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第169回 交野歴史健康ウォーク

2017.10.14(土) 30名(会員19名)参加

世界遺産・宇治周辺探訪

案内人 : 辻 昌美氏(元交野市妙見坂小学校長・宇治在住)

行程 :京阪交野市駅(午前8時30分)集合→ 枚方市駅→中書島 → 宇治駅9:30
 → 宇治橋 → 橋寺 → 源氏物語ミュージアム → 宇治上神社 →
宇治神社 → 恵心寺 → 興聖寺 → 塔の島(昼食) → 十三重の塔 →
平等院 → 夢の浮橋 → 太閤堤跡  → 菟道稚郎子墓 →京阪・宇治駅 
(3時過ぎ解散)   徒歩 約6.5km


 10月14日(土)秋雨前線が本州付近に停滞中、天候が大変心配されましたが、当日は幸いなことに朝から雨も降らず昼頃少しパラパラした程度で、ウォーク最後の頃にはうっすらと日差しも見え、当初の行程通り散策出来て申し分なし。交野市駅定刻に29名(会員外11名)が集合、宇治駅で一人合流して30名の参加者となり、予想以上の参加者数で主催者側としてはこれも言うことなし。本当に素晴らしいウォークとなりました。

 真夏日が続く8月24日(木)、高尾さんと二人で宇治方面散策の下見に出掛け、当日案内をお願いしていました、辻先生と宇治駅でお会いし、早速に源氏物語ミュージアムへと出掛けて「宇治探訪」の行程など打ち合わせ、目新しい見学先として、宇治川太閤堤跡と菟道稚郎子の墓も案内頂きました。

 宇治駅前には早くから辻先生が、カラー刷りで冊子に仕上げて戴いた素晴らしいレジメ「宇治探訪」を手に待機しておられた。9時30分過ぎ30名全員揃っての挨拶が終わり、「宇治探訪」に元気よくスタートしました。
 
 宇治橋から橋寺、源氏物語ミュージアム、宇治十帖古跡をゆっくりとまわり、一つ一つ丁寧に説明を受けた。源氏物語とは、与謝野晶子のこと、また「更級日記を読んでみて下さい、13歳の幼い子が源氏物語に惹かれてどんなにワクワクしながら読んでいたかがわかりますよ。」と話されたことが大変印象に残りました。
 また、源氏物語の根底には仏教の教えがあること、恵心僧都のこと、今まで訪れたことがない恵心院を案内頂き大変参考になりました。

 その後、宇治上神社・宇治神社の祭神「菟道稚郎子」のこと、狛犬の性別のことなどユーモアを混ぜながらお話下さいました。これまで興聖寺と言えば、紅葉のことしか頭になかったけれど、境内を隈なく案内頂き曹洞宗のことが少し理解できたかと思います。末法元年に創立されたと言われる、世界文化遺産の宇治上神社・平等院の立派な建物や数々の文化遺産の素晴らしさに感服するばかりでした。

 また、最後に案内頂いた、国史跡・宇治川太閤堤跡の歴史遺産を単に保全整備するだけでなく、新たな観光交流拠点として整備する意義は大きいと考えて、大きく動き出している宇治市の市政方針に圧倒されました。

 これに比して、交野の私部城跡は規模は小さくても大事な遺跡、何とかせねばと思いを募らせました。

 参加された皆さんから「天候もまずまず、元気な辻先生に久しぶりにお会いし、宇治の史跡を丁寧に説明頂き期待通りのウォークとなり、一日大変楽しかったです。」と大好評を頂戴しました。

 ホームページに掲載するにあたり、講師の辻先生より詳しく解説されたレジメを頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。

 ※参考資料 宇治市のホームページ、源氏物語ミュージアム・宇治上神社・平等院などのパンフと
         ホームページなどを参照させていただき、記して感謝申し上げます。
世界遺産・平等院鳳凰堂を背に記念撮影
当日の宇治周辺散策マップ

