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第148回 交野歴史健康ウォーク

大坂冬の陣400年記念ウォーク

「真田幸村ゆかりのコース」を探訪
2015.7.11(土) 20名(会員19名)参加

行程:河内磐船駅(午前8時58分発)→ 玉造駅着(9時25分) → 二軒茶屋・猫間川跡→ 
空堀通り→ 三光神社 → 真田山陸軍墓地 → どんどろ大師(善福寺) → 心眼時 → 
円殊庵(鎌八幡) → 楞厳寺 → 高津宮跡(高津高校) → 蓮正寺(ねしゃの寺) →  
誓願寺(井原西鶴の墓) → 服部良一歌碑 → 近鉄上本町 
           (12時過ぎ 解散)      徒歩 約4km

梅雨空が晴れた土曜日、てんのうじ観光ボランティアの皆さんのご案内で「真田幸村ゆかりの地」を歩いてきました。
JR河内磐船駅前に20名が集合、午前8時58分発に乗車、京橋駅で乗り換え玉造駅へ9時25分に到着しました。
駅改札口では、てんのうじ観光ボランティアの柳原会長をはじめ3人のベテランガイドさんに迎えられ、
早速に玉造東口から東小橋公園へと案内された。伊勢音頭と菅傘のこと、姿を消した猫間川のこと、
二軒茶屋跡碑などを回り、大坂城の惣構(空堀)の説明を受けた後、3班に分かれて詳しく案内頂きました。

今回は玉造駅から上本町まで4km位の探訪コースでしたが、地元のベテランガイドさんの詳しい説明と案内で、
初めて聞くことなど沢山あり大変有意義な歴史ウォークとなり、参加された皆さんも満足されたことと思います。

  「大坂の陣」は、1614年(慶長19年)の「冬の陣」と、翌1615年(慶長20年)の夏の陣の2度にわたり、徳川方と豊臣方の間で戦われた戦国時代最後の合戦である。
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となり幕府を開いたものの、いまだに格別の権威をもって大坂城に君臨し続ける豊臣家を滅ぼそうと戦を仕掛ける。
 1615年5月7日に大坂城は落城、翌5月8日には秀頼・淀殿が自害し豊臣家が滅亡、名実ともに徳川の天下となっていく。

 大坂の陣から400年ーー。大坂城を中心に大坂の陣400年記念イベントやウォークなどが開催されています。交野古文化同好会として、昨年は「関ヶ原バスツアー」を開催、今年のウォークは徳川家康と真田幸村のゆかりの地を歩きます。

 大坂冬の陣は、江戸幕府(徳川家康、秀忠)と豊臣家(豊臣秀忠)の戦い。江戸幕府が開かれて11年目の戦いで有った。1614(慶長19)年11月中旬から12月中旬までの戦いで、幸村始めかき集めた浪人衆の活躍で豊臣軍は奮闘したが、降伏の状態で講和を受け入れた。
講和の中で、大坂城は本丸を除いた堅固な堀を埋め立てる結果となった。
その結果、次の年の夏の陣で豊臣大坂城は落城した。
 
 
7月11日 大坂冬の陣 400年記念ウォーク 散策MAP
 

近鉄・上本町で記念撮影 (2015.7.11)

天王寺・玉造史跡めぐり(真田幸村 冬の陣コース) レジメ
 
 真田幸村の年表

 

大坂冬の陣 真田丸の戦い   
真田丸(さなだまる)は、慶長19年(1614年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城(曲輪、防御構造物)である。

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

1614年、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。

信繁は1600年(慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した上田城の戦い(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。

12月4日早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破ることに成功した。
冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。

構造は東西180メートルほど、半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置。三方に堀、塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとしてかかれる。
 大阪冬の陣 布陣図
真田丸の想像図
真田丸 レプリカ
幸村の「真田丸」に新見解 
攻めの出城、徳川誘い込む


奈良大学 千田
嘉博学長
  (日経新聞 2014.10.5 参照)
 今年400年を迎えた「大坂の陣」。勇将真田幸村が大坂城の出城として築き、徳川方と激闘を繰り広げた真田丸に脚光が当たっている。2016年のNHK大河ドラマが「真田丸」に決定。復元模型の計画も進む。遺構が残っておらず謎が多いが、新しい研究や考察を踏まえ実像を探った。

 「幸村が軍師として知略を巡らし、周到に準備した最高の出城」。そう指摘するのは奈良大学(奈良市)の千田嘉博学長だ。

 城郭考古学の専門家である千田学長はこのほど広島藩主だった浅野家に伝わる「浅野文庫諸国古城之図」をもとに新たな考察をまとめた。江戸初期、廃城だった各地の城を現地調査した図面集で、真田丸も位置などを具体的に記す。

