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交野歴史健康ウォーク 179回
富田林寺内町散策と
滝谷不動尊参拝




案内人:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)

 日時 : 2018年11月10日(土) 午前9時 JR河内磐船駅 参加者14名(会員9名)
 行程 : 
河内磐船駅〜京橋〜天王寺〜近鉄阿部野橋駅〜富田林駅〜
       富田林寺内町〜じないまち交流館〜町並み散策〜興正寺別院〜
       じないまち展望広場〜旧杉山家〜寺内センター(昼食)〜本町公園〜
       富田林駅〜滝谷不動駅〜滝谷不動尊〜阿部野橋  解散午後3時頃
 2018年11月10日(土)、天候 晴。JR河内磐船駅前に午前9時集合。いつもの元気な方々の姿が見えず14名の参加。午前9時4分の電車に乗車。京橋で乗り換え、天王寺〜近鉄阿部野橋駅〜富田林駅へ10時30分頃到着。

 じないまち交流館にて「じないまち絵図」を頂戴し、高尾さんの案内で寺内町を散策。東西400メートル、南北350メートルのこじんまりとした町内に今なお点在する江戸時代以降、各時代を代表する商家や寺院、「仲村家」、「木口家」、「杉田家」、「田守家」、「奥谷家」、「興正寺別院」「旧杉山家住宅」など、綺麗に整備された町並みをゆっくりと見学しながら歩きました。
 
寺内町センターで昼食。浄谷寺〜本町公園を見学後、近鉄・富田林駅より滝谷不動駅まで乗車。上り道を歩くこと徒歩20分程で日本三大不動の一つ「滝谷不動尊」さんに参拝。

  ※高尾さんより当日に頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。
  
 また、「富田林市」「寺内町探訪」「ぶらりひとりまち歩き」「興正寺」などのHPを
    参照させて頂きましたこと、
記して感謝申し上げます。

当日のウォークマップ


興正寺別院にて記念撮影

 11月10日 歴史健康ウォークのレジメ
富田林寺内町〜滝谷不動尊
講師:高尾秀司氏
富田林寺内町(じないまち)散策・滝谷不動駅下車・滝谷不動尊参拝
富田林寺内町
  富田林寺内町とは真宗の寺院を中心に堀や寺院を中心に堀や土塁で防禦した町をいいます。ちなみにこの「じないまち」は府内唯一、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されております。(注・当日交流館で全員に、じないまち絵図をいただけることになっております)
じないまち交流館
  (富田林寺内町)

 じないまち交流館は、富田林寺内町を訪れる方々に寺内町の歴史・文化について様々な情報の提供や市民の交流の場、そして来訪者の休憩場所を提供することなどを目的としています。
 施設規模 敷地面積 322,02平方メートル 建築面積 186, 11平方メートル 開館時間:午前10時から午後5時
 休刊日 月曜日(月曜日が休日の場合はその翌日)、年末年始(12月28日〜 1月6日)
興正寺別院 重要文化財
 富田林寺内町は永禄初年(1558〜 1561)に興正寺の第16世証秀上人が「富田の芝」と呼ばれる荒地を購入し興正寺別院の建立と町割の建設を依頼したことに始まる宗教自治都市です。その後江戸時代に入り次第に宗教色が薄れ、商売が盛んな在郷町として発展しました。そんな往時の繁栄を物語る重厚な商家を含む歴史的な町家と共に、創建当初の町割が残されており、平成9年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。

   じないまち展望広場

 まちやを利用した建物で裏の広場から石川や対岸の山並みが眺められます。この石川の下流の道明寺方面ではこの川を挟んで繰り広げられた大坂夏の陣の激戦の様子がおもいだされます。
 真田幸村も戦いに参加しておりますがこの時は余り活躍してないようです。