5月20日 歴史健康ウォーク レジメ

辻 昌美先生 








京阪・宇治駅 スタート

立花会長と辻昌美先生のご挨拶

京阪宇治駅前に、「お茶の京都DMO」と市観光協会、宇治市の3者で
運営する観光案内所が今年8月26日にオープン
 (右奥の建物)
宇治川と宇治橋
宇治橋
 1300年も昔、大化二年(646)に初めて架けられたと伝えられる、我国最古の橋です。
 その長い歴史の中で、洪水や地震などの被害はもちろん、戦乱に巻き込まれたことも数え切れません。しかし、橋はその都度架け直されてきました。ここ宇治が、交通上重要な場所であり続けたことの現れでしょう。
 またこの橋は古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術作品に描かれるなど、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきました。
 現在の橋は、長さ155.4m、幅25m、平成8年3月に架け替えられたもので、木製の高欄に擬宝珠があしらわれるなど、この橋の豊かな歴史と文化にふさわしいデザインが施されました。これからも宇治の名所の一つとして優雅な姿を川面にうつしてゆくことでしょう。
 橋中ほどに張り出した「三の間」は、豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた場所と伝えられ、毎年10月に行われる宇治茶まつりでは今もここから水が汲まれています。
 この広場には、昭和の宇治橋の「三の間」を利用して、テラスを設けました。川と橋、そして周囲の山々が織りなす宇治の風景を、心ゆくまでお楽しみ下さい。

平成8年3月竣工
創業850年!!秀吉も家康も訪れた茶屋
宇治茶の老舗・通園
 (宇治橋前)

 通円茶屋は吉川英治の小説「宮本武蔵」にも出てきますが、創業は平安時代末の永暦元年(西暦1160年)にさかのぼります。

 元祖は源頼政の家臣で、古川右内という武士でした。晩年隠居をして頼政の政の一字を賜って太敬庵通円政久と名乗り、宇治橋東詰に庵を結びました。

 その後子孫代々、通円の姓を名乗って宇治橋の橋守(守護職)を仰せつかり、道往く人々に茶を差し上げて橋の長久祈願と旅人の無病息災を願ってきました。

 現在の建物は、寛文十二年(1672)に建てられた江戸時代の町家の遺構を残す建物で、正面から見ますと、深い庇(ひさし)と、間口が広いわりに柱を少なくした建物となっています。これは昔から賑やかな往来の人々が、出入りしやすいように考えたためで、太い梁(はり)を使ってはね木を押さえている江戸時代初期の建築方法です。店の間には数百年を経た茶壷がならび、一休和尚より賜りました「初代通円」の木像が祀られています。足利義政・豊臣秀吉・徳川家康を始め諸大名も、この茶屋でお茶を召し上がって行かれたことが記録に残っています。

京や大和路を往き来した昔の人々が出入りした面影が偲ばれる茶屋です。


橋寺放生院
 正式名は、雨宝山放生院常光寺。真言律宗の寺院。古くから宇治橋を管理したので橋寺の通称で知られる。 橋寺本堂の前庭に宇治橋断碑(国重文)が立っている。大化2年(646)に山背国出身の奈良元興寺の僧道登(どうと)が宇治橋をかけ、衆生済度の善因となしたことが記されている。

 断碑の一部
  「??たる横流、其の疾きこと箭の如し、修修たる征人、騎を停めて市を成す。
  重深に赴かんと欲すれば、人馬命を亡くす。古より今に至る。杭竿を知る莫し。
  既に釈子有り、名を道登と日う。出尻恵満の家より出たり。大化2年丙午の歳、
  この橋を構立し、人畜を済度す。
  即ち微善に因って、ここに大願を発し、此の橋に結因し、彼岸に成果す。
  法界の衆生 普く此の願いを同じくし、夢裏空中に其の苦縁を導かんことを。」


  べんべんたる横流、その疾きこと矢のごとし、しゅうしゅうたる征人、馬を停め市を成す、
  重深に赴かんとすれど、人馬命を失う、古より今に至るまで、こういを知るもなし、
  世に釈子あり、名を道登と曰く、山尻恵満の家より出でたり、
  大化二年丙午の歳、此の橋を構立し、人畜を済度す、
  即ち微善に因って、ここに大願を発す、因をこの橋に結び、果を彼の岸に成さん、
  法界の衆生あまねくこの願いを同じゅし、夢裏空中にその苦縁を導かんことを
大吉山・仏徳山
 さわらびの道を宇治上神社から少し北へ行くと登り口があり、約20分で展望台にたどり着くことができます。正しくは仏徳山といい、標高131mの山です。
 総角古跡付近にある登り口から展望台までの登山道は、道幅もあり段差の少ない東海自然歩道になっており、桜、山吹、もみじなどの木々が四季折々の風情を楽しませてくれる、人気のある山道。展望台から興聖寺方面への道は、ハイキングコースにもなっています。

