京阪天満橋駅10:00→八軒家浜→京橋川魚市場跡→南天満公園・天満青物市場跡
→中之島バラ園(昼食)→大阪市中央公会→大阪府立中央図書館→日本銀行大阪支店
→堂島米市場跡→土佐堀川から川口へ→薩摩藩蔵屋敷跡→此花乃井→雑喉場魚市場跡
→大阪市役所江之子島庁舎跡→大坂船手会所跡→川口居留地跡→川口基督教会→
京阪中之島駅15:30 解散 約10km徒歩
2010..11.13(土)午前10時、京阪天満橋駅改札口で集合。天候曇り(黄砂のため太陽が拝めず)。時間通り元気な12名の顔が揃った。交野歴史健康ウォークは発足後第110回目を迎え、今回のウォークは、交野古文化同好会の中会長の企画立案で、晩秋の大阪・中之島界隈「天満橋〜川口」大坂の三大市場をテーマに沢山の史跡を案内して頂きました。 |
「八軒家浜」。その名前の由来は、古くから京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で、 江戸時代に八軒の船宿があったからと言われています。また、京都から船に乗り、 「八軒家浜」を経由して熊野詣でをしたことから、熊野街道への起点としても知られています。 |
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八軒家船着場の図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八軒家に、京都から三十石舟が到着し、乗り合い客や積荷の下船の様子が描かれている。 船着場の石段には、旅籠の客引き女や物売り男なども出迎えている。 |
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枚方の辺りで物売りのくらわんか船が寄って、餅・牛蒡汁・酒など売りつけている。 |
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中会長より、本日の散策会の予定と挨拶 |
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渡辺津の中心、今の天満橋からほど近い旧八軒家浜に「小楠公義戦の碑」が建てられています。 小楠公とは楠木正成の長男で正行のことです。1347年11月に南朝の武将として足利軍と対峙した際、 敵の援軍として住吉に出張った山名軍を破って京都まで敗走させましたが、この合戦の時に渡辺橋で おぼれる多数の敵兵を救い、手当てをして衣服を与えて敵陣に送り返したという話が残っています。 これが義戦と称えられ、またこのことに恩を感じて楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられています。 古代の渡辺橋は、古代大阪の渡辺津(わたなべのつ)からとされています。 渡辺津は旧淀川河口近くまで広がる瀬戸内海沿岸で最大級の港湾で、現在の旧淀川にかかる 天満橋から天神橋の間くらいが中心でした。北船場一帯が入江となりそこから上町台地の 北西一帯まで街が栄えていたといわれますから、相当広い地域となります。 現在の渡辺橋は地下鉄四つ橋線の建設と高潮対策で昭和41年(1966)に架けられたものです。 もっとも今は、橋名よりも平成20年(2008)の10月に開通した京阪中之島線渡辺橋駅の方が有名です。 |
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熊野街道は、渡辺津・窪津を起点にして熊野三山に至る道である。 |
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京阪天満橋の西南、道路の南側に永田昆布店がある。 そこに「八軒家船着場跡」の碑が建つている。 大阪と京都伏見を結ぶ淀川三十石船の発着場であつた。 また、その西の交差点から南へ伸びる道が熊野街道の出発点である。 古くはこの辺りを渡辺津といい京都から淀川を船で下つて、 四天王寺・住吉・高野・遠くは熊野詣でをする皇族や貴族がこの渡辺津から上陸して 上町台地を南へと道をとつた場所である。 |
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暫く、東へと直進して、寝屋川橋を渡る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
右手に、日本経済新聞、向こうには京橋と 遠方には大阪ビジネスパークのビル群が見える |
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ねやがははし=寝屋川橋 |
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所在地:大阪市都島区片町1丁目 最寄駅:京阪本線「天満橋」OR地下鉄「天満」下車、東へ約300m 寝屋川橋東詰と京橋北詰の交差点 |
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大坂の魚市場といえば雑魚市場が著名である。しかし、近世の魚市場は雑魚市場一つではなく、 木津や天満にも海魚を扱う市場が営まれていた。また海魚とは別に川魚を扱う市場が京橋にあつた。 京橋川魚市場の起源は、石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされる。 元々は漁民が京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものであつたらしい。 寛保元年(1741)の「京橋川魚独占販売由来記」によれば、慶長年間(1596〜 1615)の初めごろに 小出播磨守秀政の指示を受けて構成員55人、うち5人を幹事である年寄とする市場機構の組織が 整えられた。以降近世を通して、幕府に大坂で川魚を扱うことを公認された市場となつた。 近代に入り、市場機構の変革が進み、京橋川魚市場は明治末期には中之島6丁目付近へ移転し、 大正4年(1915)大阪川魚株式会社が設立された。 |
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「摂津名所図会」には、川魚市場といっても店頭での商いではなく、 漁民たちが持ち寄った川魚を路上で取引している風景が描かれている。 |
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現在、その地には記念像や石碑が建てられているが、それらは 「ひっそりと」という形容詞が相応しく、昔日の面影はその全くない。 そのギャップはかっては日本経済を支えていた大阪がその地位を東京に明け渡し、 一地方都市に甘んじている現状を象徴しているようでもある。 |