 千田学長が提示するのが、本丸と小さな曲輪(くるわ)の二重構造だった、との新説だ。真田丸は大坂城の南に築かれたが、間に深い惣構(そうがまえ、堀)があった。真田丸の本丸の北に設けられた曲輪は背後をとって惣構から進入しようとする徳川方を防ぐ狙いがあった、とみる。

 1614年11月、戦いの火蓋が切られた大坂冬の陣。豊臣方10万に対し、徳川方の軍勢は20万に及ぶ。豊臣方は南以外の三方を川や堀に囲まれ、攻めにくい大坂城への籠城作戦で臨み、南側を固めた。その先兵が真田丸。東西は180メートルとも伝わるが、もっと大きかったとの説もある。

 位置は現在の真田山公園近辺とされるが、「中心はやや西の大阪明星学園の周辺だった」(大阪城天守閣の跡部信主任学芸員)。鉄砲隊を率いた幸村が指揮し、12月4日には前田利常らの軍勢をおびき寄せ、大損害を与えた。

 「大坂城の弱点の防衛拠点」(同)と考えられているが、千田学長は「むしろ攻撃のための出城だった」と新たな見方を打ち出す。「真田丸の北には深い惣構があるため大坂城内からの援軍が難しい。背水の陣といえる場所」。逆に言えば、「徳川からみれば攻めたくなる。大坂城に籠もるだけでは勝てないと考えた幸村が練った誘導、接近戦のための陣地だった」。

 千田学長は戦いの様子を伝える「大坂冬の陣図屏風」に描かれた真田丸に着目。「塀が2段構造で上からも下からも鉄砲が撃てるなど、実によく考えられている」と分析する。幸村は開戦前、東から進軍してくる徳川家康らを近江で迎え撃つ「積極策」を唱えており、攻めの姿勢を貫いたとも考えられる。

 幸村の父、真田昌幸は自ら築いた上田城(長野県上田市)で2度徳川軍を撃退した。「幸村は少数で徳川の大軍を破った上田合戦を参考にしたはず」(千田学長)。徳川方を翻弄した真田丸は冬の陣後、和睦の条件として取り壊された。

 地元の大阪市天王寺区は10月末まで寄付金を募り、真田丸を再現した模型を作って来年5月に展示する計画。周辺では来年11月まで「天王寺真田幸村博」として様々な催しが開かれる。これを機に、大坂夏の陣で討ち死にした勇将の生きざまを振り返るのも楽しい。


2015.5月真田幸村博で展示された 「『真田丸』復元ジオラマ」

JR玉造駅から出発
 玉造の地名は、古墳時代に勾玉などを製作する玉作部(玉造部)がこの地に置かれていたことが地名の由来とされている。

昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。 前述の玉作部と、高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれている。

 石山合戦では主戦場の一つとなり、豊臣秀吉による大阪築城の際に大坂城三の丸に組み込まれ、細川・宇喜多・蜂須賀・前田・龍造寺・浅野・片桐などの屋敷が玉造に置かれた。しかし、大坂の陣によって全て灰燼に帰した。

 松平忠明による復興により、玉造は武家地・町人地・年貢地が混在する地域となった。北半に玉造口定番の武家屋敷地、中央に町人町(玉造26町)、空堀跡以南に東成郡玉造村が置かれた。玉造村は高燥地であることから畑作の村で、玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり、「玉造黒門白瓜」とも表記)が栽培されていた。玉造黒門越瓜の「黒門」の名は、現在の中央区玉造1丁目付近にあった大坂城の玉造門が黒く塗られていたことに由来する。

 明治に入ると武家屋敷が破却され、それに付随して町人町も衰退してしまい、江戸時代の武家地・町人地は1873年(明治6年)に東成郡西玉造村となって大阪市街から切り離されてしまった。1889年(明治22年)に西玉造村と玉造村が合併して東成郡玉造町となる。1895年(明治28年)に城東線(現在の大阪環状線)玉造駅が開業すると急速に宅地化し、1897年(明治30年)に大阪市へ編入された。

 なお、黒門と玉造駅の所在地は厳密には東成郡中道村の旧村域となり、中道黒門町・中道唐居町という旧町名だった。  
 てんのうじ観光ボランティアガイドの柳原会長さん
竹中さん、山口さんのご案内でスタート
  「大阪はなれてはや玉造、傘を買うなら深江が名所」

