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交野歴史健康ウォーク 141回

  大塩平八郎の乱 天満界隈の足跡を尋ねる
2014.9.13(土)  31名参加
行   程 : JR河内磐船駅 9時集合(9時17分乗車) → 東西線大阪天満宮下車 → 
成正寺 → 蓮興寺 → 与力町 → 同心1丁目 → 大塩の乱・槐の木跡 → 
先心洞跡(造幣局社宅内) →中嶋家(与力)役宅門 → 滝川小学校・東照宮跡 → 
大阪天満宮   (11時45分解散)
 

案内 : 高尾秀司氏(交野古文化同好会)  

大塩平八郎の乱・天満界隈の古跡を尋ねる地図


 交野歴史健康ウオークは9月13日(土)午前9時、JR河内磐船駅前に集合。当日は幸い晴天に恵まれ、31名(会員18名)が参加され盛大に開催されました。

 先ず、立花昇会長より開会の挨拶があり、続いて、講師の高尾秀司氏より、大塩の乱と当日の行程について簡単な説明を受けた後、9時17分発の電車に乗車しました。

 昨年3月の勉強会で、講師の高尾さんより「大塩平八郎の乱」について、詳細にご講演をいただき、今回そのゆかりの地・天満界隈の史跡を案内していただきました。

 明治維新をさかのぼる事30年・・・腐敗した幕府に、元幕臣自らが一石を投じ、幕末を予感させるかのように散った大塩・・・その大塩の足跡をめぐる歴史散歩でした。

 本稿を記載するにあたり、講師の高尾さんよりレジメを頂戴し、併せて「WEB」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 

 また、写真集の貴重な写真は、高尾から提供いただきました。
 皆様、ご協力有難うございました。
 大塩平八郎の乱
 <事件のあらまし>

 1836年天保の大飢饉が起き、極端な米不足となり餓死者があいついだ。百姓一揆や打ちこわしも多数起こった。そんな状態にもかかわらず米を大坂から江戸に送ろうとする幕府の大坂町奉行所に業を煮やした大塩平八郎は元大阪東町奉行所の与力であったにも拘らず民衆の立場にたち天保8年(1837)2月19日、同志と共に民衆を苦しめる役人や金持ちを攻め滅ぼすため挙兵し大商人などの屋敷に火をかけた。この為大坂の町中のおよそ五分の一が焼けてしまいました。これが俗に云う大塩平八郎の乱であります。

 
<大塩平八郎はどんな人だったか>

 大塩平八郎は、大坂町奉行であった大塩敬高(よしたか)の長男として寛政5年(1793)に生まれました。平八郎は幼くして両親を亡くし、祖母の手で育てられました。そして14歳のころ父の跡を継いで与力見習、後与力となりました。平八郎は奉行所時代、清廉潔白な人物として不正を次々と暴いてゆきました。強盗殺人事件、僧侶の腐敗事件,屎尿処理事件等を裁き、特に西町奉行所与力、弓削新左衛門の汚職事件では内部の犯行であった為、難航するが見事解決、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めました。(この時の上司・高井山城守の応援があって成功)この事件に関わった人々・仲介役・八尾新蔵(遊女屋の亭主・新町遊郭・八百軒)千日の吉五郎(十手持ち)など
 1830年高井山城守の江戸転勤とともに与力を辞任して養子の格之助に跡目を譲り、自宅で洗心洞という私塾を開き門弟の教育にあたった。学問は陽明学で知行合一(知識と行動はもともと一つであるという).仁(人間関係の基本で他人に対する親愛の情・優しさを意味している)を説く。

 
森鴎外が大塩平八郎の小説を書いています。
興味のある方は、下記の青空文庫をご覧ください!

  青空文庫 「森鴎外 小説・大塩平八郎」


当日配布されたレジメ

 
 
 JR河内磐船駅前に集合


立花会長の挨拶の後、案内の高尾秀司さんより大塩の乱と行程について
簡単な説明を受けた後、9時17分発の電車に乗車しました。
 大阪天満宮で下車、天神橋筋商店街を北へ、寺町通りを西へ。
日蓮宗  成正寺 大阪市末広町
「じょうしょうじ」と呼び、日蓮宗身延山の末寺
 
