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交野歴史健康ウォーク 116回

バスツアー 2008.12.3
<お江の里・浅井三姉妹ゆかりの地探訪> 小谷城跡と国友鉄砲の里・黒壁スクエア周辺散策

第二京阪・交野北→久御山JC→瀬田東JC→名神・黒丸SA(トイレ休憩)→
米原JC→長浜IC→お江の里・ふるさと館→小谷城跡散策→
小谷戦国歴史資料館→昼食→国友鉄砲の里資料館→長浜市内散策→
長浜IC→名神・黒丸SA(トイレ休憩)→第二京阪・交野北→交野到着


小谷城跡へ登ろう! ビデオをご覧ください

9月10日、先発組、後発組に分かれて小谷城跡バスに乗車、
番所跡から本丸まで、地元の語り部さんの案内で、
ゆっくりと小谷城の歴史と琵琶湖の眺望を楽しんで来ました。


  




 交野歴史健康ウォーク116回は、長浜・お江の里・浅井三姉妹ゆかりの地探訪バス旅行を開催しました。

 このたびの大型台風12号により、南紀を中心に西日本を襲った記録的な豪雨による災害は甚大であり悲痛です、今も、山崩れによる堰止め湖の危険な状況が続いています。8月末から9月初めにかけて降り続いた雨はやっと6日に晴れその後も不順な天候は続き、バスツアー当日の天気が心配されましたが、朝から秋晴れに恵まれ絶好のバス旅行日和となりました。
 参加者は古文化同好会の元気なメンバー合計40名。

 2011年9月10日(土)午前7時30分、予定通り私部・焼肉久太郎の駐車場を出発。バスは順調に走り「予定の9時50分よりも30分も早く、お江のふるさと館前の小谷城跡バス停に到着。お陰さまで当初予定より30分繰り上げて、先発組(20人)=10時発、後発組(20人)=10時30分発のチケットを購入することができた。

 当初予定行程を30分繰り上げて先発組、後発組に分かれて小谷城跡バスに乗車、番所跡から本丸まで、地元の語り部さんの案内で、ゆっくりと小谷城の歴史と琵琶湖の眺望を楽しみ、お江の里ふるさと館、小谷城戦国歴史館などを見学、周辺で昼食も楽しく頂きました。

 午後1時過ぎ、小谷城戦国歴史館前の駐車場で全員バスに乗車、地元長浜観光のボランティアのお二人のユーモア溢れる案内で、「国友鉄砲の里」、長浜黒壁周辺散策を十分に楽しんだ後、午後4時、お旅所駐車場を出発、6時過ぎ交野に無事到着しました。

 平田副会長をはじめ沢山の世話役の皆さん、参加された皆さんの絶大なご協力を得て、素晴らしいバス旅行が開催されましたことに、心から感謝申し上げます。


写真撮影は、黒田幸男さん、綱分清美さん、高尾秀司さんにお願いしました。

※各種資料関係は、Web(小谷城戦国歴史館HP・国友鉄砲の里HP)、長浜観光HP、
博覧会HPなどを参照させて頂きました。記して、感謝申し上げます。
当日の行程
9月10日(土)  焼肉久太郎駐車場  7:30集合・出発
7:30発 第二京阪・交野北→久御山JC→瀬田東JC→名神・黒丸SA(トイレ休憩)→
米原JC→長浜IC→お江の里・ふるさと館バス停 9:20着→

 先発組(20人)
  9:30 お江の里・ふるさと館見学 → 10:00 小谷城バス乗車 →
  番所跡→本丸まで語り部とゆっくりウォーク→11:30ふるさと館到着→
  長浜観光ボランティアと合流、「小谷戦国歴史資料館」へ移動→資料館見学
  →周辺で昼食→13:10 資料館前にて後発組と合流、バスに乗車

 後発組(20人)
  9:30 「小谷戦国歴史資料館」見学 → 10:30 小谷城バス乗車 →
  番所跡→本丸まで語り部とゆっくりウォーク→12:00 ふるさと館到着

