第176回 交野歴史健康ウォーク
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7月14日(土)午前9時、京阪交野市駅ロータリ前に集合。 6月18日の「大阪北部地震」、7月4日から降り続いて各地に大きな災害をもたらした「西日本豪雨災害」など、その後一転して35℃を超える炎天下が続き、ウォーク当日も猛暑が照り付ける中、会員16名とゲスト8名の総勢24名の皆さんが参加され、最後まで元気に歩き通されました。 案内役の高尾さんが事前に下見をして頂き、無理のないコースを組んでいただきました。 お陰様で、皆さんと一緒に猛暑の中、上ノ山遺跡周辺散策と釈尊寺界隈探訪をゆっくりと楽しめました。心より感謝申し上げます。 また、ホームページの記載に当たり、講師の高尾さんより詳しいレジメを頂きましたこと重ねて御礼申し上げます。 |
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上ノ山の辻 記念撮影 |
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7月14日、上ノ山遺跡・釈尊寺界隈ウォークMAP | ||
「上ノ山遺跡・釈尊寺界隈探訪」 レジメ 高尾 秀司氏 |
交野市駅前にて集合、早速駅前を出発。私部・西の口にて山根街道に出会い、ここで右折して「すだこ坂」の歩道橋を渡り、「すだこ坂」の交差点にでて前川を越えて逢合橋を渡り、府道20号線より東側の旧山根街道を歩き、京阪国道を通り上ノ山遺跡に到着。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
山根街道 東高野街道の上ノ山から分岐した山根街道は青年の家の裏を通り代官屋敷前を経て無量光寺、市場橋、倉治地区と交野市内を抜け、津田駅前、藤坂駅前を通り長尾から八幡で再び東高野街道と合流します。ここ上ノ山では二国開通に伴う168号線の付け替え工事でこの附近の山根街道は消滅してしまいました。 |
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立花会長の挨拶 山根街道への入り口付近 |
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本日の案内人の高尾秀司さん |
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山根街道の元の道に付けられたスタコ坂歩道橋を渡る |
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高尾さんより、スタコ坂について説明を受ける。 |
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前川を渡り、逢合橋を通り上ノ山へと進みます。 |
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弥生時代中期前半〔約2200年前)に建てられたもので平成17年3月の読売新聞では集落の中心施設で「弥生最古級の神殿跡?」と報道され話題になりました。その外、須恵器の大甕を据えた水場、馬蹄形かまど跡、弥生人の指跡が明瞭に残る土器、モミを押し付けた痕の残る土器、須恵器の窯あとではないかと思われる焼けた土痕などが検出されました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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ホームセンター「コーナン」でトイレ休憩後、上ん山の辻へと進みます。 |
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上ん山(うえんやま) 天野川にかかっている逢合橋を西に越えると、左前にある薮のある小さい丘が目に付く、この丘を「上人松」とか、「お野立所」とか「上ん山」と呼んでいる。 (現在では、建物が建ち並び見えない。府道20号線を「逢合橋西」より50㍍南に下がると見える) ここへは、逢合橋を渡ってまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30㍍ほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。それに続いて玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。 ここ「上人松」にこんな伝説がある。 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。 両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。 