 成正寺は1604年(慶長5年)増長院日秀聖人の開基と伝えられる。本家の大塩家は徳川家に仕え尾張で身延山直末の大光寺を菩提寺としていたため、大坂へ出てきた大塩家も日蓮宗の成正寺を菩提寺としたといわれる。大塩家の墓地については、大塩の乱のあとこの寺にあった墓は廃墓としてすべて土中に埋められていた。明治30年になって「中斎大塩先生墓」が本堂正面左側に建立され、大正5年に「大塩格之助君」が大塩先生の右側に建立された。
 
 江戸時代初期の北区は、現在の寺町通りと新御堂筋に囲まれた地域を中心に中之島と堂島川右岸に蔵屋敷が建ち並び田園風景が広がる地域だったそうだ。寺町通りには現在もたくさんの寺が立ち並んでいる。

 大塩 平八郎(おおしお へいはちろう、1793−1837年)の墓は成正寺(じょうしょうじ)にある。19世紀には強固だった幕藩体制も次第に疲弊しひずみが表れ「天明の大飢饉」などをきっかけに打ちこわしや一揆が頻発し1837年の「大塩平八郎の乱」では世の荒廃を憂いた与力の大塩が私塾洗心洞などの同志とともに体制改革を要求する強訴を計画するが実行前に発覚し急遽挙兵、だが争乱は半日で鎮圧され天満組一帯と北組の北半分は焼け野原となった。市街戦は「大阪夏の陣」以来で幕藩体制の崩壊の一因となった。
 
 

南森町駅のある交差点から天神橋筋を北へ2筋上がる寺町通との交差点近くにある成正寺は、
大塩平八郎と養子・格之助の菩提寺です。ふたりのお墓には、今も花が耐えません
 
  境内に大塩平八郎の墓があることで知られ1945年、大阪大空襲で焼失し
大塩平八郎の墓も破壊されたが再建された。
 
 
 
 
 
 
 
日蓮本宗  蓮興寺 大阪市末広町
 天神橋筋の大道路に面した所にあり、日本の伝統的なお寺とは見えない建物である。門前には大塩家墓所とあるが両親と死別したあと、育ててくれた祖父母の菩提寺であるという。寺の裏に墓地がありますが、通常入る事は出来ませんので祖父の墓は確認できません。大坂では八重桜と云
えば「造幣局の通り抜け」ですがこちらのハ重桜も非常に美しいと云われています。
 
 



蓮興寺と言えば、天満一の桜の名


大塩平八郎の大塩家の墓所があるお寺さん。

大塩家代々のお墓で、7歳で父母と死別した、平八郎を育てた、、祖父母の菩提寺でした。。。

ここのお薦めはなんと言っても春の八重桜。
天満一と言って良い位に立派な桜が、塀越しに歩道に張り出して咲き誇ります。

大阪で八重桜と言えば「造幣局の桜の通り抜け」ですが、こちらは街歩きの中でも最高に美しい桜を楽しむことができます。


  (WEBを参照)
 
蓮興寺の墓所
 

天満一と言って良い位に立派な桜が、塀越しに歩道に張り出して咲き誇るそうです。

周辺は由緒あるお寺が並ぶ寺町通
 天 三 商 店 街
 天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)は、大阪市北区にあるアーケード商店街。 南北2.6キロメートル、600店の日本一長い商店街である。各商店街は、地名にならって「○丁目商店街」のように分類される。1丁目から6丁目までの連合組合はない。「3丁目商店街」は2006年(平成18年)5月に「がんばる商店街77選」に選ばれた。

 江戸時代に日本の物流で主要な役割を果たした「天満青物市場」を中心として発達した。かつては「十丁目筋商店街」といわれ、現在も地元では十丁目(じっちょめ)と呼ばれている。この十丁目とは江戸時代の町名である「天満10丁目」のことで、大川の北岸に東から西へ1 - 11丁目まであり、天神橋の北詰がちょうど10丁目にあたることに由来する。

 
 与力町と同心
 

このあたりは、現在も与力町・同心町といった地名…
昔は与力や同心の家が建ち並んでいたのでしょう
 
 与力町
 江戸時代には与力の役宅があった所と思われ、与力町という地名が今も残っております。
大塩平ハ郎が一番の悪党とした東町組与力・朝岡加之丞はこの与力町に屋敷があったとされる。天保8年2月19日午後4時頃、東町奉行・跡部山城守と新任の西町奉行・堀伊賀守が巡見の途中、朝岡邸で休息の段取。ここでいっきょに殺害の手筈であったが同志の裏切りで失敗。