   → お江の里・ふるさと館見学
周辺で昼食 13:00バスに乗車 →
  13:10 先発組と資料館前にて合流

 13:10 小谷戦国歴史資料館→ 13:30 国友鉄砲の里資料館 14:15→
14:30 長浜市内散策→16:00お旅所駐車場発→長浜IC→名神・黒丸SA(トイレ休憩)→
第二京阪・交野北→交野到着
 イズミヤ 18:00過ぎ 解散
 今回の歴史ウォークに先立ち世話役3人で7月26日に下見に行きました。お江のふるさと館前の小谷城バス停で25人乗りのマイクロバスに乗車、番所跡から本丸まで、地元語り部さんにゆっくりと案内して頂きながら小谷城の歴史と琵琶湖の眺望を楽しみました。

 ウォーク本番は9月10日の土曜日で、小谷城跡へのバスの団体予約が出来ないことが分かった。参加される皆さんにも是非とも小谷城跡へご案内したく、いろいろと策を練った結果、当初の出発時間を30分繰り上げ、9時50分前にはバスのチケットの購入を済ませ、一度に全部が乗れないことを想定して、先発組(20人)=10時30分発、後発組(20人)=11時発に分けて行動することとしました。

 7月30日、古文化同好会の役員会で出発時間の繰り上げなど当日の日程案を提案し承認され、出発時間の繰り上げなど、参加者への連絡は世話人を通して行い、新会員や遠方の方については、電話・ハガキにより周知徹底をはかりました。
 また、出発前々日には、江・浅井三姉妹博覧会実行委員会事務局に電話を入れて、当日40名が小谷城跡のバスに乗車するため、10時前にはバスのチケットを先発組(20人)、後発組(20人)に分けて購入することを申し入れ、現地のバスチケット売り場事務局あて連絡してもらうなど、出来る限りの万全を期した。

9月10日、当日の散策マップ




国史跡 小谷城に登る



小谷城跡
 小谷城が築かれた小谷山は、標高495mの急峻な山です。前面には虎御前山・山脇山・丁野山、西に高時川、背後には伊吹山系が控える自然の要害に囲まれた屈指の山城です。

 城下には北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還、そこから南には、東山道に通じる小谷道が分かれていました。 小谷城跡は、小谷山に深く切り込んだ
清水谷(きよみずだに)とその両側の尾根、及び小谷山々頂大嶽(おおづく)にあり、その構造は、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷、それらを守るように配置された出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・福寿丸・山崎丸の独立した砦からなります

 天正元年(1573)9月1日、織田信長によって攻め落とされるまで、小谷城は北近江を統治した浅井氏三代の拠城として機能します。初代亮政が頭角を現し始めた大永3年(1523)頃から数えて、約50年の歴を刻んできたのです。
浅井家を巡る人びと元亀争乱

 元亀元年(1570)に織田信長が浅井の同盟である越前の朝倉氏を攻めたことによって事態は大きく変化します。
この一報を聞くや否や長政は義兄信長から離反し、織田・徳川連合軍を朝倉軍とともに姉川で迎え撃ちます。浅井・朝倉軍は姉川では敗れ退陣したものの、その後「志賀の陣」で優勢となり一進一退の攻防を繰り返しました。
 一度は和睦を結びましたが、天正元年(1573)大嶽を攻め落とされ、ここを守っていた朝倉軍は退却し朝倉義景は越前国大野で自刃します。信長は小谷城へ総攻撃をかけ、同年8月29日久政自刃(享年49)、9月1日長政も小谷城内赤尾屋敷で自刃しました。(享年29)こうして小谷城落城、浅井三代は潰えました。
 落城後、秀吉が小谷城主となるが、約2年半在城しただけで今浜(現在の長浜)に築城することになり小谷城の石塁、城郭、町家、寺院などを移設した。 ここに小谷城は廃城となり その歴史を終えた。
浅井 三姉妹系図
浅井三姉妹

長政とお市の子のうち、三人の娘たちは、戦国から江戸と続く動乱の時代の中で、歴史に大きく名を刻むこととなります。姉妹の名前は、茶々・初・江です。浅井と織田の血統を受け継いだ彼女らは、それぞれ豊臣、京極、徳川へと嫁ぎ、波乱の運命をたどっています。