旧杉山家住宅(有料)
 国の指定重要文化財。富田林寺内町造営の中心であった八人衆の筆頭年寄であった杉山家は、当初木綿問屋を営み、その後酒造業を始めた河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。明治の明星派歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもあります。
 寺内町最古・最大の南河内地方農家風建築様式であり、屋敷地は一区画(千坪、現在は430坪)を占め、当時の繁栄を見ることができます。
   寺内センター

 センター内には、商いの道具や、店の看板などを展示 寺内町の歴史と文化がよく分かります。本日は富田林市教育委員会文化財課の許可を得て昼飯をとらしてもらいます。(入場料は無料です)
   織田作之助の碑

 織田作之助は大正2年(1913)大坂に生まれ、昭和22年(1947)亡くなつております。享年33歳、結核の為早世する。
 この碑は作之助が富田林に滞在中の昭和21年(1946)亡くなる一年前に書いた「土曜夫人」の原稿であります。
 生涯に沢山の小説を書いておりますがその一部に有名な「夫婦善哉」や五代友厚、猿飛佐助などの著書もあります。
  滝谷不動尊・明王寺
  滝谷不動尊・明王寺 日本三大不動の一つ
 眼病平癒・厄除けの霊場・交通安全祈祷
   当山は平安時代の弘仁12年[821]弘法大師が国家の安全と国民の幸せを祈るために、開かれた道場で、本尊不動明王及びコンカラ童子、セイタカ童子の御三体は、大師が一刀三礼の霊像としてうやまわれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
 古来『日本三不動の一」と云われ、俗に『眼の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれてひろく信仰されていますが、商売繁昌,開運厄除、交通安全などあらゆる祈願に不思議に御利益をいただかれる人々が多く、毎月28日の縁日にはたくさんの人々のお参りで境内は賑わいます。
近鉄 富田林駅
   
大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡り、歴史散歩を楽しみました。
 富田林寺内町は、永禄(1558〜 69)初年頃、興正寺の門跡証秀上人が、富田の荒芝地を銭百貫文で所得し、近くの4ヶ村の庄屋株各2人、計8人に興正寺別院の建立と畑屋敷、町害」などの建設を要請したのがはじまりと
されています。
 町内は南北6筋、東西7町の道路で整然と区画、下水路を完備、周囲には竹藪のある土居をめぐらし、外部からの出入りは一里山口、山中田坂、向田坂、西口の4ヶ所に限られていました。
 早くから自治的都市特権を得て、町政の運営には年寄役となつた8人があたりました。
ここは東高野街道、富田林街道などが交わる交通の要衝であり、石川流域で収穫される米、綿、菜種などの農作物と良質の水にめぐまれたことから、近世以降南河内一の商業地として発展しました。
 酒造をはじめ、米屋、布屋、紺屋、鍛冶屋、樽屋、桶屋、油屋、大工など多くの商人・職人のいたことが記録に残されています。
 今も寺内町]こは往時を忍ばせる17世紀中頃から明治にかけての町家が多く、旧杉山家住宅、仲村家住宅など個々に文化財としての価値の高いものがあるとともに、町そのものが日本の優れた文化遺産として平成9年10月、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
  重要伝統的建造物群保存地区の選定
 昭和58年12月  旧杉山家住宅国の重要文化財に指定
 平成2年3月    仲村家住宅が大阪府文化財に指定
 平成6年2月    「富田林寺内町をまもり・そだてる会」結成
 平成9年10月   重要伝統的建造物群保存地区に選定
 
 寺内町散策マップ
 
東高野街道と富田林街道が交差する交通の要衝 
 富田林寺内町は現在の富田林市富田林町にあたり、町は南北約300m、東西約400mのほぼ楕円の形をしていて、南には石川が流れ、町はその河岸段丘の上に形成されました。

 また、寺内町は東高野街道と富田林街道が交差する、交通の要衝でもありました。
 東高野街道は、高野参詣道のひとつで、京都から枚方、生駒山裾を通り、富田林から河内長野にいたり、ここで堺から来る西高野街道と合流し、高野山に至る街道です。

