2002.10.19(土)第39回の参加者は、14名。あいにくの雨模様の天候にも拘らず沢山の方の参加で賑やかになった。午前9時10分、寺古墳群を目指して、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。
府道久御山線を横切り、田圃道を寺村(巽の方角)に向かって歩く。先月末に歩いた時には一面、黄金色の田圃であったが、すっかり刈り取られ切り株だけが残っていた。山から吹いてくる秋風が心地よい。交野高校の北で、交野東車塚古墳の発掘当時の様子など、説明を受ける。昭和47年、交野高校が建設されることになり、事前に試掘され発見された。他では類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳、「日の丸古墳」が見つかり話題になった。
※ 交野東車塚古墳 交野車塚古墳配置図はこちら
東車塚古墳は交野市南野10番地にある。現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。
昭和47年、交野高校が建設されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。
東車塚南古墳は、他では類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳、「日の丸古墳」と言われる。
北辺27.5m、南辺26.5m、東辺27.4m、西辺28.8m、その中央に直径22.4mの円墳。
また、東車塚古墳は、5世紀初頭の時期のものと考えられており、周辺域でも確認例のない前方後方墳(墳長65m、後方部の高さ約6m、後方部幅33.5m)で、筒型銅器・巴形銅器・石製腕飾類など多数の遺物が出土している。
また、当時は府道久御山線も盛り土で固められたばかりで、開通はしていなかった。現在は、JRの踏み切りはなく道路はトンネルを掘って下をくぐっているが、平田さんが持参された発掘当時の懐かしい写真を見て、「あぁ、そうだった!踏み切りを歩いて越していたなぁ!」と歓声が上る。
発掘当時のある日、水野正好氏(奈良大学教授)が故奥野平次さんに次のようなことを話されたと、奥野さんの「ふるさと交野を歩く、神の巻」に著れている。
「奥野さん、片町線の踏切に立って西を眺めて、沈んで行く真っ赤な夕日の下に6基の健康な古墳を描いて見なさい。狭い敷地に六つの古墳のある学校がどこにありましょう」と。今は、踏み切りに立つことは出来ないが、真っ赤な夕日を浴びながら立派な古墳が浮かんで見える、そんなロマンあふれる学校である。
少し雨が降り出し一斉に傘を広げる。灯篭の辻で、二月堂、愛宕山、柳谷観音の伏拝を眺めながら当時の村人たちの生活に思いを廻らした。静かな寺の町並みを通り、住吉神社への道を上がると右手に綺麗な棚田が見えた。ここには、的場という地名が残っていて、毎年正月8日に「お弓」という収穫を占う行事があったそうだ。その的をこの田に立て、住吉神社の所から矢を射て、的に矢が何本突き刺さるかで、その年の収穫の豊凶を占ったという。
住吉神社の神域は、全体にどこか厳かな感じがし、ここは古墳ですよとも言われた。特に本殿の奥に、一人で上ると気持ちのいいものではない。周りには池があり、古墳を造る為に掘ったものではないか。それが、今では灌漑用に利用されていると。境内からは子供たちが遊んだという、「くぼみ石」が次々と見つかった。
住吉神社の北側に出て、山に向かって右折して真直ぐ東に上り、創価学園の小公園を北に見ながら登ると小さな池が左右に5個ほど続き、谷筋を右へ曲がるとさらに池があり、しばらく竹薮と雑木の平地を行くと古墳に出会う。ここが寺塚穴古墳である。横穴式石室を完全に残す古墳。この周りには、竜王山の山麓に群集する後期古墳群(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)があり、14基の古墳が、いくつかの尾根に2〜3基づつ点在し、広い範囲をこえて寺古墳群と呼ばれている。
いくつか、点在するなかで、茶ヶ瀬古墳と言われる、古墳を探したがあいにくの雨で地盤がゆるく、あちこち歩き回ることが出来ず、確定することが出来なかった。またの楽しみにして、古墳群を後にした。