三女 江
天正元年(1573)、小谷城落城の年に生まれました。
動乱の中父母を亡くし、後見人となった秀吉の計らいで、天正12年(1582)に佐治一成(かずなり)と、文禄元年(1592)に羽柴小吉秀勝と結婚しています。一成とは秀吉の命で離縁させられ、秀勝とは死別しています。
文禄4年(1595)、6歳年下の徳川秀忠と3度目の結婚をし、二代将軍となった夫との間に二男五女をもうけました。このうち長男の家光は三代将軍に、五女の和子(まさこ)は後水尾天皇のもとへ輿入れし興子(おきこ)(後の明正(めいしょう)天皇)を生み、将軍家・天皇家に浅井家の血筋を残しました。江戸城で54歳の生涯を閉じた江は、その死後当代の女性としては最高位の従一位を贈られ、東京芝の増上寺に眠ります。


 小谷城跡への登り口は伊部口(大手道)と清水谷口(搦手口)がある。
自然の地形により次第に高く階段状に城郭が配置されているのが良く解ります。 下の方から順に、出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金門、大広間、本丸(鐘ヶ丸)、赤尾屋敷、中丸、京極丸、小丸と続き 山王丸(395m)が詰の丸となっている。 このほか大嶽城(標高495m)はじめ 西へ向かう尾根にも多くの城砦跡が残っている。  
小谷城跡へ登ろう! ビデオをご覧ください

9月10日、先発組、後発組に分かれて小谷城跡バスに乗車、
番所跡から本丸まで、地元の語り部さんの案内で、
ゆっくりと小谷城の歴史と琵琶湖の眺望を楽しんで来ました。


  

小谷城跡へ歴史道、綱分さん、黒田さんが撮影された写真を紹介します!


小谷山・小谷城跡と周辺城下町の模型

史跡 小谷城跡案内図  小谷城戦国歴史館




小谷城跡 歴史道を歩く

小谷城跡への登り口は伊部口(大手道)と清水谷口(搦手口)がある。
自然の地形により次第に高く階段状に城郭が配置されているのが良く解ります。
下の方から順に、出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金門、
大広間、本丸(鐘ヶ丸)、赤尾屋敷、中丸、京極丸、小丸と続き 山王丸(395m)が詰の丸となっている。
このほか大嶽城(標高495m)はじめ 西へ向かう尾根にも多くの城砦跡が残っている。


出丸跡

主郭尾根の最先端にある曲輪である。
独立した砦となっており本丸跡を守るためのものである。
上下二段の曲輪と土塁からなる。

真柄峠

大永5年(1525)六角高頼が浅井亮政を討つべく小谷城を攻めた時、越前より朝倉氏の軍奉行朝倉教景が来援した。

その朝倉教景に従ってきた武将真柄備中守が守った所で、その名をとって真柄峠と呼ぶようになったと伝えられている
金吾丸跡

大永5年(1525)六角高頼が小谷城を攻めた時、朝倉金吾教景が援軍に来てここに陣を布いたといわれ、教景の名乗りを取って金吾丸と名付けたと伝わる。四段の曲輪と土塁からなる。

番所跡

金吾丸跡の裏にある。小谷城の主要道である登山道と清水谷中程からくる虎ヶ谷道の終点に位置し、小谷城主郭の入り口にあたる重要な曲輪である。
 ここから本格的な城郭となる。いくつかの曲輪で構成され、各所に石垣が見られ、東側には幅1.3mの土塁が築かれている。史跡小谷城跡環境整備事業で高さ2 cmの銅製五輪塔が出土した。なお、林道もここが終点となつている。
虎御前山展望所

眼前の虎御前山に信長が陣を張った
御茶屋跡

番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。曲輪は一段であるが、比較的広く、曲輪の真ん中を前後に分ける低い土塁が見られる。
 「御茶屋」という風雅な名前には似つかない軍事施設である。
御馬屋跡

御馬屋跡は三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。
本丸跡の前面にあり本丸を守るための曲輪である。
ここから、清水谷側の斜面に本丸跡後方まで幅約2 mの帯曲輪がある。この帯曲輪にはいくつかの竪堀も見
られる。
馬洗池跡