 富田林街道は、堺から富田林、さらに水越峠を越えて大和に通じる街道で、南河内地方の農作物の集積地そして商工業の中心地だった富田林から、綿花や菜種、地酒がこの街道を通り運ばれていきました。
 
 
 寺内町の創建時には、周囲との境に「土居」と呼ばれる土塁がめぐらされ、町の入口には木戸口が設けられていたといわれています。
 段丘下の石川方向に下りていく坂道が4本あり、それぞれ、向田坂(東高野街道口) 山家坂 亀ヶ坂 山中田坂(富田林街道口)とよばれていました。
 また、北方向の木戸口は5つあり、一里山口(東高野街道口) 念西口 飴屋口 三味口 西口(富田林街道口)とよばれていました。 
じないまち交流館
寺内町散策

案内人  高尾秀司氏
      
         煙だし越屋根

囲炉裏などで燃料を燃やしたときに出る煙を、屋外に排出するために棟をまたいでつくる小屋根 (越屋根) 
     忍び返し(屋根)と犬矢来
 犬矢来(いぬやらい)の由来は犬の放尿除けにある、とよく言われますが、生活に根差した実用性も高く、泥棒除けや道路との境界線の役目も果たしているようです。
   厨子(つし)二階と虫籠窓
 
(むしこまど)

厨子(つし)2階(屋根裏部屋)の明り取りと風通しのために設けられたもの

江戸時代は木瓜型、幕末は扁平型、明治以降は長方形になりました。
 用心堀 (暗渠)と岩永橋 (がんえいはし)
 東側の城之門筋に沿って用心堀(暗渠)が通っており、架けられた岩橋の耳石に刻まれた文字「岩永橋 (がん恵はし)」は、岩瀬屋が永久に繁栄することを念じて刻まれたと言われている
 奥谷家  建築年代: 1826年 (文政9年)
所在:
   城之門筋・富山町 (じないまち散策地図)
由来:
   当家は西向かいにある奥谷家の分家である。 本家2代目岩瀬屋伊右衛門の子伊六岩長を初代として油屋を営んでいた。
建物の特徴:
  屋敷地は一区画の西半分。母屋、納屋、土蔵が周囲を取り巻く。今の建物は分家の時に建てられたもので、建築年代は文政9年(1826年)と伝えられている。母屋(入母屋造)は敷地の西南寄りに建ち、敷地の周囲には土蔵や納屋が配置されて現存している。 また、北側にある長大な土蔵は現在、内部を改造して借家の長屋となっている。
 
 魔除けの瓦人形 (母屋南側妻面、堺筋)  魔除けの鐘馗(しょうき)さん

 京都でもよく見かけますが、町家の屋根に載っている瓦人形の鐘馗(しょうき)さんは、通りを挟んでちょうど向かい側の家の鬼瓦に対面する位置に置かれています。富田林・寺内町にある城之門筋を挟んで、それぞれ向かい合う杉田家住宅と田守家住宅。渋谷家住宅と小田家住宅。いずれも魔除けの鐘馗(しょうき)さんが、それぞれ相手側の鬼瓦に向かって置かれています。
「鐘馗しょうきさん」 
 「鐘馗しょうきさん」についてお話します。

 京都の中京や西陣など昔ながらの町並みを歩いていると、町家の屋根瓦の上に瓦人形が置いてあるのをよく見かけます。 この瓦人形は「鐘馗しょうきさん」と呼ばれており、姿や形は様々ですが、二〜三十センチ程の高さで、右手に太刀を持ち、前方をにらみつけています。 なぜ屋根の上に「鐘馗さん」を置くようになったのでしょうか? むかしむかし三条のあたりに薬屋さんが大きな家を建てたそうです。 その屋根に大きな鬼瓦を置いたところ、その瓦を見た向かいの家に住む娘さんが、その鬼に睨まれているような気がして毎晩うなされ、ついには病気になって寝込んでしまったそうです。 心配した両親はあれこれ手を尽くしましたが一向に良くならないため、向かいの薬屋さんに鬼瓦を取り外してくれるようにお願いしましたが、大金を払って苦心して取り付けた鬼瓦だから外せないといわれたそうです。 そこで鬼に勝つものは何かと考え、「鐘馗さん」ならということで「鐘馗さん」の形をした瓦を瓦屋さんに作らせたのだそうです。 