大吉山展望台
(webより参照)
源氏物語ミュージアム
「宇治市の町おこしの取り組み」

1.平成元年 地域創生「1億円予算」
 市民からの提案で、「紫式部文学賞」制定。日本の女流文学作品から選定し、毎年表彰。
 合わせて、市民の文化的取り組みを表彰。
2.宇治十帖スクンプラリー
 平成2年、「宇治十帖スタンプラリー」イベントを制定。
 毎年、10月末から11月初めにかけて実施。多くの市民、観光客等が宇治十帖や、古跡を巡る
 スクンブラリーを楽しみ、宇治の町を観光する。
3.その流れの中で、源氏物語ミュージアムが計画された。
 源氏物語ミュージアムや博物館等は、国内のどこにもなかった。
 『古典の日』制定の機運の中で、宇治十帖の舞台の宇治に「源氏物語ミュージアム」を
 建設しようとなった。平成10年オープン。
 国内唯一の源氏物語に関する博物館「宇治市源氏物語ミュージアム」2008年・源氏物語千年紀の年にフレッシュアップ 華やかな王朝文学の世界が甦る展示、講座のご案内 宇治十帖の舞台、京都府宇治市。

             
詳細は、源氏物語ミュージアムのホームページへ

        

牛車(ぎっしゃ)
 <紫式部>
 
 天延元年(973年)ごろ、高名な漢詩文家であり、受領(ずりょう)であった、藤原為時(ためとき)の娘として誕生。曾祖父は平安時代中期の歌人として有名な、堤中納言兼輔(つつみちゅうなごんかねすけ)にあたります。幼くして母を亡くし、為時の影響を受けて育ちました。結婚3年後に夫が病死し、悲しみをまぎらさせるために書き始めた物語が『源氏物語』だと言われています。
 これが評判を呼び、当時最大の実力者・藤原道長の娘にあたる一条天皇の中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)に女房として仕えることになりました。女房とは職場に房(ぼう=個室)をもらっているキャリアウーマンのことで、式部は家庭教師のような役割だったようです。
 本名は不明で、『源氏物語』の別名『紫の物語』を書いた人であり、父・為時が「式部の丞」を勤めたこともある、いうことから「紫式部」と呼ばれたと考えられます。

宇治市源氏物語ミュージアム名誉館長の瀬戸内寂聴さんの講話は大人気で超満員だそうです。
更級日記を是非とも読んでください。
13歳の幼い子が源氏物語に惹かれてどんなにワクワクしながら読んでいたかがわかります。
更級日記とは?

まずは,文学史の知識として更級日記の概要をおさえましょう。
更級日記とは,菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)によって書かれた回想録です。
平安時代中期に書かれ,この時代の女流作家の日記文学の代表作の一つに数えられています。

ちなみに,作者である菅原孝標女は「天神様」として有名な学者・菅原道真の子孫で,
彼女の伯母には『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいます。文学一家だったんですね。

更級日記のあらすじは?

では,更級日記のあらすじを見ていきましょう。
基本的には作者・菅原孝標女の少女時代からの生涯が綴られています。作者の父・菅原孝標は赴任先の上総国(現在の千葉県)での任期を終え,一家で京の都へと引き上げることになりました。

作者はおとぎ話が大好きな夢見がちの文学少女で,京に行けば『源氏物語』がたくさん読める!と大はしゃぎします。
(田舎の上総国では,源氏物語は断片的にしか読めませんでした)

京で念願の『源氏物語』を読みふけり,宮廷生活への憧れを抱く作者ですが,実生活では姉や乳母が亡くなったり,母が出家したりと,厳しい現実が待ち受けています。

その後,作者は橘俊通と結婚し,子供が生まれます。
『更級日記』の名は,作者の夫の赴任先が信濃国更科(更級)だったことに由来しています。


更級日記の中で、源氏物語に寄せる作者の思いは?

