第167回 交野歴史健康ウォーク
|
|
||||||||||||
森も寺や倉治と同じく山麓と谷筋を堰き止めた小さな池が多い。比較的大きいのは森新池、堂池と大知池ぐらいである。よって民地の池が圧倒的に多く、29の池のうち森区の池は6つでしかない。 森の場合、集落の北側の谷筋、楢木谷から関留にかけて、13のため池が並ぶ。その南側の卵塔から志水にかけても2つ。小久保川の上手にも3つと山麓の谷水を集めたため池を数多く作っているのが特徴である。 池の数も29と非常に多い。郡津と同じく個人の池が23と多い。この数多くのしかも小さな池が森の集落の直ぐ西と北の山麓の下の台地状の段々になった水田に水を供給している。 |
||||||||||||
●新川(用水路、森堂池まで1300m) 河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。 新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり、堂の池に入る。 「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか。」 この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」 須弥寺の当時の住職も、池底にごみが溜まらないようにと石の阿弥陀様を池の底に安置され、たらい船に乗ってはごみ集めをし、樋からごみを流すことに努力されたそうだ。 ●森堂池 森南3丁目に円通山須弥寺がある。南側にある池が堂池である。 須弥寺に向かって突き出している丘陵とその西南に同じ方向に出っ張った尾根の間の谷を堰き止めたものである。この池の水は、森の水田に供給されている。面積は43.17アールである。 ●堂池の海成粘土層 堂池の北側の道の北側の崖に、厚さ2mの海成粘土層が見えます。 海の底にたまって出来た地層を海成層といい、海底に積もった粘土層を海成粘土層という。 昔は、「交野は海でしたという」、証拠である。 ●森新池 河内森の駅より森へ入る道の途中にあるのが、森新池という。面積は50アールあり、池への水は小久保川のの上流の天田神社と第1幼稚園の東で川に三又堰があって、私市領へ引く水路と森新池へ引く水路に分かれている。池へはこの谷川の水が天田宮の北を通って入っている。 池の水は池から北、JR学研都市線河内磐船駅の方へ段々状の田へ供給されている。水路はJA磐船支店の横を通って権田筋を下って行く。森へせり出した尾根の先端部の途切れた所に堤防を囲って棚田状の水の便の悪い田への供給に役立っている。 ●大知池跡(おちいけあと) 堂池の下、交野高校のグランドの南側にあった三角形の池が大知池跡である。現在は荒れ地のままに放置されている。須弥寺の北側、JRの所で堂山の丘陵が終わる。その先、大知川と一つ東の川の合流点の三角地帯である。面積は18.9アール、約2反歩である。 「オチ」は落ち水である。丘陵の端から平野部に段々状に下がって行く。それに伴って、田も階段状に配列する。この下から「オチ川」が始まる。 |
加賀田(かがた) :河内磐船駅の北で、京阪交野線の東側の地域をいう。 草地のような平坦地で、江戸時代中期以降、私市領の池堂のため池の水を貰って、加賀田へ引いていた。この用水をとくに加賀田用水と言う。 権田(ごんでん) :加賀田の南側、河内磐船の南北の地を言う。ごんでんとは、墾田のことで、三宅山に属する佃の開墾の拡張によって開けた土地である。 言い伝えによると、権田の野道に地蔵さんがあり、「権田お春」とよんで村人が親しんでいた。今は、私市の西念寺の境内に残っている。 地蔵筋(じぞうすじ) :昔、村はずれのあたり(岩船小学校付近)に地蔵が立っていて、村人の信仰を集めていた。そのことから付けられた地名。 茶長(ちゃおさ) :昔から茶の栽培が行われていた。昔、この茶畑の責任者の畑が多くあったので付けられたか、あるいは屋敷があったために付けられたのではないかと言う。 油田(あぶらでん) :森は石清水八幡宮の神人(じにん)として昔から仕えてきているので、油田は八幡宮の燈明の油代として、この田の米を上げていたという説をとってある。 しかし、村の長老たちの中には、それもあったであろうが、天田宮の油代としてこの田の米を換金していたという両方の説がある。今はどちらが正しいのか詳しくする根拠がないのであるが、どちらも間違いではないだろうし、時代の違いから後世になるにしたがい、八幡宮よりも地元の氏神を大切にするようになり、天田宮の賄い用の田となったと考えるのが妥当のように思える。 大量権(だいりょうごん) :。「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇央部の砂質の所の開墾が行われたものと思われる。 |
城戸(きど)・北城戸(きたきど) 森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。 |
交野市水道局付近より東山麓を望む。 3本の関電の鉄塔に挟まれた谷水を水源としている。 |
|||||||||||||||||||
