交野歴史健康ウォーク 第133回

樟葉(楠葉)を歩く
継体大王の樟葉宮と楠葉台場跡を訪ねる

2013.10.12(土) 京阪・樟葉駅 午前9時集合

 樟葉駅→安養寺→市民の森(鏡伝池)→交野天神社→
 継体天皇樟葉宮跡伝承地→樟葉登池遺跡→樟葉東遺跡→
 楠葉台場跡→久親恩寺→旧京街道→天満宮跡→樟葉駅    
 (午前12時頃解散) 徒歩約6km

交野天神社で記念撮影
 10月12日(土)交野歴史健康ウォークは天候にも恵まれ総勢28名で継体大王・樟葉宮と楠葉台場跡探訪を楽しんで来ました。久しぶりに樟葉駅に降り立った。改札口を出たところでは、集合時間よりも30分も前から本日の案内をお願いしている、枚方観光ボランティアの上谷さん他の二人と伊東さんたちが待ち構えておられた。 早速、参加者名簿を取り出し案内レジメを配布。早朝にもかかわらず続々と集合され出発の9時には、総勢28名が元気な顔を揃えられた。

 樟葉駅前の広場に場所を移動して、先ず伊東さんより本日の行程など挨拶のあと、枚方観光ボランティアの上谷さんより、本日の訪問先の概略や楠葉と樟葉の違い、樟葉駅の変遷・駅前整備計画など詳しく説明を受けた後、最初の訪問先「安養寺」に向けて元気に出発した。

 日頃、何気なく使っていた「くずは」には、違いがあるのを今回初めて知りました。
樟葉と楠葉
 江戸時代以前から明治22年までは「楠葉村」と称されていました。 明治22年の新町村制度で当時の「楠葉村」と「船僑村」が合併され「樟葉村」が誕生し「樟葉村大字楠葉」となりました。
 次に昭和13年の合併で「枚方町大字楠葉」となり昭和22年に市制が施行され「枚方市楠葉」となりました。京阪電車が開通したのは明治43年です。したがつて「樟葉村」の時代です。駅名ですから、村の名前をとつて樟葉駅と決まったのです。
 また、小学校の名前は、「樟葉村」時代に村立小学校が出来たので、「樟葉」が使われています。次に、中学校ですが新制中学が出来たのは戦後ですので「楠葉」が使われています。最後に住所ですが、地名は昔からずっと「楠葉」がそのまま残りつづけているのです。

 また、今回は特に、国の史跡に指定された楠葉の台場跡と最近の研究成果で継体大王の樟葉宮跡は町楠葉周辺ではないかとの見解もあり、京街道を歩き「天満宮跡」にも足を伸ばして古い都の時代に夢を馳せることが出来ました。

継体大王の樟葉宮と楠葉台場を歩くMAP



「歩いてみよう枚方マップ」より


 当日の案内レジメ集
 
 

 樟葉駅前広場

伊東さんより開会の挨拶
 
 
枚方観光ボランティアの上谷さん
 
 
 
 
 京阪本線樟葉駅前にある大型ショッピングセンター
KUZUHA MALL(くずはモール)が増床リニューアル工事中

 KUZUHA MALL(くずはモール)第2期開発計画は、京阪本線樟葉駅前にある
大型ショッピングセンターKUZUHA MALL(くずはモール)の「現西館」と「くずはコート」、
「KIDS館」を解体、本館を増床し新南館を建設する増床リニューアル工事です。
 京阪電気鉄道株式会社(本社:大阪市中央区、社長:加藤好文)と株式会社京阪ザ・ストア(本社:
大阪市中央区、社長:辻良介)は、京阪グループ経営ビジョンにおいて最重点開発地区と位置付けてい
る“くずは地区”において、主に樟葉駅をご利用のお客さまのさらなる利便性向上を目的として、同駅
前で新たに「京阪くずは駅ビル南館」をオープンし、既存の「京阪くずは駅ビル」と駅ナカ店舗との一
体リニューアルに着手しました。
“くずは地区”では、樟葉駅前の大型商業施設「KUZUHA MALL」において、規模・内容と
もに関西屈指のショッピングセンターを目指す増床リニューアル工事が今夏よりスタートし、平成26
年春のオープンを予定しています。
同駅前では、現在、「京阪くずは駅ビル」と駅ナカに多彩な店舗を展開することにより、主に駅をご
利用のお客さまにご愛顧いただいておりますが、“くずは地区”のさらなる利便性向上の観点から、駅
の玄関口となるこれらの施設についても、「KUZUHA MALL」と一体的にリニューアルを進める
こととし、今般新たに「京阪くずは駅ビル南館」をオープンし、駅ビル2棟と駅ナカによる店舗体制を
構築、同モール増床リニューアル工事竣工時期の完了を目途に順次リニューアルを進めていきます。
京阪グループでは、将来にわたって「選ばれる京阪沿線」であり続けるため、住み良い沿線づくりを
推進しています。その最重点開発地区となる“くずは地区”において、ファミリー向け・時間消費型の
「KUZUHA MALL」の増床リニューアルに加え、今般、駅ビル2棟と駅ナカで、主に駅をご利
用のお客さまをターゲットとした個人向け・クイックリーサービス型テナントの一層の集積も同時に進
めることにより、“くずは地区”のさらなる利便性向上を目指します。ますます住みやすく、便利にな
る“くずは地区”にご期待ください。
 
