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第167回 交野歴史健康ウォーク
2017.7.8(土) 17名(会員15名)参加
小久保川の源流を探り新川を歩く

 

日時:平成29年7月8日(土)  午前9時 集合場所 京阪・河内森駅前 

京阪河内森駅→小久保川用水→森新池→川東神社→三又の堰→
山神→山田→山田川(小久保川)の源流→新川→堂池→
須弥寺(阿弥陀如来・警固観音拝観)→大知池(おちいけ)
→大知川(おちかわ)→草川(くさかわ)
  12時過ぎ解散  徒歩約4.5km

参加17名(会員15名)
  案内: 村田義朗氏

森の地名の由来新川からの眺望、手前が森村
 
 交野地方には石清水八幡宮の荘園があった。天暦3年(949)のことで三宅山一帯1400町歩にわたる広大なものである。津田山から交野山、竜王山、星田の山々まで入っていた。そのほかに山年貢を収納する倉庫、荘園の管理をする役人の住む住宅地などが6町歩、荘司(荘園の管理人)が荘園内の農民を使って耕作する田(佃、つくだ)が23町歩もあった。
 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。
 それによると延久年間(1069〜1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。

 交野歴史健康ウォークは7月8日(土)午前9時、京阪河内森駅前に集合、17名(会員15名)の参加で楽しく開催されました。天候は晴れ。
 今回のウォークに先立ち、森在住の大門利男さんには大変お世話になり、「森区の利水状況について」大変詳しく調べて下さいました。また、6月12日には、大門さんを始め高尾さん、木下さん、川田さんと5人で下見したり、小久保川・山田川・新川へのルートの確認など、何度も足を運びました。 
 また、森区長様、利水組合長様には、当日或いは下見に新川の立ち入り等にいろいろとご配慮いただき誠に有難うございました。
 
 歴史健康ウォーク当日は、真夏日のような熱い天候にも拘わらず、沢山の方々に参加いただき、皆さんと共に小久保川の源流と新川を歩きました。大門利男さんより貴重な資料や助言を頂き、予定通り案内することができましたことに大きな喜びを感じております。

 また、須弥寺の住職様には、ご本尊「阿弥陀如来像」「警固観音・千手観音」の案内など、いろいろとご配慮いただき誠に有難うございました。心より感謝申し上げます。

 当日、新川への登り口で参加されたメンバーのお一人が足を滑らせて左足を打撲・裂傷されました。その際、皆様のテキパキとした処置、救急車の手配、並びに介添えなどご協力を賜り心から感謝申し上げます。

※参考  交野市史復刻編・民俗編・自然編、ふるさと交野を歩く(里の巻)などを参照いたしました。
 記して感謝申し上げます。
 ※ウォーク当日出かける準備をしていた時、NHKTVのホッと関西で「河内森駅周辺の探訪が放映されました。
何とタイミングの良いことだと喜んで観ました。放映内容の一部は、こちらをご覧ください

須弥寺の警固観音堂前にて記念撮影
当日のウォークのMAP
森村の小字地図
 傍示から森へと通じる道路が東から西へと付けられており、この道路は傍示の里から西へ張り出した尾根筋を通り、途中で尾根の北側から南側へかわるが、その地点から麓まで割合緩やかな斜面をなしている。
 実はこの道路が北斜面から南斜面へと変える地点から下に向かって古代の古墳が点在しているのである。寺村の方は山麓に横穴式古墳が多いのであるが、森の場合は、尾根の高い部分を利用して造った竪穴式古墳である。これが森古墳群と呼ばれている。その中で標高150mの高所にある雷塚古墳は全長106mの撥形の墳形を持つ前期・前方後円墳である。

 雷塚古墳は、森古墳群の中にある最大級の前方後円墳。古墳時代前期(4世紀)の築造と考えられ、卑弥呼の墓といわれる奈良の桜井・箸墓 古墳と同じくバチ型の古墳である。全長106m。

 この古墳発見の契機は小学生だった。化石探しに夢中になっていた小学生3 人が交野市森地区の山中で土器のかけらを発見したのである。とりあえずの位置確認調査が行われ、昭和57年、向井山、卵塔、 大知谷、ゴミケ谷にかけて五つの前方後円墳が発見された。その中でも最大の大きさを持つのが雷塚古墳だが、周囲に陪塚と見 られる円墳も見つかっている。