以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。そこから薮の坂道を左にとると、すぐ山根街道と交わる。 ↑左が東高野街道、右が山根街道の分岐点(うえん山の辻) この分岐点の辻に、上ん山地蔵がおられる。 地蔵様の光背には「私部村地蔵講中 享保十乙巳年(1725年)3月24日とある。また「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」の大きな道標があり、その南側の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。 元弘の乱(1337)で北条方が楠正成の下赤坂攻めにこの道を急ぎ、近畿平定には織田信長もここを通って岩倉開元寺を焼かせ、足利義昭の反抗の時には秀吉が義昭をつれて急いだと言うこの道は、なるほど権力の道だ。 真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。 道を隔てた東には、「閲武駐蹕記念碑」がある。大正3年(1914年)大正天皇がここで陸軍大演習を統監されたことを記念して建てられたものである。 ここで、「東高野街道」と「山根街道」が一つになって星田に伸びている。 |
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大峰山供養塔 高さ1m90cm、幅35cm 正面に「大峰山」 右下に「宇治」、左下に「京八幡」 その下に大きく「道」 塔の右に「すぐ高野大坂道」 安政元年(1854)3月建立 願主 私部村徳右衛門 付近は、綺麗な住宅地となりすっかり 往時の面影がなくなってしまった。 |
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地蔵尊 私部村地蔵講 享保10年(1725)乙巳3月24日 |
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玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。ここ「上人松」にこんな伝説がある。 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。 両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。 以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。 |
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大正天皇の御野立所の記念碑 大正3年(1914)特別大演習の際、駐蹕(ひつ)之所 大正天皇が大演習をご覧になるため一時馬から下りられた所 |
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出根街道が168号バイパスを横切る北側の方から6基の弥生時代|の周溝墓が出上しました。その中でひときわ大きな東西15,8m南北10,9mの方形周溝墓を検出しました。ほかの5墓は長辺が4~ 6m短辺2,5m~ 5m前後の墳丘墓を検出。大型方形周溝墓は周囲の方形周溝墓とは隔絶した存在であることがその規模と配置から伺うこ|とができる。さらに168号線を越えた高速の取り付け部に近い所からも方形周溝墓が見つかつております。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
国道168号線のバイバス(二国進入路)の建設に先立ち大阪府文化財センターにより発掘調査された所です。約4000年位前の縄文時代の遺構とされております。この第一調査区からは約200基を数える土坑・ピットなどをはじめとして溝や竪穴住居跡などが検出された。これらの遺構は縄文時代を中心とし、幾つかの弥生時代とそれ以降に帰属するものであります。 「埋甕遺構」明確に縄文土器が据わった状態で3基の埋甕遺構(深鉢)が検出された。ほか縄文土器の破片892点(中期、後期)、弥生土器として壷・鉢・石器などが出土しました。 |
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当寺の縁起によると奈良時代中期、僧行基の開基とされ、もとは行基寺と号していたという。平安時代中期には七堂伽藍、十二の坊舎を備え隆盛を誇り、寺号を霊鷲山釈尊寺とあらためたと伝えられております。本尊は本造釈迦如来立像で、鎌倉時代初期の製作とされ、像高約百六十七cm、ヒノキ財の寄木作りとされております。昭和45年大阪府の有形文化財に指定されました。(現地説明板より) | ||||||||||||||||||||||||||||||
釈尊寺バス停前に整然として地蔵尊が祀られています。 |
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釈尊寺 本堂 |