浄国山 安養寺 
 
 
 
 
 安養寺の石造露盤は大阪府指定文化財です。
露盤 (ろばん)は塔(とう)の屋根頂部に置いて、雨仕舞(あまじまい)の役目を果たした建築部材で、上に宝珠(ほうじゆ)を載せて装飾も兼ねたものです。通常、露盤は青銅、鉄、瓦製ですが、このような石製の露盤は極めて珍しいものです。
石材は凝灰岩(ぎようかいがん)で風化が著しく、四隅の一部は欠けているものの原形はよくとどめています。一辺の長さは110㎝、高さ38.5cm、中央に径38.5cm、深さ11.7cmのほぞ穴が穿(うが)たれ、その周囲に八葉(はちよう)の複弁蓮華文(ふくべんれんげもん)のレリーフが刻まれています。制作年代は、平安時代前期から鎌倉時代前期までの間と考えられています。
 安養寺は天平(てんぴよう)年間僧行基(ぎょうき)によつて開かれたと伝えられています。また、付近に「ケイジヨウ屋敷」の小字名 (こあざめい)も残つており、延暦(えんりゃく)年間には右大臣藤原継縄(うだいじんふじわらのつぐただ)が別荘を営んだところではないかといわれています。(枚方市文化財情報参照)
 
 枚方市南楠葉の安養寺には1970年に府の有形文化財に指定された石製露盤がある。
露盤は塔の九輪の最下部にある方形の台で、雨仕舞(劣化防止)の役割を果たす建築部材。
 
市民の森 鏡伝池
 鏡伝池を中心に、花の森、せせらぎの森など8つのゾーンを、
園路や橋で結んだユニークな緑地です。毎年6月には花菖蒲が咲き誇ります。

くもらじな真澄の鏡影そふる くずはの宮の 春の夜の月
 関白左大臣一条実経・続古今和歌集
 
 
 
 
 
 鏡伝池のあたりは、古く平安貴族の遊猟の地と云われ、
池面に映る月を詠んだ歌も残されています。

 くもらじな真澄の鏡影そふる
      楠葉の宮の  春の夜の月

                 一条実経・・・・・続古今和歌集より

 
 


 交野天神社
 本殿は応永9(1402)年の創建。本殿と同じ造りの末社八幡神社が隣に鎮座しています。
いずれの社殿も『鎌倉時代の様式を残した室町時代初期の建造物で、一間社流造、桧皮葺』である。
国の重要文化財に指定。
 
 
 
 
 
三宅安兵衛遺志碑

大正末から昭和初め(1921~ 1930)にかけて、京都市中京区在住の西陣帯地卸商の
三宅清治郎が京都府南部を中心に建立した石碑群の呼称です。
この事業は父三宅安兵衛の遺命もとづいて行われたもので、石碑の裏面に
「京都三宅安兵衛依遺志建之」(三宅安兵衛の遺志によりこれを建つ)した
記載があるため三宅安兵衛遺志碑と呼ばれています。

