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交野歴史健康ウォーク 142回

枚方東部 長尾駅から藤阪まで周辺史跡散策
2014.10.11(土)  25名参加
行   程 : JR長尾駅 9時30集合 @菅原神社(長尾)→ A正俊寺→ B伝王仁墓→
C王仁公園→ D旧田中家鋳物民俗資料館→ JR藤坂駅
 12時解散

案内 : 伊東 征八郎氏(交野古文化同好会)  

 交野歴史健康ウオークは10月11日(土)午前9時30分、JR長尾駅前に集合。当日は幸い晴天に恵まれ、25名(会員20名)が参加され楽しく開催されました。

 先ず、立花昇会長より開会の挨拶があり、続いて、講師の伊東征八郎氏より、最近、新装整備された長尾駅から藤阪駅までの行程について説明を受けた後、菅原神社へ向かって元気に出発しました。

 菅原神社では、当時の領主久貝正俊とその遺志を継いだ子正世が長尾丘陵の荒野山林を開拓して新田や畑を造り、京都長岡天神より分霊を受けて造営したこと、菅原道真と牛の話、また不老長寿の木・テンダイウヤクという珍しい樹木を紹介いただきました。続いて、父正俊を弔うために菩提寺として創建した正俊寺に踏み入れた途端、珍しい羅漢石像仏やいろいろな珍しい石造物などに目を奪われました。伝王仁墓で王仁博士が伝来された論語の一部や千字文をかみしめるように面白くお話しされたこと、旧田中家鋳物民俗資料館の建物や貴重な展示物などが印象に残りました。

 長尾駅から藤阪駅までの約4kmの台地は相当な高低差が感じられたが、殆どが下り坂で足の負担は軽い方だった。「交野から二駅目の駅近辺、こんな近くにも色々な史跡があり改めて歴史を知ることが出来て楽しいウォークでした」と言われたのが印象的でした。

 本稿を記載するにあたり、講師の伊東さんよりレジメを頂戴し、併せて「WEB」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 
 皆様、ご協力有難うございました。
参考/枚方市ホームページ・枚方市発行「ひらかた散策マップ」・ひらかた文化観光協会発行「ひらり」・正俊寺パンフ・現地説明板等


菅原神社 本殿前 記念撮影
当日配布されたレジメ
 
 
 
 JR長尾駅前に集合


講師の伊東征八郎氏
 
JR長尾駅
平成23年(2011) 6月から橋上駅舎化と枚方市の駅前広場整事業が開始され
駅舎は平成25年12013)2月10日に供用開始された。また、エレベーター、エスカレーターも設置され、
バリアフリー化される。西側の駅前広場は拡張されて、従来の3倍の3,000平方メートルとなる。
東側には線路に沿つて自転車・歩行者道が新設された。
菅原神社
 菅原神社は、社伝によると、久貝正俊が寛永(かんえい)20年(1647)細谷善兵衛に命じて、戸数13戸の村民や近隣村民を集め、彼らと共に当時八田広と呼ばれていた、長尾の荒野山林を開拓し新田や畑を造つた。
 開墾地は良い土壌で穀物の増収があり、この丘陵は「福をもたらす岡」とのことから正保(しょうほ)元年(1664)「福岡村」と名付けました。その後も開拓を奨励したため、近隣村落からの移入者も次第に多くなり、慶安(けいあん)3年(1650)に領主久貝正俊(くがいまさとし)の子正世(まさよ)が、長尾の丘陵地は荒野で河内、山城の国境で交通の要所であり、古来から戦略上の地であつたため、ここに陣屋を営まんとしました。

 陣屋を建てるには村おこしが必要と「鎮守をたてて村の団結を図ろう」と京都長岡天神の分霊を受け、質素な氏神をこの地に造営したのが「菅原天神」の始まりであった。したがつて、祭神は菅原道真公。
 なお、現本殿は、文化4年(1807)に久貝氏の命を受けた長尾陣屋の鈴木代右衛門によつて再建された。
 *「福岡村」はその後、貞享(じょうきょう)3年(1650)に「長尾村」と改称された。その後、明治22年(1889年)藤坂村と合併して「菅原村大字長尾」となり、昭和15年に菅原、津田、氷室の3カ村が合併して「津田町大字長尾」と変遷し、昭和30年に枚方市と合併し現在に至っている。
 