(これまで)胸をわくわくさせながら、(部分的に)少し読んでは、(ストーリーが)よくわからずにじれったく思っている源氏物語を、一の巻から読み始めて、誰にも邪魔されず、几帳の中に横になって、(箱のなかから)取り出して見る心地は、后の位も何になろうか、いや何にもならない。昼は一日中、夜は目が覚めている間、明かりを近くにつけて、これを読むこと意外のことは何もしなかったので、自然と、(源氏物語の文章などが)何も見ずに思い出されるのを、素晴らしいことだと思っていると、夢に、たいそうこざっぱりとして美しい僧で、黄色い地の袈裟を着ている人が来て、・・・。
与謝野晶子歌碑

さわらびの道沿い、宇治十帖古跡の総角の近くに与謝野晶子の歌碑がある。
紫式部を大変尊敬していた与謝野晶子が、宇治十帖を詠んだ歌を真筆で刻んだもの
世界遺産・宇治上神社
 宇治上神社は、宇治川東の大吉山(仏徳山)・朝日山の山麓にある。
 古くは応神天皇の離宮。その後、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)が営まれたと考えられる。
 平成10年、平等院等平安時代の古建築として、世界文化遺産に指定、本殿は、平安時代に建築された日本最古の神社建築と考えられている。
 奈良文化財研究所による「年輪年代法」による調査でも日本最古の神社建築と報告された。

 祭神は三神
   応神天皇、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)、仁徳天皇

   主祭神は、菟道稚郎子。

 応神天皇の皇子。幼少時より学問に秀で、当時百済から招かれた阿直岐(あちき)、王仁(わに)に典籍(千字文・論語)を学ぶ。
 応神天皇は、長子「大山守皇子」次子[大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)=仁徳天皇]をさしおいて、菟道稚郎子を皇太子とした。
 その後、次兄「大鷦鷯尊」と「菟道若郎子」との間で、皇位譲り合い物語が伝わる。(日本書紀)
 

宇治上神社の建物
 本殿は、平安時代の建築。資材の多くは、1052年前後に伐採されたもの。
 1052年に創建された平等院とほぼ同時期に創建された鎮守社と考えられる。
 屋根は、檜皮葺。約40年ごとに葺き替えられる。
 昨年度、本殿・拝殿の葺き替えが完了し、奉祝行事が行われた。


桐原水 「宇治七名水」の一つ 神詣での手水

本殿 
覆屋とその中に並列して収まる内殿三社が、神社建築として
日本最古の遺構である。建築年代は年輪年代測定法により、1060年と判定せられる。

参道    土・日曜日は結婚式場として賑わっている。
宇治神社
 宇治上神社を含めて、離宮社とされていた。祭神は莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)。本殿は鎌倉時代のもので、他に木造狛犬や白色尉面など貴重な文化財が伝わっています。
 ここでは、狛犬について、いろいろと面白いお話をしていただきました。
恵心院
 真言宗智山沢の寺院で、朝日山と号す。 弘法大師により開山され、後恵心僧都がここに住す。
 恵心僧都源信、平安時代中期の天台宗の憎。恵心僧都と尊称される。
 比叡山横川の恵心院で「往生要集」を書きあげ、浄土教の基礎を確立する。
  死後、極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行を挙げる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎をつくる。その後、その教えは、法然・親鸞にうけつがれる。
 源氏物語の「僧都」のモデルと考えられる。
往生要集(おうじょうようしゅう)

 平安中期の仏教書。天台宗の僧源信(げんしん)(恵心僧都(えしんそうず))の著。43歳の984年(永観2)11月から書き始め、翌年4月に完成したもので、3巻10章からなる。濁世(じょくせ)末代の人にとって極楽(ごくらく)に往生する道を示す教えこそもっともふさわしいものであるという信念から、そのために必要な念仏について経典や論疏(ろんしょ)のなかから要(かなめ)となる文章を集めたもので、引文は112部、617文に及んでいる。
源氏物語」の宇治十帖の中で浮舟を助けた横川僧都のモデルとなったと伝わる、恵心僧都によって再興された恵心院。宇治川のほとりにたたずんでいます。こぢんまりとしたお寺ながら、山吹にアジサイ、ノウゼンカズラなど様々な花が楽しめる隠れた花の名所です。

