交野歴史健康ウォーク 第137回

ふるさと交野を歩く パートⅠ
=南川周辺の遺跡を訪ねて=

2014.4.26(土) JR河内磐船駅 午前10時集合

行程 : JR河内磐船駅⇒森・磐船村役場跡⇒森の地名⇒城戸⇒灯篭の辻・蛙石⇒
堂池⇒森墓地⇒須弥寺⇒大畑古墳⇒東車塚古墳⇒河内磐船駅 12時過ぎ解散

案内:平田政信氏(交野古文化同好会)
     
参加者 39名(会員28名)

須弥寺で記念撮影
 交野歴史健康ウオークは4月26日(土)午前10時JR河内磐船駅前に集合。当日は青葉香る五月晴れに恵まれ、39名(会員28名、一般参加11名)が参加され盛大に開催されました。
 先ず、立花昇新会長より、交野古文化同好会の総会には沢山の会員の方々に参加頂き活発にご論議戴いたことに対し謝意が述べられ、これからも一層のご協力・ご支援をお願いしたいと挨拶がありました。

 続いて、講師の平田政信さんよりウォークの行程など案内の後、レジメの片山長三先生が書かれた「平安時代後期の交野地方の想像復元図」を見乍ら交野の古代の歴史を詳しく解説いただきました。
 目の前に見える駅北ロータリーに置かれている巨石のオブジェ(天の磐船)や奥に見える茶色のマンションの下に眠る「三宅山荘園」の話を伺ったあと、再び駅前から歴史健康ウォークへと元気にスタートしました。

 森村の磐船村役場跡・地名を皮切りに、蛙石の伝説、堂池に注ぐ新川の歴史、森惣墓入口の一石三尊にまつわる石仏との対話のお話、須弥寺での唐うす地蔵のこと、東車塚古墳の発掘時の懐かしい風景や詳しい状況など、何度お聞きしても飽きることのない軽妙な語り口にすっかり酔いしれました。

 先月に引き続き久しぶりに案内役をお引き受け下さった、平田副会長の楽しく分かりやすい、交野に心底惚れ込んだ平田さんのお話ぶりに、参加された皆さん一様に話に引き込まれ、笑ったり頷いたり本当に楽しい歴史ウォークとなりました。
 本稿を記載するにあたり、講師の平田政信氏よりレジメを頂戴し、併せて「広報かたの」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 
 当日のウォーク行程地図
 

  「南川周辺の遺跡を訪ねて」のレジメ

JR河内磐船駅 北ロータリー

立花昇 新会長
 
案内役 : 平田政信氏

講師の平田政信さん
三宅山荘園の遺構発掘
 交野市教育委員会と同市文化財事業団は2000年5月18日、交野市森北1丁目のマンション建設予定地(JR河内磐船駅の北約200㍍の田圃)で、平安時代に石清水八幡宮(京都市八幡市)が持っていた「三宅山荘園」と見られる遺構や遺物が見つかったと発表した。(朝日新聞)

JR河内磐船駅のロータリーの右奥に見える茶色のマンション
を建築する前、発掘調査の結果発見された。
  平安・鎌倉時代
 調査区東側において、幅約7mの水路を発見しました。その溝に廃棄された土器群から10世紀~13世紀にかけて使用されていた溝であったことが確認できました。また、その溝に沿った形で平安末から鎌倉時代に使用されていたと推定される木製の導水管を検出しました。この位置は森地区の字平田とその東の地蔵筋の境界付近にあたり、現在もこの境界には用水路が引かれています。この溝を遡れぱ天田神仕、川東神社で、おそらくは両社の間を流れる小久保川より水を引いていたと考えられます。
 また、この溝の西側で平安時代から鎌含時代にかけての建物群が確認され、これら建物に付属して石積みや、木製の井戸を3基確認しました。また建物等に伴う遣物として、中国産の青磁器などの輸入陶磁器や、緑釉陶器、灰紬陶器など当時としては高価なものが出土しました。また、とりベ(どろどろに溶けた銅や鉄を入れる碗)や溶解炉片など一般の集落遺跡では出土しない鋳造関連の遣物も出土しました。
 今回の、10~13世紀代の遺構・遣物について、交野市教育委員会では三宅山荘園(文献1)の御倉町並ぴ館院等内地6町という場所の一角に当たると考えています。
 それは、当時の御倉町には、倉庫群の他に鋳物師などの所属した細工所をの含んでおり、本調査区から平安時代の鋳造関係の遣物が出土したことは、この記録に符合するものです。また、高価な陶磁器類は、荘園の荘官が所有していたものではないかと思われます。
現地説明会で熱心に
耳を傾ける考古ファン
平安時代から鎌倉時代の
石積みの井戸跡
三宅山荘園跡とみられる遺構
幅7mの水路と建物群跡
JR河内磐船駅前 無垢根村の石碑
   