三宅安兵衛(1842~1920)は現在の福井県小浜市生まれ、
後京都市中京区六角通高倉西入ルで博多織等の販売で財をなした人。
晩年の大正8(1919)年元年に1万円(当時)を息子清治郎に
京都のために公の益にこれを使用するよう遺言しました。
清治郎はその使途について考えた末、父親が晩年よく旅行していて案内表示などが
少ないことを残念に思つていたことから社寺や旧跡の案内碑や道標の建立を計画し、
大正10(1921)年12月27日から建立を開始し、400基もの碑を建てたそうです。
写真の石碑もこれの1つです。
(中村武生氏京都の歴史と文化財保護問題参照) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拝殿に居られる「縁の下の力持ち」様です
 
 
 継体天皇樟葉野宮跡伝承地
日本書紀によると、越前三国から迎えられた、後の継体天皇は西暦507年に
樟葉で即位し5年にわたり宮を営んだとされています。
原生林に囲まれたこのあたりが、継体天皇が即位した
樟葉宮跡の伝承地として大阪府の史跡に指定されています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 楠葉登池遺跡
樟葉北小学校 校内に掲示されています
 
 
男山(おとこやま)丘陵の西側にある谷の一つに広がる遺跡で、現在は市立樟葉北小学校となっています。11世紀から12世紀頃の黒色土器(こくしょくどき)や瓦器(がき)とよばれる土器がたくさん見つかり、楠葉東遺跡(くずはひがしいせき・2)との関連が注目されます。
 
 
道中、珍しいハローウィンを見つけました!
 
 
 楠葉東遺跡と楠葉平野山瓦窯群
楠葉北公園内掲示されています。
 
楠葉東遺跡
 男山(おとこやま)丘陵の南西端に広がる集落の遺跡で、平安時代終わりごろの歌謡集(かようしゅう)、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(1179年成立)に詠まれた「土器づくりの里」と考えられます。黒色土器(こくしょくどき)や瓦器(がき)とよばれる黒い土器がたくさん発見され、またその土器をつくったとされる遺構(いこう)もみつかっています。また、地鎮(じちん)のための祭祀遺構(さいしいこう:鉄製の鋤先(すきさき)を地面にたてて、貨幣(かへい)(乾元大宝・けんげんたいほう)を数枚入れた水瓶(すいびょう)をおく)も発見されました。
 楠葉平野山瓦窯群
 男山(おとこやま)丘陵の南斜面に築かれた、飛鳥時代(7世紀前半ごろ)の瓦を焼いていた窯跡群(かまあとぐん)です。8基の地下式登り窯(ちかしきのぼりがま)で構成され、大阪市・四天王寺が創建された時(7世紀初めごろ)の瓦のほか、奥山廃寺(おくやまはいじ)式、豊浦寺(とゆらでら)式、山田寺(やまだでら)式とよばれる軒丸瓦(のきまるがわら)や、重弧文軒平瓦(じゅうこもんのきひらがわら)、鴟尾(しび)が出土(しゅつど)しました。また、瓦のほかに、須恵器(すえき)も発見されており、ある時期は土器も焼かれていました。
 
 


国史跡  楠葉台場跡

楠葉台場跡が国史跡に
 京都防衛のため江戸幕府が築造した河川台場


幕末期、京都防衛のために築造された「楠葉台場跡」が平成23年2月7日、
国の史跡に指定されました。内陸部の河川に面して設置された台場は珍しく、
歴史的にも高い価値があります。
市内では百済寺跡、牧野車塚古墳、禁野車塚古墳に続く4番目の国史跡となります。
 
台場とは幕末末期に外国船の来襲にそなえて築かれた砲台を持つ要塞のこと。
楠葉台場は勝海舟が設計し、有名な[五稜郭]で採用された西洋風の築城方式が用いられた。
現在川沿いに残る台場として国内で唯一のもので平成23年2月に国の史跡に指定されました。
[お台場]として親しまれている東京の品川台場も幕末期は砲台を持つ要塞でした。

 楠葉台場の設置した表向きの理由は、淀川をさかのぼる外国船の撃退でしたが、
関所の機能をあわせ持ち、幕府に敵対する尊皇攘夷派の志士が京街道を
通り京都に入ることの出来ないようにするという裏の理由もあつたようです。
(枚方市発行 枚方八景マップ参照)
 
 
 
 
 