馬洗池跡は御馬屋跡の背後にある、南北9 m、東西6.6mの石積みの池で、中央東寄りに石垣の仕切がある。
首居石

黒金門跡の手前にある。
天文2年(1533) 1月京極氏の有力被官であった今井秀信を神照寺で殺害し、首をここにさらしたと伝えられる。
赤尾屋敷

浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。
天正元年9月1日最後の攻撃のため黒金御門から打って出た長政は信長の兵に攻められ、鐘ケ丸に帰る事ができずやむなく、重臣赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。
享年29歳であった。石碑が建てられていた。
桜馬場跡

御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右二段からなる。西側の曲輪は建物の礎石が確認されている。
桜馬場跡  城内随一の大パノラマがひろがる!
大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」のロケ地の中心地。

浅井家臣団の慰霊碑

      小谷城跡石碑
黒金御門跡

両脇に巨石の群れを構えた御門跡はいかめしさに圧倒されそうである。
秀吉の破城による跡が往昔を物語る。
大広間跡

別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ約85m。幅約35mで前面に現在は崩れているが高さ約4 m (桜馬場跡) の石垣が積まれており、東寄りに黒金門跡がある。
 大広間跡の東側には、高さ約1,5 mの石垣が築かれている。大広間跡は、建物跡が検出されているほか、北東隅に長さ3.3m、横2.7 m、深さ0.9mの石組みの井戸跡とこれに接続する石組みの溝跡が、北西隅には蔵跡が確認されている。大広間跡北に本丸跡がある。
本丸跡
江戸時代中期の小谷城跡古絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。南北約40m、東西約25mの広さを持ち上下二段からなる。
 大広間跡側に石垣が築かれている。本丸跡の西・東側の裾に土塁が築かれている。
大堀切跡

本丸跡の北にある大規模な堀跡。番所跡から本丸跡までとその上を区切るためのものである。

中丸跡

大堀切跡の北にある曲輪で三段からなる。それぞれの曲輪に横矢を設けている。石垣が見られる。


京極丸跡
京極氏の屋敷があったところと言われている。しかし、京極氏は、亮政の頃は神照寺におり、久政、長政の頃は坂田郡河内城にいた。
 大広間に次ぐ広大な曲輪である。前面に馬出のように曲輪を配置している。

 東側に高さ3 mの上塁を設け、その下に四段の曲輪を配置する。清水谷側斜面にも広い曲輪を設けている。
小丸跡

浅井久政が天正元年1573)8月27日に鶴松太夫の介錯により自刃した曲輪である。左右二段の曲輪からなる。

山王丸跡

 小谷城の詰めの丸である。山王権現が祀られていた。山王権現は、現在小谷神社と名称が変わり小谷寺の一角で祀られている。
 山王丸跡は四段からなり、比較的大きな石を用いた高さ約5 mの石垣が築かれ桝型の虎口が考えられ規模は本丸を上回る。前面に馬出を設ける。



小谷城戦国歴史資料館

 本館建物(旧湖北町児童館)は、平成19年3月30日に、地域再生法による認定を内閣総理大臣より受けまして、施設の改修を行い、史跡小谷城跡と一体になった歴史資料館として平成19年10月7日開館いたしました。
小谷城跡は、その価値から昭和12年4月に本丸跡等の山城部分が史跡指定されました。平成7年2月には、浅井氏とその家臣団の屋敷があつた、清水谷地区が史跡の追加指定を受けました。
 また、史跡小谷城跡周辺には戦国時代の城郭が多く残されています。小谷城攻めのために築かれた虎御前山城跡、朝倉軍が守った丁野山城跡、浅井の武将がこもつた中島城跡、琵琶湖の湖岸にある小谷城の支城山本山城跡など、いずれも浅井長政と織田信長の小谷城攻防戦を物語る貴重な城郭です。