森区の利水状況について (大門利男氏に調査纏めをお願いしました。記して感謝申し上げます) 森区の水源と川について (1)関西電力左の鉄塔(1の鉄塔とここで言つておこう)附近について 寺からカイガケの道を登つて、傍示の部落に最初の家の伊丹様の家から、森に降りてくる自動車道路がある。険しい岩間を過ぎるあたりから西へ張り出した尾根筋の下を通る。視界が広がり、西北側に寺村が見える。はじめに記した1の鉄塔は傍示と森の境界点である。 自動車道路を下ると北側は傍示から寺に変わる。この位置は割合高く、交野の平野を見渡すことができます。途中で古代の古墳の一つ鍋塚古墳と呼ばれている場所がある。自動車路はさらに下がりこの道が南を向きます。その付近から下は少し傾斜をなし、始めて森区のほうに水が流れている。 実はこの道路とが北斜面から南斜面へかわる地点から上に向かって、古代の古墳の一つ鍋塚古墳と呼ばれている付近で道路の北斜面にあったところの水は、大部分寺の山の急斜面を通り、寺村の川に流れ込みます。 ところで、自動車道路の下の西の部分は奥古畑、楢木谷(通称楢が谷)、墓の谷、堂山となつて寺との境界となります。だが、森の水源となるのは楢が谷と墓の谷に集まる水だけしか利用できません。 また、自動車が南を向いて少し走り、 1の鉄塔から西を向いて下りた細い山道と合流しますが、このあたりから降雨は南を向いて流れ、小久保川の上流となります。 傍示から下りてきた道路はこんどは西へ向いて走り、森1号古墳がある小高いところに達し、ここは、森南2丁目の民家から東の上部に向かって楢ヶ谷を進み登り切った山道と合流します。この合流点から下のほうは南へ自動車道は下り、新川の開始点の水上げ へと続きます。このあたりに降った、森の山に降った水が、南側に流れこれが小久保川に注ぐことになります。 (2)関西電力中の鉄塔付近について 府民の森となつている南部の私部の場所は森と境界を接していて、中に見える関西電力の鉄塔近くが、高い地点であり、私部と森の境界線より南側に降った雨は、南の府民の森へ流れて行って私市の尺治川の源流となります。 反対に、北側に降った雨は、府民の森の北側の森区の山で、大門酒造の水源地の清水谷を通り、私市の山田の北へ出て小久保川に注ぎます。 (3)関西電力右の鉄塔附近について。 これから、私市側下の方の獅子窟寺北側の谷は皆、小久保川に流れこみます。 2 森の新川について (1)以上のように、森の田圃を潤す水源は集落の南の側に多く、昔の森の人は、楢が谷に1つの村の池の他多数の個人池をまた、卵塔の谷に数個の個人池をつくりました。これでも駄目なため衆智を集めて、新川をつくられました。 (2)水上げ 新川の分堰地点 交野市水道局の水源地の上部タンクが設置されている場所で傍示への自動車道の分かれる道。 私市の水利組合と小久保川の水について、水利権を設けています。 (3)水当番 私市6月1日、3日、5日、7日、・・・ 最終9月21日まで 森 6月2日、4日、6日、8日、 ・・・ 最終9月22日まで (4)森水利組合4班構成 上組 中組 南組 北組 約10軒以上で組構成 去年(平成28年)の当番は上組と中組であり、今年(平成29年)の当番は南組と北組です。 新川の掃除について (1)毎年1月中旬の日曜または休日、上に記した4組全員 (2) 5月中旬の日曜日、今年は5月7日(日) (3) 水利組合役員は適宜 |
|||||||||||||||||||
森の集落は、上記の航空写真のように山麓に沿って立地している。 |
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
森新池 改修記念碑 | |||||||||||||||||||
當宮の口池は明治38年向井直勝氏の発起によりて創設せらる、氏の没後 昭和9年拡張工事を起工成るに及び村民氏の徳を追慕しこの碑を建つ 昭和9年5月 |
|||||||||||||||||||
森新池の排水口 |
|||||||||||||||||||
山田川から流れてくる水を、この「三又の堰」で小久保川の本流と私市と森とに分配している。 | |||||||||||||||||||
三又の堰で記念撮影 |
|||||||||||||||||||
森南2丁目辺りの辻の地蔵さん |
|||||||||||||||||||
2つの高区配水池 |
|||||||||||||||||||
山田川(小久保川の源流)を探索 | |||||||||||||||||||
山田川の北と東の分岐点付近で、野鳥を観察されるメンバー オオルリ、キビタキ、サンコウチョウなどを観察されているとのこと。 |
|||||||||||||||||||
森新池を通り過ぎ傍示への道を登ってゆくと、山側にU字溝で作られた小川が流れている。 この小川を「新川」といい、200Mばかり登ったところに、交野水道局の貯水槽が2基あり、 その手前を流れている小久保川から水の取り入れ口が造られている。 ここから、山神、卵塔、桧木山、楢が谷、桧木谷を経て、 延々1300mの水路が、森の山裾を縫うように堂池まで造られている。 この新川は、向井直一さんの4代前の直樹さんと村民の協力で出来たそうだ。 木立の中、薮が繁る中を先人達が苦労されて造られた貴重な用水路である。 「川手をどうつけるかを苦労しはったと聞いている。消防署の東側付近から提灯で 高低を見やはったそうだ。」「向井直樹さんはどんな苦労の中で新川をつけられたか。 千日も苦慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」 |
|||||||||||||||||||
新川と森の村へと流れる用水の分岐点 |
|||||||||||||||||||
上のU字溝が新川へと流れる |
|||||||||||||||||||
堂池のすぐ上で、大門さんが待って居られて、付近の様子を説明いただきました。 |
|||||||||||||||||||
この付近は桜が植林され、春には子供や村人たちが集う楽しい場所だそうです。 |
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
池田住職様から説明を受ける |
|||||||||||||||||||
警固観音・十一面観音立像を拝観 |
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
大知川から交野高校の南にあった大知池跡を望む | |||||||||||||||||||
次回の歴史健康ウォークは、9月9日(土)午前9時〜12時、JR星田駅集合。 星田の史跡・水路と里道を歩く(U)、案内は大屋喜代治氏です。 沢山の方々の参加をお待ちしております。 |
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
最後までご覧いただき有難うございました! |