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交野歴史健康ウォーク 143回

四條畷神社・楠木正行の墓など四條畷探訪
2014.11.8(土)  32名参加
行   程 : JR四条畷駅 9時集合 @四條畷市立歴史民俗資料館 → A和田賢秀の墓→
B四條畷神社 → 
C楠木正行公の墓 → JR四条畷駅 11時40分頃解散 徒歩約4km

案内 : 高尾 秀司氏(交野古文化同好会)  

 交野歴史健康ウオークは11月8日(土)午前9時、JR四条畷駅前に集合。当日は幸い晴天に恵まれ、32名(会員23名)が参加され楽しく開催されました。

 先ず、立花昇会長より開会の挨拶があり、続いて、講師の高尾秀司氏より、四条畷駅から出発して四條畷市内の史蹟を巡る行程などについて説明を受けた後、歴史資料館へ向かって元気に出発しました。

 最初に案内頂いた「四條畷市立歴史民俗資料館」では、野島先生より、特別展(まじないと人)に展示されている四條畷の宝物(遺物)(=コウヤマキ製の木棺や完全な弥生人骨、田原レイマンのキリシタン墓碑、中国製青磁香炉=)の数々の解説や交野市から出展されている遺物の紹介など大変分かりやすく説明いただきました。また事象と時代を分かりやすく区別して、整然とした展示風景と立派な展示用パンフレットに感動しました。

 四條畷の戦いに戦死した楠木正行、正時、和田賢秀の勇姿、正成と正行の櫻井の別れの石像や大阪府天然記念物に指定されている樹齢587年の大楠木に太平記さながらの歴史とロマンを偲ぶことが出来ました。また、明治の治水翁大橋房太郎や住吉平田神社など新しい発見がありました。

 「今回も、河内磐船駅から近い四條畷の街に色々な史跡があり、特に、楠木正成・正行親子のことなど改めて四條畷の歴史を知ることが出来て楽しいウォークでした」と言われたのが印象的でした。

 本稿を記載するにあたり、講師の高尾さんよりレジメを頂戴し、併せて「WEB」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 
 皆様、ご協力有難うございました。
参考/四條畷市ホームページ・四條畷神社・四條畷市立歴史民俗資料館発行の資料・パンフ・現地説明板等
四條畷神社 本殿前 記念撮影


当日配布されたレジメ
JR四条畷駅集合 午前9時集合
   
 四條畷市の代表駅であるが、当駅は大東市に所在している。1895年の開業時は、四條畷という自治体はまだ存在せず、四條畷といえば、四條畷古戦場に基づく広域地名であり、現在の大東市側が四条村、四條畷市側が甲可村だった。ちなみに、甲可村は1932年に改称して、四條畷村になる。

 また、表記については当用漢字(現・常用漢字)推進の影響で「四条畷」となっているが、もとは市名の表記と同様に「四條畷」であった。四條畷市が「四條畷」への駅名表記変更を2004年より要望しているが、JR西日本は「自治体の要望による駅名の改名は原則自治体費用負担で行う」としているため、数億円の費用がかかる改名は実現していない。

    (WEBウィキペディアより引用)
四條畷市の由来 
四条畷市のホームページより
1. 南北朝期の古戦場である四条縄手(畷)にちなむ(『太平記』巻の26)
2.この戦いに敗れた楠 正行(まさつら)の墓(大阪府指定史跡)が四條畷市楠公1丁目に あり、楠 正行以下の殉難戦没将士を祀るため、明治23年に四條畷神社が創建されました。その四條畷神社の名が著名になるに伴い、甲可村界隈の公共施設が四條畷の名に冠するようになりました。 明治28年に四條畷駅、同36年の府立四條畷中学校、大正13年の四條畷郵便局、同14年の四條畷警察署、翌年の四條畷高等女学校などで、これらを管内に持つ甲可村は、昭和7年村名を四條畷村と改称しました。
四條畷市の、「じょう」の漢字について
四条畷市のホームページより
 四條畷市は固有名詞であり、本籍地・住所地・市施設については「條」を使用しています。
しかし、「條」は常用漢字の旧字体であり、一部の新聞等では人偏のない新字体「条」を使用しています。
市の施設等では「條」が正しく、駅名や民間施設名に「条」を使っていれば固有名詞としてこれも正しいと言えます。
四條畷市立歴史民俗資料館
 民俗資料展示室は、もとは明治時代に建てられた枚方区裁判所甲可出張所の土蔵で、築後100年経っており、現在国の登録有形文化財建造物に登録されております。
 埋蔵文化財でもっとも有名なものは正行の墓から少し北よりの雁屋遺跡から発掘されたコウヤマキ製の木棺と人体の殆ど完全な骨格であります。その他馬の骨、最近話題になつた、田原レイマンのキリシタン墓碑などがあります。本日は有名な野島先生に解説をしていただきます。今回は特別展が開催されており交野市より東車塚古墳の遺物が出展されております。