 交野高校建設時に見つかった車塚古墳群から
出土した埴輪を模した短甲形の石碑
 河内磐船駅は昭和10年に、国鉄片町線(現在のJR片町線。学研都市線は愛称)の駅として開業しました。当時は、今日のような立派な駅舎などなく、木造の粗末な小屋でした。
 鉄道も複線はおろか、電化もされておらず、石炭だきの汽車やガソリンカーが走っていました。太平洋戦争が激しくなると、燃料がガソリンから石炭へ代わり、その石炭も不足して、割木を燃やして走っていたようです。
 戦後、電化促進運動が盛んになり、昭和25年に大屋晋三氏が運輸大臣になったとき、大臣自ら試乗・視察し、同年12月に四条畷から長尾間が電化されました。その後、54年に複線化も実現しました。
 南側のロータリーには、交野高校建設時に見つかった車塚古墳群から出土した埴輪を模した短甲形の石碑があります。埴輪の基となったのは、当時の森の鍛冶工が製作していた鉄の短甲だと考えられます。
 この石碑から東へ700mにある須弥寺までを、古代においては「無垢根村」と呼んでいました。無垢とは、汚れのないことを意味しており、この一体が当時、美しい街並みであったことを示しています。
 平安時代に、石清水八幡宮(京都府八幡市)の神官であった森宮内少輔公文が、ここに隠せいした際、荒廃していた須弥寺に八幡宮から観音像を迎えて再興しました。
 そのため、村人たちは森公文を深く敬い、彼の名を取って村の名前を「無垢根村」から「森村」へ変えたとされています。
   「交野こうほう」を参照
 平田さんより、最新ニュース!
駅前 道路標識に注目
知らなかったなぁ! 覚えておきましょう!
   
大阪府警察・現在地認知システム
大阪府警察WEBを参照
標識で わかるあなたの 現在地
 携帯電話からの110番は年々増加していますが、通報者が自分の居る場所が分からないことも少なくありません。
大阪府警察では、府下全域で道路標識に番号シールを貼付して通報場所を検索するシステムを運用しています。
110番通報時に道路標識柱に貼付されたシールの番号(上3桁、下5桁)を通報していただきますと、通報場所がピンポイントで判明します。
磐船村役場跡
 森にある交野市農協磐船支店の北に当たる。農協の倉庫になっている所で、交野市は旧交野村(こうのむら)、磐船村が合併されて成立している。旧磐船村の村役場がここにあった。森、寺、私市等が村域で、主として竜王山から磐船神社と山地と、そのふもとの村を中心にしていた。一番大きな村が私市であるから、人口はそんなに多くはなかった。

 江戸時代以来続いてきた交野の村々は、明治22年に、交野村=こうのむら=(それまでの郡津村・倉治村・私部村)、磐船村(それまでの寺村・森村・傍示村・私市村)、星田村の3 つにまとめられます。
 昭和14 年には交野村と磐船村が合併し、交野町が誕生しました。昭和30年、交野町と星田村が合併し、現在の交野市の前身となる交野町が誕生し、昭和46年に交野市となりました。

 
森村の地名  小字名
 
森の地名の由来

 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。
 それによると延久年間(1069~1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。
 なお、森には小字名が実に多い。しかも、山地の方も細かに分かれている。これは江戸時代、森を領有していたのは、初めは大阪町奉行であった旗本島田越前守直時、次いで淀城主永井尚政、旗本淀城尚春(尚政の子)、弟の永井尚庸などの領地となり、最後は小田原大久保家の領地となって幕末に至る。
 この永井家のとき過酷な年貢の取り立てを行ったので、村人が自衛策として、わざと字名を多くし、細かい田に分散させ、段別が少ないように見せかけたためであると言われている。
 歴史健康ウォーク「地名を歩く」より  今日の話はなんでっか?2002.9.16(No35)
 
