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第146回 交野歴史健康ウォーク

大坂夏の陣400年記念ウォーク

「真田幸村ゆかりのコース」を探訪
2015.5.9(土) 24名(会員23名)参加

行程:河内磐船駅(午前8時58分発)→ 天王寺駅着(9時40分) → 天王寺公園→ 
旧黒田藩蔵屋敷長屋門 → 慶沢園 → 美術館 → 河底池・統国寺 → 茶臼山 →
一心寺 → 逢坂 → 安居神社 →  堀越神社 → (武本義太夫生誕の地) 天王寺駅
           (12時10分頃解散)      徒歩 約4km

5月連休明けの土曜日、てんのうじ観光ボランティアの皆さんのご案内で「真田幸村ゆかりの地」を歩いてきました。
JR河内磐船駅前に24名が集合、午前8時58分発に乗車、京橋駅で乗り換え天王寺へ9時40分に到着しました。
駅改札口では、てんのうじ観光ボランティアの竹中靖子さんら3人のベテランガイドさんに迎えられ、早速に
天王寺公園へと案内された。旧黒田藩蔵屋敷長屋門前で記念撮影後、3班に分かれて詳しく案内頂きました。

今回は天王寺駅からわずか4km位の探訪コースでしたが、地元のベテランガイドさんの詳しい説明と案内で、
初めて聞くことなど沢山あり大変有意義な歴史ウォークとなり、参加された皆さんも満足されたことと思います。

JR天王寺駅 明治22年5月14日、大阪鉄道が湊町〜柏原間に開通した時に開業しました。
明治40年国有化され、昭和19年阪和線となりました。昭和37年巨大駅ビルが完成しました。

  「大坂の陣」は、1614年(慶長19年)の「冬の陣」と、翌1615年(慶長20年)の夏の陣の2度にわたり、徳川方と豊臣方の間で戦われた戦国時代最後の合戦である。
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となり幕府を開いたものの、いまだに格別の権威をもって大坂城に君臨し続ける豊臣家を滅ぼそうと戦を仕掛ける。
 1615年5月7日に大坂城は落城、翌5月8日には秀頼・淀殿が自害し豊臣家が滅亡、名実ともに徳川の天下となっていく。

 大坂の陣から400年ーー。大坂城を中心に大坂の陣400年記念イベントやウォークなどが開催されています。交野古文化同好会として、昨年は「関ヶ原バスツアー」を開催、今年のウォークは徳川家康と真田幸村のゆかりの地を歩きます。
5月9日 大坂夏の陣400年記念ウォーク 散策MAP
 

旧黒田藩蔵屋敷長屋門前で記念撮影

天王寺史跡めぐり(真田幸村 夏の陣コース) レジメ
 
 
 

 

大坂夏の陣 天王寺・岡山の戦い   (ウィキペディア参照)
 5月7日、最後の決戦のため豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。

 天王寺口は真田信繁(幸村)、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000が布陣。

 これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。 天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置く。 岡山口は前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。

 正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は大混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。絶望的な状況の中、唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。

 本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。

 翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した。
 
大坂夏の陣図屏風 真田幸村隊 (一部を切り抜き)
 
 
 <大坂夏の陣図屏風>
 大坂夏の陣を俯瞰する絵屏風。右隻では、激戦となった五月七日の戦闘を克明に表現、左隻では城北方面の合戦と、巻き込まれた大坂町人たちの凄惨な姿を描き出している。本品はもと福岡藩主黒田家に伝来、この夏の陣に参戦した黒田長政が記念のため生前に描かせたもの。
 本年(2015年)は、徳川幕府が豊臣家を滅ぼし大坂の陣(冬の陣・1614年10月から12月、夏の陣・1615年5月)から400年目の節目の年です。上図は、「重要文化財 大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)の右隻中央より、茶臼山に陣を構える真田幸村隊の部分を抜き出したもの。
 画面上部に見える鳥居は四天王寺西門の石鳥居で、勇猛果敢な赤備えの真田隊の中央に、栗毛の馬に跨り鹿角の兜を被った幸村(信繁)の勇姿を見ることができます。(後方には、白馬に跨り鹿角の兜を被った嫡男・大助の姿もあります)
 幸村の鬼神のごとき活躍で、真田隊は数で勝る松平忠直隊を突破して家康本陣にまで達しました。しかし、家康をあと一歩のところまで追い詰めたものの力尽き、幸村は安居神社境内で戦死したと伝えられます。享年49歳でした。
      (大阪春秋・平成27年春号参照)
旧黒田藩蔵屋敷長屋門
天王寺区茶臼山町1 天王寺公園内 大阪府有形文化財
 この長屋門は、江戸時代中期の蔵屋敷の遺構をもつ数少ないものの一つである。現在の中之島三井ビル付近にあったもので、昭和8年、同ビル建設に際し大阪市に寄贈された。
   