と伊勢音頭に歌われたように、深江は菅笠(すげがさ)の産地として有名でした。
古代垂仁天皇のころ、笠を縫うことを職業とした笠縫氏の一族が、大和の笠縫邑から良質の菅の生い茂った深江の地に集団で移住して、代々菅笠を作ったことから笠縫島の地名が生まれました。
江戸時代中頃からは、伊勢参りが盛んとなり、一般道中用の菅笠が世に知られるようになりました。旅人は、玉造を出てすぐ到着するこの地で菅笠を入手し、長旅に備えたことでしょう。
 昭和32年に埋め立てられ消失した猫間川
 大阪城の北で旧大和川水系に注ぎ、ほどなく大川(旧淀川)に入っていた猫間川(ねこまがわ)は昭和32年に完全に埋め立てられ消失してしまった川である。大阪市内では珍しいことではないが、たいていは人工的に開削した運河を埋めたり、流路の変更や或いは海岸部の改変であって、この川のように自然河川が完全に消失した例はさすがにあまり聞かない。

 東成区・城東区とJR環状線に沿って流れ、森之宮の砲兵工廠の西北端で平野川に合流していた長さ4.5キロメートル、川幅約10メートルの川です。
 流域面積が少ないことから、降雨により一時的に水量を増すことはありましたが、平時は流量も少なかったようです。このため舟運の便も悪く満潮を利用して小舟で物資を運んでいました。大坂の陣では真田幸村とともに猫間川がよく登場しますし、兵糧を搬入したことが記されています。

 天保8年(1837年)に幕府は、舟運の便を図るため川底を浚渫しました。このときの川浚えの土砂でできたのが寝駒堤といわれ、堤に植えられた桃・梅などの花見や紅葉狩りで賑わう大坂の名所の一つだったそうです。また浚渫を記念して玉造稲荷神社に石碑が建てられています。

 
国道308号の橋跡らしきもの、信号の右側のコンクリート構造物
当該物件のすぐ東の路地うねうねと曲折している
 大阪市東成区東小橋一丁目の国道308沿い(JR環状線玉造駅の東方)に碑が残る。
ここは暗越奈良街道の大阪側起点付近にあたり、往時は街道を行く人に茶を商う店などで賑わい、道の南北に茶店があり繁盛したという。茶店は俗に「二軒茶屋」と称された。
 お伊勢参りの最も贅沢な道中では、浪花の地を出る際ここで見送る人と別れの宴を張ったという。さんざん散財する向きもいたようで、落語のネタになっている。
 ここに、猫間川に架かる石橋が架かっていた。橋は慶安三年(1650)に架けられた公儀橋で、正式名は「黒門橋」といった。ここは、1925(大正14)までは大阪市と東成郡の境であった。 
 
 二軒茶屋・石橋跡
 二軒茶屋・石橋跡と絵図(玉造駅東)(にけんぢゃや・いしばしあととえず)

 江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。茶屋が二軒あったところから“二軒茶屋”といわれ世に広く知れわたりました。(現・大阪市顕彰史跡)。

 この二軒のそばを流れていた猫間川(ねこまがわ)に宝永8年(1711)に幕府の命によって橋が架けられたのが“石橋”です。正式には黒門橋というが、この附近にあった大阪城の玉造門が黒い門であったところから黒門橋と名づけられ、この橋が大阪では当時珍しく石で造られたものだったので通称石橋と呼ばれています。

場所 : 東成区東小橋1丁目2
   

二軒茶屋 絵図
黒門町
 JR玉造駅の近くに二軒茶屋と石橋の碑があります。このあたりに、大阪城の玉造門があり、黒塗りであることから「黒門」と呼ばれ地名ともなりました。昭和45年の住居表示実施まで「黒門町」の地名がありました。黒門橋付近で夏に、暗越奈良街道の往来者を対象として、粕漬などに加工して販売されていた白瓜が「玉造黒門白瓜」または「黒門白瓜」と呼ばれ、浪速の名産の一つとなっていました。
大坂城 惣構
 惣構(そうがまえ)とは城全体を取り囲む防御施設のことである。秀吉時代の大坂城域は北側は自然の堀をなしていた旧淀川(大川)に、そして西・南・東側はそれぞれ西惣構堀、南惣構堀、東惣構堀に囲まれた約2Km四方、約400万平方メートルにも達する広大な区域を占めていた。西惣構堀は現在の東横堀川で、古代難波京の運河を掘り返したものと思われる。また、東惣構堀は戦前まで環状線の東側を流れ上がっていた猫間川を改修して堀としたものである。そして、南惣構堀は天王寺と城の中間である現在の空堀通りに沿った形で掘られた巨大な空堀だった。