宇治川と塔の島の石造十三重塔
宇治川発電所
大容量水力発電所の草分けとして今も現役
興聖寺へ向かう手前、朱色に塗られた橋の下から物凄い勢いで宇治川に注いでいる川の上手にあります。
 日本最初の一般供給用水力発電所として蹴上発電所が建設されたのを契機に、琵琶湖を水源とする淀川水系でも水力発電開発の機運が高まり、宇治の景勝地に建設された水力発電所です。およそ百年にわたり、京阪神地方に安定した電力を供給し続けています。
 宇治川発電所の赤レンガの建物は百年の重みある風格を保ち、土木学会選定「現存する重要な土木遺産2800選」Aランクに選定されています。
紅葉のトンネルが美しい 興聖寺(こうしょうじ)
 鎌倉時代初期の禅僧道元を開山とする曹洞宗「興聖寺」。道元が中国(宋)で曹洞宗を学び、帰国して1233年伏見深草に曹洞宗の道場「興聖宝林寺」を創立。興聖寺の開創である。

 その後、比叡山の迫害を受け、寛元元年(1243年)道元は越前へ旅立つ。
 その後、荒廃した興聖宝林寺を江戸時代初期譜代大名永井信濃守尚政(淀城主)が菩提寺として現在地に再興し、興聖寺とする。慶安元年(1648年)。

堅い岩盤で覆われた山を穿って造られた琴坂

琴坂を登ると 興聖寺山門

火防・火伏の神様 秋葉山がお祭りされている

本堂(法堂)

血天井 (本殿廊下) (円く囲まれた部分)
血天井とは,慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦で,鳥居元忠が守る伏見城が落城した際,
鳥居元忠らが自刃した,血痕の残る廊下板を使って作られた天井のことです。

また,血天井のある所は主に寺院で,京都市東山区の養源院,北区の源光庵,
正伝寺(しょうでんじ),左京区の宝泉院,右京区の天球院,
宇治市の興聖寺,八幡市の神應寺(じんのうじ)などがあります。
 東司(とうす)とは、寺院における便所のことである。東司の語を使うのは曹洞宗で、臨済宗では雪隠という。寺院を構成する七つの施設である、七堂伽藍のひとつとなっている。 「東司」とはもともと便所の守護神のことを指し、「西浄」とともに「東浄」と称されていた。

興聖寺の墓地    最上段に永井信濃守尚政(淀城主)が祀られています

紅葉の時期には素晴らしい風景が見れます。
朝霧橋を渡り、塔の島へ
塔の島で昼食後、鵜飼の鵜を見物
夏の風物詩、宇治川の鵜飼。
二人の女性鵜匠を中心に、手綱さばきも鮮やかな匠の技を披露します。
【平成29年(2017年)】  ■開催期間 7月1日(土)〜9月30日(土)

日本国内初の人工孵化(ふか)で誕生した
「宇治川の鵜飼」の「うみうのウッティー」

2014年6月29日
海鵜で国内初の人工孵化(ふか)で誕生した
「宇治川の鵜飼」の「うみうのウッティー」。

飼われている鵜は、「うみう」だそうです。
浮島の十三重石塔
 宇治橋は、その後大水で何回も流失した。鎌倉中期、流失した宇治橋の架橋を奈良西大寺を再興した真言律宗の僧・叡尊が取り組んだ。
 多くの人手と寄付を受け、架橋を成し遂げ、弘安9年11月19目、叡尊は200人の僧を従えて宇治橋の落成供養に臨んだ。

 この供養には、後深草、亀山両上皇も臨席し、ときの関白鷹司兼平もそれに従うという盛大なものだった。
 叡尊は、宇治橋を洪水から守るため、彼の念じた殺生禁断の象徴として、宇治橋上流に浮島をつくり、十三重の石塔を建立しその石塔の下に、漁師たちが差し出した漁
船や漁具を埋めた。そして宇治橋の安寧を念じた。殺生禁断の象徴の石塔となった。
世界文化遺産・平等院
 世界文化遺産。 宇治川対岸の宇治上神社と同時に、平成10年指定。
 藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期の建築。
 山号を朝日山と称する。宗派は、17世紀以来天台と浄土宗を兼ね、特定の宗派に属さない単立の寺院。
 平安後期、権勢を極めた父藤原道長の宇治別業を譲り受けた頼道が、平等院を建立したのは、永承7年(1052年)、頼道61歳の時。