 
 菅原道真公と牛
 *道真公の誕生日・承和(じょうわ)12年(845)6月25日や、死去日・延喜(えんき)3年(903)2月25日が丑の日だつた。
*道真公が大宰府に落ちてゆく途中で命を狙われた時、白牛に助けられた。
*「車を牛に引かせて、牛の行くままに任せ、牛の止まった所に葬ってくれ」との道真公の遺言に従つて墓所(大宰府天満宮は定められた。など・・・
 不老長寿の薬
天台烏訳(テンダイウヤク)
 テンダイウヤクは中国原産の常緑低木。漢名は天台烏薬であり日本へは江戸時代の享保年間(1716-36)に薬用として渡来した。根を健胃薬として利用する。
 なお、伝説に秦の始皇帝(前259〜前210)は不老長寿の霊薬を探すよう徐福に命じました。徐福が探しあてたものが、和歌山の熊野新宮の天台烏薬であつたと云う話があります。
長尾山 正俊寺
 初代大坂町奉行を務めた旗本(5000石)久貝正俊は交野郡内(長尾・藤坂・津田・倉治・招堤)に知行地をあたえられ、荒廃していた長尾村の再開発に着手しましたが志半ばで病没しました。慶安2(1649)年、子の正世は亡父を弔うため当地に久貝家菩提寺を建立し、同家知行地となつていた讃良(ささら)郡中野村(現四条畷市中野)にある正法寺の釈迦如来坐像と石造十三重塔を移しました。寺号は父親の名を冠して長尾山正俊寺と命名した。
 本堂左手にある花崗岩製の十三重の塔は、高さ4.3mで嘉暦(かりゃく)2年(1327)の紀年銘が刻まれていました。鎌倉時代の造立当初の姿をよく留めており昭和45年に大阪府有形文化財に指定されました。なお、境内には久貝家の墓所や歴代住職の墓所や細谷善兵衛の墓石があります。また、境内にはアジサイ園(15,000株)があつて花の時期には多くの人が訪れます。
 
 
 
 
 花崗岩製の十三重の塔は、高さ4.3mで嘉暦(かりゃく)2年(1327)の紀年銘が刻まれていました。
鎌倉時代の造立当初の姿をよく留めており昭和45年に大阪府有形文化財に指定されました。
 
紫陽花と羅漢像
 
寝釈迦如来像と十三重塔 
伝王仁墓
 4世紀末に朝鮮半島から日本に漢字と儒教を伝えたという王仁(わに)の墓とされています。京都の儒者・並河誠所が地誌「五畿内志」編纂のおり、禁野村和田寺の僧・道俊が『王仁墳廟来朝記(わにふんびょうらいちようき)』の中で、ふれられていた。藤坂村の「おにの墓」は、王仁墓のなまったものと主張し、この書物をもとに王仁博士の墓として崇拝するよう地元の領主(久貝氏)に進言し、享保16(1731)年に「博士王仁之墓」と刻んだ石碑を建てたことが始まりで、また、文政10年(1827)に招提村の家村孫右衛門は有栖川宮の筆に成る「博士王仁墓」の石碑を建てた。昭和13年に大阪府の顕彰史跡に指定されました。平成5年には府の史跡に指定替えになった。
 「古事記」によると王仁博士は、古墳時代前期の4世紀末に朝鮮半島の百済国から渡来し、「論語10巻」、「千字文1巻」をもたらし、古代から学問の祖として崇敬されてきました。
 王仁の子孫は文筆を持つて朝廷に仕え、西文氏(かわちのあやうじ)として羽曳野市の古市付近に居住し、周辺は河内唯一の渡来文化の集積地として、発展していきました。
 
 
 
 
 千字文
こちらのWEBで全文をお読みください!
王仁公園
 枚方市が管理する公園の中では、一番広い公園です。プール(夏期)、テニスコート、バレーボールコート、運動広場の有料施設や芝生広場があり、多くの市民に親しまれています。
 
旧田中家鋳物民族資料館・旧田中家
 田中家は、古くから、旧河内国茨田(まった)郡枚方村(現在の枚方市枚方上之町)で鋳物業(いものぎょう)を営んだ家です。江戸時代の鋳物師(いもじ)は、公家(くげ)の真継家(まつぎ)家の支配下にあるものであり、田中家は北河内で唯一、正式に営業を許可された鋳物師でした。
 さらに、真継家から「河内国左右惣官鋳物師」という名誉ある格式を与えられ、営業規模の大きい由緒ある鋳物師として認められていたことがわかります。 


 田中家は、江戸時代を通じて、近隣の人々が日常生活に使う鍋・釜や農具のほか、寺院の梵鐘などを鋳造(ちゅうぞう)しました。
 明治以降に、日本各地に近代工場がつくられてからも、伝統技術を守って営業を続けましたが、1965年頃に廃業しました。枚方市では、大阪府指定文化財である鋳物工場と主屋の寄贈を受け、貴重な文化遺産である両建物を移築・復元し、全国でも珍しい鋳造関係の専門資料館として整備したもの。
 
 
 
 
 
 
 
 
旧 田中家
 
 竪 穴 住 居  弥生時代の復元住居
 田口山遺跡で発掘された弥生時代中期の竪穴住居跡をモデルに復元したもの。
直径約8.5mの平面円形の住居で、高さ5mの茅葺屋根をかぶせてあります。
 長尾西遺跡の竪穴式住居跡
 方形住居跡の約半分をとどめるだけですが、炭化材が残っていたため、
地面から切り取って移設されたものです。
 今回の歴史ウォークは、枚方市の東部、JR長尾駅から藤阪駅周辺のいろいろな史跡を尋ねることが出来ました。
伊東さん、本当にお世話になりました。感謝申し上げます。

 次回のウォークは、10月8日(土)四條畷探訪です。JR四条畷駅 午前9時集合。
行程は、楠正行墓〜四條畷歴史民俗資料館〜四条畷神社〜四条畷駅 12時解散です。
案内は、高尾秀司さんです。多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただきありがとうございました!

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