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江戸時代、堂島米市場・雑喉場魚市場・天満青物市場は大坂の三大市場と呼ばれ、 「天下の台所」を支え、その名に相応しい賑わいであったといわれ、江戸時代に出版された 『浪華の賑ひ』や『摂津名所図会』からも、窺い知ることが出来る。 |
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京橋 北詰 江戸時代まではここが京街道の起点でした。 京街道は大阪から京へ通じる街道です。 起点は時代によって変わりますが、太閤秀吉の時代は 大阪城の京橋口にある京橋でしょう。 現在の地名の京橋ではなく、京阪の天満橋駅近くです。 寝屋川に架かっている橋です。すぐ近くに寝屋川橋があります。 寝屋川橋をすぎると寝屋川は大川(旧淀川)に合流します。 |
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京橋北詰から大阪城を撮影 手前のレンガ造りの建物は旧陸軍の遺物 |
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大川に架かる川崎橋(人と自転車道)を渡る、 桜の通り抜けの頃は、大変な賑わいを見せる橋。 |
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大川では3番目に新しい1978(昭和53)年に 架けられた自転車・歩行者専用橋である |
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川崎橋。高い塔から多くのケーブルを出して桁を吊った斜張橋というタイプ。 |
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橋のロープに沢山のカモメがずらりと羽を休めていた |
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大川を行く水上バス |
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橋を渡ると、桜の名所公園である |
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公園から天満橋を望む |
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天満橋北詰下には、 橋名飾板が「土木遺産」として大事に展示されている |
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土木学会選奨土木遺産 |
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南天満公園は天神橋と天満橋の間の大川沿い北側にある都市公園です。 |
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桜の名所で開花 時期には屋台が建ち並び、多くの花見客で賑わう。 |
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ねんねころいち 天満の市は 大根(だいこ)そろえて 舟に積む 舟に積んだら どこまで行きゃる 木津(きづ)や難波(なんば)の 橋の下 橋の下には かもめがいるよ かもめとりたや 竹ほしや 竹がほしけりゃ 竹やへござれ 竹はゆらゆら 由良之助 |
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賑わった天満の市の様子を子守歌に詠みこんでいる |
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天満の子守歌の直ぐ北に、天満の青物市場跡の石碑が建っている | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南天満公園の片隅に建つ「天満青物市場跡」の石碑。 石碑の側面には『(天満青物市場は)、昭和に至り変遷があったが 昭和20年戦災で廃絶した』と記されており、大阪中央卸売り市場に包括された後も、 市場そのものはこの地でも存在していたらしい。 |
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南天満公園 天満青物市場跡 堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで大坂三大市場の一つがこの地である。 青物とは果物・野菜を指す。問屋が40軒、仲買が150軒という大規模なものであったことが 「摂津名所図絵」に記されている。元々青物市場は石山本願寺の辺りにあつて繁栄していたが、 大坂城築城によつて京橋北詰に移動され、寛永12(1635)年に天満に移された。 明治・大正期になっても大阪一の青物市場として栄えた。 大正12(1923)年に中央卸売市場方が制定され、公設市場の親市場としての 中央卸売市場の開設が求められ、昭和6(1931)年、福島区野田に 大阪市中央卸売市場が開設され、天満青物市場は廃止となつた。 |
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天神橋の北詰に保存されている |
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天神橋を中間まで渡り、中之島公園へ下りる階段下には、 中之島の船風景が描かれた石板絵図が掲示されている |
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ばらぞの橋を渡ると、バラ園と続いています | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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父は豊臣秀次の老臣でその謀反事件に連座して切腹。重成は幼少期から秀頼に仕えていたと言い、 |
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大阪市中央公会堂 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大阪市中央公会堂 栴檀木橋より 1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が当時の100万円を 寄付して建設計画が始まった。1913年(大正2年)6月に着工、 1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦に よる相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を 見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。 |