 地名を歩いてみました。地名地図を見ながら現地を訪れは゛背景が良く分かる。地名は、人間とかかわりが出来たから出来た。この「出来たから出来た」ことを調べていったら、いろいろなことがわかる。
 まず、私達の住んでいる地域の地名から調べ歩いて行くことにしました。
森地区の大量権(だいりょうごん)は小字地図には「大量橋」となっているが、村人は「大量権」と言っている。
今回のウォークでどちらが本当なのかを確認することが出来ました。
現在「大量権」の一部が駐車場となっており、そこには「大量権駐車場」の看板が掲げられていました。 
やっぱり歩いてみなければわかりまへんなぁ! 
 「大量権」(だいりょうごん)が正しい地名でしょう。
「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。
南側(天田の宮北側)を流れる小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇夾部の砂質の所の開墾が行われたところと思われる。
また、この辺りを城戸(きど)という。
 森の西の出入り口の所を城戸、東の出入口を北城戸と言っている。「城戸」は「木戸」であろう。
 森を通過して山麓沿いに走る山根街道がある。この道路の東西の出入口に木戸を設け、村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取締ったりしたところであろう。夜間は木戸を閉めて村を防備したのか?。
 城戸のすぐ南に天田の宮が、北城戸を出た所に須弥寺があって、どちらも村人の信仰の場所である。
その場所に立って当時を偲べば、昔の人々の生活が手に取るように分かるのも「地名」を歩いてこそ
           「あなたの足下に地名がある」
     2002.09.14「第36回歴史健康ウォーク」より 
 油田(あぶらでん) :森は石清水八幡宮の神人(じにん)として昔から仕えてきているので、油田は八幡宮の燈明の油代として、この田の米を上げていたという説をとってある。
 しかし、村の長老たちの中には、それもあったであろうが、天田宮の油代としてこの田の米を換金していたという両方の説がある。今はどちらが正しいのか詳しくする根拠がないのであるが、どちらも間違いではないだろうし、時代の違いから後世になるにしたがい、八幡宮よりも地元の氏神を大切にするようになり、天田宮の賄い用の田となったと考えるのが妥当のように思える。


 大量権(だいりょうごん) :。「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇央部の砂質の所の開墾が行われたものと思われる。

城戸(きど)・北城戸(きたきど) :森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。
 
大量権(だいりょうごん)付近
灯篭の辻 かえる石

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より(奥野平次著)

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。
 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。

 この伝説は、寝屋川市のおばあさん(2代も前)の話として原稿が残っていると、門真市文化財愛護推進委員の方から奥野平次さんが受け取られたという経緯があり、今から180年も前の蛙石の話がよそで生きていたということです。
 
 
 牛引き石
 しばらく行くと民家の軒下に、農閑期に牛を訓練したと言う牛引き石がある。
三角形をした石の頂点の部分に綱を入れる穴が掘られている。
 
 
 北城戸付近、須弥寺へ向かう辺りで、平田さんより見事な石楠花が咲いているとの紹介がありました。
 森・堂池下の民家のシャクナゲ(石楠花) (昨年4月25日撮影)
 
 
 
森の堂池と新川
 森新池を通り過ぎ、傍示への道を登ってゆくと、山側にU字溝で作られた小川が流れている。この小川を「新川」といい、200Mばかり登ったところに、交野水道局の貯水槽が2基あり、その手前を流れている小久保川から水の取り入れ口が造られている。
 ここから延々1300mの水路が、森の山裾を縫うように堂池まで造られている。木立の中、薮が繁る中を先人達が苦労されて造られた貴重な水路である。

 さらさらと流れる水の音を聞きながら、どんどんと小川沿いの小道を歩く。時々、立ち止まって回りの山合いを見渡し、心地良く水が流れる様に感激を覚える。幾度か曲がりくねった道を抜けると、突然目の前が開け、手前の森の村里の向こうに、交野市の町が一望される見事な風景が目の前に現れた。探検隊の皆、歓声を上げる。 堂池まで1300mを歩き、汗水流して造られた村人たちの苦労がしみじみと偲ばれた。堂池は沢山の水量で一杯だった。
 堂池の北側の崖の海成粘土層を観察。森の惣墓に入ると、左手に迎え六地蔵、さらに一石三地蔵尊が祀られていた。その後、須弥寺で村里にあったといわれる沢山の石仏にお会いした。
 