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枚方市に入ると、もう釈尊寺町である。住宅街を抜け、狭い路地を上がると釈尊寺に着く。境内に入ると左手には、殆ど同じ様式の墓石が整然と並んでいた。本殿は、先代の住職さんが托鉢をしながら蓄財し、昭和28年、念願の丸柱で作られたとお聞きする。 本尊は、木造の釈迦如来立像である。京都の清涼寺式で高さ172cmの素晴らしい釈迦像で、両脇には、十大弟子を従えておられ、毎年4/19には、御身ぐるい式が盛大に執り行われるそうである。釈尊寺は古来、行基寺とも呼ばれてきた。 釈尊寺を後にして茄子作(なすづくり)への街道に出ると、道路の南側に10体ぐらいの地蔵さんが祀られている。どの地蔵さんにも綺麗なお花が生けられ、今も町の人々に大事にされ、道行く人々の安全を見守られている。 ※茄子作(なすづくり)の地名の由来 平安時代、交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言うハプニングがあった。そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けた故事に由来する。 |
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釋尊寺 (山号 霊鷲山) 枚方市釈尊寺1-10 TEL072-854-3521 本尊 木造釈迦如来立像 創建 釋尊寺の創建について、同寺所蔵永亨7年(1435)の「一味衆徒注文」には、「霊鷲山釋尊寺開山行基菩薩」とあり、行基の開基とし、もと「行基寺」とも呼んでいた。 行基との関係があったことがうかがえるが、「行基年譜」には釋尊寺の名は記されていないため詳らかでない。 本尊 木造釈迦如来立像 製作年代 鎌倉時代 造 材 赤栴檀色をした塗布した檜材 手 法 寄木造 総 高 約242cm 像 高 約167cm 台座 高 約75cm 光背高さ 約232cm 光背 巾 約180cm 光背頭光径 約48cm 京都嵯峨清涼寺の本尊釈迦像と似ており清涼寺式と呼ばれる。 東大寺の僧冝然(ちょうねん)が宋より帰国した祭当寺に立ち寄り清涼寺建立ののち、その釈迦像に模した像を当寺に安置したという伝承が残る。 鎌倉時代初期の作と推定され、清涼寺式釈迦像の秀作として昭和45年府の有形文化財に指定された。 行基菩薩とは?(参考資料) 奈良時代に民衆を中心に仏教の布教に勤め灌漑・土木事業などを行った異色の高僧。 688年(持統天皇2)大阪堺に生まれ薬師寺で唯識を学ぶ。 その後、民衆に布教する一方で各地で人々を動員し道路や橋、ため池を造成した このことが、みだりに人々を惑わしているおいう理由で、717年(養老元年)僧尼令(そうにりよう)に反しているとして布教が禁じられた。 しかし、民衆の信望は厚く政府も行基の動員力に注目し禁圧をゆるめついに、天平15年(743)東大寺大仏造立の勧進職に登用され天平17年僧侶として最高位の大僧正に任ぜられ、天平21年には聖武天皇などに菩薩戒を受けた。天平勝宝元年(749)入滅。 当時より、行基菩薩と称され幅広く活躍した。その足跡は現在も各地に残されている。 各地に49院創建(行基年譜)、布施屋)(調庸運脚夫や役民(えきみん)を宿泊させ食料を与える)を4国(山城、河内、摂津、和泉)に9ヶ所開設した。 四十九院は社会事業施設と結合しており,たとえば狭山池院(大阪府南河内郡狭山町)には狭山池,昆陽(こや)施院(昆陽寺。兵庫県伊丹市)には昆陽池,昆陽布施屋および孤(親のない子)独(子のない親)収容所が対応する。寺では伝道のほか社会事業施設の管理も行われ,伝道と社会事業を結合した活動は隋の三階教(信行が創始者)の影響という。 |
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京阪交野線・郡津駅の南約600mにある釈尊寺の東に隣接する。釈尊寺境内に沿った人一人通れるほどの狭い道に面して鳥居が建ち、狭い境内奥に注連縄を掛けた磐座(イワクラ、H=2mほど)が鎮座し、その先は崖になっている。磐座(巨石)は“鏡石”とも呼ばれているらしい。 神社の名前はなく、磐座前の祭壇らしき処に『村野神社遙拝所』とある。古くからの磐座信仰・巨石信仰の名残だろうが、鳥居に「昭和44年建立 氏子」とあり、祭祀はおこなわれているらしい。 |
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『村野神社遙拝所』 |
注連縄を掛けた磐座(イワクラ、H=2mほど) |
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村野神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||