 少年達が発見した土器は、二重口縁を持つ壺型土器の破片であった。この土器の形式は古く、まだ円筒埴輪が出現する前の時期である。これから古墳時代も前期に近いと推定されているが、本格的な発掘調査はまだ実施されていない。森古墳群は、前方後円墳4基、円墳1基から構成されているが、土器発見地点から更に山奥へ600m進んだ標高143mか ら155mの場所で、雷塚古墳が発見された。
 全長106m、後円部経56m、前方部先端幅32m、くびれ部幅22m、尾根の地形を巧みに利用した前方部2段、後円部3段の段築が形成されている。特に後円部に比べて前方部の幅が小さく、高さが極端に低い点、前方部が三味線のバチのように開いている点、 墳丘部に埴輪や葺き石などが見られない点などが、前期古墳の中でもさらに古い部類に属するのではないかと見られている。

森の川と池

 小久保川

 森の天田宮の北を東に上がっていくと交野市の高区配水池の大きなタンクが目に入る。この側を流れる小さな小川が天田宮付近から小久保川となる。低区配水池付近までは山田川と呼ばれている。
 森新池から下は天井川となり、川の両側の水田地帯より相当高い堤防になっている。その両側の低い水田に水を供給している。右岸の権田、左岸の天田、井手内と一等地の水田が広がっている。
 小久保川の上流の谷は市の配水池があるように水の豊富な場所である。周囲の谷水が集まってきて湧水となり、また地下水となる。水が豊富だということでこの川の水を天田神社の上手で、森地区と私市地区に「三つ又の堰」で分水している。

 森も寺や倉治と同じく山麓と谷筋を堰き止めた小さな池が多い。比較的大きいのは森新池、堂池と大知池ぐらいである。よって民地の池が圧倒的に多く、29の池のうち森区の池は6つでしかない。
 森の場合、集落の北側の谷筋、楢木谷から関留にかけて、13のため池が並ぶ。その南側の卵塔から志水にかけても2つ。小久保川の上手にも3つと山麓の谷水を集めたため池を数多く作っているのが特徴である。
 池の数も29と非常に多い。郡津と同じく個人の池が23と多い。この数多くのしかも小さな池が森の集落の直ぐ西と北の山麓の下の台地状の段々になった水田に水を供給している。
新川(用水路、森堂池まで1300m)
 河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。
 新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり、堂の池に入る。  「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか。」 この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。

 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」  須弥寺の当時の住職も、池底にごみが溜まらないようにと石の阿弥陀様を池の底に安置され、たらい船に乗ってはごみ集めをし、樋からごみを流すことに努力されたそうだ。

森堂池  
 森南3丁目に円通山須弥寺がある。南側にある池が堂池である。 須弥寺に向かって突き出している丘陵とその西南に同じ方向に出っ張った尾根の間の谷を堰き止めたものである。この池の水は、森の水田に供給されている。面積は43.17アールである。


堂池の海成粘土層  
 堂池の北側の道の北側の崖に、厚さ2mの海成粘土層が見えます。 海の底にたまって出来た地層を海成層といい、海底に積もった粘土層を海成粘土層という。 昔は、「交野は海でしたという」、証拠である。

森新池   
 河内森の駅より森へ入る道の途中にあるのが、森新池という。面積は50アールあり、池への水は小久保川のの上流の天田神社と第1幼稚園の東で川に三又堰があって、私市領へ引く水路と森新池へ引く水路に分かれている。池へはこの谷川の水が天田宮の北を通って入っている。
 池の水は池から北、JR学研都市線河内磐船駅の方へ段々状の田へ供給されている。水路はJA磐船支店の横を通って権田筋を下って行く。森へせり出した尾根の先端部の途切れた所に堤防を囲って棚田状の水の便の悪い田への供給に役立っている。

大知池跡(おちいけあと)
 堂池の下、交野高校のグランドの南側にあった三角形の池が大知池跡である。現在は荒れ地のままに放置されている。須弥寺の北側、JRの所で堂山の丘陵が終わる。その先、大知川と一つ東の川の合流点の三角地帯である。面積は18.9アール、約2反歩である。
 「オチ」は落ち水である。丘陵の端から平野部に段々状に下がって行く。それに伴って、田も階段状に配列する。この下から「オチ川」が始まる。



森の小字名と言い伝え

 加賀田(かがた) :河内磐船駅の北で、京阪交野線の東側の地域をいう。
   草地のような平坦地で、江戸時代中期以降、私市領の池堂のため池の水を貰って、加賀田へ引いていた。この用水をとくに加賀田用水と言う。

 権田(ごんでん) :加賀田の南側、河内磐船の南北の地を言う。ごんでんとは、墾田のことで、三宅山に属する佃の開墾の拡張によって開けた土地である。
  言い伝えによると、権田の野道に地蔵さんがあり、「権田お春」とよんで村人が親しんでいた。今は、私市の西念寺の境内に残っている。