 しかし、秀吉は何も最初からこのような広大な範囲にわたる築城を考えていたわけではない。彼の死前後まで続いた大坂築城整備は大きく四つの段階に分けられるが、第三の段階、文禄三(1594)年に命じたのが、この南惣構堀(空堀)の掘削である。同じ時期に秀吉は聚楽第を中心とした「城下町・京都」を取り囲む「御土居」の造成と、また伏見城の周辺にも土塁と堀からなる惣構の工事を行っている。この年は秀頼誕生の翌年にあたり、いずれは秀頼に譲ることになる三つの城の防御力強化を目指したものだろう。

 特に住吉方面から平坦な台地が続き、地形上、唯一の大坂城の弱点とされた南方に築かれたこの南惣構堀は入念に作られた巨大な空堀であったという。構造的には上町台地を横切る形で深く掘り込まれた素掘りの空堀に柵をめぐらせただけの一見、簡素なものだったようだが、さすがは城攻めの天才だった秀吉の設計によるものであり、その防御力には絶大なものがあった。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ約20万の徳川方の大軍でさえ一兵たりともこの空堀を突破することが出来なかったことがそれを証明しているといっていいだろう。

 この南惣構堀は大坂冬の陣後の和睦条件のメイン項目として真っ先に破却、埋め立てが行われ徳川時代には掘り戻されることはなかった。しかし、このあたりを一度歩いてみれば伝承の地域に沿って堀跡らしき地形が現在もしっかりと残っている。秀吉時代の大坂城の広大さを思い起こす意味からも、一度このあたりを訪ねてみてはいかがだろう?
 


今立っている場所から西へ、大坂城の惣構があり、
その南に真田丸が造られ幸村が徳川軍と戦いました。
空堀通

公園の右は空堀通り(大阪城の惣構)、左は三光神社への高台へと続きます
 三光神社の場所は、かって姫山と称せられた場所で真田丸の一部とされる。
豊臣大坂城には、南惣構掘の東端南側の笹山に真田幸村によって築かれた真田丸と言う南北を濠で囲まれた半円形の曲輪が有った。真田信繁(幸村)が、1614(慶長19)年の大坂冬の陣の時、ここに出城を設けて大坂城の南の守りを堅固なものにしていた。
 大坂城は、自然と掘に守られた堅固な城で有ったが南側は空堀で守っており、守備の弱点となっていた。その空掘の南側の小山が真田丸でその弱点をカバーするためのもので有った。

 このあたりの南側の西へ延びる一帯が真田丸で有ったと考えられる。(さらに真田山の南側の地名も現在広く真田山町と称されている)

 三光神社は、昔姫山神社と称せられていた。その後、真田山の三光との名が全国に広がり、三光神社となったとされる。全国でも珍しい中風除の神として知られている。
三光神社
 三光神社は、古くは月日山神社、後に社地を姫山と呼んだことから姫山神社、明治以後宰相山神社また姫山神社に戻り明治41年境内の全国唯一の中風除けの神、三光宮を合祀してより三光神社と呼ばれるようになった。毎年6月1日から7日まで中風祈願大祭が行われ、全国各地から多くの参拝者が訪れる。
また、古くから三光神社の地に真田の抜け穴の話が伝えられている。慶長元和の大阪の合戦の頃、真田幸村がこの地に偃月城と名付ける塁を築き、大阪城まで通じる暗道を造ったと言い伝えられており、今も「真田の抜け穴」として保存されている。
昭和20年6月1日の大阪大空襲で大きな被害を受けた鳥居 
 この周辺は昭和20年6月1日の大阪大空襲で大きな被害を受けた場所である。三光神社も大きな被害を蒙ったが、拝殿正面の鳥居は爆弾の直撃を受け、その半分が吹っ飛んだ。戦後、鳥居の再建の折、戦災の教訓を後の世に伝える願いを込めて被災した鳥居を残すことになったのだそうだ。
  本殿祭神 天照大神0月読尊・素菱鳴尊
 末社祭神 仁徳天皇0武内宿爾・野見宿扁・主守稲荷
創建は反正天皇時代(406〜410)と云われています。350年ほど前、鎌人幡の隣に移りましたが、45年経て宝永3年(1706)再び今の地に、戻りました。神社の名も、姫山神社・宰相山神社と変わり、明治41年三光宮を合祀して、三光神社となりました。
 大阪七福神のひとつでもあるこの神社は寿老神を祀り中風除けの信仰でも有名だ。毎年6月1日から7日まで中風除けの大祭として芽の輪くぐりの神事が執り行われている。
 大坂冬の陣で真田幸村が砦(真田丸)を築き、大坂城に通じるトンネルを作つたと伝えられています。その出入り回の抜け穴が、幸村の銅像(昭和62年建立)の裏側に有ります。
 ここの境内は真田幸村が大坂冬の陣の際に掘ったと伝わる抜け穴があることでもよく知られている。真田丸と呼ばれる出丸をこのあたりに築いた真田幸村が、南惣構堀を隔てた大坂城内へ通じる抜け穴を掘らせたとの伝承がまことしやかに伝わっているのである。現在の抜け穴の入口は「真田の六文銭」文様入りの鉄の扉で閉ざされ、勿論、中に入ることは出来ない。その横には信州上田の真田家菩提寺である長谷寺より取り寄せた石を台座としてライオンズクラブ寄贈の真田幸村像が建っている。
真田山陸軍墓地
 西南・日清・日露戦争等の戦没者 約5100余の個人墓碑が整然と並び、納骨堂には、太平洋戦争などの戦死者の遺骨が納められている旧陸軍墓地です。戦前80ケ所以上作られた日本各地の陸軍墓地の中でも最古の歴史を持ちます。墓碑は規則によって大きさや形が定められ、階級ごとに区画された区域に整然と立ち並んでいます。少数とはいえ、敵として戦い、捕虜となってこの地で亡くなった日清戦争の清国兵4名、第一次世界大戦のドイツ兵2名の墓がAプロックにあります。一番古いのは明治3年に建てられた「下田織之助」Cプロックの墓標です。
 現在 墓地は国有地で、大阪市が管理をしています。最近の調査で、納骨堂の遺骨が約8200人だったことがわかり、その中には落語家桂文枝の父親の遺骨が含まれているとテレビで放映されました。
 