同心(一)
 与力町の東側に同心一丁目とか二丁目という地名がある。
江戸時代には与力や同心の家がこの辺りに立ち並んでいたのではないかと思われます。この辺りに与力30騎、(敷地500坪)、同心50人(同200坪)が官舎に住んでいたといわれる。
 大塩の乱・槐跡の碑
えんじゅあとのひ
 国道1号線・造幣局側の西寄りの歩道にある。
ここは、大塩の乱の時、大砲の攻撃によって裂けてしまった樹齢200年の槐(えんじゅ)があった。
2010年1月に石碑の横に槐の木が植えられました。
 大塩平八郎(おおしお へいはちろう、1793−1837年)は、江戸時代後期の儒学者で大坂町奉行所与力だった。1837年に大塩平八郎の乱を起こしたことで知られている。

 奉行所時代は清廉潔白な人物として不正を次々と暴き西町奉行同心弓削新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めたが腐敗した奉行所内では大塩に反発するものも多かったが、上司の東町奉行高井実徳の支持を得て正義を貫いたそうだが役人の腐敗は国、時代を問わない課題だ。1830年の支持者高井実徳の転勤で与力を辞し、陽明学を学び自宅で洗心洞という私塾を経営し頼山陽などとも交際を持った。

 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、旗本が出兵した戦としては島原の乱(1637−1638年)以来、200年ぶりの合戦だったが前年の1836年までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。

 大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し得た資金を持って救済に当たっていたが奉行所は「売名行為」とみなし大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

 利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

 天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。

 大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った告発文が幕府に届くことを期待したが告発文は箱根の関で発見され、押収されてしまう。

 失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(現西区靱油掛町付近)に匿われたが、出入りする奉公人によって大坂城代土井利位(古河藩主)に通報され、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。

 大塩の挙兵は失敗に終わったものの、幕府の役人だった大塩が反乱を起こしたことは、幕閣の要人たちに、また幕政に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えた。 この事件を境に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称していた。大塩平八郎の乱後朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、朝廷の命により幕府がその費用を捻出している。朝廷に対して強硬な姿勢を示していた幕府が、朝廷の命令をそのまま認めたことに、幕末期に向かい朝廷の権威が上昇していく兆し見ることが出来る。

 大塩平八郎の行動は全国の民衆の不満を増徴させ、明治維新の原動力になったといわれる。大塩平八郎の乱は半日で鎮圧されたが民衆の心に火をつけ江戸幕府を倒すきっかけを作ったことが大きな功績だろうし、現代でも大塩のような正義感と実行力のある政治家が待望されている。

 (WEB トラベルJPを参照)
 
 


 ここは、大塩の乱の時、大砲の攻撃によって裂けてしまった
樹齢200年の槐(えんじゅ・アカシアに似た葉っぱが小型の落葉樹)の木があった所…
2010年1月に、石碑の横に新たな槐の木が植えられました。
 洗心洞  造幣局社宅内
 槐の碑のすぐ近く、造幣局宿舎2号門から中に入って道なりに行くと建物の角に洗心洞跡がある。
ここは、大塩の邸宅に作られた陽明学を教える塾・洗心洞があった場所である。ここでは塾生は全員寄宿し日夜文武両道を学んだとされる。門弟40〜50人に達したという。
 後の大塩の乱に参加するものが沢山出ました。
 
 
 
 
 江戸時代の儒学・陽明学者で天満与力の大塩平八郎の私塾跡で、平八郎はここで教育と著述に専念していた。当時凶作が続き、庶民は疲弊していた。そこで自分の蔵書を処分して救済するなどしたが、それに対する幕府の政策に憤激、準備の整わないまま天保8年(1837)2月19日窮民救済と政治の覚醒をめざして挙兵、大砲を放った最初のところである(大塩の乱)。乱は半日で鎮圧されたが、その影響は各地に波及、一揆が続発して幕府に大きな打撃を与えた。(大阪市顕彰史跡)
 
 

洗心洞跡で記念撮影
 天満与力  中嶋家の役宅門
 こちらは大坂東町奉行所配下の与力・中嶋家の役宅門。洗心洞の石碑の近くにあります。
造幣局の説明看板によると、当時この付近一帯は天満与力の役宅が軒を並べていたのですが、今でも存在しているのはこの建物のみ。
 大正末期に現在の場所へ移築され、昭和23年に茶室として大幅に増改。しかし、老朽化が激しいため、平成12年6月に改築されたそうです。
 大塩平八郎の屋敷も、このような感じの門構えだったのでしょうか?
 