 地蔵筋(じぞうすじ) :昔、村はずれのあたり(岩船小学校付近)に地蔵が立っていて、村人の信仰を集めていた。そのことから付けられた地名。
  
 茶長(ちゃおさ) :昔から茶の栽培が行われていた。昔、この茶畑の責任者の畑が多くあったので付けられたか、あるいは屋敷があったために付けられたのではないかと言う。

 油田(あぶらでん) :森は石清水八幡宮の神人(じにん)として昔から仕えてきているので、油田は八幡宮の燈明の油代として、この田の米を上げていたという説をとってある。
 しかし、村の長老たちの中には、それもあったであろうが、天田宮の油代としてこの田の米を換金していたという両方の説がある。今はどちらが正しいのか詳しくする根拠がないのであるが、どちらも間違いではないだろうし、時代の違いから後世になるにしたがい、八幡宮よりも地元の氏神を大切にするようになり、天田宮の賄い用の田となったと考えるのが妥当のように思える。

 大量権(だいりょうごん) :。「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇央部の砂質の所の開墾が行われたものと思われる。
城戸(きど)・北城戸(きたきど)

  森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。

森の水源地

交野市水道局付近より東山麓を望む。
3本の関電の鉄塔に挟まれた谷水を水源としている。
森区の利水状況について
   (大門利男氏に調査纏めをお願いしました。記して感謝申し上げます)

森区の水源と川について

(1)関西電力左の鉄塔(1の鉄塔とここで言つておこう)附近について

 寺からカイガケの道を登つて、傍示の部落に最初の家の伊丹様の家から、森に降りてくる自動車道路がある。険しい岩間を過ぎるあたりから西へ張り出した尾根筋の下を通る。視界が広がり、西北側に寺村が見える。はじめに記した1の鉄塔は傍示と森の境界点である。
 自動車道路を下ると北側は傍示から寺に変わる。この位置は割合高く、交野の平野を見渡すことができます。途中で古代の古墳の一つ鍋塚古墳と呼ばれている場所がある。自動車路はさらに下がりこの道が南を向きます。その付近から下は少し傾斜をなし、始めて森区のほうに水が流れている。
 実はこの道路とが北斜面から南斜面へかわる地点から上に向かって、古代の古墳の一つ鍋塚古墳と呼ばれている付近で道路の北斜面にあったところの水は、大部分寺の山の急斜面を通り、寺村の川に流れ込みます。
 ところで、自動車道路の下の西の部分は奥古畑、楢木谷(通称楢が谷)、墓の谷、堂山となつて寺との境界となります。だが、森の水源となるのは楢が谷と墓の谷に集まる水だけしか利用できません。
 また、自動車が南を向いて少し走り、 1の鉄塔から西を向いて下りた細い山道と合流しますが、このあたりから降雨は南を向いて流れ、小久保川の上流となります。
 傍示から下りてきた道路はこんどは西へ向いて走り、森1号古墳がある小高いところに達し、ここは、森南2丁目の民家から東の上部に向かって楢ヶ谷を進み登り切った山道と合流します。この合流点から下のほうは南へ自動車道は下り、新川の開始点の水上げ へと続きます。このあたりに降った、森の山に降った水が、南側に流れこれが小久保川に注ぐことになります。
(2)関西電力中の鉄塔付近について
 府民の森となつている南部の私部の場所は森と境界を接していて、中に見える関西電力の鉄塔近くが、高い地点であり、私部と森の境界線より南側に降った雨は、南の府民の森へ流れて行って私市の尺治川の源流となります。
 反対に、北側に降った雨は、府民の森の北側の森区の山で、大門酒造の水源地の清水谷を通り、私市の山田の北へ出て小久保川に注ぎます。

(3)関西電力右の鉄塔附近について。
 これから、私市側下の方の獅子窟寺北側の谷は皆、小久保川に流れこみます。

2 森の新川について

(1)以上のように、森の田圃を潤す水源は集落の南の側に多く、昔の森の人は、楢が谷に1つの村の池の他多数の個人池をまた、卵塔の谷に数個の個人池をつくりました。これでも駄目なため衆智を集めて、新川をつくられました。
(2)水上げ 新川の分堰地点
交野市水道局の水源地の上部タンクが設置されている場所で傍示への自動車道の分かれる道。
私市の水利組合と小久保川の水について、水利権を設けています。