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大阪府立図書館 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大阪市庁舎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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なにわ橋 - ライオン橋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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京阪電車・大江橋駅構内に掲示されている |
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人道橋の中之島ガーデンブリッジを渡ると 堂島米市場跡記念碑が建っている |
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所在地:大阪市北区堂島浜1丁目 最寄駅:京阪本線OR地下鉄「淀屋橋」下車、淀屋橋、大江端を渡り 西へ、「ANAクラウンプラザホテル」前、中之島ガーデンブリッジの北詰 |
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江戸時代、諸藩はこの中之島周辺に蔵屋敷を置き、領国から送られてきた蔵米や国産品を換金したが、 この蔵屋敷の販売事務を町人(掛屋)が代わって行うようになり、町人蔵元が出現した。 蔵米の取引を最初に開いたのが、淀屋の2代目个庵といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。 1705年(宝永2年)淀屋が闕所になった後、堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立した。 その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、1730年(享保15年)公認の帳合米市場である 「堂島米市場」が発足した。 江戸時代、大坂のほかに江戸、京都、大津、下関にも米市が立っていたが、 堂島米市場で立った相場で取引がなされ、ここで立った相場が全国の米相場の基準とされた。 この取引の手法は、大阪証券取引所を始めとする、世界各地の組織化された 商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、先物取引発祥の地とされている。 1876年(明治9年) に「堂島米穀取引所」と改称され、1939年(昭和14年)に廃止された。 |
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堂島の米市場「摂津名所図会」 堂島河岸の米市での取引のさま。 |
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人道橋の中之島ガーデンブリッジに展示されている 「なにわ八百八橋」の絵図 |
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高麗橋 |
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新町橋 |
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田蓑橋を渡り、中津川藩蔵屋敷跡へと進む | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堂島川に架かる田蓑橋(たみのばし)北詰めに「蛸の松」があります。 江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が並び、屋敷前に各藩自慢の松を植えていました。 中でも、久留米藩と広島藩の境の松は、枝振りが 蛸が泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と親しまれました。 「なにわ百景」にも、「中の嶋蛸の松」の錦絵が描かれています。 蛸の松は、明治の末頃に枯死しましたが、雛松会によって再現された。 |
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江戸時代の蛸の松は、対岸の旧位置にありました |
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再現された、蛸の松 |
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天保5(1835)年12月12日、福沢諭吉は豊前中津藩士福沢百助の末子として、 中津藩大坂蔵屋敷のこの地で誕生。父は諭吉が1歳8ヶ月のとき急死し、 母に連れられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元(1854)年、 長崎遊学を終え江戸へ上る途中に大坂の蔵屋敷へ立ち寄り、 兄のすすめで翌年3月に緒方洪庵の適塾に入門し後には塾頭にまで。 江戸に慶応4(1868)年、慶応義塾を開設した。 |
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玉江橋より四天王寺五重塔を望む 昔は、玉江橋の反り橋からは五重塔が望めたらしい |
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堂島川に架かる玉江橋方面を振り返ると、 福島区に新しく誕生した「ほたるまち」のビル群 |
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「ほたるまち」という印象的な名前は、コピーライターの道面 宣久さんが、 与謝蕪村の俳句「淀船の 棹の雫も ほたるかな」をもとに、 きらびやかな光ではなく、蛍のようなやさしい光で川を照らす街になってほしい、 という思いから名づけられたそうです。 中之島線の中之島駅が最寄りとなります。 |
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左の壁面は、京阪電車・中之島駅 ここでトイレ休憩 |
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沢山の自転車が・・・ |
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堂島大橋 |