小谷城戦国歴史資料館


小谷城戦国歴史資料館の館長さんより
小谷城の歴史を詳しく解説いただいた
小谷城は、標高495mの急峻な小谷山に築かれた戦国時代屈指の山城です。西に虎御前山、山脇山、丁野山があり小谷城との間には三条川が、南には田川が流れ、背後には伊吹山系が控え自然の要害に囲まれています。

小谷城は大永3年(1523)の京極家の内紛の頃に築城されたと考えられます。記録によれば、初期の小谷城は小谷山最高峰の大嶽(おおづく)に築かれたことが知られます。小谷城は、本丸を中心とする主郭と、浅井氏とその家臣団の屋敷のあつた清水谷、これを守るように配された出丸、金吾丸、大嶽城、月所丸、焼尾丸、福寿丸、山崎丸の独立した砦からなっています。

主要部は、大嶽より南にのびる小谷山最大の尾根にあります。下より番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金門、大広間、本丸、中ノ丸、京極丸、小丸と続き、この尾根の最も高い所に山王丸が位置しています。山王丸の北には六坊を配しています。

大嶽城は、幅の広い土塁と郭で構成されており、織田信長との小谷城攻防戦の時には、朝倉氏の武将が守っていました。大嶽から南にのびるもう一つの尾根には、福寿丸、山崎丸があり土塁を高く築き複雑な構造となっています。

清水谷は、小谷山に深く開析した谷で、奥行き約1000mの平地部分と、その奥長さ約920mからなつています。平地部分の最深部に浅井氏の屋敷跡と伝えられる「御屋敷」があり、谷の入口に向かつて、寺院や一族、重臣の屋敷群があったと考えられます。
また、谷の外には城下町が形成されていました。

小谷山

大獄城跡(左の奥の山)と清水谷道と小谷城跡
小谷城を築いた浅井氏は、北近江の守護京極氏の被官で、小谷城の西麓の丁野を本拠としていました。
大永3年(1523)、浅井亮政は京極氏の相続争いに乗じて、主導権を握り江北を支配していきました。亮政の勢力拡大を危惧した江南の戦国大名六角氏に度々攻められましたが、敗退しながらも亮政は徐々にその基盤を確立していきました。天文11年(1542)に亮政は没し、跡を継いだ久政は、天文22年(1553)六角義賢と戦い大敗し六角氏に服属しました。しかし、久政は六角氏の強い圧力を受けながらも用水論の裁定など、国人領主・土豪層の掌握に努めました。
久政の子賢政は、六角氏に属することを嫌い敵対しました。永禄3年(1560)8月、賢政は野良田で六角義賢と戦いこれを破り、永禄4年には名前を「長政」と改名しました。

永禄11年(1568)、長政は織田信長の妹お市の方を迎え同盟を結びました。しかし、元亀元年(1570)4月、信長が突如浅井氏の盟友の越前の戦国大名朝倉義景を攻撃したため、長政は信長から離反し義景に味方しました。6月28日、浅井・朝倉勢1万5千は織田・徳川勢2万5千と姉川で戦い敗れ小谷城に退きました。

同年9月、浅井・朝倉軍は大津に進撃し、19日、織田軍と大津の坂本で戦いこれを破り、11月26日には堅田で織田軍と戦い勝利するなど、浅井・朝倉軍は優勢でしたが、12月13日和睦しました。
しかし、この和睦はすぐに破棄され、信長は北近江を攻めました。元亀3年(1572)7月27日、信長は小谷城の南約lkmにある虎御前山に砦を築くよう命じ、8月8日には早くも完成しました。天正元年(1573)8月9日、信長は虎御前山城に着陣し、12日朝倉方が拠つていた小谷城の大嶽城を攻め落としました。翌13日、織田軍は越前に退却する朝倉軍を追撃し、刀根坂で破りました。
27日、越前から戻つた織田信長は、長政がこもる本丸と久政の守る小丸の間にある京極丸を落とし、久政を攻め自刃させました。9月1日、信長は本丸を攻撃しました。
長政は、本丸東下にある赤尾屋敷で自刃しました。29歳の生涯でした。

お市の方

浅井長政像(小谷城跡保勝会蔵)


小谷城戦国歴史資料館の館長さん
浅井三姉妹の生い立ちなど館長の熱弁に耳を傾ける皆さん

138cmの小柄なお江、戦国の時代を果敢に生き抜いた!