江戸時代の大阪東町奉行所配下の天満与力・中嶋家の役宅門です。
 
 
 造幣局 厚生クラブ内に保存されている
有楽斎沓石の来歴
 
 徳川氏のころ東照宮別当職なる建国寺の茶室如庵の席に用いしものなり。天正、文禄、慶長の年間織田有楽斎好みの茶室なり。その当時家康公しばしば、この茶室に入らせられ沓石幾度となく、踏まれしものなり。
 元和3年松平下総守忠明大阪に邸地を賜られしは、すなわち、有楽斎の旧邸にして忠明の家康の孫にあたられるをもって家康公開運の地及び縁故ある有楽斎の旧邸なればここに東照宮の社を建てられ、そのころよりこの沓石を茶室の傍にかこい、諸人のふまざるよう保存せしを今に伝える。この石に古銭の千切りあるは、いつのころよりなりしものか確かならず思うに有楽斎のこのみなりしものならん。
 明治35年6月5日別当建国寺属員奥村某の蔵せる旧記によりこれをしるす。
 滝川小学校
 川崎東照宮のあった所であり大塩平ハ郎の乱のとき決起の集合場所とされた所でありましたが、内通により急濾変更になりました。
 「大塩平八郎の乱で類焼した川崎東照官の記録」によると、天保九牛2月9日、御類焼脚立退一件とあり焼けてしまったようです。その後再建されたが、明治6年に廃社になった後、再建に努めたが成らなかったといわれております。
 
 川崎東照宮
 2代将軍秀忠は、家康を東照大権現という神様として祀り、各地に東照宮という神社を建てることを命じた。
大坂には翌年、この滝川小学校の地に、当時の大坂城代であった松平忠明たちによって東郷宮がたてられた。
 一般の町人は、日ごろは東照宮の境内に入ることを許されなかったが、毎年家康の命日である、4月17日を中心に、5日の間に行われた権現祭りの時は特別にお参りすることができた。
 また一説には豊臣家をうやまう大阪の人々の思いを薄めさせる為に建てられたともいわれている。
 
 
 
川崎東照宮の境内絵図
 
 川崎東照宮跡地より大阪天満宮へ向かって歩いている途中、
本願寺舊跡と川端康成生誕の地も案内いただいた。
 本願寺舊跡  天満別院
 織田信長との間で十一年間にわたって争われた石山合戦終結後、本願寺は紀州鷺の森、泉州貝塚などを経て天正13年(1585)に天満川崎に移り、次いで天正19年(1591)に京都堀川(現西本願寺)へ移っていった。

 天満御坊は教如上人が天満本願寺ゆかりの地に建立された寺である。別院の境内には「大坂天満本願寺跡」の石柱も残されている。

 天満別院内陣  また、本堂内には、1910年(明治43)に厳修された「親鸞聖人650回御遠忌」の際、本願寺第二十二代の現如上人によって染筆された『六字城』の額が掲げられ、石山本願寺以来の伝統を今に伝えている。

 教如上人の天満御坊建立は、上人に帰依した佛照寺祐恵の尽力によるところが大きかったという。祐恵が留守居となり子孫十一代の祐照まで、その留守居役を受け継ぎ、御坊の整備と発展に尽力したことから近年まで別院は「佛照寺さん」と呼ばれ親しまれていた。

 戦後、焼失した天満別院は大阪市の都市計画事業によって境内地は南北に二分され、北側を「天満別院墓地」として整理し、現在は約四百基あまりの墓碑が並んでいる。また、境内地の西半分ほどを「読売テレビ大阪本社」に貸与し、1959年(昭34)に本堂や輪番所を復興再建している。

 その後、1990年(平2)に「読売テレビ」が大阪ビジネスパークに移転。テレビ局の跡地を別会社に貸与し、2000年に本堂を新築、落慶法要・蓮如上人500回忌御遠忌法要が厳修された。

  (WEBを参照)
 
 川端康成生誕の地
 
 
 日本人初のノーベル文学賞を受賞し、「伊豆の踊り子」「雪国」「古都」などの作品で知られる川端康成は、明治32年(1899)6月14日、大阪市北区此花町1丁目79番地(現在の北区天神橋1)で生まれた。
 康成の父で医師だった栄吉はこの地で開業していたのだが、しかし結核を患い、明治34年(1901)に死去。翌年、母・ゲンも亡くなり、康成は姉と共に祖父母に引きとられ、大阪府三島郡豊川村(現在の茨木市)に移り住んだ。
 現在は大阪天満宮の正門斜向いにある料亭「相生楼」の門前に『川端康成生誕之地』と記された石碑がひっそりと建っている。その後、康成は茨木中学校から東京の第一高等学校、東京帝国大学へ進み、文壇で活躍するが1972年4月16日に死去。1985年には茨木市に川端康成文学館が開館し、いまも多くのファンが訪れる。
 
