[ホームページ] へ戻る

第81回 交野歴史健康ウォーク
2007.3.10

「かいがけ道から竜王山と交野山に登る」

いきいきランド交野ドーム→寺→住吉神社→かいがけ道→竜王山→傍示→蓮華寺→
野外活動センター→交野山→石仏の道→牛回しの石→私部墓地→いきいきランド交野ドーム

「かいがけ道から竜王山と交野山に登る」MAP
 
 2007年3/10(土)、久しぶりのウォークにお元気な皆さんがたくさん参加された。交野古文化同好会を将来背負って立ってくれるであろう、頼もしい小学生、中学生の二人を含み総勢21名。午前10時10分、竜王山を目指して、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。
 府道久御山線を横切り、交野高校北側の道を寺村に向かって歩く。静かな寺の町並みを過ぎ、住吉神社への道を竜王山に向かって進む。住吉神社で参拝。今日の健康ウォークの無事を祈り、気持ちも新たにして「かいがけの道標」から掘り割り道(かいがけの道)を登っていく
 落ち葉が絨毯のように敷き詰められ、手入れの行き届いたくねくねとした山道を登ると路肩に、「柳谷伏拝」「愛宕山大権現」「石清水八幡宮」などの伏拝の辻に出る。
 「愛宕山大権現」の伏拝の前に、大きな石が山道に突き出している。この石の南面に可愛らしい地藏さんが彫られている。気づかずに通り過ぎるところを、案内の平田さんより教えてもらった。参加者一同、うずくまりお地蔵さんに手を合わせて参拝。
 さらに、上へと登ると左手に、「かいがけ地蔵」が祀られている台地がある。石段をのぼり、正面を見ると「かいがけ地蔵」がおられる。左手には、大きな山桃の古木がしっかりと枝を張り、根元に数体のお地蔵さんが祀られている。少しはなれて不動明王がおられる。かいがけ地蔵の前には、瓦の破片が散乱、お堂が建てられていたという。ここは、何か、遠くの世界を思わせるような空間地帯である。昔の旅人たちは、大峰さんや伊勢参りなどへとかいがけ道を登り、このかいがけ広場で別れを惜しんだそうだ。

 かいがけ地蔵から少し上がると、左手に竜王社への上り口がある。鳥居をくぐり石段を登るといよいよ、竜王山への道である。落ち葉でびっしりと敷き詰められた道は、足が滑り思うように登れない。休み休み、ゆっくりと登る。息を切らしてやっと登りついた広場は、一面雑草が生え、祠が一つあった。そこから北の一段高くなったところが頂上で、竜王石があり、その北側のトンガリ帽子の岩が雨乞岩である。
 淳和天皇の天長2年(825)干ばつで稲が枯れ、この苦しみが天上に達し、弘法大師に雨を祈らせたのが、この山頂の竜王石だそうである。また、この山頂付近には、雷神が小便をかけて穴があいたと言う「いばり石」や、「弁慶石」があり、修験者が篭ったと言う岩窟などもある。
 下りは、落ち葉に足を取られないように、気をつけながらゆっくりと「傍示の里」まで下った。

かいがけの道
かいがけ道の道標
住吉神社にくぼみ石が残っている
ゆっくりと落ち葉を踏みしめながら
かいがけ道を登る
石の南面に可愛らしい地藏さんが彫られている
平田さんより、道に埋まっていた大岩をジャッキで吊り上げ、
今は大切にお祀つりしていることなど、経緯をお聞きする。

かいがけ地蔵


竜王社への上り口に建つ鳥居
「従是嬰児山龍王社3丁」と標石に刻まれ、
嬰児を捨てた山、間引き子を捨てた
山だろうか、暗いイメージのする所。
かいがけ地蔵を背に、全員で記念写真
竜王山
竜王山頂上の「竜王石」の前で記念写真
竜王山頂上の竜王石 トンガリ帽子の岩が雨乞岩


弁慶の馬がつけた蹄の跡か?
「弁慶岩」
この付近には、雷神が小便をかけて
穴があいたと言う「いばり石」がある
修験者が篭ったと言う岩窟
平成の修行僧?