 「鐘馗さん」とは、そのむかし唐の玄宗皇帝が病に伏した時に、夢の中で鬼が楊貴妃の宝物を盗もうとしたところ、そこに出てきてその鬼を退治した伝説の人物です。 寝込んだ娘さんの両親がその物語にならって「鐘馗さん」を鬼瓦に向けて置いたところ、娘さんの病気はすっかり治ったそうです。 これが「鐘馗さん」を屋根の上に置くようになった云われです。 もちろん鬼瓦も魔除けなのですから、「鐘馗さん」はこの鬼瓦に対して二重の防衛として創られたことになります。 

 しかし現在では向かいの家の鬼瓦に対抗しているわけではなく、自分の家にふりかかる邪気から守るために取り付けられているのです。  ちなみに鬼門に植えられる南天や桃の木なども、これと同じ意味があります。 
 
興正寺別院
 興正寺 別院  本堂 (外陣・内陣)  富田林道場として建立され、外陣が内陣に比して大きい。
浄土真宗興正寺派 (浄土真宗本山興正寺)
@ 本尊阿弥陀如来立像 (伝鎌倉末)
A 親鸞聖人像
B 開山聖人像
C 華園摂信(本寂上人)像 をそれぞれ安置する。

富田林・寺内町の成立と発展の中核寺院です。地元の人からは「御坊さん」(富田林御坊)として親しまれています。

所在:
   城之門筋・堺町 (じないまち散策地図)
由来:
   応永年間(1394−1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。
    永禄3年(1560年)に京都・興正寺第14世証秀上人が現在地に移建。
建物の特徴:
   城之門筋に表門を開き、鐘楼・鼓楼を構え、本堂・客殿・庫裏などを配する。
    表門は桃山調の高いもので、もと桃山城門のひとつが興正寺に寄与されたものをここに移建したと伝えられている。
本堂   寛永15年(1638年)再建。

本堂は江戸時代には寺子屋として利用され、現在の市立富田林小学校の前身である。戦前には開基祭に小学生が学校から参拝し菓子を配り、通りには出店が開いて祭りが催された。

第2次大戦中、大阪市内の平野国民学校の学童疎開受け入れを行った記録が残っている。
山門
薬医門で桃山城城門を旧天満別院から移築されたもの。重文級。城門であった為、通常の寺院山門に比べて建物規模が大きいのが特徴で、馬に跨って通行できる高さを確保したものと言われる。


証秀上人記念塔

本堂脇には興正寺別院(富田林御坊)の開基である興正寺第14世・証秀上人の記念塔があります。
興正寺別院を中核に富田林・寺内町が成立し、その後は南河内の経済中心地として
繁栄してきた歴史を考えると、富田林・開墾開拓の父とも呼べるでしょう。
 

高尾さんより寺内町・興正寺について詳しく解説頂きました
             織田信長との和平戦略の下で繁栄した富田林寺内町

 戦国時代(1467−1562)、寺内町と呼ばれる宗教自治都市が各地に誕生した。寺院の境内に接して形成されたこの都市集落は、大名、領主などの干渉を排して自治を確立していった。いまも奈良県の今井町(橿原市)、大阪府の堺などに寺内町の面影をとどめる町並みが残されているが、そんな中の一つがここ富田林である。