慶 沢 園 
 平成27年4月より、天王寺公園は無料となり慶沢園は有料となりました。
 純日本風の庭園として知られる慶沢園は、住友家がこの地に移った際、約10年をかけて本邸(茶臼山邸)とともに造営した庭である。当時の住友家15代吉左衛門(号は春翠)は明治28年(1895)からこの地の用地買収を始め、同41年に着工した。大正4年(1914)にはまず本邸を鰻谷から移転したが、その間、春翠は庭園を「恵沢園」と命名し、大正7年の完工時に「慶沢園」と改めている。

 この庭園の設計・施工を担当したのは当時の高名な庭師であった「植治」こと小川治兵衛である。治兵衛は山県有朋の無鄰庵を手掛けて以来、京都を中心に活躍し、日本の近代造園に大きな足跡を残した造園家で、彼の手になる庭園は国や京都市の名勝などに多く指定されている。 慶沢園は、大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園である。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿(あずまや)が配されている。

 大正14年(1925)、住友家は神戸住吉に本邸を移し、翌、昭和元年に敷地12,940坪を大阪市へ寄贈した。昭和9年(1934)には一般公開され、同11年に敷地西半の住友邸宅跡に市立美術館が完成したが、敷地東半の慶沢園は戦後の昭和33〜35年ごろに本格的な整備が実施され、今日に至っている。
 住友家(すみともけ) 江戸時代からの大坂の豪商。初代は京都で書籍・薬種商を営んだが、2代目から銅精錬業・銅商を営み、大坂へ進出した。近代に至り、財閥に成長した。

あべのハルカスが間近かに展望される
大阪市立美術館
 大阪市立美術館(おおさかしりつびじゅつかん)は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある美術館。当地には1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館した。
 美術館への正面玄関口
茶臼山・河底池
 <幸村との関係は> → 幸村が本陣を置いた場所
 冬の陣で家康の本陣となり、翌年の夏の陣では幸村が本陣を敷き
「茶臼山の戦い」(天王寺口の合戦)の舞台となりました。

 茶臼山は大坂冬ノ陣(1614)の際に徳川家康の本陣があったところですが、もとは前方後円墳と考えられ、河底池は周濠の痕跡とみられていました。また、四天王寺の別名「荒陵(あらはか)寺」も茶臼山古墳に由来し、境内にある長持形石棺の蓋も茶臼山に納められていたものと推測されていました。

 昭和61年(1986)に発掘調査が行われ、家康の本陣跡の建物や堀割が確認されましたが、従来いわれてきた全長200mの大前方後円墳という説には疑問符が付くことになりました。ただ、平安時代以前に築かれた盛土が古墳の築造時によく用いられた工法と類似するものであることが明らかにされ、古墳の可能性は残されています。

 南側に「河底池(カワソコイケ)と言う堀が在り和気橋が架かっています。この堀は延暦7年(788)和気清麻呂が大和川を西流させようとしたが難工事で中止した際の工事跡とされます。


てんのうじ観光ボランティアの小城様、御年86歳だそうです、お元気です!