資料館では、特別展「まじないと人」が開催されており
野島先生より詳しく解説いただいた。

今回の展示には、交野市からも「妙見山古墳ーヒスイ製勾玉」
「交野車塚古墳ー主体部、水晶製玉、四獣鏡2枚」
「獅子窟寺ー蔵骨器」の遺物が出展されています。

手前に展示されているのは、「コウヤマキ製の木棺」

野島先生より、詳しく解説いただきました。


野島先生より、特別展(まじないと人)に展示されている四條畷の宝物(遺物)(=コウヤマキ製の木棺や完全な弥生人骨、田原レイマンのキリシタン墓碑、中国製青磁香炉=)の数々の解説や交野市から出展されている遺物の紹介など大変分かりやすく説明いただきました。
和田賢秀の墓
四條畷市南野
 楠木正行公が四條畷の戦いで敵将高師直と戦い討ち死にされた時共に戦い戦死した和田賢秀の墓である。
賢秀公は正行公の従兄弟であり、歴戦の勇将であります。特になぎなたの名手として知られていました。戦いでは敗れましたが、死んでもヨロイを噛んではなさなかったと言い伝えられております。その為地元では「歯がみさん」と呼び親しまれています。

 

講師の高尾秀司氏
補足 : 現在の四条畷カントリー9番ホール付近で、「小松寺遺跡」の碑が建立されています。
その隣には正平3年(1348年)南北朝時代の四条畷の合戦で討ち死した、武将楠木正行の家臣で勇将とも知られた「和田賢秀」の墓があります。
 
小松寺遺跡石碑
 
和田賢秀の墓
四條畷神社
 四条畷市南野
 祭神 楠木正行・楠木正時(正行の弟)・和田賢秀  
 創建 明治22年、別格官幣社とされ翌年鎮座
楠木正行公は正成公の子息で正平3年(1348年)足利方の敵将、高師直(こうのもろなお)とこの地で戦い、激戦ののち弟正時と刺しちがえて死亡した。22歳の若さであつた。住吉平田神社の宮司の強い要請で明治天皇の思召により明治23年この地に建てられた。交野市倉治の金沢家が寄付したとの記録がある。境内に明治の治水翁・大橋房太郎の顕彰碑があります。
 
 
 
 
 四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行(くすのき まさつら 生年不明−1346年)を主祭神とし、楠木正時、楠木正家、和田賢秀ら一族の将士24人を祀っている。

 正行の父・楠木正成(くすのき まさしげ 生年不明−1336年)が明治政府によって大楠公として神格化されたのに伴い、父の遺志を継いで南朝のために戦い、命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と崇められるようになり1890年に四條畷神社が創建されている。

 境内には「桜井の別れ」の像がある。正式には「桜井駅の別れ」といわれ、1336年の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅(現在の大阪府島本町)で交わされたという、楠木正成・正行父子の今生の別れで「太平記」の名場面のひとつ。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前までは国語や修身の教科書に必ず載っており日本中の人たちが学んだ逸話だった。

 足利尊氏(あしかが たかうじ1305−1358年)の十万以上の軍勢に対し、新田義貞(にった よしさだ1301−1338年)を総大将とするわずかな軍勢の朝廷方では勝てないと見ていた正成は尊氏と和睦するか、比叡山に上り都に足利軍を誘い込んだ後兵糧攻めにするべきだと後醍醐天皇(ごだいごてんのう1288−1339年)に進言したが説得することができず死を覚悟して湊川の戦場に赴かざるを得なかったとされる。

 正成は自分の死を予測して11歳の嫡子・正行に対し「生き残って、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け今生の別れを告げ故郷の河内へ帰したとされている。

 正行は成長して1348年の四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)で足利尊氏の腹心・高師直(こう の もろなお生年不明−1351年)と戦ったが楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決したとされている。「桜井の別れ」は史実として異論もあるが、皇国思想を国民に徹底教育した明治時代から第2次世界大戦に敗れるまで代表的な尊王教育の教材のひとつだった。
 
 明治の治水翁 大橋房太郎の顕彰碑
 四条畷神社(大阪府四条畷市)に、彼の功績をたたえた「治水翁紀功碑」が建つ。また大阪市鶴見区放出東にある「寝屋川改修記念碑」にも、「寝屋川改修工事は昭和2(1927)年完成するが、府議会議員大橋房太郎の尽力が大きい」といった内容が記されている。

大橋房太郎 おおはし-ふさたろう
1860−1935 明治-大正時代の治水家。
万延元年10月14日生まれ。家は代々摂津東成郡(大阪府)放出(はなてん)村の庄屋。明治18年の淀川大洪水を機に,治水工事への取り組みを決意。20年放出村戸長となり,のち府会議員,淀川治水会副会長をつとめ,36年間改修工事に尽力した。昭和10年6月30日死去。76歳。号は士房。
 大阪府東成郡榎本村(現在の大阪市鶴見区)放出(はなてん)の庄屋に生まれた。
東京で鳩山和夫邸(長男は鳩山一郎、次男は鳩山秀夫。鳩山威一郎は孫。鳩山由紀夫・鳩山邦夫は曾孫に当たる。)の書生をしていた時、1885年(明治18年)の淀川の大洪水のことを知った。急遽帰阪し、惨禍を眼のあたりにして、淀川治水の大事業に取り組むことを決意する。