 
 正面・東「戊辰役橋本砲臺場跡」

  背面「昭和三年十一月稟 京都三宅安兵衛遺志」
 
 元治元(一八六四)年、徳川幕府は大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸のここ楠葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けました。高浜砲台にはカノン砲4門が設置されていたので、楠葉砲台にも同様に設置されていたと考えられています。
 慶応四(一八六八)年の鳥羽・伏見の戦いで、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利を見て官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る楠葉砲台に砲撃を加えたので、淀川を挟んで両台場は交戦状態になりました。楠葉砲台は、伏見、淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、砲弾が尽きたので砲を破壊して退去しました。
 久修園院の南西方に砲台跡の土塁が残っていましたが、明治末期の京阪電車の敷設に伴い土塁の土砂は運び去られました。
 
現在は、国の史跡指定を受け史跡公園としての整備工事が行われている。
 
 
 
 
 
 
 
遠くに見えるのは、久修園院
 久修園院(くしゅうおんいん)

行基が開いた四十九院の一寺。大坂夏の陣の兵火により伽藍は焼失しましたが、
江戸時代に宗覚律師が再建しました。寺所蔵の天球儀と地球儀はともに宗覚の製作で枚方市の指定文化財。
八幡を警備する藩兵や台場工事をした担当役人の臨時宿舎に用いられたこともありました。
 国史跡 楠葉台場跡 復元CGムービー
大阪府枚方市楠葉中之芝にあった、幕末に建造された日本で唯一遺構が残る河川台場跡で­す。
卒業制作の一貫で制作いたしました。制作:花園大学文学部史学科 中西昭成氏
 
↓  日本経済新聞WEBより参照  楠葉台場跡が分かりやすい!
 淀川べりの要塞、松平容保の深慮
楠葉台場跡(大阪府枚方市) 古きを歩けば
 
 
  禅(曹洞)宗 久親恩寺

 楠正成に3人の息子があり、正行(サツラ)正時(サトキ)は四条畷の戦いで、足利尊氏方の武将・高師直(コウノモロナオ)と奮戦し、二人が差し違えて自害したが、末弟の正儀(マサノリ)は戦況を観察しながら、南北朝を渡り歩きしたので、戦前では余り評判が良くなかったが、現在では情勢判断の的確な頭脳的武将とされています。その家臣・篠崎掃部助(カモンノスケ)の六郎左衛門はこの地の出身で妻子を残して出陣した処が残された妻が病に罹りその娘が平癒祈願をしましたが母は病没しました。

 寺伝によると、「娘は剃髪して、篠崎禅尼として、母の冥福と父の長寿を祈り続けた、その孝心から、山号が大孝山とされ、寺号を久親恩寺とされた」と言う。また「彼女が祈った本尊『薬師如来』 (寺宝) は行基の直作との事であるが行基開基の久修恩院からの譲渡品でないか」と考えられている。また、正儀が残した菊水紋や正儀の没年の書かれた過去帳があると云う。
      (古伝承を訪ねる会HPより)
  なお、台場工事担当役人の会議等がここで開かれていました。
 
 
 
 境内の珍しい道標
 
 
 
 
 
 京街道沿いの町楠葉の町並
 
 
 
 
駅前のタワービルが遠くに見えます!
 
ここで、西へ曲がり「天満宮跡」へ
 最近の研究成果で、
継体大王の樟葉宮跡と言われる
町楠葉・天満宮跡周辺
  今年の5月の勉強会で講演をお願いしました三宅俊隆先生は、樟葉宮跡について次のように見解をお話になりました。

 樟葉宮はどこか?
 交野天神社境内にある「旧樟葉宮跡」とされるが、もっと規模の大きいものであったと思われるので、現在の町楠葉を含む地域ではないかと考えられる。交野台地から離れて湿地帯の中での微高地で集落を形成し、対岸の山崎との渡船の場所でもあり、樟葉の駅家の場所でもあった。そして淀川の船運の中心地でもある。
 
京阪電車沿いにある「天満宮の大松の古株」
 
 
 

天満宮の趾碑 大松の碑
 
 
 
 

今回も新しい発見の歴史に出会うことが出来ました。
案内役の枚方観光ボランティアの上谷さん有難う御座いました。

次回は、11月9日(土)、「淀屋シリーズⅡ 八幡市周辺史跡」を
 京阪八幡市駅~神應寺~飛行神社~淀屋屋敷跡~正法寺~松花堂などを歩きます。
 集合は、午前9時30分、京阪・八幡市駅です。
 弁当持参願います。
最後までご覧いただき有難うございました!

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