どんどろ大師(善福寺)
 善福寺(どんどろ大師)
江戸時代、大坂町奉行土井殿がなまり、「どんどろ大師」で親しまれる。 聖マリア大聖堂から南、府立清水谷高校前の交差点を西に約100m、小道を左へ進むと善福寺。
 大坂夏の陣の戦死者を弔うため、高野山岩本院法道が開祖。寺の地には、もと真言宗  鏡如庵大師堂がありました。本尊 弘法大師が、俗に「どんどろ大師」と呼ばれ、寺伝によると、どんどろは、土井殿の訛で、昔大坂城の城代 古河藩主土井利位の邸宅が鏡如庵に近接してありました。明治6年以来、廃寺になっていたましたが、明治42年、東能勢村の善福寺が移転してきました。
 また寺の前の道路は、近松の名作「傾城阿波鳴門」の中の「阿波の十郎兵衛が、我が子のおつるを殺した所」との俗伝があります。境内には「勝軍地蔵尊」も祀られています。
心眼寺
 心眼寺(しんがんじ) (まん直(なお)し地蔵) 
 元和8年(1622)僧、白牟が創建した寺で、真田幸村父子の冥福を願って建立されたお寺である。門扉に真田家の家紋の六文銭が張りつけてあるのはそのためである。心眼寺には「まん直し地蔵」があり、まんの悪い時に祈願すると効験があると言われている。

 本堂の再建は昭和42年
元和8年(1622)自牟上人が大坂城出丸の跡地に、真田幸村父子の冥福を願つて建立された寺です。 門扉に真田の家紋六文銭が張り付けてあります。真田家の家紋は、死者が三途の川を渡る時の用意にと、お棺に納める六道銭から転化したもので、戦いにのぞむ武士の必死の覚悟を表しています。幸村400回忌に際し、平成26年10月に「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が建立されました。
 寺には「まん直し地蔵尊」が祀られています。まんの悪いときに祈順すると効能があると云われています。
また元冶元年(1864)幕府の命により旗本から武芸者を選んだ幕臣のエリート集団[京都見廻組]で、坂本竜馬・中岡慎太郎を襲撃した桂早之助・渡辺吉太郎の墓が現存しています。


元冶元年(1864)幕府の命により旗本から武芸者を選んだ幕臣のエリート集団[京都見廻組]で、
坂本竜馬・中岡慎太郎を襲撃した桂早之助・渡辺吉太郎の墓が現存しています。

門扉に真田の家紋六文銭が張り付けてあります
 まんなおし地蔵尊
 寺には「まん直し地蔵尊」が祀られています。まんの悪いときに祈順すると効能があると云われています。
 
大応寺(木村兼葭堂墓所)
 寛永元年(1624)僧 証誉の創建。  物知りの代名詞とまで云われた兼葭堂は北堀江の人で酒造業を営む、本名坪井屋吉右衛門で後藤又兵衛の7世の孫、学問を好み11才で、片山北海の門に入り、漢学を学ぶ。長じて詩・書・文・画に才能を発揮、特に物産本草学について、精通していました。享和2年1月67才で死去(1802)