 円通山須弥寺の建っている場所が「堂ノ前」で、須弥寺の観音堂の建っている岡が「堂山」である。観音堂の山という意味で堂山と呼ばれている。 


森の堂池
 
新川
 
 史跡ミニガイド
新川(用水路、森堂池まで1300m)
 
河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり、堂の池に入る。
 
「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか。」
この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。
 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」
 須弥寺の当時の住職も、池底にごみが溜まらないようにと石の阿弥陀様を池の底に安置され、たらい船に乗ってはごみ集めをし、樋からごみを流すことに努力されたそうだ。

森堂池
 森南3丁目に円通山須弥寺がある。南側にある池が堂池である。
須弥寺に向かって突き出している丘陵とその西南に同じ方向に出っ張った尾根の間の谷を堰き止めたものである。この池の水は、森の水田に供給されている。面積は43.17アールである。

堂池の海成粘土層
 
堂池の北側の道の北側の崖に、厚さ2mの海成粘土層が見えます。
 海の底にたまって出来た地層を海成層といい、海底に積もった粘土層を海成粘土層という。
昔は、「交野は海でしたという」、証拠である。

森新池 
 
河内森の駅より森へ入る道の途中にあるのが、森新池という。面積は50アールあり、池への水は小久保川のの上流の天田神社と第1幼稚園の東で川に堰があって、私市領へ引く水路と森新池へ引く水路に分かれている。池へはこの谷川の水が天田宮の北を通って入っている。
森の惣墓入口の六地蔵と一石三尊像
 森の惣墓に入ると、左手に迎え六地蔵、さらに一石三地蔵尊が祀られている。その後、須弥寺で村里にあったといわれる沢山の石仏にお会いした。
 
 
現在・過去・未来を表わす一石三尊像
平田政信さんの「今日の話はなんでっか」を参照
 亡くなった人を救う地蔵の能力を、より具体的に表現しているのが、墓地の入口などにまつられている六体地蔵です。輪廻(りねん)する六つの世界、地獄・修羅・人・餓鬼・天・畜生の六道のすべてに分身して、その世界の衆生を救うのが六地蔵です。
 亡くなった人が六道のどこにいようと、地蔵菩薩がそれぞれに合った姿で出現して救ってくれる、こんな願いが六地蔵にはこめられているのです。また、六体地蔵は墓を見守ってくれている。
 参る前には「いつもお世話になっています」帰る時は「またお願いします」とお礼を言うのが作法です。
 
「おどんがうつ死んだら        みちばたいける     通る人ごち花いける」
これは貧しい乙女の歌う五木の子守唄、人の心をしぼる悲しい物語が秘められているのでしょう。
野の仏の多様性はその時々の人の心の多様性をあらわしているのでしょう。

地蔵さんがずっと人間を救って下さっている。
 とするとお釈迦が亡くなったあと、ずっと現在までも地蔵さんが人々を救ういちばん近い存在なのですから地蔵像の多さの理由もわかります。その能力は虚空蔵の蔵と同じで無限です。
 地蔵の地は大地。大地はすべての生命を育む源ですから、地蔵菩薩の巧徳もあらゆるものをカバーしてくれているのです。
 リリーフ役を示すものとして、釈迦如来(過去)・地蔵菩薩(現在)・弥勒菩薩(未来)で三尊を構成する例もあります。
 また、パワーの具体的な例として「地蔵の十益」を説く経典があり、菩薩の身で修業に励む地蔵の立てた誓いのことです。この中には土地豊穣とか現存益寿(長生きを保証すると言うような意味)など主として現世の利益があげられています。
 「お地蔵さんにお願いしたら何でも聞き入れてもらえる」という面では、現世利益のスーパースターである観音菩薩とかなり類似しています。
円通山 須弥寺
 須弥寺は平安時代の初期に当たる淳和天皇の天長3年(826)僧空海が森の地にこられて、一草堂を結んだのが当寺の始まりと言われている。また、観音堂は清和天皇の貞観3年(861)大和国の大安寺の僧行教が天皇に奉じて、国家鎮護のために宇佐八幡を勧請(かんじょう)し、八幡の男山に祭って、石清水八幡宮とした。
 この勧請のとき、行教は観音菩薩により宇佐八幡からの旅が警固されると信じたことから、この大任を果たすことができた。このことこから、この観音を「石清水八幡警固観世音菩薩」と呼んだのである。そして、この観音が須弥寺の南の上の観音堂に祭られている。その後この観音堂も荒れ果てることになったが、延久年間に森村に来た庄司の森宮内少輔が修復したため、それまでの「無垢根」村を「森」村と改めるようになったというのである
 