 末法初年を迎えて、極楽浄土を求めて建立した平等院は、「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」といわせた寺を創建した。頼道は、まず別業の正殿である寝殿を本堂として大日如来を安置。

 そして、平等院の名を人々に知らしめた阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成したのがその翌年の天喜元年(1053年)。 身の丈3mにもおよぶ本尊阿弥陀如来は、京都の仏師定朝の工房で制作された。
 また、本尊を囲むように長押上の壁に掛けられている52体の雲中供養菩薩も創建当初のものである。楽をかなでるもの、舞うものなど、人々を極楽浄土へいざなう仏である。

浄土院

阿弥陀如来坐像と二重天蓋・雲中供養菩薩像 (webより拝借)

鳳凰堂の見学は、待ち時間などあり団体では無理。
平等院ミュージアム鳳翔館
平等院鳳凰堂は、建築・彫刻・絵画・工芸が一体化し、国内では最も密度の高い国宝の集積空間です。
さらにその周囲は、国内でも数少ない浄土庭園の遺構がひろがり、建築と庭園が融合したたぐい稀な歴史的環境を今日に伝えています。
1965年に竣功した宝物館は、長らく扉絵、鳳凰、梵鐘、雲中供養菩薩像などの国宝物を収蔵・公開するという重要な役割をはたしてきましたが、老朽化が進み、新しく博物館として鳳翔館を開館しました。
新しい宝物館は、このすぐれた環境のもと、国宝の美術工芸品を良好な状態に収蔵・公開するとともに、鳳凰堂を中心とした境内環境の一部として整備されます。
平等院は、宗教法人としては初の総合博物館(登録博物館)となる「鳳翔館(ほうしょうかん)」を2001年(平成13年)3月1日(木)に開館しました。




朝日新聞 2017.10.7 朝刊記事参照

当日は、ゆっくりと拝見することができ良かったです。
また、この聖観音菩薩像のお顔は本当にきれいな顔立ちに感動しました!
<ここで少し寄り道>
 平等院に入って歩き始めた時、ある人から、当時の貴族は何で儲けていたんだろうか?との質問。
 後日、NETで調べてみると。


奈良時代や平安時代、貴族の収入は何であったか。どうやって収入を得ていたのか。
  現代の価値ではいくら位になるのか知りたい。


回答((Answer)

 貴族の収入は、(1)与えられた土地から収穫されるものすべて、(2)農民からの税、(3)絹・綿・布・鍬など、(4)自由に使える使用人、などがある。それぞれについて、位や官職に応じて国から与えられた。平安時代になると、それらに加え、私有地である荘園からの収入もあった。

 現在の金額に換算すると、最も位の低い貴族で1500万円程度、最も位の高い貴族で4億円程度であった。

@『絵と写真で学ぶ日本の歴史』2巻には、位と官職による収入の一覧がある。また、奈良時代の貴族である長屋王の収入が具体的に記されている。それを現代の金額にすると1億2500万円ほどになるとしている。
A『図解楽しく調べる日本の歴史』2巻には、奈良時代の貴族と役人の収入が書かれている。1文で市場で米が約2kg買えたとして、最上級貴族は52000文、下級役人は300文であったと書かれている。
B『調べ学習日本の歴史』12巻には役人の1年の収入と現在の金額との比較表が載っている。
C『人物なぞとき日本の歴史』2巻では、平安時代の貴族藤原道長の年収について記述がある。国からの収入がおよそ4〜5億円、それに加え荘園からの収入も莫大であったとしている。
D『藤原道長』には、平安貴族の収入が書かれており、一番高い位の収入は約4〜5億円としている。道長の収入についても記述されている。
E『教科書に出てくる歴史人物・文化遺産』3巻では、藤原道長の年齢ごとの年収が、現在の金額に換算して記述されている。 15歳の時は2801万円、52歳の時は3億7455万円としている。
夢浮橋ひろば
宇治十帖「夢浮橋」(第54帖)の古跡と紫式部の像