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堂島大橋南詰の交差点をを渡り、左手に 大阪国際会議場を見て土佐堀橋へと南進する 中角さん、中さんと出会う |
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大阪国際会議場 |
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土佐堀橋を渡ると、左手に三井倉庫があり、薩摩藩蔵屋敷跡である | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大阪国際会議場、住友病院の南、土佐堀橋を南に渡ると三井倉庫がある。 その北西隅に大坂上等裁判所跡の碑が立つ 「明治5年8月司法省官制」による大阪上等裁判所が、 明治9年(1876)西道頓堀の旧金沢邸からこの地に移された。 その管轄区域は近畿一円から中国・四国に及んだ。 |
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三井倉庫の東南隅に薩摩藩蔵屋敷跡の碑が立つ。 薩摩藩はこの土佐堀2丁目に上屋敷、江戸堀5丁目に中屋敷、 立売堀西の町に下屋敷をおいたが明治元年(1868)正月、 鳥羽伏見の戦いのとき、幕府の引き渡し要求を拒んで会津藩兵と衝突し、 自らの手で焼いた。 薩摩堀川を開削した薩摩屋仁兵衛は、代々天満組惣年寄を務めると共に、 この蔵屋敷に勤務して国産取引の薩摩定間屋の一人として活躍した。 |
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薩摩藩はこの土佐堀2丁目に上屋敷、江戸堀5丁目に中屋敷、立売堀西の町に 下屋敷をおいたが明治元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いのとき、 幕府の引き渡し要求を拒んで会津藩兵と衝突し、自らの手で焼いた。 |
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土佐堀2丁目の花乃井中学校北東角に比花乃井がある。 中学校の校庭は江戸時代、石見津和野藩の蔵屋敷があった所で、 屋敷内の井戸水は名水といわれ、明治元年、明治天皇が大阪北御堂を 行在所とされた時用水に供し、「此花乃井」の名を与えられた。 |
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浪速三大名水の一つ「此花乃井」 「浪速津に 咲くや此の花 冬ごもり 今を春べと 咲くや此の花」 |
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直ぐ南の江戸堀中公園口に「中天游邸跡」碑が立つ 中天游は、江戸時代に大阪で活躍した医師・蘭学者です。 弟子のひとりに、緒方洪庵がいたと記されている。 |
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暫く南下すると、ウツボ公園のテニスコートに出る 靭公園で一休みの後、あみだ池筋を南へ |
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堀川が縦横に掘られていた、現在は埋め立てられ、 その上を高速道路が走っている |
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@ 江戸堀川 A 京町堀川 B 堀川 C 薩摩堀川 D 百闌@川 E 尻無川 江戸時代の江之子島は、 百阮x川と尻無川にはさまれた土地であった これらの堀川は昭和30〜31年頃に埋め立てられている。 |
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靭公園で一休みの後、あみだ池筋を南へ、 地下鉄阿波座駅の南、薩摩堀北公園に薩摩堀川跡の碑がある。 また、駅北西側、西郵便局前に阿波堀川跡の碑(西区では最も古く、 慶長5年に開削され西横堀川から分流して百間堀川に流入していた)が、 その北ファミール阿波座南東植え込みに京町堀川跡の碑が、 そしてエルベロワイアル16の南西植え込みに江戸堀川跡の碑が立っている。 いずれも防潮堤工事や、都市計画によつて姿を消した水路の歴史を刻んでいる。 これらの堀川は昭和30〜31年頃に埋め立てられている。 |
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阿波座駅北西側、西郵便局前に阿波堀川跡の碑 |
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タラヨウの木 葉の裏に先の尖ったもので字を書くとその跡が黒く残り、 古代インドで手紙や文書を書くのに用いたもの |
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阿波堀川跡の碑とタラヨウの木(葉書の木) |
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その北ファミール阿波座南東植え込みに京町堀川跡の碑 |
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エルベロワイアル16の南西植え込みに江戸堀川跡の碑が立っている。 |
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江戸時代の江之子島は、 百阮x川と尻無川にはさまれた土地であった |
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江之子島1丁目のコスモス園南の公園入口に 雑喉場魚市場の碑が立つ。 この地は古くは鷺島と呼ばれた砂州で、対岸野田村の猟師が 集まって近海漁獲の雑魚を扱う浜であった。 それが発展して元和年間(1615〜24)に魚市がたち、 いつしか雑喉場(ざこば)の名で呼ばれるようになった。 堂島米市場・天満青物市場を加え、大坂三大市場と呼ばれた。 「ザコバの朝市」は大阪名物の一つとして親しまれ、 昭和6年(1931)大阪市中央卸売市場に吸収されるまで活況を呈した。 |
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木津川橋の東側に大阪市役所江之子島庁舎跡の碑 明治32年12月、初めてこの地に、市役所庁舎が建設された。 その後、45年堂島に、大正10年現在の中之島に移転した。 |
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木津川橋は、慶応4年、川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた。 当時、川口には大阪開市・開港に備えて運上所(税関)が設置され、 続いて居留地が設けられて、新しい町並みが出現しつつあった。 また、江之子島には、明治7年に大阪府庁が建設されるなど、行政の中心であった。 |