 世間で古くから伝説 「せきのおんばさん」(三途の川の関を守る婆(奪衣婆)が明治維新まで他のところに祀られていましたが、不思議な縁により当寺に祀られ、信者の間では、咳一切の病気に霊験があると云うことで参詣者が多かつたようです。
史跡案内碑
円殊庵(鎌八幡)
 円珠庵(契沖)
円珠庵は、「契沖旧庵」とも呼ばれ、江戸時代の国学者契沖が晩年に隠棲した所。 契沖は下河辺長流とともに「万葉集」を研究し、「万葉代匠記」を著した。 酒や勝負事を断つための願掛けで、境内に、木に打ち込まれた鎌がある。 明星学園前の交差点にある。
 江戸時代初期の国文学者契沖が、晩年の元禄3年(1690)に隠棲、古典の研究に親しんだところ。
契沖(1640〜1701)は尼崎に生まれ、11才の時今里の妙法寺で出家、高野山で修業、各地を巡り教導しました。代表作「万葉代匠記」は万葉集を注釈したものです。
 境内には「鎌人幡」という 社があり、真田幸村が榎に鎌を打ち込んで大勝したと伝えられ、祈祷寺として、榎に鎌を打ち込むと願いがかなうとお参りの人が多いです。
 祈願は 悪縁を断ち、病根断ち(頭痛、ぜんそく、癪、痔、等々諸病平癒)縁切、因縁断、悪霊断、厄払、悪運断、心眼成就、合格祈願、学業成就等


鎌八幡宮の碑
三韓通り
 三韓坂
 円珠庵の前の東西にのびる坂で、奈良時代は玉造にあった迎賓館に通じていた。この坂を東へ進み、南へ曲がれば宝国寺、蕉門十哲の俳人「志太野坡」の墓がある。 また、三韓坂をさらに東に進むと右手に、真田幸村が大坂冬の陣の際に出城を築いた古戦場「真田山公園」がある。
楞厳寺(織田作之助の墓)
 楞厳寺(りょうごんじ)
 慶長2年(1597)僧、禅牛の開創である。楞厳寺には織田作の名で親まれ浪速の体臭をもつ小説を発表した織田作之助(1913−1947)の墓所がある。彼の名を一躍挙げたのは「夫婦善哉」である。この小説は千日前の裏手にあたる法善寺横丁のぜんざい屋「夫婦善哉」を背景にミナミで生活する庶民の愛情を風俗的に描いた作品である。織田作之助は大正2年(1913)天王寺区上汐町4に生れ、府立高津中学から第3高等学校文科に入学したが、病気退学の止むなきに至った。そののち新聞記者としてジャーナリストの世界に入り、当初は劇作家を志していた。しかしスタンダールの小説「赤と黒」を読み小説家となることを決意したという。以後「夫婦善哉」のほかの作品で大阪の庶民のねばり強い人生、風俗を描き人気作家の仲間入りをしたのである。しかし読売新聞に「土曜夫人」を連載中、未完のまま36歳の若さでこの世を去った。今でも大阪の文学を語る時、織田作の名を忘れることはできない。母校である高津中学校(現高津高校)には織田作之助記念文庫が設けられている。
  山門の左に、織田作之助の墓があります。背面には、藤澤桓夫文、吉村正一郎の片仮名まじりの書で、作之助の生涯が、簡潔に記されています、高津中学,三高に入学、昭和10年3月期末試験中喀血、白浜、小豆島で療養しながら、12月戯曲「朝」「モダンランプ」などを、同人雑誌「海風」に発表、11年三高中退、上京 13年スタンダールの「赤と黒」を読んで志を小説に変更、15年「夫婦善哉」を発表、改造社の文芸部は夫婦善哉を推薦作品に選び、大正生まれの昭和随―の作家と激賞、以来「立志伝」「我が町」「六白金星」と次々と発表して、流行作家となり、21年読売新聞に連載中の「土曜夫人」を過労の為96回で中断、22年1月10日朝死去。

「ロマンヲ発見シタノ伝説的ナー語ヲ残シテ世ヲ挙ゲテノ哀惜ノ裡二忽焉トシテ夭折シタ行年35才」と碑文は終わつています。
高津宮跡(高津高校)
 仁徳天皇の高津宮跡はこちらなんですよ!と案内頂きました!
 高津宮址」碑について

 本校正門を入ってすぐ左側のところに「高津宮址」の大きな石碑があります。この碑は明治32年(1899)、大阪府が仁徳天皇1500年大祭を、当時は府社であった高津神社と難波神社で行った際、その記念に建てられたもので、同年11月3日、当時の天長節(天皇誕生日)に当たる日に除幕されました。高津高校の前身である旧制高津中学校の創立が大正7年(1918)ですから碑の方が古くからこの地にあったわけです。

