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交野歴史健康ウォーク 第66回 2004年10月16日(土)
高井田横穴古墳秋季特別公開と周辺を散策
大阪府柏原市高井田周辺

JR河内磐船8:30→天王寺→高井田→高井田横穴古墳秋季特別公開を見学→
昼食→柏原市歴史資料館→平尾山古墳群の横口式石槨→天王寺→JR河内磐船

 2004.10.16(土)午前8時半、河内磐船駅前に集合。天候晴れ。参加者14名、いつもの元気な顔が揃い、8時35分河内磐船駅を出発、途中天王寺駅にて乗換え9時40分高井田駅に到着。
 高井田駅に着くと、高井田古墳の見学者と見られる10数人の団体客が見えた。駅階段を下り、右に曲がるともう目の前に「高井田横穴公園」が見える。早速全員で「史跡・高井田横穴公園」看板前で、記念撮影。 高井田横穴古墳群
 今回の歴史ウォークは、普段古墳を保存する為夫々の横穴古墳の入口が柵でふさがれ中に入ることが出来ないが、10月16日、秋季特別公開日に合わせて実施となった。
 高井田横穴群は、生駒山地の最南端、柏原市高井田付近の丘陵の崖に横穴を掘って、内部を横穴式石室の羨道や玄室に似た形にした墓室を200基以上も掘削し、一大横穴群が作られている。現在、古墳群は国史跡公園として整備されており、当日は主要な横穴について学芸員の方から詳しく説明して頂いた。
 横穴は岩盤に掘削された洞窟を墓として用いたもので、古墳時代に入って北部九州で発生し(5世紀頃)、中部九州から瀬戸内海を東進 し近畿地方に至った(6世紀頃)ものと考えられている。高井田に横穴古墳が存在する事は古くから知られており、明治時代に近代考古学が息吹きを見せた頃には著名な学者もたびたび訪れ たりしていたようである。
 しかし、この古墳を有名にしたのは1920年の線刻画発見である。 横穴は中世あたりに、倉庫や堆肥小屋として用いられていたような形跡もあり、ずいぶんといたずら書きも残されているのであるが、船 に乗った人物画は確かに古墳時代のものと認定されるに至って、ぞくぞく古墳時代の線刻画が発見され、1922年には横穴の一部が国の史跡に指定された。これまでの調査により、全部で162基の横穴が発見されており、全国でも有数の規模をもつ横穴群である。未発見を含めると200位はあるのではないかと推定されている。大阪府下では、安福寺横穴群とともに、柏原市域にのみ見られる墓制である。 