観音堂 「石清水八幡警固観世音菩薩」が祀られている
 
須弥寺で頂いた「参拝のしおり」
 
 
 須弥寺遺跡
 陽石
 
 

この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。
子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています
 唐臼(からうす)地蔵のお話
 地蔵の舟形石は、尖らないまでも山型が普通である。
石の先がまるくへこんで(凹)いるもの、そのくぼみが仏さんの頭に食い込んでいるものさえある。米つき(唐臼)の心棒受けを「じろう」と呼ぶ。これは地蔵の舌足らずだったのかも。足で踏む重い杵(キネ)の重心に、地蔵石仏をかませてきたという驚くぺき事実の名残りだと思われる。 唐臼の心棒や石垣、池に投げ捨てられたり、家柱の基台に使用される等は、明治初年に行われた神仏分離の被害者であったのだろうか。
 幾多の受難時代を過ごし再び村の辻に復活された仏さんたちに合掌。  
(よもやま便りより参照)
 
 
恐ろしい姿の脱衣婆坐像
三途の川を渡るのに六文銭が必要だ!
  須弥寺の脱衣婆、綺麗にお化粧されました!
大畑古墳 車塚古墳群第6号墳
 JR学研都市線のガードをくぐり、寺村方向へと進むと南川橋の交差点に出る。この交差点の北一帯は一段高い岡状となっており、水田にはなりえず、畑作と利用するのが精々であったため、大畑と地名が付いた。
 大畑古墳は、交野で一番新しい前方後円墳で5世紀頃の築造とみられているが、今は住宅の下である。しかしながら、後円部を取り囲むようにして道が巡っており、前方部突端の「落ち」もハッキリ残っている。弥生時代の遺跡検出に伴って発見された。
 弥生時代後期の遺物が出土した住宅地の上が最近の調査で、前方後円墳で、墳長90~95m、後円径50m高さ3m、前方部約50m高さ4mが確認された。 現在では、交野車塚古墳群に属していると分類されている。 
 
大畑古墳は後円部(向かって左側)と前方部(右側)が道路で分断されている
 
 南川 周辺
 古墳の発掘当時、辺りは見渡す限り水田の広がるのどかな風景でした。
 しかし、今は、府道交野久御山線が通り、交野高校の西にあった新池は埋め立てられ私部公園に。いきいきランド交野も建てられるなど、すっかり様変わりしてしまいました。
 また、古墳発掘当時に撮った写真の中に左下のレトロな雰囲気を漂わす写真がありました。これは、車塚古墳を東に、寺へと進む道にあった踏切です。この地道に踏切という、なんとも懐かしい感じのする光景ですが、すぐ横に線路の下をくぐる道路ができたため、今は撤去されて、右の写真のように線路への進入を防ぐフェンスが取り付けられています。
 
昭和47年当時のJRの踏切の様子
 
現在の様子

現場に行くと、今は途切れていますが、
道として使われていた形跡が残っています。
 南川と北川が落合橋で合流して前川となり、砂子橋の下を流れて交野市環境事業所の北で天野川に注いでいる。
 南川は、私部の南を流れる川で、畑中から私市へ出る道路が渡る落合橋から下流を前川と呼んでいる。それより上流は南川と北川の二川になっている。
 南川は傍示の里を源流にして「かいがけ道」の西の谷をけずって寺村に出る。府立交野高校あたりで扇状地形をつくる。また、ここは古代に集落が営まれた所でもある。寺村の前身であった「はたやまの村」や「てるは村」がこの谷筋にできては土砂の流出や洪水で押し流されて、栄枯盛衰をたどった場所である。東車塚古墳があり、高校のグランド下にも数基の古墳が埋もれている。
 
南川
 
交野三山が一望できます!
 