 記紀によれば、高津宮は古墳時代中期の5世紀に、かまどの煙をみて、民衆の生活を気遣うなど、広く善政を行ったと伝えられる仁徳天皇が難波の地に定めらえた宮都であるとされています。難波の古代史研究は江戸時代からすでに盛んで、高津の宮の旧跡考証についても幾人もの学者や歴史家によって行われ様々な説がありましたが、明治32年、府よりの諮問を受けた13名の学識経験者の総意に基づき、この上町台地、高津高校の一帯がその地であると定められましたのです。

 当時、碑は現在の場所から南西の方角へ41メートル、すなわち今の本校正門前付近に建てられていましたが、勝25年の都市計画道路建設に伴い今の地に移されました。(碑の裏面に陰刻)
 
 大正10年(1921)、大阪市は「高き屋にのぼりて見れば、煙立つ民のかまどは賑わいにけり」という新古今和歌集所載仁徳天皇御製とされる御歌を取り入れ、「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて 民のかまどに立つ煙、にぎわいまさる大阪市、にぎわいまさる大阪市」(一番の歌詞)と市歌を定めました。

 本校の校名も、この「高津宮」に由来しています。「高津の宮跡 学び舎に あこがれ集ふ 青春の血潮は胸に 高鳴りて・・・」とは本校旧制中学校校歌の一節ですが、本校創立以来の貴重な歴史のモニュメントとして、そして先人達が遺してくれた大阪の重要な文化財の一つとして、この石碑をこれからも大切にして行きたいと考えています。
 なお、見学を希望される方は、お手数ですが、電話6761−0336 本校事務室までご連絡ください。
     平成17年7月吉日      大阪府立高津高等学校長
蓮生寺(ねしゃかの寺)
 ■ねしゃかの寺■
 天王寺区城南寺町の蓮生寺さんは丁度辻の角。その辻角に一寸えんりょがちに小さな看板がかけられていて『ねしゃかの寺』と書かれてる。ねしゃか像は珍しいもので、大阪ではここだけのものではないでしょうか。
 5,6段の石段を上って境内に入りますと、すぐ左側のお堂がそれで、お堂に入るとおしゃか様の寝姿。
 ゆったりとした十畳敷ほどのお堂のまん中に、黒うるし塗りの木製のベットに、北を枕にして、右手を頬に、静かな寝顔。
 青銅製で、私達と同じくらいの身長。このお姿も黒光りして古さがありありと感じとられる。だけど美しくつるつる。衣服はみだれず美しく着ておられる。さわりたい気持ちだが、手が出ない。両足首がすそから出ている。キチンと揃えて出ている。足の裏もつるつるで美しい。この足の裏もなぜてみたい感じ。ぬくもりが伝わってきそう。
 ねしゃかさんは、おしゃかさんが亡くなられたときのお姿とかで、仏教のむづかしい言葉で云うと、ねはん像と云うそう。

 ねはんとは、この世のぼんのうをすっかり消し去った後の、自由な心の様子をいうそうで、ここのお姿を見ますと本当にそんなお顔であり、全身からその心がにじみ出ています。
 思わず両手を合わせ拝みました。寝ておられるベットの周囲は、ぐるりと廻れます。
 近所の私はよく参りますがいつも私一人で、しみじみとお参りして帰ります。ぜひあなたもお参りしてください。心が洗われますよ。お参りされたら帰りがけに、お堂の入口に書かれている説明書を読んで下さい。
 こんなお話が書かれています。本来、蓮生寺さんのしゃか堂は、今から300年も昔にすでにあって、このねしゃか様は、千日前の法善寺にあったもので、明治に入ってから、ご縁あってこの蓮生寺さんにおまつりされたそうです。
 ちなみに、有名な法善寺さんは、江戸時代に一日念仏を一千日つづけ、一千日が終わるとまた次の二千日目の念仏に入る行事があって、その行事が有名になり法善寺さんは千日寺との別名もおこり、千日寺の前は門前市が立ち、千日寺の前が今日の賑やかな千日前の街となるのでした。
  