 紫式部が著した全編54帖からなる源氏物語のうち、最末尾にあたる第3部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの最後の10帖は宇治を主な舞台にしており、通称「宇治十帖」と呼ばれています。

-宇治十帖-
第45帖  橋姫(はしひめ)
第46帖  椎本(しいがもと)
第47帖  総角(あげまき)
第48帖  早蕨(さわらび)
第49帖  宿木(やどりぎ)
第50帖  東屋(あづまや)
第51帖  浮舟(うきふね)
第52帖  蜻蛉(かげろう)
第53帖  手習(てならい)
第54帖  夢浮橋(ゆめのうきはし)

宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑などが建てられています。
 薫君(かおるのきみ)は、小野の里にいるのが、浮舟であることを聞き、涙にくれる。そして僧都にそこへの案内を頼んだ。僧都は、今は出家の身である浮舟の立場を思い、佛罰を恐れて受け入れなかったが、薫君が道心(どうしん)厚い人柄であることを思い、浮舟に消息を書いた。
 薫君は浮舟の弟の小君(こぎみ)に、自分の文(ふみ)も添えて持って行かせた。
 浮舟は、なつかしい弟の姿を覗き見て、肉親の情をかきたてられ母を思うが、心強く、会おうともせず、薫君の文も受け取らなかった。
 小君は姉の非情を恨みながら、仕方なく京へ帰って行った。薫君はかつての自分と同じように、誰かが浮舟をあそこへかくまっているのではないかとも、疑うのだったとか。

   法(のり)の師とたづぬる道をしるべにして
      思はぬ山に踏み惑うかな

        平成十八年十月      (財)宇治市文化財愛護協会

紫式部の像
宇治川を渡り、最後の見学先へと歩きます
宇治川太閤堤跡
 平成19年、菟道丸山地区で、マンション建設に伴う発掘調査で、壮大な太閤堤防が発見された。
 豊臣秀吉が、政治の拠点として、伏見城を建設した際、宇治川の流路を付け替えて、伏見城へ導き、あわせて水運の統括を図るため大規模な土木工事を行ったことは、よく知られてきた。
 宇治から観月橋へ向けて、槙島堤、小倉堤など。

 しかし、このたび発掘された丸山にはもともと堤は建設されなかったと考えられてきた。そこに壮大な堤が構築されていた。
 石出しをはじめ、近代河川工法が用いられていて、研究者を驚かせている。
 宇治市では、国の予算を得て、保存・活用計画を進めている。平成21年7月国史跡に指定。
宇治川の変遷

宇治川は、過去3回天変貌を遂げている。
@元々あった巨椋他、宇治川・木津川・桂川は、川が入り組み風光明媚な地形だった。
  平安時代、貴族が川の周辺に別業を建て、文化活動をたのしんだ。
A豊臣秀吉は、新しい政治の中心として伏見城を創建。宇治川を改修し(槙島堤=太閤堤)、宇治川を城内に引き込み、淀川・宇治川の水運を統括。合わせて、宇治川を城の外堀とする。
B三川合流地点(八幡)の川筋を改良
C昭和九年、流入水のない巨椋他の環境悪化の改良と、食糧増産の計画で巨椋池を干拓。

史跡見学台も設けられている

史跡境界石票 文部科学省

茶摘みの体験場
莵道若郎子(うじのわきいらつこ)の墓
宇治上神社、宇治神社の祭神である莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓。その昔、若郎子がこの地を訪れ道に迷ってしまった際に、うさぎが道案内をして助けたと伝えられています。
道稚郎子は、応神天皇の子で、後の仁徳天皇である大鷦鷯(おおさざき)尊の弟にあたる。
『日本書紀』に描かれた菟道稚郎子は才気溢れる皇子であり、応神天皇の深く愛するところであった。
菟道稚郎子には、大山守命や大鷦鷯尊といった兄たちがいたが、応神天皇はこれらの兄を差し置いて菟道稚郎子を太子とする。