(3)水当番
  私市6月1日、3日、5日、7日、・・・ 最終9月21日まで
  森 6月2日、4日、6日、8日、 ・・・ 最終9月22日まで
(4)森水利組合4班構成
  上組 中組 南組 北組 約10軒以上で組構成
  去年(平成28年)の当番は上組と中組であり、今年(平成29年)の当番は南組と北組です。

新川の掃除について
   (1)毎年1月中旬の日曜または休日、上に記した4組全員
   (2) 5月中旬の日曜日、今年は5月7日(日)
   (3) 水利組合役員は適宜

森の集落は、上記の航空写真のように山麓に沿って立地している。
川東神社
【川東神社】
 創建:年代不詳だがこの地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。
 ご祭神 :品陀別命(八幡さま)  森・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。

 また、当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。

当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。
 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。
 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在)
又この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。
森新池 改修記念碑

當宮の口池は明治38年向井直勝氏の発起によりて創設せらる、氏の没後
昭和9年拡張工事を起工成るに及び村民氏の徳を追慕しこの碑を建つ 昭和9年5月

森新池の排水口
 三又の堰
山田川から流れてくる水を、この「三又の堰」で小久保川の本流と私市と森とに分配している。

三又の堰で記念撮影

森南2丁目辺りの辻の地蔵さん
新川の水上げ地点

2つの高区配水池
山田川(小久保川の源流)を探索

山田川の北と東の分岐点付近で、野鳥を観察されるメンバー
オオルリ、キビタキ、サンコウチョウなどを観察されているとのこと。
新川を歩く
新川の概略図

森新池を通り過ぎ傍示への道を登ってゆくと、山側にU字溝で作られた小川が流れている。
この小川を「新川」といい、200Mばかり登ったところに、交野水道局の貯水槽が2基あり、
その手前を流れている小久保川から水の取り入れ口が造られている。
 ここから、山神、卵塔、桧木山、楢が谷、桧木谷を経て、
延々1300mの水路が、森の山裾を縫うように堂池まで造られている。
この新川は、向井直一さんの4代前の直樹さんと村民の協力で出来たそうだ。
木立の中、薮が繁る中を先人達が苦労されて造られた貴重な用水路である。




「川手をどうつけるかを苦労しはったと聞いている。消防署の東側付近から提灯で
高低を見やはったそうだ。」「向井直樹さんはどんな苦労の中で新川をつけられたか。
千日も苦慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」


新川と森の村へと流れる用水の分岐点

上のU字溝が新川へと流れる

堂池のすぐ上で、大門さんが待って居られて、付近の様子を説明いただきました。

この付近は桜が植林され、春には子供や村人たちが集う楽しい場所だそうです。
 森新池を通り過ぎ、傍示への道を登ってゆくと、山側にU字溝で作られた小川が流れている。この小川を「新川」といい、200Mばかり登ったところに、交野水道局の貯水槽が2基あり、その手前を流れている小久保川から水の取り入れ口が造られている。
 ここから延々1300mの水路が、森の山裾を縫うように堂池まで造られている。木立の中、薮が繁る中を先人達が苦労されて造られた貴重な水路である。

 円通山須弥寺の建っている場所が「堂ノ前」で、須弥寺の観音堂の建っている岡が「堂山」である。観音堂の山という意味で堂山と呼ばれている。 

森の堂池
 
新川
円通山 須弥寺
 須弥寺は平安時代の初期に当たる淳和天皇の天長3年(826)僧空海が森の地にこられて、一草堂を結んだのが当寺の始まりと言われている。また、観音堂は清和天皇の貞観3年(861)大和国の大安寺の僧行教が天皇に奉じて、国家鎮護のために宇佐八幡を勧請(かんじょう)し、八幡の男山に祭って、石清水八幡宮とした。
 この勧請のとき、行教は観音菩薩により宇佐八幡からの旅が警固されると信じたことから、この大任を果たすことができた。このことこから、この観音を「石清水八幡警固観世音菩薩」と呼んだのである。そして、この観音が須弥寺の南の上の観音堂に祭られている。その後この観音堂も荒れ果てることになったが、延久年間に森村に来た庄司の森宮内少輔が修復したため、それまでの「無垢根」村を「森」村と改めるようになったというのである

池田住職様から説明を受ける

警固観音・十一面観音立像を拝観
須弥寺の「参拝のしおり」
 
 
 須弥寺遺跡
 陽石
 
 

この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。
子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています
大知川から交野高校の南にあった大知池跡を望む
次回の歴史健康ウォークは、9月9日(土)午前9時〜12時、JR星田駅集合。
星田の史跡・水路と里道を歩く(U)、案内は大屋喜代治氏です。
沢山の方々の参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました!

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