 
 
車塚古墳群の詳細は、こちらをご覧下さい
「今井」から南川の堤を西に進み久御山線の手前を左折した南川の堤の南の台地に、交野高校が建っている。校地全体が車塚古墳群跡である。

 奥野平次さんが著された「ふるさと交野を歩く・神の巻」には、概略次のように説明されている。

 《寺の南で乳母谷(おちごだに)から南川と名が変るのはどの辺だろうか。「おばたけ」の南を「巽山」寄りに流れて、片町線を越えたあたりから天井川になり、私部の南を通って天野川に注ぐ。
 南川が片町線を越すとすぐ、堤の南に柿、栗、桃の木の植わった四角い台地がある。続いて西に2枚の水田があって、その西に小形の丘(桃)がこれに続く。どちらも車塚と呼んでいる。東の車塚(大阪府買収)を東車塚、西の車塚(私有地)を西車塚と命名した。交野高校はここから南の大知池(おちのいけ)、それに続く草川(くそがわ)との間の12,042坪が用地と決まった。その後、東車塚に校舎の一部が食い込むという計画があきらかになった。
 現在の東車塚には柿や栗や桃が大きく育っていて、畑には野菜がつくられている。それでも土の中には古墳の主がおられるかも知れない。もしおられて、そこに校舎の一部を食いこましたら悔いは永遠に残るとひそかに心配した。

 昭和47年12月16日、府の教育委員会で東車塚を試掘することに決まった。西から東へ、南から北へ、各辺の真中に幅約1メートル、深さ約1メートルの試掘溝を掘った。溝の交わった中央の深さ50センチメートル付近から筒型銅器が出た。そっと磁石を当てると尖頭部が北を向いていた。周囲の土の色は薄桃色、近くに土師器の片と拳大の石が三個あった。続いて中央から少し南よりに短甲の側面(東側に弓状)が見えた。その下に錆色をした物があったので取り上げて見たら巴型銅器であった。予期しないものが出た。続いて古墳の発掘は進めら
れないので静かに埋めることにした。神さまがおいでになった。・・・・・・》
 以下、淡々と車塚古墳の当時の発掘状況が細かく記されている。詳細については、奥野平次さんが著された「ふるさと交野を歩く・神の巻」をお読みいただきたい。

 そして、最後に次のように記され結ばれている。
 《交野高校はロマンの上に校舎ができた。東車塚南古墳の発掘中、西車塚の南側に西半分を残した古墳が見つかった。直径16メートル、その周囲に2メートルの濠を残していた。遺物らしいものは見つからなかった。古い南川の流れは敷地の北寄りから流れ込んで第5古墳の東をかすめ、西車塚の北半分にせまったのではなかろうか。
 最後になって、東車塚南古墳から西中塚南古墳を結ぶ線上に溝を掘るようにと指示を受けた。ところが後になって馬の埴輪が出土していたことが分かった。古墳は全部で六基あった。
 ある日、水野正好氏は私にこんなことを話された。「奥野さん、片町線の踏切に立って西を眺めて、沈んで行く真赤な夕日の下に六基の健康な古墳を描いて見なさい。狭い敷地に六つの古墳のある学校がどこにありましょう」と。

 誰の墳墓でしょう。ここに墓を造った豪族が、荒野であったころの交野を開拓するのにどんな役割を果たした神なのか、皆で考えて見たいです。車塚は生きている。大切に残したい。そんな所に交野高校は出来ている》
 

交野車塚古墳群 車塚古墳群は交野市南野10番地にある。
 現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。昭和47年、交野高校が建設されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。交野東車塚南古墳は、他では類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳で、その形から
「日の丸古墳」と言われる。北辺27.5m、南辺26.5m、東辺27.4m、西辺28.8m、その中央に直径22.4mの円墳がある。
 また、東車塚古墳は、5世紀初頭の時期のものと考えられており、周辺域でも確認例のない前方後方墳(墳長65m、後方部の高さ約6m、後方部幅33.55m)で、筒型銅器・巴形銅器・石製腕飾類など多数の遺物が出土している。中でも、甲冑は三角板革綴衝角短甲と呼ばれるタイプの一種で、全国でも20例ほどしか出土していない。


立花会長の挨拶で本日の歴史ウォークは楽しく有意義に終了しました。
参加の皆さん、大変お疲れ様でした!
今回も交野の古代ロマンの色々な歴史・史跡に出会うことが出来ました。
 案内役の平田政信さん有難う御座いました。


次回の歴史健康ウォークは、2014年5月10日(土)、星田の山歩きです。
  集合は午前9時 JR星田駅です。
 案内:大屋喜代治氏
最後までご覧いただき有難うございました!

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