文禄4年(1595)、6歳年下の徳川秀忠と3度目の結婚をし、二代将軍となった夫との間に二男五女をもうけました。このうち長男の家光は三代将軍に、五女の和子(まさこ)は後水尾天皇のもとへ輿入れし興子(おきこ)(後の明正(めいしょう)天皇)を生み、将軍家・天皇家に浅井家の血筋を残しました。江戸城で54歳の生涯を閉じた江は、その死後当代の女性としては最高位の従一位を贈られ、東京芝の増上寺に眠ります。

お江のふるさと館

下見、ご苦労さまでした!

小谷城跡の解説を聞く

先発組、お江の里でお市さんと一緒に記念撮影


長浜観光ボランタリガイドの中澤さん

清水谷


小谷城戦国歴史資料館前の駐車場で全員合流後、
長浜観光ボランタリガイドの中澤さんより、小谷城や
城下町のことなど、解説を受けながら国友の鉄砲の里へと向かう



国友鉄砲の里資料館









司馬遼太郎の文学碑
国友鉄砲鍛冶

国友村に次郎助という鍛冶がいた。年の頃はわからないが、若者のような気がする。
かれは螺子(ネジ)についてさまざまに想像し、試みに刃の欠けた小刀でもって大根をくりぬき、巻き溝つきのねじ形をとりだし、もう一度大根にねじ入れてみた。これによって雄ねじと雌ねじの理をさとり、老熟者に説明すると、一同、大いに次郎助をほめた。その名が「国友鉄砲記」にとどめられていることからみても、かれの名と功は感嘆されつつ伝承したものかとおもえる。   
                       司馬遼太郎『街道をゆく』より




海を渡ってきた文化

天文12年(1543)8月25日、種子島の門倉岬に一艘の中国船が嵐のために漂着した。そこに乗つていたポルトガル人から、初めて日本に2挺の鉄砲が伝えられる。以降、国友 堺 根来など各地で鉄砲が作られた。鉄砲の伝来と共に新しい文化や特にネジの開発によって、大きく日本の歴史を変えた。
天下人の戦い

元亀元年(1570)姉川合戦で鉄砲は使用したが、天正3年(1575)の「長篠の戦い」では、3,000挺の鉄砲が使用され内500挺は、信長より受注を受けた国友鉄砲が使われ、信長の勝利となり、以後戦略が変わった。鍛冶師は、慶長18年(1613)1貫目・150匁120匁玉筒、翌年には、10匁・6匁玉筒を多量に作り家康に納めた。その1年後、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣Jでは大筒を使い、「夏の陣」は中筒 小筒を使い家康の大勝利となり、徳川250年の時代が来た。
国友鉄砲鍛冶

種子島に伝来した鉄砲は、早くも翌年から鉄砲を作り始めた。次朗助のネジの開発は大量の鉄砲の製造に成功し、鉄砲の最盛期には、70軒の鍛冶屋と500人を越す職人がいた。
鉄砲は、銃身を作る「鍛冶師」銃床を作る「台師」と引金や火ばさみ部分(カラクリ)を作る「金具師」の3人(分業)で1挺の鉄砲が出来る。また、彼らは、年寄 年寄脇 平鍛冶と組織をつくり大量の鉄砲の注文に対応した。
国友鉄砲のいろいろ

鉄砲は口径によつて細筒(小筒)・中筒・大筒・短筒・脇差鉄砲等幕末まで制作し、現存する火縄銃の大半は江戸時代中期から後期のものである。
鉄砲の規格は、10匁 20匁玉筒という。10匁(鉛玉直径18.35mm)玉筒は、銃口径18.7mmの鉄砲をいう。
鉄砲のできるまで

銃身は、真金を使い瓦金を丸くし(荒巻)更に葛巻(巻張り工法)でより強靭な銃身に仕上げた。素筒を八角の形にし、ネジを切り火皿・目当を付けて完成。銃床は樫の木を使い銃身・カラクリに合わせて作り上げる。中でも「さくじよう」(玉を込める棒)の穴をあける工法には苦労した。鉄は、播磨(兵庫県)「千種」や出雲(島根県)の「たらら」から運び使用した。
国友が生んだ科学者・文化人

