェスト」になっているが、ここに大きな「かご池」があった。 近くで良質の粘土が採集できず、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されず、水位が増すと、かごに入れた水のようによく水が漏れたためにこの名がついたという。
フェストの北側、久御山線沿いにかご池跡石碑があり、「石つき唄」が彫られている。
 「わしの若いときゃ 津田までかよた 倉治かご池で夜が明けた 面白ひょうたんや おおあげおおあげ」
 この唄は昔、倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行くことが楽しみやった。時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂きに朝日が上りかけていたという歌詞で、お嫁入りとか、新築祝いには、必ず出る祝歌である。
倉治・「がらと川」沿いの桜道から枚方市の春日を望む
右奥に津田駅前のマンションが見える。
手前に広大な田圃が広がる!地名を北代(きたんだい)と言う。
倉治の集落の北側、がらと川より北で東西に長く続いている。
がらと川沿いの桜道より倉治の住宅街へと歩く
豪壮な屋敷が建ち並び、道路はT字路で遠見遮断となっている
 倉治の村に、今に伝わる「唄」
@私部の子守唄に北田はんの歌が残っている。
   「いたら見てこい北田の屋敷 四角四面の良い屋敷」
   この歌が歌われたのは大正の初めのころだろう。 屋敷は約四反(1.200坪)ある。
A春日との喧嘩唄
   「かすがべい けんかしよ 破れた傘で受けたるわ!」
       逆にかすがの子はくらじべい・・・とやり返したと思われる。
B倉治の子守唄 
   「こんや来るなら 高い塀をこして 千両椿をおらんように」
    何で子守唄やのに高い塀を越えなあかんのか? 
交野市立歴史民俗資料展示室(交野市立教育文化会館)
所在地 交野市倉治くらじ6丁目9番21号 電話(072)810−6667
交通機関 JR学研都市線「津田駅」下車。京阪バス京阪交野市駅行き
 南倉治下車1分、又は香里園行き大仏町下車徒歩5分
開室日時 毎月水曜日〜日曜日 10時〜17時。ただし入室は16時30分まで。

        教育文化会館・・・交野無盡(近畿銀行の前身)の大正時代の建物
                  (是非残してほしい建物である)
交野無盡創設者・金澤泰治さんの像
 D交野無盡の沿革  
  金澤泰治・加地高貞・新庄武治郎・奥西源五郎と共に交野金融合資会社を大正三年八月に金沢泰治氏(当時27歳)の邸内に創立。同十二年一月株式組織に改め交野無盡金融株式会社と称し、金澤氏が取締役社長に推され、昭和十五年三月大阪産業無盡を合併し又府下枢要の地に八支店を設置し、一意庶民金融の使命達成に邁進す。
 創業以来、総契約高実に1億6千2百余萬円に社礎愈々強固内容益々充実今や全国無盡業界屈指の地位を占むるに至る。蓋し社長が30年に亘り終始一貫天賦の才略と不屈の信念とを以って日夜経営し而も徹底せる大家族主義に依り明朗、親和、渾然一体の活動を為せしに因る。
  今や時局下社長自ら率先府下優良四社と謀りて合併を敢行し光栄ある当社は茲に発展的解散を遂ぐ、乃ち、社長の発意に依り昭和17年11月3日、明治の佳節をとし本店土地建物全部を其の発祥の地交野町に、金品を各種公共団体に寄付す、願う所は地方自治の向上と発展と銃後・士気の鼓舞に在り以て天業翼賛の微衷を表するのみ。解散に当り其沿革を略記す。  (南の端の碑文より)

平田さんより資料室で展示遺物・資料の詳しい説明を受ける
1階歴史資料展示室  時代別に整理され遺物・資料が展示されている
市民の方々より寄贈された貴重な民俗資料が
1階と2階に分けて整理され展示されている
昔の懐かしい卓袱台セット
家族の笑い声が聞こえて来そうだ!
河内木綿の糸繰機、縄編み機など
交野の貴重な資料が一堂に展示されている
交野市歴史民俗資料室の建物
交野市教育文化会館
建物を寄贈された
交野無尽の創始者金澤氏の銅像

 時間も11時半を過ぎ、歴史民俗資料室を出たところで、自由解散となり、帰りは三々五々大仏道を通り、交野小学校へと出て交野ドームに到着。皆さん、お疲れ様でした。

 次回は、3月12日(土)、交野ドームから森、私市、星田を歩く予定です。

戻る