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交野歴史健康ウォーク26回

2002.3.9、森地区・池シリーズ及び石仏探索



 森地区「池シリーズ及び石仏探索」
(とき)平成14年3月9日(土)晴れ
交野ドーム→森新池→交野市貯水槽→新川→
森堂池→森総墓→須弥寺→交野ドーム

交野古文化同好会
森の地名の由来
 交野地方には石清水八幡宮の荘園があった。新川からの眺望、手前が森村天暦3年(949)のことで三宅山一帯1400町歩にわたる広大なものである。津田山から交野山、竜王山、星田の山々まで入っていた。そのほかに山年貢を収納する倉庫、荘園の管理をする役人の住む住宅地などが6町歩、荘司(荘園の管理人)が荘園内の農民を使って耕作する田(佃、つくだ)が23町歩もあった。
 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。
 それによると延久年間(1069〜1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。



新川の取り口
交野市水道局の貯水槽
2基がある、小久保川から
新川用水路
森の山裾を縫うように
造られている
新川の用水路
谷筋では樋が掛けられている
新川
挟んで記念撮影
森堂池
森の水田に供給されている
新川から水が注ぎ込んでいる
かいがけ道
山を穿ち造られた道
新川の造成時のものか

 2002.3/9(土)天候晴れ、参加者6人。交野ドームを10時過ぎ出発。
 府道久御山線を渡り交野高校の前を西に行くと、ガソリンスタンドがある交差点に出会う。この辺りを「船戸」という。この交差点を南へ行くと岩船小学校に行く。この下に大知川(おちがわ)が流れてしる。
 「船戸」は、川や海岸での渡し場を意味するのと、ほかに船戸の神、すなわち道祖神のことをいうことがある。森の船戸は渡し場でなく、道祖神のことである。森墓地の迎え地蔵、一石三地蔵尊
 この南北の筋は地蔵筋に当たっている。村から出る旅人の安全を祈願した。また、村に残った家族の者が旅立った人が無事に帰ってきますようにと、あるいは日ごろの無病息災、家内安全を祈ったであろう。大知川という川があるところから、特に盆の供養や精霊流しをここでしたものと考えられる。
 遠い昔の、ほのぼのとした習わしを思い起こさせる地名である。
地蔵筋は、昔、岩船小学校付近に地蔵があって、村人の信仰を集めていた。このことから付けられた地名である。
 地蔵信仰は平安時代中期ごろから始まったと言われる。
一般民衆は村外れに地蔵様を立てて、それを毎日拝むことで来世への往生をお願いしたのである。
 森の人々も村の西外れに地蔵様を立て、日の沈みゆく西の方を拝みながら往生を求めていたものと思われる。

 森の村に入ると、あちこちに小さな池がある。小路の西側に「元森小学校の跡地」という石碑が立っている。

 森小学校及び交野小学校の変遷を見ると、以下のようである。
 明治7年(1874)10月 森村に百四十番小学校創立、
 明治8年(1875)森小学校と改称
 明治18年(1885)交南小学校が天野川堤に建ち、森は第二分校となる。
 (星田、寝屋、打上、灯油、茄子作、山ノ上、村野、倉治、私部、森の10校を廃して、交南小学校を本校とし、第一分校星田、第二分校森、第三分校倉治、第四分校山ノ上、第五分校灯油、第一分教場を村野に設ける。)
 明治25年(1892)交野、磐船、星田、川越、水本、5ケ村組合で交南高等小学校創設。
 明治28年(1895)交野、磐船両村組合尋常小学校できる。
 昭和22年(1947)3月 教育基本法、学校教育法によって、六・三制義務教育となり、交野小学校、星田小学校、交野中学校できる。

 森新池を通り過ぎ、傍示への道を登ってゆくと、新川沿いの道を歩く山側にU字溝で作られた小川が流れている。この小川を「新川」といい、200Mばかり登ったところに、交野水道局の貯水槽が2基あり、その手前を流れている小久保川に水の取り入れ口が造られている。
 ここから延々1300mの水路が、森の山裾を縫うように堂池まで造られている。木立の中、薮が繁る中を先人達が苦労されて造られた貴重な水路である。

 さらさらと流れる水の音を聞きながら、どんどんと小川沿いの小道を歩く。時々、立ち止まって回りの山合い(古墳)を見渡し、心地良く水が流れる様に感激を覚える。幾度か曲がりくねった道を抜けると、突然目の前が開け、手前の森の村里の向こうに、交野市の町が一望される見事な風景が目の前に現れた。探検隊の皆、歓声を上げる。 堂池まで1300mを歩き、汗水流して造られた村人たちの苦労がしみじみと偲ばれた。堂池は沢山の水量で一杯だった。
 堂池の北側の崖の海成粘土層を観察。森の総墓に入ると、左手に迎え六地蔵、さらに一石三地蔵尊が祀られていた。その後、須弥寺で村里にあったといわれる沢山の石仏にお会いした。
 
 円通山須弥寺須弥寺の古代人崇拝の陽石の建っている場所が「堂ノ前」で、須弥寺の観音堂の建っている岡が「堂山」である。観音堂の山という意味で堂山と呼ばれている。
 
 須弥寺は平安時代の初期に当たる淳和天皇の天長3年(826)僧空海が森の地にこられて、一草堂を結んだのが当寺の始まりと言われている。また、観音堂は清和天皇の貞観3年(861)大和国の大安寺の僧行教が天皇に奉じて、国家鎮護のために宇佐八幡を勧請(かんじょう)し、八幡の男山に祭って、石清水八幡宮とした。
 この勧請のとき、行教は観音菩薩により宇佐八幡からの旅が警固されると信じたことから、この大任を果たすことができた。このことこから、この観音を「石清水八幡警固観世音菩薩」と呼んだのである。そして、この観音が須弥寺の南の上の観音堂に祭られている。その後この観音堂も荒れ果てることになったが、延久年間に森村に来た庄司の森宮内少輔が修復したため、それまでの「無垢根」村を「森」村と改めるようになったというのである
  
 平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!! 

史跡ミニガイド
新川(用水路、森堂池まで1300m)
 
河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり、堂の池に入る。新川を挟んで記念撮影
 
「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか。」
この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。
 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」
 須弥寺の当時の住職も、池底にごみが溜まらないようにと石の阿弥陀様を池の底に安置され、たらい船に乗ってはごみ集めをし、樋からごみを流すことに努力されたそうだ。

森堂池
 森南3丁目に円通山須弥寺がある。南側にある池が堂池である。
須弥寺に向かって突き出している丘陵とその西南に同じ方向に出っ張った尾根の間の谷を堰き止めたものである。この池の水は、森の水田に供給されている。面積は43.17アールである。
堂池北側の崖に、海成粘土層が見える
堂池の海成粘土層
 
堂池の北側の道の北側の崖に、厚さ2mの海成粘土層が見えます。
 海の底にたまって出来た地層を海成層といい、海底に積もった粘土層を海成粘土層という。
昔は、「交野は海でしたという」、証拠である。

森新池 
 
河内森の駅より森へ入る道の途中にあるのが、森新池という。面積は50アールあり、池への水は小久保川のの上流の天田神社と第1幼稚園の東で川に堰があって、私市領へ引く水路と森新池へ引く水路に分かれている。池へはこの谷川の水が天田宮の北を通って入っている。

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