東洋のエジソン国友―貫斎は、自ら作り上げた反射望遠鏡(1833)で天体観測を行い、天保7年(1836)の月面観測図は制度が高く、金星・木星等に土星の環と一つの惑星、同年8月15日の太陽の黒点観測図も精度の高い記録であり、また1年2ヶ月の連続観測に於いて太陽の自転に気付く。現存する4台の望遠鏡は、今も鮮明に見える。一貫斎は、天保11年(1840)63才没。
 遠州流の茶人辻宗範は、遠州流茶道家元再興に当たり「返し伝授」を行う一方、茶の湯を楽しみ多くの書画を残した。このように国友は、鉄砲という伝統産業から新しい技術者や文化人が活躍する町となった。



国友鉄砲の里資料館


館長さんより、火縄銃の解説を聞く
 東洋のエジソン国友―貫斎は、自ら作り上げた反射望遠鏡(1833)で天体観測を行い、天保7年(1836)の月面観測図は制度が高く、金星・木星等に土星の環と一つの惑星、同年8月15日の太陽の黒点観測図も精度の高い記録であり、また1年2ヶ月の連続観測に於いて太陽の自転に気付く。現存する4台の望遠鏡は、今も鮮明に見える。一貫斎は、天保11年(1840)63才没。
 遠州流の茶人辻宗範は、遠州流茶道家元再興に当たり「返し伝授」を行う一方、茶の湯を楽しみ多くの書画を残した。このように国友は、鉄砲という伝統産業から新しい技術者や文化人が活躍する町となった。


手にとって構える毛利さん

国友長次郎屋敷碑


鍛冶師 国友六左衛門屋敷跡

国友駐在所跡

綺麗に整備された国友町の街並み


鉄砲の模様が施された溝の鉄蓋



長浜・黒壁スクエアへと向かう


国友鉄砲の里資料館の駐車場を出発


長浜観光ボランタリガイドの岩越さん

名産品の浜ちりめんや仏壇、鉄道のお話をユーモアたっぷりに解説いただきました


お旅所駐車場 観光バスの乗降所

長浜市内・黒壁スクエア周辺散策




長浜城大手門跡


黒壁ガラス館 

明治時代に“黒壁銀行”として親しまれた明治銀行。
前身は明治33年に建てられた百三十銀行長浜支店。
平成元年、長浜市と民間により、ガラス館として蘇りました。
 その建物を改修した「黒壁ガラス館」を中心として、和風からヨーロッパアンティークまで
様々のガラス工芸品やレストランなどファッショナブルな店が連なる話題のスポットです。

翼果楼(よかろう) 下見の時に食事をしました
 長浜名物 サバそうめんが美味しい!

秀吉の金の藁草履


南北に走る北国街道

長浜の町を南北に貫く北国街道は、かつて江戸日本橋を起点とした五街道に次ぐ重要な道で、
多くの武将や旅人の往来、荷物の運搬でにぎわったといわれています。
なかでも、長浜城の大手門から岐阜の谷汲山華厳寺へと通じる谷汲街道と
北国街道との交差点あたりは、江戸時代からの町の中心地。


長浜観光ボランタリガイドの中澤さん
この一角に、明治33年、第百三十銀行長浜支店が建造されました。
洋風土蔵造りに黒漆喰の壁という和洋折衷の様相から「黒壁銀行」の愛称で
庶民に親しまれていましたが、昭和末期、建物は解体の危機に遭遇。

それを聞いた市民の間から、この地に息づく歴史と文化遺産を
未来へ守り生かそうという気運が高まり、昭和63年、第3セクター「黒壁」が誕生。
江戸時代の面影を残す古い街並みを生かしたまちづくりが始まりました。

黒壁 五号館


大手門通り 西門

曳山が通るため、商店街のアーケードの天井は異常に高い!