河底池

和気橋から通天閣が目の前に
 
統国寺 禅宗 和気山
 黄檗宗万福寺の末寺で、邦福寺という寺名でしたが、昭和45年ころから在日朝鮮人仏教連盟の維持するところとなり統国寺と改めています。本堂は大阪市指定文化財となっています。境内にベルリンの壁の一部が置いてあります。 
  阪口楼の普茶料理



 歴史の散歩道が通じる上町台地にあり、
河底池を望む池畔の佇まいです。

明治十年の創業以来大和家の分家として
幽ちく幽邃閑雅の地とし、今日に至ります。

ご清遊に、ご宴会に、またお昼のひとときに
広くお気軽にご利用ください。

  (阪口楼のHPより)

池の向こう岸に「統国寺」が見えます
 茶臼山
 
 
  慶長二十年五月七日(1615年5月7日)、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤備が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤備えと松平家の家紋のつま黒が交互に入り乱れる大阪夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大阪夏の陣/天王寺口の戦い)数では劣る真田隊であったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。 (※立札のとおり)
 
 
 大坂の陣茶臼山史跡碑
 

沸騰するような波形は「群雄割拠」を、
大きな円形はそこから浮かび上がった「天下泰平」を表現しているそうです。

大坂に陣400年を記念して一心寺が企画製作して大阪に寄贈されたものです。
 
 
 
 茶臼山の頂上(比高8m)へと案内された
 
豊臣家への義を貫いた毛利勝永とは?
 大坂夏の陣で真田幸村しのぐ大奮戦.

 2016年のNHK大河ドラマは、「真田丸」に決定している。確かに真田幸村といえば戦国武将のなかでも屈指の人気者だ。しかし、大坂の陣において、幸村と並んで大坂方の主力部隊を率い、幸村をもしのぐ奮戦を見せた、毛利勝永(かつなが)の名が語られることはなぜか少ない。今回は、そんな勝永にスポットを当ててみたいと思う。

 勝永は、尾張国に生まれ、父の勝信(かつのぶ)とともに羽柴秀吉の家臣となった。父が小倉城主となると、勝永も豊前国内に4万石を与えられ、朝鮮出兵などで活躍を見せた。関ヶ原の戦いが起こると、父とともに西軍に参戦。伏見城の戦いでは目覚ましい戦功をあげたとして、毛利輝元と宇喜多秀家から感状を贈られている。

 しかし、関ヶ原本戦で西軍が敗れると、黒田官兵衛が小倉城にいた勝信に対し、降伏を促してきた。旧知の官兵衛の説得に応じ、頭を丸めて徳川家康への恭順を示し、何とかわが子勝永のリストラを免れようとした勝信だったが、事態はそう甘くはいかなかった。結局、父子ともども改易となり、肥後へ追放されてしまう。

 リストラされた毛利父子の身を預かったのは、土佐の山内一豊(やまうち・かつとよ)だった。かつて豊臣家の家臣だった当時、上役だった勝信が一豊の世話をしており、毛利父子に恩を感じていたようだ。

 そんな縁から、リストラの身とはいえ、山内家に厚遇され、父の勝信は土佐の地で静かに生涯を閉じている。しかし、大坂の陣に際して、豊臣秀頼に招かれた勝永の心は大きく揺れた。結局、大恩ある豊臣家に報いるべく、土佐を脱出して息子とともに大坂城に向かうことを決意したのだ。

 このとき、城に残って人質にされることを、妻と娘にわびた勝永に対し、「恩に報いるのは家の名誉です。我らのことは心配しないで」と、妻は殊勝に夫を送り出したという。

 大坂冬の陣では、守備隊として活躍。続いて大坂夏の陣で、敗色濃厚ななか、毛利隊は秋田実季(さねすえ)、榊原康勝(やすかつ)ら、敵の主力部隊を続々と退け、ついには徳川家康の本陣にまで突入するという大奮戦を見せた。しかし、真田隊が壊滅したために孤立し、四方から敵の猛攻撃を浴びせられて無念の撤退を余儀なくされた。

 それでも、退却しながら藤堂高虎(たかとら)隊を打ち破るなど、際立った強さを見せている。そして秀頼の介錯を行った後、静かに自決して果てた。土佐で余生を終えず、義を貫いて立派に戦い抜いた末の、見事な最期だった。