1891年(明治24年)、大阪府議会議員に当選する。その後、房太郎らの努力が実り、1896年(明治29年)、国レベルでの河川法が制定され、淀川改修費が出されるとの両院の可決をみた。その時傍聴席にいた房太郎は思わず「万歳!」と大声をはりあげた為、守衛に場外に連れ出されるという場面もあった。

淀川治水のため私財をなげうち、生涯清貧を貫いた井戸塀の政治家で、晩年にも陋屋に住んでいた。
葬儀は大阪市葬で大阪市中央公会堂で行われた。墓所は大阪市鶴見区放出東の正因寺。   
           (WEBウキペディアより)
 
 
 
住吉平田神社
祭神 : 住吉大神、平田大神
嘉永6年(1853)の南野村庄屋、重右衛門の覚え書きに「平田住吉明神」と記され、住吉神社と平田神社が合祀された年代は、寛延年間(1750)ではないかと推測されているが、記録文書は不明である。住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)は、「みそぎ」「おはらい」の神格をもって出現し、210年に、住吉大神は大阪住之江に鎮座する。社殿は、平成2年6月23日に再建立された。境内には稲荷神社・八坂神社がある。石燈籠は、寛文 12年(1672)のもので、四条畷市で最古のものである。また狛犬には、万延元年(1860)の年号が刻まれている。 明治前半、小楠公の「四條畷の戦い」の跡に、神社を建立して正行の偉業を称えようと熱心に運動し、 政府へ嘆願書を提出したのは、当時の住吉平田神社の神主だった。
交野との関わり  徳川家康伊賀越え逃亡記
 家康は安土で信長から歓待を受けた後信長の勧めもあり京見物の後、堺に滞在していました。この時突如として本能寺という大事件が起きたのである。家康は安土で光秀に警備の手薄さを見られていたので、非常に危険を感じ直ちに陸路柏原へ向かいここから船で河内湖を渡り、飯盛山の麓に上陸、数年前、石山本願寺の合戦に出陣した折休憩した住吉平田神社宮司三牧家に立ち寄る。
 
 
 
「楠木正行の墓」
四條畷市雁屋南町
 正行公は後醍醐天皇の重臣として南朝の為に戦った楠木正成の子息である。正成の死後12後北朝軍と戦い武運つたなくこの地で戦死した。合戦の後80程たったころ、正行の霊を慰めるため小さなお墓がつくられ、そのそばに楠木がうえられ、年月がたつうち大樹となつた。現在大阪府指定天然記念物になっております。
 石碑は明治の政治家大久保利通の字です。

石碑は明治の政治家大久保利通の字です。
 
四條畷の戦い
 後醍醐天皇を中心とし、楠木正成(まさしげ)、新田義貞等によって鎌倉幕府が崩壊し、世にいう建武の新政が行われるのであるが、それもつかの間の平和であり、やがて新政もくずれ、北朝と南朝の勢力争いとなる。これが南北朝時代である。南朝方の重臣、楠木正成が湊川で足利尊氏と戦い戦死してより、次々と南朝の勢力はうすれ、北朝がその実権を手に入れ、時は室町時代へと移っていくのであるが、この時にあって、南朝方最後の将として河内で勢力を保っていたのが、楠木正成の子、楠木正行(まさつら)であった。

 足利尊氏は、高師直(こうのもろなお)を将として正行を討つべく京都より南下、正行は、これを迎え討つべく吉野から東高野街道を北上、ここ四條畷で双方が遭遇し、南朝の命運をかけた決戦が行われた。時に正平3年(1348)世にいう四條畷合戦は正月5日の巳刻(午前10時)より申刻(夕方6時)まで相戦うこと8時間。正行以下34人腹掻き切って上が上に重なり伏した。
 「太平記」の四條畷古戦場と楠木正行戦死地は、大東市四條から四條畷市附近にわたるという説と、東大阪市四條の戦場説とがある。

四條畷市立歴史民俗資料館

特別展「まじないと人」の一部と、資料館資料を参照して
掲載させていただきます。記して、感謝申し上げます。
 
 
 
 
 
 
 
 四條畷の歴史 一部紹介します
 
 今回の歴史ウォークは、JR四条畷駅周辺のいろいろな史跡を尋ねることが出来ました。
 高尾さん、本当にお世話になりました。感謝申し上げます。

 次回の歴史ウォークは、平成27年1月2日(金)恒例の初歩きで星田妙見宮に初詣します。
 京阪・妙見口バス停に午前10時集合。星田神社で12時頃解散予定です。
 案内は、立花昇会長です。多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただきありがとうございました!

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