誓願寺(井原西鶴の墓)
 誓願寺の門(井原西鶴・中井一族)
 井原西鶴と中井一族の墓がある。 井原西鶴は元禄時代の談林派の俳人で、「好色一代男」の後は浮世草子作家として活躍。自由奔放な町民の世界を表現した。明治の文人幸田露伴が境内の無縁仏から西鶴の墓を見つけた。 1724年、中井甃庵が三宅石庵に朱子学を学び「懐徳堂」を創設。中井氏一族は儒学を家の学問とし、150年間にわたり文教の発展に貢献した。 誓願寺の門は、大福寺から南の反対側にある。
 元禄時代の三文豪、西鶴、近松、芭蕉の内、当誓願寺墓地に西鶴の墓が原形のまま安置され南区史蹟第1号となっています。
 井原西鶴(1642〜1693年)は摂津住吉社頭で一日一夜二万三千五百句独吟という超人的記録を樹立し、浮世草子(小説)「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」世間胸算用」等数多くの名作を残して明治以降数々の有名作家に大きい影響を与えました。
 墓の傍に
  「鯛ハ花ハ見ぬ里もあり今日の月」
と西鶴直筆の句をしたためた文学碑が建っています。また、表門左側に西鶴の流れを汲む武田麟太郎の文学碑があります。
  西鶴文学会代表  桝井寿郎   昭和62年11月
 井原西鶴は本名を平山藤五といい、寛永19年(1642)に大阪に生まれた17世紀代で最も重要な文学者の一人であり、西山宗因に師事した俳諧師である。一方で、『好色一代男』をはじめとするたくさんの浮世草子を著した。これらの作品の多くは、日本文学史の中で高い位置づけを与えられているだけでなく、現在も舞台・映画などさまざまな芸術活動の題材となり、人々に感動を与え続けている。

 西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。

 墓石は位牌型の砂岩製のもので、「仙皓西鶴 元禄六癸酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている。

 江戸時代の大阪を代表する文学者の墓として、大阪市顕彰史跡となっている。

     (大阪市 史蹟案内 WEBより)
 
墓の傍に 「鯛ハ花ハ見ぬ里もあり今日の月」
と西鶴直筆の句をしたためた文学碑が建っています。
 

表門左側に西鶴の流れを汲む武田麟太郎の文学碑があります。
服部良一の歌碑
 フェンスの外にあるボタンを押すと、
青い山脈の曲がスピーカーから流れる仕掛けになっています。
 大阪を代表する作曲家、服部良一。1907(明治40)年10月1日、天王寺の玉造で生まれ、36(昭和11)年にコロンビアの専属作曲家となり、最初の大ヒットが淡谷のり子の「別れのブルース」。他にも、霧島昇、笠置シヅ子など、服部メロディーによって大歌手になった人たちが多数存在する。

彼の作曲した曲の中で、「青い山脈」の歌碑が中央区の上本町西にある。他に群馬県にもあるらしいが、大阪の歌碑はサービス満点で、歌碑の横のポールにボタンがあり、押すと「青い山脈」の伴奏が流れる。しかも、けっこう大きな音で、きっちり3番まで…。石の表面に「服部良一先生自筆」と書かれた楽譜が刻まれており、伴奏を聴きながら、その場で「青い山脈」を3番まで全部歌うことができる。

 碑の横面には「服部良一先生は大阪府民の誇りです」という2004(平成16)年当時の大阪市長、關淳一(せきじゅんいち)氏の言葉がある。關市長もファンだったのだろう、生魂小学校にも「ほがらに学ぶ生魂っ子」という關市長が書いた石碑が「服部良一 大正11年3月24日 大阪市東平野尋常高等小学校卒業を記す」という台座の上に存在する。
  (大阪日日新聞を参照)
 
真田幸村オブジェ!

近鉄上本町のハイハイタウン内の吹き抜け部分に飾られている、
全長9メートルの巨大真田幸村オブジェ!
凄い迫力!幸村の前にいる忍者は猿飛佐助だ。
 
 当日、京橋駅から玉造まで珍しいラッピング電車に乗車しました。
 大阪環状線のラッピング列車
  大阪環状線 OSAKA POWER LOOP ラッピング列車 運転
JR西日本は、「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、ラッピング列車「OSAKA POWER LOOP」を運転。運転開始日は2014年6月1日(日)で、運転区間は大阪環状線、ゆめ咲線。対象車両は、103系8両1編成。大阪環状線の沿線風景や名所、祭事などをモチーフに、8つのテーマで各車両をデザイン。デザインは、FM802の主催によるアーティスト発掘プロジェクトに参加の8人が担当。
 
 玉造駅から真田丸が造られていたといわれる三光神社から誓願寺、近鉄上本町までをめぐり、「大坂冬の陣真田幸村のゆかりの地」を訪ね、400年前の古戦場の雰囲気を十分に味わった楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 次回の歴史健康ウォークは、9月12日(土)、大東市再発見、古堤街道周辺散策です。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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