   (夕刊フジ 参照)
一心寺 浄土宗 
坂松山高岳院(ばんしょうざんこうがくいん)

一心寺のホームページを参照ください!
 正式名称は坂松山高岳院一心寺(バンショウザンコウガクインイッシンジ)と言う浄土宗のお寺です。
文治元年(1185)、四天王寺別当だった慈円の要請で法然が四天王寺西門付近に4間四方の草庵を結んだのが草創です。
 秀吉夫人ねねの寄進で寺域を拡げます。小堀遠州好みの「八窓の茶室」や大坂城三の丸玉造門を移設した黒門と呼ばれた山門等は昭和20年の大空襲で灰燼に帰しました。
●お骨仏・・・嘉永4年(1851)遺骨数万体を集めて最初の骨仏(阿弥陀仏)を作り、明治20年(1887)以後10年毎に集まった納骨で骨仏を作っています。
●本多出雲守墓・・・本堂向い側の大きな五輪塔がそれです。本多出雲守忠朝(家康四天王の一人、本多平八郎忠勝の次男で、当時下総国大多喜5万石の城主)は夏の陣、天王寺岡山の戦いで最前線で毛利勝永隊と争い討死します。
 忠朝は22歳の時の冬の陣で与えられた攻め口入で不満を漏らして、家康に攻め口の変更を願った所、“親にも似ぬ不肖の子、図体は大きいが何の役にも立たず”と叱責されます。これを見返そうと夏の陣では大名でありながら大身槍片手に一騎駆けで敵陣へ突っ込み奮戦しまましたが戦死します。
 所が一心寺に伝わる話はこれと違い、忠朝が前日(5月5日)の戦いで二日酔いの為遅参して家康に酷く怒られたので汚名返上をしようとして戦死を遂げたとされ、後世の人が酒で身を誤る事のないように救いたいと思い、死に際に「戒しむ可きは酒也」と言い残したと言う事から「酒封じの~」として今も禁酒を誓う人が詣でると言います。
●霧降の松碑・・・家康が幸村に追詰められ窮地にたった際、霧を噴いて家康を救ったと伝えられます。
●山門・・・寺の長老で建築家の高口恭行氏作の鉄とコンクリートの斬新な門です。
●阿形・吽形像・・・彫刻家、神戸峯男氏作。

 


●山門・・・寺の長老で建築家の高口恭行氏作の鉄とコンクリートの斬新な門です。
●阿形・吽形像・・・彫刻家、神戸峯男氏作。
 
 扉の4人の天女は画家秋野不矩氏の原画を彫刻家神戸峯男が浮き彫りにされました。
インドから日本にいたる仏教せかいの文化を帯して少しずつ顔やお姿が違います。

インドの仏蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。


本堂


香煙に浄められた納骨堂


納骨堂
 ●お骨仏・・・嘉永4年(1851)遺骨数万体を集めて最初の骨仏(阿弥陀仏)を作り、明治20年(1887)以後10年毎に集まった納骨で骨仏を作っています。
  一心寺は宗派を問わず、納骨をお受けしています(一部宗派を除く)。納められたご遺骨は10年分をひとまとめにしてお骨佛(遺骨で造られる阿弥陀如来像)を造立いたします。お骨佛は核家族化や現在の墓地事情などの環境変化に加え、先祖の遺骨をいつも、いつまでも大切に供養したい、というご遺族の思いを受け止める理想的な先祖祭祀・供養法として親しまれ、納骨に訪れる方は年を追って増えています。

一心寺の納骨堂には現在7体のお骨佛様がお祀りされています。明治20年に第1体目が造立されて以来、10年ごとに開眼しておりますので通算では13体になりますが、戦前に造られた6体は残念ながら戦災で焼失いたしました。
 
 遺骨で仏様を造る。一心寺でこの前代未聞のしきたりが始まったのは明治20年です。安政3年(1856)、年中無休でおせがきの法要を営む常施餓鬼法要が始まりました。それにより、納骨に訪れる方も後を絶たず、納骨されたご遺骨をもっとも丁重にお祀りするためにお骨佛の造立が発願されたのです。
 開山堂
 