 なかでも最も有名な寺内町は、石山本願寺を中心に作られた「大坂寺内町」であるが、織田信長との元亀元年(1570年)からの10年に及ぶ争いで、石山本願寺は信長との戦いに敗れ、徹底的に破壊され、いまでは全くその姿を見ることができない。
 これに対して、摂津河内や富田林は信長に対して恭順の意を示し、和平を選択した。各地に残っている寺内町の町並みは、いずれも一向一揆の制圧を目指した織田信長との対立関係の中に融和策を模索して生き残り、後の世の繁栄を勝ち取ったものである。ただし、富田林が今日のような繁栄を獲得した背景には、一向一揆を形成した本願寺門徒を中心とした軍事力があったことは否めない。

 本山 興正寺

 当寺は親鸞聖人を開祖とする真宗興正派の本山です。興正寺の寺号は、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ「正しい法を興しさかえさす」との意味が込められています。
 創建は鎌倉時代にさかのぼり、当初は京都の山科に建立されました。興正寺は創建後数年を経て、山科から京都東山の渋谷へと移りますが、その際、ご本尊が光を放ったことから、後醍醐天皇より佛光寺の寺号を賜り名を改めます。
 佛光寺の教勢は飛躍的に拡大し、隆盛を極めました。室町時代、蓮教上人は本願寺の蓮如上人と歩みを共にし、佛光寺を弟に譲り、再び山科の地に多くの門徒と共に興正寺を興しました。その後は本願寺と歩調を合わせ、度重なる移転にも常に行動を同じくしています。桃山時代、現在の地へ移転し、堂舎が隣接して建てられているのも本願寺との深い関係を示しています。
 また一方で興正寺には本山として独立しようとする気運も根強く、明治九年、興正寺は独立した一派の本山となります。多くの変遷を経ながらも「正しい法を興す」という願いのもと興正寺の歩みは続けられています。
 
 城之門筋 (あてまげの道)

寺内町は戦国時代の自治・自衛都市の町割をそのまま残しており、
直交する2つの道路(南北が筋、東西が町)をわずかにずらすことで、
遠方がまっすぐに見通せない構造になっている。
じないまち展望広場

石川の向こうに山並みが続く。

二上山

左手に二上山、右手に葛城山、金剛山が望めます。
旧杉山家住宅
 富田林寺内町の国の指定重要文化財・旧杉山家
4層の大屋根が特徴。寺内町の創設期からの旧家で、代々造り酒屋を営み、南河内酒造業の肝煎り役を務めました。主屋は土間が17世紀中頃と古く、享保19年(1734)ごろ現在の形に整いました。


 富田林寺内町造営の中心であった八人衆の筆頭年寄であった杉山家は、当初木綿問屋を営み、その後酒造業を始めた河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。明治の明星派歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもあります。
 寺内町最古・最大の南河内地方農家風建築様式であり、屋敷地は一区画(千坪、現在は430坪)を占め、当時の繁栄を見ることができます。
 
 
 
 
寺内センター
 河内名所図会、じないまち古絵図、酒造業や木綿問屋で栄えた江戸時代、
明治時代の商家に残る貴重な古道具類、帳簿、写真などの各種資料
を展示
        
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 商品作物の流通と在郷町としての発展

 18世紀に入って近在の村々に綿作りや菜種作りがさかんになるにつれて、その買い集めや加工、取引をする問屋が増えた。富田林は石川谷における産業の中心地として、米をもとにしての酒造りの家、菜種から油をしぼり取る油搾り問屋、木綿から織った河内木綿の問屋などが、元禄・宝永の頃から次第に栄え、大きな店が軒を並べるようになり、各地の商人や近在からの出入りも多く、町場の賑わいは年とともに加わり、商取引も広く大きくなっていった。中世の宗教自治都市・寺内町の性格は次第に失われて、近世地域商業都市・在郷町としての経済発展を遂げることになった。