傍示の里

 竜王山を下ったところは、まるで別世界のような「傍示の里」だった。白梅が満開、甘酸っぱい香りが漂い、暖かい太陽の日差しを浴びながら、三々五々畦道で、ゆっくりと昼食。
 いつ歩いても、傍示の里の景色は静かで長閑な風情が良い、南川の源流付近の段々畑の風景が本当に素晴らしい!蓮華寺から細い道を上がり、キトラ(北浦)の辻へと歩き、水神さんへの昔の参道と思われる道も、今は竹やぶや雑木が茂り、進むのも難渋、やっと道の下に祀られている「水神さん」に参拝することができた。藪の中の水神さんに、久しぶりに出会えて感慨も一入でした。

「水神さん」 キトラの辻、手前の地蔵さん
キトラ(北浦)の辻、苔むした双体仏

交野山
 
  キトラ(北浦)の辻へと出て、苔むした双体仏を拝み、野外活動センターを通り、旗振り山への道を過ぎ、郡南街道へと出た。交野カントリーを右に見て、交野山へと登り山頂の観音岩で一休みする。
交野山山頂から久し振りに見た雄大な眺めは本当に素晴らしかった!
手前に見える池は松塚上池、第二京阪国道の橋脚工事が進み、
松塚下池、鐘撞堂池は埋められてしまった

交野山・山頂の観音岩

交野山山頂からの雄大なスクロール画像をお楽しみください!
   交野山山頂からの雄大な眺望


 《梵字の仏たち
 交野のシンボルは、と問われたら交野山の観音岩と答える。
 「河内鑑名所記」より抜枠、次のように書かれている。
【鴻尾山、山の頂きに八間四方の岩あり、観音岩と古しへより申伝る、正観音の梵字、石の中程に弐尺四方計に書、ほり付て有(中略)南の方に三間計の石いくつも重ねてあり、是は三宝荒神の梵字あり(中略)、北の方に六間四方程の石有、大日の梵字にて有けると申し伝る(下略)。】
 これによって、交野山頂に今でも見られる梵字が
聖観音(サ)、三宝荒神(ウーン)、大日如来(ア)という三つの仏たちであることがわかる。梵字の仏でもう一つ忘れてはならないものに、源氏の滝の落ち口の左の石崖に刻まれた不動明王の梵字、(カーンマーン)がある。
 三宝荒神・聖観音には「寛文六丙午年三月」(1666年)京都猪熊荒神三寶寺法印實傅とあり、眼下の我々を守って下さる仏たちに合掌。

観音岩で一休み 外法岩(げほういわ)


 交野山から岩倉開元寺跡へと下り外法岩(げほういわ)をじっくり観察したあと、「石仏の道」へ下った。帰りは、倉治の墓地を通り神宮寺のぶどう畑の小道を歩き、私部の共同墓地で、故奥野平次氏のお墓にお参りし、交野古文化同好会の活動は、元気な皆さんに支えられて、賑やかに活動を続けていることを報告した。
 
石仏の道
神宮寺の村から廃岩倉開元寺へと通じる道が石仏の道である。
 この石仏の道に存在する弥勒仏坐像石仏、二尊石仏、三尊磨崖石仏、阿弥陀如来立像石仏、阿弥陀三尊磨崖石仏、の5点が、平成14年9月1日付けで「廃岩倉開元寺関係石仏群」として交野市の指定文化財になった。

 石仏の道をあがると、右側に東面して花崗岩の自然石に刻まれた弥勒菩薩(第一石仏)がある。この弥勒菩薩は坐像で、右腕を前に出してまげ、掌を外側に開き、左手は組んだ膝の上で掌を下に向けておいて、くつろいだお姿でおられる。リアルで緻密な線刻描画は、大阪随一の秀作と評され、鎌倉初期の作と言われる。
 まわりは竹薮に囲まれ、しっとりとした趣はいつまで眺めていても飽きない。

 山裾の藪(神宮寺の宮跡)のある北から里のかけて、奈良時代に開元寺と言う大寺が建ち、その寺が鎌倉時代の頃に、交野山の山頂に寺を移し岩倉開元寺と名を変えたといわれており、この道は岩倉開元寺への参道であった。往時、沢山の僧やお参りする人々が通った道である。

