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 森、私市地区「池シリーズ及び石仏探索」27回
(とき)平成14年3月23日(土)晴れ

交野ドーム→森→森地区池めぐり→新川→森燈篭の辻→森新池→
天田神社→松宝寺池→西念寺(墾田地蔵)→河内磐船駅→交野ドーム
交野古文化同好会

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私市の地名の由来
 交野市には、私部(きさべ)、私市(きさいち)という変わった地名がある。どちらも非常に古い地名で、その歴史と成り立ちは私部と同じく、私市の発生は敏達天皇のころである。
京阪電車河内森附近の道路沿い
満開の枝垂桜を背に全員で記念写真

 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)(のちの推古天皇)、が皇后になってから、皇后領として皇后のための部曲(かきべ)として私部(きさいちべ)をなのっていた。その後、大化改新を機に律令体制へと進み、天野川筋の農耕地は条里制の施行とともに交野の村人は班田農民となっていく。
 そうなると私市は条里の始まりから天野川筋の中心的集落となって、私部内(きさいちべのうち)となっていった。これが後世、なまって「きさいちのうち」「きさいち」となった。
 その後、班田制の崩壊とともに新たに荘園が生まれ、発展していく。交野でも三宅山(私部山、寺、森、私市、星田山一帯)が石清水八幡宮に寄進され、広大な荘園ができる。また、荒地が開墾されて墾田となり、田畑が増加すれば生産も増え、人口も増大する。物資の交流も盛んとなる。私市は、大和と結ばれる磐船街道筋であり、山ろくの村としての市場町ともなりえた
 中世以後は、交野は東高野街道や山根街道などの発達から、中心は天野川の中、下流域へと移っていき、私市は、かっての繁栄は失っていったと思われる。ただ、磐船神社や獅子窟寺といった信仰から、お参りする人の往来、熊野参り、奈良への通行者等で人の往来は、とだえることはなかったであろう

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森の辻にある石灯籠
森の燈篭
いつも綺麗に掃除され
大事にされている
森の村を一歩山に
登ると段々に次から次へと
小さな池が現れる
池を求めて山を上る 「新川」との交差地点
森の池群の一つ 松宝寺池附近の桜も七分咲き

 3/23(土)天候晴れ、参加者14名。歴史ウォークが始まって以来の盛況である。交野ドームを10時過ぎ出発。森の地蔵の辻
 府道久御山線を渡り交野高校の前を西に行くと、ガソリンスタンドがある交差点に出会う。この辺りを「船戸」という。この交差点を南へ行くと岩船小学校に行く。この下に大知川(おちがわ)が流れている。小学校を過ぎJR学研都市線のガード下をくぐり、西に行くと、市内で2軒の酒造会社の一つ、大門酒造さんの西の辻に出る。ここから南に細い路地を進み小さな池を過ぎ、左へ折れて山側に入る辻に、お地蔵様が菜の花などが生けられ大事に祀られている。
 家並みを過ぎ一歩山に入ると、左手に満水を溜め込んだ池に出合った。上に登ると次から次へと小さな池があり、3/9の歴史ウォークで歩いた、「新川」に出合った。また、一筋南の谷筋を登ると、ここでも沢山の池に出会った。
 平田さんから、幾つの池があったか数えましたかと言われましたが、10数個までは数えたがわからなくなった。
 森には、池の数が大小合わせて29個あり、殆どが個人所有だそうだ。この水が、森の山麓下の段々になった水田へと供給されている。先人が開かれた大変な労苦の財産である。
 森の集落に下り、燈篭の辻で燈篭のくぼみ石、「蛙石」の伝説をお聞きする。森の集落を過ぎて天田神社にお参りし、坂口の三又の堰を確認。ここで、小久保川の水が森、私市などへと三つに分配されている。森村の中の小さな蓮池
 松宝寺池、ここから見える段々の田圃の風景が良い。堤の桜も咲き始めて美しい。京阪電車を跨ぐ百重が原橋を渡り、右に曲がり下る坂道が和田坂(わだんざか)である。ここから見える、私市ののどかな田園風景が一望され気持ちが良い。
 この坂を下り、西念寺へ曲がる角に、古代条里制一条通跡の石碑が立っている。一条通りは京阪電鉄河内森駅の二つ私市寄りに東西に走る農道がある。天田宮の鳥居を南に出るとこの道路にぶつかる。この通りが天野川筋の条里制の基点、−条通りである。
 西念寺の墾田地蔵千手寺の双体石仏など探索して、河内森駅筋の満開の枝垂桜を背景に全員で記念写真を撮り、河内磐船駅で解散。
 平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 今年は例年より2週間ぐらい桜の開花が早く、南川沿いや私市の松宝寺の池附近、河内森駅周辺など、5部咲きから満開の枝垂桜など桜見物も楽しめた。月末頃に満開を迎えるか?次週(3/30)の石仏探索、拓本体験が楽しみである。
 一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!! 

