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第78回 交野歴史健康ウォーク

《ふるさと交野を歩く「神の巻」(2)》
秋の文化祭のビデオ撮りも兼ねて探訪してきました
  

2006年7月8日(土) 午前9時   いきいきランド噴水広場前 集合・出発

   いきいきランド噴水広場前→寺→寺古墳群・塚穴古墳→京の山・不動明王石碑→神宮寺遺跡と
廃開元寺跡→第二京阪国道建設予定地→機物神社→交野歴史民俗資料室 (12時過ぎ解散)

第77回 交野歴史健康ウォークMAP

 7月8日(土)午前9時、第78回の参加者は16名、元気に集合。天候:晴れ時々曇り。前回に引き続き、「ふるさと交野を歩く」(神の巻)の寺・倉治方面を探訪した。77回で歩いた「交野車塚古墳群」、「大畑古墳」を通り過ぎ、ゆっくりと歩いて寺古墳群の一つ「塚穴古墳」に到着。

寺古墳群への畦道で「ねじり花」を発見!

花が咲いた「ねじり花」
何故、花がらせん状に咲くのか不思議な花です
寺古墳群・塚穴古墳

塚穴古墳 寺古墳群に属し、交野で現存する古墳の一つ。横穴式古墳。
寺古墳群は寺(てら)の集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期 古墳群
(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)である。14基の古墳からなり、
いくつかの尾根に2〜3基づつ点在し、広い範囲 をこえて寺古墳群と呼ばれている。

綺麗な小川が気持ち良い

塚穴古墳内部
片袖部分の石組み
 創価学園の小公園脇の道を登り、竹薮と雑木の平地をしばらく行くと古墳が口を開けている。塚穴古墳である。これは横穴式石室を完全に残す、交野では稀な古墳である。東西12m、南北11mの方墳で、入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で 鬱蒼としているがそんなに薄暗くはない。
 大人一人がやっと這って入れる程の入り口から、懐中電灯を片手にしておそるおそる入る。羨道は短く片袖式となっている。入るのは腰をかがめて難儀するが、中は天井が高く人一人十分立てる。195cmあるという。石組はしっかりしており大きい岩石と隙間に入れる小さい石が左右にバランス良く組まれている。天井の岩石はさほど大きくはない。

初めて古墳内部を見学した人もあり、感激も一入のようでした!
(交野に現存する数少ない古墳の一つです)
 




交野の絶景の一つ(寺から交野ドームを眺望する)
京の山・不動明王碑


創価学園の入り口の南に「京の山」という尾根がある。東西に伸びた山で東側の突起の裾野の
藪には、不動明王の梵字(種字)(カーンマーン)を彫った鎌倉時代の花崗岩製の碑がある。
大阪府教育委員会が創価学園敷地内を発掘したとき、この碑の東側で古瓦が大量に敷き詰めた
状態で出土した。またこの付近からは鎌倉・室町時代の瓦片が採集されており、「日教坊」と
いう地名も残っており、かって鎌倉・室町時代にはこの地に寺があり、この不動の碑はその寺と
関係した物ではないかと考えられている。
神宮寺遺跡・廃開元寺跡

神宮寺遺跡
 昭和31年、交野考古学会(現在の交野古文化同好会)が岩倉開元寺跡調査の時に、石仏の道の弥勒仏坐像石仏から下へ、2枚目の畑の南よりのミカン畑から2点の石器が採集されました。この2点の石器はハンドアックスと呼ばれる握斧とナイフ形石器でした。ハンドアックスは長さ9センチ・幅6センチ・厚さ2センチで、ナイフ形石器は長さ6センテ・幅2センチ・厚さ1センチで石材は共に二上山から採取される讃岐石(サヌカイト)です。
神宮寺式土器
 また交野考古学会による神宮寺地区の調査で縄文時代の石鏃や石器の原石材が発見され、神宮寺付近に縄文時代の集落があることが確実となり、神宮寺遺跡と名付けられました。昭和32年の調査で採集された土器片は縄文時代早期の押型文土器で、遺跡名をとって「神宮寺式土器」⇒と呼ばれています。神宮寺遺跡
では縄文時代の住居は発見されていませんが、炉が5基出土しています。

廃開元寺跡(はいかいげんじあと)
 開元寺は中世の記録である『興福寺官務牒疎』によると尊延寺・百済寺とともに興福寺僧宣教の開いた寺で天平時代の頃の創建とされます。神宮寺集落からは天平時代の礎石や瓦片が出土しています。この寺は『興福寺官務牒疎』の記事に「坊舎八舎宛在之」とあり、大阪府が発掘調査した百済寺や、文献資料にみられる津田寺の伽藍配置を参考にすると、開元寺は薬師寺式の伽藍配置で、南から南大門・中門・左右の東西両塔・金堂・講堂・食堂および左右の僧坊があったのだろうと考えられています。

 「興福寺由来記」や「興福寺社縁起」など、平安時代からこの名前がみられます。この後、開元寺は鎌倉時代になってから山岳仏教の影響を受けて交野山頂へ移動し、岩倉開元寺と名前を変えました。

第二京阪国道建設現場・JR学研都市線倉治高架付近
7月6日〜7日、七夕祭りで賑わった機物神社

 その昔、交野市から枚方市にかけての地域は交野が原と呼ばれ、桓武天皇をはじめ、多くの平安貴族たちを魅了する美しい遊猟地として知られていた。遊猟は単に狩を行うだけではなく、礼儀の場であり、また遊宴の場でもあったため、貴族たちは交野が原を題材にあらゆる歌を詠み、結果として交野の名が文学に数多く残ることとなった。

 この頃は天体を敬い、それを美化する風潮があったといわれ、交野が原一帯を流れる一級河川はもともと甘野川と記されていたが、水枯れた砂礫ばかりの川床を夜空の星の連なる天の川になぞらえ、天の川と改名されたようである。

 現在の天の川右岸の交野市倉治には織姫をまつる機物神社(はたものじんじゃ)が、そして対岸の枚方市香里団地の中山観音寺跡には牽牛石(けんぎゅうせき)と呼ばれる石があり、天の川を挟んで織姫と彦星が対面している。


本殿前の茅の輪くぐり

左足から入り八の字に3回くぐる!
交野歴史民俗資料室で遺跡・遺物を見学
神宮寺遺跡の石器・神宮寺式土器、古墳時代の土器、森遺跡の鍛治炉の模型や
倉治古墳群の土器や副葬品、江戸時代の星田の絵図などを見学しました。

倉治古墳群の説明と解説をされる中角さん

飛鳥・奈良時代の寺、獅子窟寺について説明される高尾さん

 寺古墳群、京の山、神宮寺遺跡など、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
  次回の歴史健康ウォークは、9月9日(土)の予定です。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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