 

本多忠朝の墓
 
 本多出雲守墓・・・本堂向い側の大きな五輪塔がそれです。本多出雲守忠朝(家康四天王の一人、本多平八郎忠勝の次男で、当時下総国大多喜5万石の城主)は夏の陣、天王寺岡山の戦いで最前線で毛利勝永隊と争い討死します。
 忠朝は22歳の時の冬の陣で与えられた攻め口入で不満を漏らして、家康に攻め口の変更を願った所、“親にも似ぬ不肖の子、図体は大きいが何の役にも立たず”と叱責されます。これを見返そうと夏の陣では大名でありながら大身槍片手に一騎駆けで敵陣へ突っ込み奮戦しまましたが戦死します。

 ところが、一心寺に伝わる話はこれと違い、忠朝が前日(5月5日)の戦いで二日酔いの為遅参して家康に酷く怒られたので汚名返上をしようとして戦死を遂げたとされ、後世の人が酒で身を誤る事のないように救いたいと思い、死に際に「戒しむ可きは酒也」と言い残したと言う事から「酒封じの~」として今も禁酒を誓う人が詣でると言います。
 
日想観(にっそうかん)
 日想観というのは、西方に沈みゆく太陽に向かって念仏を唱え、極楽往生を願う、観無量寿経というお経に説かれている念仏修行の一つです。この草庵は西方が開け、眺望が遠く海上にひろがり、日想観を勤めるには理想的な場所でした。
 法然上人が日想観を勤められたこの草庵こそ、一心寺のはじまりであります。
 
一心寺 総合案内所
一心寺  三千仏堂
 
 
 
 
 
 一心寺のジャガランダの木  6月頃開花
 
 一心寺には、ジャカランダの木が植えられ、時期にはムラサキの花をつけて訪れる人の目を楽しませています。
ジャカランダは中南米原産のジャカランダ属ノウゼンカズラ科の植物で桐擬き(キリモドキ)紫雲木(シウンボク)とも呼ばれます。
 
2010.6月 撮影されたもの(HPより拝借)
逢坂
天王寺七坂の一つで、現在の25号線。
安居神社
 四天王寺建立の頃に建てられ、四天王寺の僧が夏安居をする場所だったといわれています。 
   ※安居(あんきょ=のんきに過ごすこと)

 大坂夏の陣で真田幸村が最期を遂げたところで、「真田幸村戦死跡の碑」が建っています
家康の首を取れず疲弊してこの付近の畦で休んでいる所を松平直忠の越前兵に討たれ49歳の生涯を閉じた場所と言われます。

 菅原道真が昌泰4年(901)太宰府へ左遷の際、風待ちの為休息を取った場所とか、道明寺の伯母さんを訪ねる途中立寄り安居した(休憩)場所だったとか言われます。別名、安居天満宮とも呼ばれ、又、大丸百貨店創業の下村彦右衛門の信仰厚かった所から大丸天神とも言われました。
ご祭神は少彦名命で、天慶5年(942)道真が祀られました。

 ●安居の清水・・・「天王寺の七名水」の一つ(他に金龍・有栖・増井・玉手・亀井・逢坂の6井戸。亀井以外は枯渇)。今は枯渇していますが癇鎮めの井戸と言われました。
 ●さなだ松・・・幸村が凭れたと言う松の木で現在の木は2代目です。
 
 
 
 
 
 幸村は、有名な夏の陣の最終局面で、徳川家康本隊を追い詰める活躍を見せますが、最後力尽きこの神社の境内にあった松の木の下にいたところを、追手の松平忠直隊の西尾宗次に討たれたと伝わります。


「真田幸村戦死跡の碑」

本堂
 
小城さんより、「真田地蔵」について福井郷土歴史博物館へ行って来られた話を聞く
 真田地蔵
 福井市立郷土歴史博物館には、西尾宗次が真田信繁を供養する為、孝顕寺に建立した「真田地蔵」が展示されている。この下には信繁の鎧袖が埋められており、代々供養を欠かさなかったとされている。
 真田幸村のゆかりの品 PDF
幸村の首塚