史跡ミニガイド西念寺の墾田地蔵と石仏

墾田(ごんでん)地蔵
 私市の西念寺の門を入った南側に、東面して立っておられる。
この石仏は、もともと寺の北側の小久保川を越した北の墾田筋(ごんでんすじ)に立っておられたのをここに移したのだと言われている。美しく整なった地藏さんで室町中期の作と言われ、村人たちの悩みをお救いされた有難いお地蔵様である。また、この西念寺の庭は、本堂から西に向かって本尊の阿弥陀様、西側から本堂に向かってお地蔵さまと有難い庭である。

坂口の三又堰坂口の三又の堰、小久保川から分配されている
 松宝寺の台地の下一帯、現在は水田になっている。条里制の一条通りの南側にあたり、松宝寺から山間に池が点在し、池の名も、池堂、池谷、潰池などが付けられていたが、今は埋められてしまい松宝寺池だけが残っている。
  この谷は、水の出の良い所であるので、谷をせき止めてため池を造っている。その池の水の管理若しくは用水の流れを方向別に分ける分水地の役目をしていたものである。
 そのことを示すのに、天田宮幼稚園と道を隔てた南側に「三又の堰(せき)」がある。ここから松宝寺、中通り、佃筋の三方に水を配分したのである。水の管理には十分気を配ったのである。
 小久保川は普段は殆ど水はないが、一度大雨が降ると水が溢れ山砂がどっと流されてくる。

天田の宮
京阪電鉄河内森駅の東と西 の水田地帯を「天田」と呼んでいる。           交野市史によれば「天田」は「甘田」であるという。それは古代社会、弥生時代に稲作が日本に伝わってきて、天野川の豊かな地にも稲作が入ってきた。天野川の流域は沼沢地が多く、天然かんがいで籾(もみ)をまけば自然と稲が実る。その穂を摘めば米となる。こんなすばらしい食料を与えてくれる野、自然の恵みのごとく流れる川、これらをたたえて「甘野」、「甘野川」と言った。自然の猛威にただおびえていた人々に、こんなすばらしい食物を与えてくれるこの川の水と野に対し、ただ驚きということだけでなしに、ついにそれは敬いの心となって表れてくる。
  この恵みを与えてくれる田の神、川の神に対して、社を造って祭った。田の神の社は稲田の一番上に建て、「あまたの宮・天田の宮」とし川の神は谷を上がって巨岩の横たわる磐船の宮に祭った。両者の神は、はるかに遠い国から海を渡って稲作の技術を伝えた物部(もののべ)氏の祖先、饒速日命(にぎはやひのみこと)としている。「甘田宮」、「甘野川」などが平安時代になって「天田宮」、「天野川」になったというのである。

松宝寺池松宝寺池
私市松宝寺池のある台地は、獅子窟寺の西へせり出した尾根とその南、谷奥の谷筋と尺治の谷筋との間の尾根が西へのびて、私市の集落まで出てきている。
 松宝寺から山間に池が点在し、池の名も、池堂、池谷、潰池などが付けられていたが、今は埋められてしまい松宝寺池だけが残っている。この池も今は半分埋め立てられて公園になっている。

百重原(ものえがはら)
「百重・百々重」は、幾重にも重なり合う、次から次へと広がるという意味で、獅子窟寺から森の山々が幾重にも丘陵の尾根が重なり合って望まれる。そして、前の谷の延長線上には私市と森、天田宮の西の平地(院田の地)が望まれる。
百重原に立って、北、西を望めば、山の重なり、谷の広がり、眺望まことによろしきを得ている。
  このことが百重原と付けられた地名のゆえんであろう。

「和田坂(わだんさか)」和田坂(わだんざか)を下る
 小路(しょうじ)から松宝寺へ行く道で、京阪交野線の上の百重ケ原橋の手前で左の方へ入り井手の内へ下る細い坂道ある。坂の下は十字路になっている。この坂を「わだんさか」という。「和田坂」と書くが、「わだ」は万葉集にも出ている古語で、川や入江の屈曲した所をいう。この坂も屈曲した坂の意味であろう。「わらんさか」で「蓑(わら)の坂」の意味だと言う人もあるが、「わだ」の方が実景を表わしていて妥当かと思われる。

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