曳山博物館

曳山博物館の構想は昭和55年(1980年)に初めて提唱され、完成までに実に20年を要しました。
その間に、さまざまな人々がそれぞれの「理想の博物館」を考え、語ってくださいました。
そして、単なる曳山というモノの展示館ではなく、長浜曳山まつりを守り伝えていくコトの大切さを見てもらう、
知ってもらう、考えてもらう施設として曳山博物館が誕生しました。

米川に架かる大手橋から撮影
残暑厳しい中、ホッとするような爽やかな風が吹いていました


江戸時代の両替所 現在は、文泉堂
書道、俳句、骨董等々趣味の本色々

ちょっと、一休み

店内の様子  岸駒の襖絵


ユニークな形をした「お花ぎつねのオブジェ」


ながはま御坊表参道  突当たりに大通寺

色んなお店が軒を並べています


米川に架かる針屋橋

風情のある川面です


大通寺 建物のほとんどが指定文化財
総欅造りの山門をくぐると、そこは桃山文化の世界。
伏見城の遺構と伝えられる本堂や大広間をはじめ、円山応挙、狩野山楽・山雪、
岸駒の襖絵、さらに国の名勝に指定されている庭園など長浜の心を育んだ美の数々と出会えます。

総欅造りの山門

大通寺山門


豊国神社

秀吉公の遺徳を偲んで町衆が建立した神社。
徳川政権下、表向きは恵比寿神社でしたが、奥に秀吉公の神霊を祀っている

平さんより、
「古い右横書きの看板」
の写真を投稿いただきました
古く栄えた町ですから、古い右横書きの看板がどれほど残っているかを見てみました。 
二つしか目につきませんでした(添付)。寂しかったです。(奈良にはまだまだ残っています)

紙文具 (御坊表参道)
友禅和紙や和文具、絵手紙セットなどこだわりの紙遊館


宇根屋 (大手門通り)
骨董を現代生活に生かし易い価格で提供
長浜の名産品
名産品「浜ちりめん」

  絹織物の歴史は古く昔から絹生地が織られていた。江戸時代になり、中村林助、乾庄九郎によって、「浜ちりめん」が創り出された。現在でも高級絹織物として和服の生地に用いられています
濱仏壇

江戸時代中期に日本三大山車まつりの一つである、長浜曳山祭の曳山を型どり、仏壇の様式として藤岡和泉が創案した濱仏壇。一切の接着剤・釘等を使用しない構架組立方式で、彫刻は欅もしくは桧の丸彫で白木のまま使用するのが特徴です。
ビロード

江戸時代中期に西陣から伝来したビロードは、銅又はステンレスの針金を織り込んで輪奈をつくり、その先を小さなメスのような小刀で切って毛羽を立てたものと、針金を引き抜いたままのもの(輪奈天)とがあり、柔和な手ざわりと深みのある色調をもつのが特徴。
鼻緒

江戸時代中期に西陣からビロードが伝わるとそれを使った鼻緒の生産が始められました。縫製したビロードを裏返し、パイル面が表にくるようになっており、全国生産の大半を占めています。
親玉饅頭

百五十余年前の江戸天保年間に製造をはじめた銘酒の香りゆかしい美味無類の酒元饅頭。
長浜特産浜ちりめんの好景気には、京阪の得意先へ土産物としてよく持参されたそうです。
のっぺいうどん

湯葉や大きな椎茸などの具に、アンカケの汁をかけていただくうどん。生姜の風味が生きた、のっぺりとした汁が特徴。
地元では『うどん』をつけないで『のっぺい』と呼ばれる。
残暑厳しい天候の中、参加された皆さん、大変お疲れさまでした。
心配した行程も順調に進み、予定通り、浅井三姉妹のゆかりの地を
心行くまで堪能できましたことは、誠に申し分ないバスツアーとなりました。
長浜観光ボランティアの中澤さん、岩越さん大変お世話になりました。
最後に、お漬物処で買い求めた「ごぼうと大根の漬物」、美味しくいただいています。
次回の歴史健康ウォークは、10月8日(土)、大阪城史跡と戦跡ウォークです。
午前8時50分、JR河内磐船駅集合、皆さん奮ってご参加ください!

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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