このことが後の菟道稚郎子の悲劇へと繋がっていく。

応神天皇が崩御した後、菟道宮にあった菟道稚郎子は、兄である大鷦鷯尊が皇位につくべきであるとして自らは皇位につかず、三年の時が流れた。
この時、海人が菟道宮に大贄(おおにえ)の魚を献上してきた。大贄は天皇に献上されるものであるため、菟道稚郎子はこれを受けとらず、難波にいる大鷦鷯尊にこれを送らせた。
大鷦鷯尊もまたこれを受け取らなかったため、菟道と難波を往復すること数度、ついに魚は腐ってしまった。
ここに至り、菟道稚郎子は大鷦鷯尊の決意のかえがたいことを知り、自らの命を絶ったのである。そしてその亡骸は、菟道の山上に葬られた。

これが『日本書紀』の菟道稚郎子の伝承であるが、記述の中には後世に作られたと判断できるエピソードもあり、菟道稚郎子伝承が史実であったとは考えがたいし、五世紀代に宇治に宮があったことを裏付ける考古学的なデータは、今のところ見出すことはできない。

さて、伝承の中で、墓の位置を示すものは菟道の山上と書かれているのみである。
『延喜式』の記載はさらに曖昧で、山城国宇治郡に在り、兆域は東西十二町、南北十二町で守戸が三烟あることしか分からない。

現在の宇治墓の治定は、明治二十二年六月一日のことである。
行政区分では宇治市菟道丸山にあたるこの地点は、「菟道の山上」ではなく、宇治川右岸に接するところである。

明治の治定以前、この地には古墳状の円丘があり、菟道稚郎子を攻めて、逆に伏兵にあって宇治川で命を落とした大山守命の墓であるとか、菟道稚郎子の母である宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓といった伝承があったようである。

宮内省がどのような経過でこの円丘を菟道稚郎子墓としたのかは不明であるが、治定後円丘周辺を広範囲に買収し、前方後円墳に整形し、現在の形にしたのである。
  

        WEBより参照  荒川 史氏(宇治市教育委員会)
(仮称)宇治川太閤堤跡歴史公園

詳細は、宇治市ホームページをご参照ください。

周辺地域と連携した観光振興や地域振興を目的として、歴史公園の整備を計画しています。
 歴史的風致の維持向上に関する基本方針
  1. 宇治の歴史・文化を分かりやすく情報発信する
  2. 伝統文化・伝統行事の継承と振興を図る
  3. 多様な歴史的遺産の保存・活用を推進する
  4. 宇治らしい景観の保全・修景を図る
  5. 歴史のまちにふさわしい観光振興を図る
歴史公園の整備概要

【施設名称】(仮称)宇治川太閤堤跡歴史公園
【面 積】約 2.5ha(史跡ゾーン 約1.4ha、交流ゾーン 約1.1ha)
【各ゾーンの整備内容】
(仮称)宇治川太閤堤跡歴史公園は、「史跡ゾーン」と「交流ゾーン」の2つのゾーンに分けて整備します。
歴史まちづくりを進める上での歴史公園の必要性    宇治市

 本市の歴史まちづくりを進めるためには、宇治の歴史・文化を分かりやすく情報発信することをはじめ、宇治市歴史的風致維持向上計画の基本方針に基づく総合的なまちづくりが必要です。

 本市の歴史・文化に関する情報発信については、宇治茶の歴史や文化を総合的に伝えることや、宇治の歴史・文化に関する背景やストーリーを分かりやすく発信することが現状ではまだまだ十分でなく、こうした宇治の魅力を市民や来訪者に効果的・効率的に発信するためには、宇治の歴史や文化を総合的かつ分かりやすく伝えるためのミュージアムや、宇治茶の体験などを通じて日本茶の原点である宇治茶のことをもっと知っていただく施設の整備が必要と考えています。

 また、「宇治に来ても茶園がどこにあるのかわからない」「気軽に茶摘み体験ができる場所が少ない」といった声や、「雨の日に観光する場所が少ない」、「食事や休憩ができる場所が少ない」といった課題を解決する上でも、単に国史跡宇治川太閤堤跡を保全整備するだけでなく、新たな観光交流拠点として整備する意義は大きいと考えています。

 宇治駅から沢山の史跡・観光名所を歩き、宇治の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 次回の歴史健康ウォークは、11月18日(土)、京都・太秦周辺を巡り散策します。是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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