 
 高井田横穴古墳群は、大和川が大阪府と奈良県境の亀ノ瀬渓谷を抜け、河内平野に注ぎ込むその右岸にあり、1000万年前以上も前に噴火した二上山の火山灰が堆積して形成された凝灰岩の岩盤を掘削して造られたものである。凝灰岩は軟質で、横穴を掘削するには最適の岩盤で、高井田横穴群の被葬者たちは、それを知っていて横穴を造ったのである。壁面と天井の境には家屋の軒先を模したと言われる切込み段が見られ、これが高井田古墳の特徴である。
 横穴群は、地形などから大きく4つの支群に分けられ、更に2〜3基ごとの小支群に分けられている。これらの小支群は、一家族の2〜3世代にわたる墓ではないかと考えられている。
 また、横穴は、羨道と呼ばれる狭い通路を抜けると、広い方形の部屋に入り、この部屋を玄室を呼びここに3人前後の人が葬られていた。また、横穴からか様々な副葬品が発見されている。刀や矢などの武器や馬具、鎌やナイフなどの農具や工具、金銀の耳飾りなどもあり、最も多いのは土器で、これらの土器を使って、現在の葬式のような儀式が行われたようだ。
          線刻壁画のいろいろ
 高井田古墳群には、鋭い道具で描かれた壁画(線刻壁画)が見られ、これまでに27基の横穴で壁画が発見されているが落書きも多く区別のつかないものも見られる。その中で最も有名なのは、第3支群5号横穴のゴンドラ形の船に乗る人物の壁画である。下図に見られるような舟の行方を指図するリーダーやオール、いかりなどが描かれている。
 これ以外にも人物、木の葉、蓮の葉、馬、鳥、舟、家などの壁画が見られる。これらの壁画は、死者をあの世へ送るために描かれたものと考えられ、1400年前の人々の死に対する考えを教えてくれる。
        どんな人が葬られたのか
 横穴に葬られているのは、一般の人々ではなく、当時としては有力な人々だったと考えられている。それではどんな人が葬られたのでしょうか。
 最も有力な説は、朝鮮半島から渡ってきた渡来系の氏族が葬られているとする考えです。横穴から出土する土器に、ミニチュアの竈(かまど)や甕(かめ)のセットが見られ、このミニチュア土器が渡来系氏族と関係のある古墳からよく出土することや、線刻壁画の内容などから渡来系氏族が葬られていると考えられている。
 しかし、多数の横穴を調査したのもかかわらず、ミニチュア土器は2組しか出土しておらず、必ずしも渡来系氏族と結び付けられないようにも考えられている。そのほか、この周辺に住んでいた鳥取氏や九州と関係する人々とか、古墳を造るのに大きな役割を果たした土師氏と関係のある人々ではないかとも考えられている。
               高井田山古墳
 史跡高井田横穴公園の北東隅、一番高い所に、高井田山古墳があります。薄い板石を積み上げられて造られた横穴式石室を持つ古墳で、5世紀の終わりごろに造られたと考えられている。石室内からは、日本で2例目の発見となった火熨斗(ひのし=古代のアイロン)や、冑(かぶと)や甲(よろい)、多数の刀・槍などが出土している。石室の形や出土した物から、朝鮮半島と深い関係があった人物の古墳ではないかと考えられている。
 現在は、透明の屋根で覆い、石室内には副葬品のレプリカが出土当時のように再現されている。なお、出土品の火熨斗が柏原市歴史資料館に展示されている。
石室内には副葬品のレプリカが
出土当時のように再現されている
火熨斗(ひのし=古代のアイロン)
柏原市歴史資料館に展示されている
柏原市立歴史資料館を見学
 公園内で昼食後、柏原市立歴史資料館では、旧石器時代から中世までの時代別に展示された考古資料などや横穴、玉手山・松岳山・平尾山古墳群展示品など、また、稲作やぶどう酒造り展示など、市民から提供された民俗資料がわかりやすく展示されており、特別展「大和川付け替え300周年記念企画展」などをゆっくりと見学。
 その後、高井田横穴古墳群の北側の住宅街を抜けて、15分ほど山に上った所にある、平尾山古墳群の横口式石槨を見学。石槨は大きな石組みがむき出しになったもので、付近からは二上山、葛城山、金剛山などが一望された。
特別展「大和川付け替え300周年記念企画展」
 現在の大和川は、奈良県(旧大和国)を源流に生駒山地を越えて河内平野に出て、そのまま東へ大阪市南端を経て大阪湾に注いでいます。しかし、江戸時代の初めまでは河内平野に出ると北西に流れを変え、いくつもの流れに分かれて、現在の大阪城の北東辺りで淀川に合流し、大阪湾に注いでいました。そのため、当時の河内平野一帯ではたびたび洪水が起こり、人々の生活に大きな影響を与えていました。そこで、河内国今米村(現在の東大阪市)の庄屋の中甚兵衛らを先頭にたびたび川の付け替え運動が起こる一方、新流路にあたる地域からは反対運動も起こりました
 結局、今からちょうど300年前の宝永元年(1704)(同年2月着工、10月完成、幅100間(182m)延長は14,400m)に、江戸幕府によって、現在の流れに付け替えられました
 この付替によって大きな洪水はなくなり大阪は「天下の台所」として発展を続けました。幕府は、新河川敷になった土地(潰地)の3.8倍にあたる1,028町歩の土地を旧河川敷で得、そこでは、町人請負の新田等が開発され、畑地では河内木綿が栽培されました。
 下の地図は柏原市立歴史資料館「大和川のつけかえ」の展示のパンフレットで大和川の付け替えの図をコピーしたものです。(元の大和川は久宝寺川、玉櫛川と呼ばれた川です)
      横口式石槨 平尾山古墳群の横口式石槨を見学
横口式石槨は、畿内では7世紀から8世紀初頭にかけて最高支配者層の墓室に採用されたもの。
 秋晴れの天候の下、高井田横穴群、横穴式古墳、柏原市立歴史資料館、横口式石槨など見学したあと、JR高井田駅から天王寺を経て午後3時前、河内磐船駅に全員無事、帰り着きました。
また、次回の歴史ウォークが楽しみです。

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