住吉神社の北側の綺麗な棚田は、市内を見下ろす絶好の場所である。また、創価学園の小公園は、桜の名所でもある。直ぐ下に、重要文化財の山添家の大きな萱葺きの屋根が見える。山添家5代孫秀隆は、南伊勢五郡の領主であったが、織田信長に敗れてここに住みつかれたという。
帰りは、寺の中町を歩き水車が回っていたという、乳母谷(おちご)川にで出た。今も綺麗な水が流れ、水車が回り粉をついている音が聞こえてきそうな所だ。
この辺りは、乳母谷(おちご)川が流れ、かいがけ道を通って大和へ結ばれている。片開きの地形(前方が開けていて両側が木立)の前には古墳が多いと言われる。南山の弥生遺跡(約2千年前)、山腹の横穴古墳、交野高校の前方後方墳(約5世紀後半)など古墳が多い。
古代の史跡をめぐり寺の町並みを歩き、連綿と続いてきた歴史の一端を肌で感じた楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
【寺に地名と古墳ミニガイド】
的場 : 住吉神社の南の段々状の水田になる。寺では毎年正月八日に「お弓」という収穫を占う行事がある。その的をこの田に立て、住吉神社の所から矢を射るのである。的に矢が何本突き刺さるかで、その年の収穫の豊凶を占うのであろう。的場は「お弓」の行事に使用される的を立てた場所を呼んでいる。
八幡木(はちまんぎ) : 南川に沿って寺から私部に出る道がある。道から東で少し入った所に「八幡燈籠(はちまんとうろう)」がある。この燈籠は伏拝神(ふしょうがみ)のことで、八幡宮を祭っている。八幡宮に参る代わりにこの燈籠を拝むことで、八幡宮にお参りするのと同じ効果があった。交野から八幡は北に当たるので村の北に向いて拝むのである。
寺には、この伏拝神の燈籠や碑が他の村に比べて特に多く感じられる。
正行寺の灯篭の辻などには、二月堂、愛宕山、秋葉山、柳谷観音などが見受けられる。昔は、その場所にお参りするのがほとんどできなかったため、村の中で直接拝めるものを求めたのである。
上山田(かみやまだ)、中山田(なかやまだ):竜王山の山ろく崖下の斜面を段々状に切り開いてつくられた開墾地である。住吉神社の北側に当たり、垣内と同じくみごとな階段状の耕地(水田)が広がっている。 田圃のあぜ道に可愛らしい地蔵さんが祀られ居ていていつも、綺麗なお花が生けられて大事にされている。
晴れた日にここから眺める風景は素晴らしい。
垣内(かいと):将来耕地にしようとする予定の土地を垣で囲った地域をいう。
上町、中町、浦町:寺の場合、かいがけ道の入り口にある住吉神社から南川橋に通じる道路の南側、南川に面する部分に上町、中町、浦町ができている。その北側の一段高い面に高い方から、上出垣内、中出垣内、下出垣内の集落が立地している。だから、寺の集落の発展段階は、上町、中町、浦町が最初に形成され、その出垣内として北側に接して形成されたことを物語っている。向垣内は一番遅れて形成されたことを示す。
垣内には集落がない。これは乳母川・(南川)の斜面を切り開いて畑地化するためにできた開墾地である。
後に乳母川の水を引くことができて水田に変わったことで、今はみごとな段々状の水田が開けている。
寺古墳群
寺古墳群は寺の集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期古墳群(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)である。14基の古墳からなり、いくつかの尾根に2〜3基づつ点在し、広い範囲をこえて寺古墳群と呼ばれている。
そのひとつの寺中山古墳群は、寺の集落を過ぎ、住吉神社の手前の道を真直ぐ東に上り、創価学園の小公園を北に見ながら登ると小さな池が左右に5個ほど続き、谷筋を右へ曲がるとさらに池があり、しばらく竹薮と雑木の平地を行くと古墳に出会う。
これは横穴式石室を完全に残す古墳である。
東西12m、南北11mの方墳で入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で薄暗い。
大人一人がやっと這って入れる程の入り口から、懐中電灯を片手にした平田さんに続いておそるおそる入る。羨道は短く片袖式となっている。中は、意外と天井が高く、195cmあるという。しっかりと石組みがされている。大きい岩石とそれを支える小さい石が左右にバラス良く組まれている。天井の岩石もしっかりと組まれすこぶる頑丈に出来ている。
|