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木津川橋の絵図 |
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木津川橋を渡る |
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橋を渡つた川口交差点に大坂船手会所跡 大坂船手は大阪湾から本津川・淀川への船舶の出入りを 管理・掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、 元和6年(1620)に設立された。 その中心施設がこの地におかれた船手会所である。 配下の施設として船の出入りの管理を実際に行う船番所が 会所の北側と春曰出・三軒家の三か所に置かれた。 また、船倉が会所の脇と四貫島にあった。 18世紀には船手頭が小豆島などの代官を兼ねることもあり、 大坂における幕府の重要な役職の一つであった。 元治元年(1864)に廃止された。 |
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九条島の先端に、御番書、御船蔵、御船手ヤシキが設けられていた |
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本田(ほんでん)小学校北西角に川口居留地跡の碑が立っている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大坂が「天下の台所Jといわれた江戸時代、安治川と木津川が分流する川口は、 船番所・船蔵や船奉行をはじめ与力・同心などの屋敷がある重要な場所であつた。 慶応4年(1868)明治新政府はこの地を大坂港として開港し、川口運上所(税関)を開いた。 また、この地に巨費を投じて外国人居留地を造成した。 この地域は治外法権の居留地となり、米・英・独・仏・蘭・ベルギーなどの外国人が居住した。 当時この地域は歩道・車道が区別され、街路樹とガス灯が設けられ 西洋建築が建ち並ぶなど大阪の文明開化はここから広まった。 |
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歩道・車道が区別され、街路樹とガス灯が 設けられ西洋建築が建ち並ぶ町並み |
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また川口には居留地とは別に内外人の雑居地が認められ、主として中国人が居住した。 外国人雑居地の跡の立て札が川口聖マリア幼稚園前にある。 富島天主堂跡の碑が立つ。フランス副領事レックの議願にもとづき、 ここ富島に明治12年(1879)に完成したカトリック礼拝堂で 本格的な赤レンガ造りのゴシック様式の建物で、 大阪府庁江之子島庁舎とともに、当時を代表する洋風建築であつた。 しかしこの地が大型船舶の出入りに不便であり、外国商人の専横を許さなかつたため、 やがて外国人は神戸居留地へ移転した。さらに明治32年(1899)条約改正により 居留地制度が廃止され、天保山に新しい大阪港が完成すると、川口の体質は一変した。 その跡に設けられたのはキリスト教会とそれに付属した学校・病院などである。 布教者たちは当時の日本が男尊女卑であったため、女子教育に尽くした。 平安女学院・プール学院・大阪女学校・大阪信愛女学校・梅花学園など、 いずれもここを発祥地とする学校である。 現在川口には、赤レンガの日本聖公会の川口基督教会が残り、異国情緒を漂わせている。 本田小学校南隣の本田変電所北西角に、海運業者で幕府御用達差配として登用された 飯田直好の飯田家邸の跡の説明板が立てられている。 彼は巨額の私費を投じて安治川の修復に努めたといわれている。 |
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本田小学校の隣に碑が立つ |
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現在、川口には赤レンガの日本聖公会の 川口基督教会が残り、異国情緒を漂わせている。 |
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登録有形文化財として登録されている |
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ここで、中之島界隈の散策は終わり、 再び京阪・中之島駅に向けて端建蔵橋を渡って帰る。 |
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はたてくらはし |
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この橋は、土佐堀川と堂島川が合流して安治川となる中之島の西端に架かる。 現在の阪神高速道路の中之島西出入り口の横だ。 宮本輝の「泥の河」の舞台でもある。 潮の香りの高い海港気分をいっぱいに繰り広げて 海と内陸との微妙な境で貨物船が外港から上ってくる。 川の南岸に住友倉庫の鼠色の巨壁。北岸には中央市場の白色の巨壁。 この二つの大きな面積が川の広場の単調を破って、いかにも商業大阪の 偉大さといったようなものを象徴する雰囲気は今も同じ。 |
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中之島の西端に架かる端建蔵橋を渡る |
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端建蔵橋から安治川を隔てた向こうには、大阪中央卸市場が見える |
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再び、中之島5丁目の大阪国際会議場前を通って中之島駅へと帰る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
会議場の建物の玄関先の庭に植えられた楠 |
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午後3時35分、京阪中之島駅に到着。皆さん、お疲れさまでした! | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
次回の歴史ウォークは、12月4日(土)午前8時30分、 「木津川に沿う加茂・笠置を訪ねて」毎年恒例のバス旅行です。 弁当を持参下さい!焼き肉「久太郎」駐車場前集合です。 |
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最後までご覧いただき有難うございました! |