村野神社 むらのじんじゃ -枚方市村野本町- (2016-04) 正面南側からだとそれなりの石段を登ります。 裏からだとフラット(車だったのでそこまでの道程はわかりませんが)。 1279年、片埜神社より分霊を勧請し創建。同時期に枚方市山之上の山田神社も同時期に創立し共通点も多いそうです。 御祭神は、素盞嗚命・櫛稲田姫命。 |
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近くの方の話ですと何処かからここえ移されたとのことでし|た。このお地蔵群にはいつも花が飾られていており、大切に:守られていることが分かります。この天野川は昔には、よく氾濫をおこしていて、犠牲者の霊を祀ったり、また安全を祈ったりしていたのではないかと考えております。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
井戸桂二氏、「伝えたいこと」より引用 |
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私部の村はむかしから大きかったので墓も東と西の二か所有りました。西の墓は西方浄土の教えか私部の西のはずれの東高野街道に面した野原の中にありました。随分昔からあったようで松の大木やケヤキの木があったが今は切られて無くなっております。この墓は私部の西半分の5町(出屋敷、中、谷、畑中、西崎)の共同墓地でしたが大正の中頃に狭くなり、以後東の墓に埋葬するようになって、今ではお参りするだけの墓になっているようです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
ウォーク当日は、35℃を超す炎天下、 冷たい井戸水を重宝させて頂きました。感謝。 |
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私部の村は昔から大きかったので墓も東と西のニケ所にありました。西の墓は西方浄上の教えか私部の西のはずれの東高野街道に面した野原の中にありました。 随分昔からあつたようで、二十年程前までは根元の直径が一メートル以上もある松の大木があったり大きなケヤキの木が繁っていて、古い歴史を感じさせる雰囲気がありましたが、今では松の木も倒れてなくなり、ケヤキの木も切られてしまい、近くには住宅が迫って来ています。 この墓は私部の西半分の五町(出屋敷、中、谷、畑中、西崎) の共同墓地でしたが大正の中頃に狭くなり、以後束の墓に埋葬するようになって、今ではお参りするだけの墓になっていますがよく観察しますと昔の人の教えが残されているように思います。 昔の人は死んでも土にかえればまた生まれ還れると信じておられたようです。この墓も「かえり墓」として、死んだ人を順番に埋葬し、全部埋め尽くせば、また初めの場所から繰り返し埋葬するようにされていたようです。その後時代の流れでいろんな教えや考え方が伝わり、先祖の霊をおまつりするようになり、一族でおまいりする石碑が建てられるようになりました。 それの初めは寛延四年(一七五一) で、ついで宝暦十一年のものもありますが大半は、文化・文政時代に建てられました。この石碑の表には「南無阿弥陀仏」「南元阿弥陀仏」とひたすらに阿弥陀仏に帰依しますと。表や側面には小さく建立年月と町名、屋号が刻まれてあります。 この石碑は一族に一塔ということで、本家より分家した家も全て含むということで、一族の誰かが亡くなれば亡骸はかえり墓に埋め、髪の毛と両手両足の爪を切って遺髪遺骨とし、この石碑の下に埋められ、死ねば一つ石の下に入るとされて来ました。この一族墓は約百基ありまして、いつも一族に縁のある誰かがお参りされています。 この墓は小さい面積ですが、かえり墓として最大限に利用され、まいり墓としても一族一塔でみんなで供養されて来ましたが、明治になってからそれぞれの埋葬場所に一塔ずつ戒名碑が建てられるようになり、一気に墓地がなくなつてしまいました。 このような墓の歴史を見てきますと、今の墓作りに疑間が湧いてきます。それは経済的に豊かになって人々の欲望が未来にまで拡がり次々と広大な墓苑が開発され、一人一塔や家族で一塔の立派な石造りの墓が造られていくことです。その碑には麗々しい名前が深々と数千年たっても消えないように刻まれています。人は墓石に名を残すために生きているのかと問いたくなります。 石に刻むものは、後世に是非伝えなければいけないことだけです。私たち一人ずつのご先祖は、十代で千人、二十代で百万人、三十代では十億七千万人もおられますがその人達の墓はどこにも見当たりません。自然界の生物は皆、いのちが無くなれば痕跡も残さず消滅するものです。 決して罪な置き土産を後世に残さないように先人の歩みを学び考え方を改めなければいけないと思います。 |
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ご参加の皆様、炎天下の中大変お疲れさまでした! また、次回のウォーク、よろしくお願いいたします。 |