「河内名所図会」にも以下のように記されている。

「いにしへは富田芝として、広き野にありしが、公命によりて市店建続きて,商人多し、殊には、水勝れて善れば、酒造る業の家多数の軒を並ぶ」

 出身の村名を屋号や呼び名として最近まで使われていたものに、平尾屋(越井家)、別井屋(橋本家)、黒山屋(田守家)、新堂屋(北野家)、板持屋、貴志屋(杉本家)、飛鳥屋、岩瀬屋(奥谷家)、坂田屋(田中家)などがある。
 
 
 
 
 
 酒造業の繁栄

 富田林の酒造株高は米六百十六石で酒造家は7軒であった。このうち、天保5年から明治2年まで続いたのは長左衛門(杉山)、徳兵衛(仲村)、茂兵衛(葛原)、伊助(奥谷)、忠兵衛(橋本)の5軒であった。その造り高は5軒合わせて四千三百八十石余で河州全体の酒屋(72軒)の二万四百二十七石余の二割一分強を占め、他地方にも販売していた。江戸に廻送されたものも少なくなかった。正徳6年(1716年)の一か年間に江戸に廻送した樽数は二千、その石高は六百石に達している。
 
 
 浄谷寺
 
 
  当寺は、正式には半偈山(はんけいさん)三仏院(さんぶついん)浄谷寺といい、寺内町の一画、南会所町にある。融通念仏宗を唱え大阪市平野区にある総本山大念仏寺の末寺となっている。弘安9年(1286年)済戒真證上人によって毛人谷村に開かれ、天正2年(1574年)に当地に移転し、今日に至ったとされている。
 また、史料には慶長13年(1608年)に「大念仏道場」とあり、寛文6年(1666年)に総門徒の寄進により再興された記述が残っている。境内右手に二尊堂があり、その中に応長元年(1311年)銘の石像地蔵菩薩立像が安置されているが、大阪府下でもたいへんめずらしい古い年号の地蔵像として、昭和45年2月20日に大阪府指定文化財となっている。
 石像の両側に刻まれた文字によると、小比丘尼と真證という2人の報恩供養のために建てられたことがわかる。また、庭のすみに永仁元年(1293年)の年号がある笠塔婆があり、当寺の歴史の古さをうかがわせている。
 本町公園  織田作之助の碑
 本町公園 (富田林駅から徒歩3分)

富田林駅から寺内町へ向かう本町筋の途中にある本町公園(本町交番南隣)には左記の歌が刻まれた石上露子記念碑が建てられています。また、富田林に逗留した作家・織田作之助記念碑(作品「土曜夫人」の原稿)が建てられています。
 
 
 石上露子記念碑
本名杉山孝。明治15年(1882年)、南河内一の大地主・杉山家の長女として生まれました。幼時から古典や漢籍、琴などに親しみ、二十歳頃から『明星』などに短歌,詩、小説などを発表しました。雅号は夕ちどり。

古典の教養をもとに、華麗さの中に深い憂いを漂わせた作風で評価され、富田林にいながら明治期の中央歌壇で注目を集め、明治36年に『新詩社』(明星発行の結社)の社友となり、与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子とともに「新詩社の五才媛」と称されました。 旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ“小板橋”(下記)は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにしました。

 
 滝谷不動駅下車・滝谷不動尊参拝
 
 
  当山は平安時代の弘仁12年[821]弘法大師が国家の安全と国民の幸せを祈るために、開かれた道場で、本尊不動明王及びコンカラ童子、セイタカ童子の御三体は、大師が一刀三礼の霊像としてうやまわれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
古来『日本三不動の一」と云われ、俗に『眼の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれてひろく信仰されていますが、商売繁昌,開運厄除、交通安全などあらゆる祈願に不
思議に御利益をいただかれる人々が多く、毎月28日の縁日にはたくさんの人々のお参りで境内は賑わいます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 最後までご覧いただき有難うございました

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