 弥勒菩薩から登山道を登ると、右側に細長い池があり、この池の東端の小道に、二尊石仏が西面している。さらに第二の山池を左に見て進むとぐっと南に山道は曲がるが、ここからすぐ右側に大石の頂部が見える。この大石の上部中央に南面して、半円の光背に阿弥陀三尊(第二石仏)が刻まれている。
 本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音・勢至の両菩薩の立像で、文明11年(1475)と彫られている。室町中期である。現在、交野山への登山道(石仏の道)は、この磨崖仏の北側を通っているが、昔は南側の小川に沿って、眼の上に阿弥陀三尊を拝みながら「なんまいだ、なんまいだ」と唱えながら登ったと言う。 見落としがちなので、要注意。
 道の左手に、頭部が少し欠けた阿弥陀さんがおられる。阿弥陀如来立像石仏である。石仏の頭部右半分や光背の上部を欠損しているが、衣は通肩で来迎印を結んでおられ制作年代は室町時代とされている。石仏のある北側斜面は「鳩が谷」とも呼ばれ、以前ここから骨壺が出土したといい、開元寺の墓地であった可能性があり、この石仏も墓地に伴う供養のために造立したと考えられている。

 この山道を更に、登ると左に傾いた大石がある。その上部切り込みの光背の中に阿弥陀三尊(第三石仏)が刻まれている。高さ3mほどの花崗岩に、仏の高さ40cmの本尊阿弥陀如来が蓮華座に坐し、これよりやや下側の両脇には、第二石仏同様、観音菩薩と勢至菩薩の二仏が蓮華座の上に立っている。また、第二石仏同様に室町時代中期の作といわれている。右側の菩薩が赤茶けているのは、開元寺の火災の時のものともいわれている。
 雨上がりの朝、こもれびが射す頃の石仏の美しさを皆さんも是非ご鑑賞下さい。きっとご満足されるでしょう。近いうちに、是非とも石仏の道をお尋ねください。
阿弥陀三尊(第三石仏)
上部切り込みの光背の中に阿弥陀三尊(第三石仏)が刻まれている。
高さ3mほどの花崗岩に、仏の高さ40cmの本尊阿弥陀如来が蓮華座に坐し
、これよりやや下側の両脇には、第二石仏同様、観音菩薩と勢至菩薩の二仏が
蓮華座の上に立っている。また、第二石仏同様に室町時代中期の作といわれている。
阿弥陀三尊(第二石仏) 阿弥陀如来立像石仏
二尊石仏 弥勒仏坐像石仏
弥勒仏坐像石仏を説明される、平田さんの熱弁も冴え渡る!
弥勒菩薩は坐像で、右腕を前に出してまげ、掌を外側に開き、
左手は組んだ膝の上で掌を下に向けておいて、くつろいだお姿でおられる。
リアルで緻密な線刻描画は、大阪随一の秀作と評され、鎌倉初期の作と言われる。

  平田さんの熱のこもった説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。午後4時丁度、いきいきランド広場で解散。次回が楽しみである。
一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
  是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

交野三山
交野山 標高
344

 交野市のシンボル。頂上に巨岩があり観音岩と呼ばれている。昔から太陽の上る山として信仰をされてきた。機物神社の鳥居から交野山の巨岩を拝んだ。 
 岩に梵字が刻まれている。開元寺
(天平、奈良時代)→交野山の頂上・岩倉開元寺(鎌倉時代)が建てられていた。
 また役行者
(えんのぎょうじゃ)の修行の場―交野山、竜王山、獅子窟寺、磐船神社―であった。神宮寺から登る、石仏の道には、弥勒菩薩、弥陀三尊など三つの磨崖仏がある。
 元旦には、初日の出を拝む市民で一杯になる。
 交野山は交野断層によって、せり上がった山頂部が浸食作用を受け、周囲の風化の進んだ花崗岩が削り取られ、固い花崗岩が岩塊となって残ったものである。

旗振山 標高
345

 交野の最高峰。交野山の南、郡南街道から野外活動センターへ入る道を西へ登る。 江戸時代中頃から、「大坂・堂島の米市場」を白旗、黒旗で3里ごとに中継点を設けて旗振り通信で米の値段を知らせた。 旗振山は、大阪方面が一望できる立地のよさで旗振り通信が行われた。交野の人々もこの山で振られた旗の様子でいちはやく米の相場を知って米の売り買いの決断をしたという。

竜王山 標高
318
 寺村から「かいがけの道」を登ると、竜王社への上り口がある。鳥居をくぐり登りついた所がお祭り広場である。その上一段高くなった広場に竜王石があり、その北側のとんがった岩が雨乞い岩。
 平安時代、淳和天皇の天長2年(825)に干ばつで稲が枯れた。村人のこの苦しみが天上に達して、弘法大師に雨の降るのを祈らせたのが山頂の竜王石である。また、山頂には雷神が小便をかけた「いばり石」、弁慶岩
などがある。修験者がこもった岩窟も残っている。


戻る