 福井市の孝顕寺にある真田幸村の首塚は、幸村を討ち取った西尾宗次が供養のために地蔵尊を建立したものである。その地蔵の首は台上にあって、もし人がこれを地蔵の胴の部分に載せようとすると熱病にかかるという噂がある。
 実際には、ここは鎧袖が埋葬してあるだけで、首は真田一族に奪い取られるのを恐れて福井の某所に埋葬してあり、場所は西尾家で一子相伝だといわれている。(『掃苔記・西尾氏文書』)

管理人・・・現在、その真田地蔵尊は福井市郷土歴史博物館にあり、見るためには事前に申請が必要です。

さなだ松・・・幸村が凭れたと言う松の木で現在の木は2代目です
天神坂へと続く階段
堀越神社
四天王寺建立の頃の創建と言われ、崇峻天皇を祀っています。
四天王寺七宮の一つで、境内には熊野詣の第一王子が天満から移され祀られています。


堀越神社は、一生に一度だけ願いを聞いてくださる神様です


熊野詣の第一王子が天満から移され祀られています
竹本義太夫生誕地


天王寺区茶臼山町の堀越神社から南に約100Mの路上にある『竹本義太夫生誕碑』。

1950年(昭和25年)に「財団法人人形浄瑠璃因協会」によって建立されたが破損された形跡があり、補修されている。

「大阪城不思議の城」

<産経新聞連載>

 

T 幸村の最期 

慶長19年5月7日夏の陣最期の決戦ではここかしこに「真田左衛門(幸村)を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み後一歩迄追込むも精根尽き果て、畦に腰を下ろした所を、越前藩松平直忠隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首を取られました(=慶長見聞書)。この最期の地を「大坂御陣覚書」では安居天神下と伝えます。  

 本物の首はどれ? 

陣後の首実験で幸村の兜首が3つも出て来ましたが久作の取ったものだけが兜に「真田左衛門佐」の名が無いものの六文銭の家紋があったので幸村の首とされたと言います(=銕醤塵芥抄)。

然し、この首も影武者望月宇右衛門の首だったとの事、久作の主人松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男でその忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮が有り否定が出来なかったと「真武内伝追加」(シンブナイデンツイカ)に記されています。 

 幸村は九州へ落ち延びた? 

「採要録」には幸村は豊臣秀頼、木村重成と共に薩摩へ落ちたと記し、幸村は山伏姿に身をやつし、穎娃郡(エノグン)の浄門ケ岳の麓に住んだと言います。幸村の兄信幸の子孫の信濃松代藩主、真田幸貫が調査を志、結果を見た平戸藩の前藩主松浦静山が「幸村大坂に戦死せしには非ず」と薩摩落ちを肯定する感想を述べています(=甲子夜話続編)。

   鹿児島県南九州市頴娃町に幸村墓と伝える古い石塔が有り、地名の雪村は幸村に由来すると言われます。

 幸村の愛馬は豊後国に眠る 

松平忠直は恩賞の件で不満が募り江戸への参勤交代を2度も途中で引き返す等、幕府へ反抗的態度を取った為、元和9年(1623)豊後国(大分市)へ配流となりました。忠直は幸村の首と共に得た幸村の愛馬を気に入り夏の陣後も乗り回し豊後にも伴いました。忠直は慶安3年(1650)56歳で逝去し大分市津守の碇島と言う丘の中腹に葬られます。そしてその麓に愛馬の墓があり、墓石に「真田栗毛埋所」と彫られています。

   然し、「難波戦記」や「先公実録」には「河原毛」と記されており栗毛と河原毛では全く違うのでやはり久作の取った首は影武者の首だったのでしょうか? 

       【大阪城天守閣 北川央館長のから引用】

 天王寺公園の慶沢園から茶臼山、一心寺、安居神社と「大坂夏の陣真田幸村のゆかりの地」を訪ねて、400年前の古戦場の雰囲気を十分に味わった楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 次回の歴史健康ウォークは、6月13日(土)、バスツアー姫路城周辺散策です。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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