 大阪天満宮
 神社の由緒によると949年村上天皇の勅命によって建立されたのが始まりとある、毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大夏祭りとして知られる。
境内には末社として松尾社(祭神・大山咋神)・ハ幡社・吉備社(祭神・吉備真備)・住吉社などがある。

 
 大阪天満宮は社伝によれば、孝徳天皇が長柄豊碕宮に遷都した際、皇城鎮護の神として奉斎したのが境内社の大将軍社で、当地は大将軍の森と呼ばれた。901年(延喜元年)菅原道真が大宰府に向かう途中、同社に参拝したこともあり、953年(天暦7年)村上天皇の勅願で天満宮が同社境内に創祀され、大将軍の森は天神の森と呼ばれるようになったという。

  古くは南中島の惣社で、中島天満宮と呼ばれ、現境内北方の明星池付近に鎮座していた。現在地に移されたのは寛文年中(1661〜73年)で、大坂三郷天満宮の産土神として奉斎され、毎月25日には参詣者で賑わった。

 1342年(正平2年)楠木正行と山名時氏の合戦、1570年(元亀元年)織田信長の石山攻め、1837年(天保8年)大塩平八郎の乱などの兵火で焼失した。本殿は1845年(弘化2年)に再建、正遷宮された。他の建物の修築・造替事業が完成したのは1901年(明治34年)であった。
 

大塩の乱の時に社殿が全焼していまいましたが、その後、弘化二年(1845年)に再建されました。
 
 登竜門
 
 
  神社の説明によると、当宮は天保8年の大塩の乱で本殿及び多くの社殿が焼失し、その後弘化2年(1845)に再建されて現在にいたっております。と書かれています。
 その当時から東・酉唐門両側に龍の図柄の金燈寵がありましたが戦前の金属の供出でなくなり台座を残すのみとなっておりました。この度道真公千百年大祭紀念として篤志家の奉納により昔ながらの図柄の燈龍が再現されることとなりました。


 屋根の部分は威勢よく跳ね上がる鯉胴体には龍が龍が巻き上がり逆巻く水面から天空をめざして舞い上がろうとしている雄姿は一見奇異に見えますが、この唐門こそ登龍門そのものであります。というのも龍門は中国の黄河上流で鯉などがその下に集まり多くは登り得ないが登れば龍となるという故事に基づいています。
 それが転じてそこを通り抜ければ必ず出世するといわれる関門の意となります。
 
 現在、川崎東照宮の遺構は当山の本地堂の他、学問の神様で知られる菅原道真公を祀る大阪天満宮の境内に石灯籠、鳳輦庫が移築されています。星合の池奥にある鳳輦庫の屋根瓦には葵の御紋が見られます。  
 
 最後に、当日は訪ねることができませんでしたが、
高尾さんより戴いた写真で紹介します。
 大塩平八郎 終焉の地
 
 大塩平八郎中斎(1793〜1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、 陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。 天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を 断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。

 乱後大塩平八郎は・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛 宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼び かけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。

 決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。

          1997年9月               大塩事件研究会

 
 
 天満天神 繁昌亭
 天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)は、大阪府大阪市北区天神橋二丁目にある寄席。上方落語唯一の寄席で、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸が毎日多数執り行われている。通称「繁昌亭」。
 
 
森鴎外が大塩平八郎の小説を書いています。
興味のある方は、下記の青空文庫をご覧ください!

  青空文庫 「森鴎外 小説・大塩平八郎」


 今回の歴史ウォークは、大塩平八郎の乱・天満界隈を散策、いろいろな史跡を尋ねることが出来ました。
高尾さん、本当にお世話になりました。感謝申し上げます。

 次回のウォークは、10月11日(土)枚方東部探訪です。JR長尾駅 午前9時30分集合。
行程は、生俊寺〜伝王仁墓〜旧田中家鋳物民俗資料館〜JR藤阪駅 12時解散です。
案内は、伊東征八郎さんです。多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただきありがとうございました!

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