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第170回 交野歴史健康ウォーク

2017.11.18(土) 18名(会員14名)参加

太秦・広隆寺弥勒菩薩〜嵐山
-秦氏のゆかりの地を訪ねる-
案内人 : 高尾 秀司氏(交野古文化同好会)

行程 :京阪交野市駅(午前9時)集合→祇園四条駅→阪急四条河原町駅→
四条大宮駅→京福電鉄(嵐電)四条大宮駅→蚕ノ社駅→木嶋神社
 →大酒神社→広隆寺(弥勒菩薩像)→帷子ノ辻駅→蛇塚古墳→帷子ノ辻駅
→車折神社→嵐電嵯峨駅→長慶天皇陵→嵐山 午後2時20分頃解散
切符は交野市駅より「東山・嵐山1day切符1300円」を利用 徒歩約5km

 11月18日(土)早朝から冷たい雨が降り続き、歴史ウォークの開催が危ぶまれましたが、交野市駅に次から次へと元気なメンバー18名が集合。雨の為、昼食は嵐電の帷子ノ辻駅前の王将で摂ることも決まり、また、伊東さんから提案の「京阪・阪急・嵐電の乗り降り自由、一日フリーチケット ¥1300円」を購入、9時過ぎ交野市駅を出発。心配した天候も、昼過ぎには雨も上がりまずまずのウォーク日和となり、購入したフリー切符は今回の散策には大変便利で重宝しました。

 今回の例会は、今年6月の勉強会で「渡来文化の魅力ー広隆寺の弥勒菩薩の素顔ー」について、大矢良哲先生より、弥勒菩薩の歴史的な背景や経緯・魅力についてご講演頂いたことが契機で、広隆寺を訪ねて弥勒菩薩をじっくりと鑑賞し、併せて秦氏ゆかりの史跡を巡ろうということになり、企画計画されました。

 まさに「太秦」(うずまさ)である。太秦と言えば「東映太秦映画村」として知られているが、古代史に興味が無い人にはとてもすぐに「うずまさ」とは読めない。太秦とは、「大いなる秦(シン或いはハタ)という意味を持つ(諸説あり)、古代豪族である。そのゆかりの地が、京都市右京区太秦周辺なのである。古代には、山背国葛野郡と称された場所である。

 この太秦こそ、古代豪族「秦氏」の本拠地であった。広隆寺は秦氏の氏寺であり、松尾神社も氏神として秦氏が創建したとされている。また、広隆寺の裏手には、「秦の始皇帝」が祀神である「大酒神社」まである。

 午前中は、木嶋神社・蚕ノ社から大酒神社、広隆寺・弥勒菩薩と廻り、午後は昼食後、秦氏の墓ともいわれている「蛇塚古墳」〜車折神社、交野にも関係ある長慶天皇陵を訪問、最後は観光客で大賑わいの嵐山で解散となりました。

 秦氏の中で一番の有名人(?)は「秦河(川)勝」であるが、彼の墓は大阪府寝屋川市川勝町にある。この付近には秦氏に関する古跡も多くあり、交差点や郵便局には「太秦」と言う名前が付いている。かっての河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)である。
 
 参加された皆さんから「天候もまずまず、広隆寺の弥勒菩薩もじっくりと鑑賞でき、秦氏ゆかりの史跡巡り、車折神社や長慶天皇陵など細やかに案内頂き、嵐電に乗ったり下りたりで期待通りのウォークとなり、一日大変楽しかったです。」と大好評を頂戴しました。

 史跡「蛇塚古墳」の見学の際、メンバーの青山さんのお姉さんにお世話になり、その上に「愛宕さんのお饅頭」までお土産に頂戴するなど、たいへんお気遣い頂き、本当にありがとうございました。

 ※ホームページに掲載するにあたり、講師の高尾さんより詳しく解説されたレジメを頂戴しましたこと、また当日雨の中きめ細やかにご案内頂き、記して感謝申し上げます。
広隆寺境内にて記念撮影
当日の太秦〜嵐山周辺散策マップ

交野歴史健康ウォーク 11月例会レジメ
高尾 秀司氏



蚕ノ社境内

立花会長の挨拶

当日の行程と蚕ノ社について説明される高尾さん
京阪交野市駅に9時集合
当日は早朝より雨が降り歴史ウォークの開催が危ぶまれましたが、
9時前には元気なメンバー18名が次々と集合されました。
伊東さんの提案で、「京阪・阪急・嵐電の一日チケット ¥1300円」を利用、
京都・東山〜嵐山地区までの区間は乗り降り自由で当日のウォークには大変重宝しました。


当日の行程:京阪交野市駅→祇園四条→阪急四条河原町→四条大宮→嵐電四条大宮→
蚕の社→太秦広隆寺→帷子ノ辻→車折神社→嵐電嵯峨→嵐山→京阪交野市
京福電鉄(嵐電) 蚕ノ社駅

嵐電 蚕ノ社駅
木嶋神社・蚕ノ社
(このしまじんじゃ・かいこのやしろ)
木嶋座天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

 この神社は通称「木嶋神社」と呼ばれる式内社で天御中主命・大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命を祀っている。「続日本紀」大宝元年(701)に神社名が記載されていることから、それ以前に祭祀されていたことが分かる古社である。

 この嵯峨野一帯は養蚕、機織などの技術をもった秦氏の勢力範囲で当神社の東側には織物の祖神を祀る蚕養(にかい神社)がある。この神社は祈雨の神として信仰が厚く昔から参詣の人が多い。本殿の西側には四季湧水する「元糺の池」という神池があり、又天保2年(1831)に再興された京都三鳥居のーつとされる
石製三柱鳥居(ミバシラトリイ)が建つ。

蚕養神社(こかいじんじゃ)(蚕ノ社)
 雄略天皇の時代(約1500年前)秦氏が数多くの絹、綾を織りだし「うずまさ・太秦」の姓を賜りこの地を太秦と称し推古天皇の御代に報恩と繁栄を析る為、養蚕・織物・染色の祖神を勧請したのがこの社である。養蚕、織物、染色の守護神である。  (現地説明文より)
 秦氏は機織りの技術者集団で、絹布を大和朝廷に対する租税としていた。このため、この地には絹布が「うず高く」積み上げられ、朝廷から「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられた。この「うずまさ」を太秦の文字に当てたというのが定説だ。

蚕の社(木島神社・このしまじんじゃ)
 
 広隆寺の北東にあり、秦氏が水の神・ムスビの神を祀ったのに始まると云われています。
 本殿の右側にある養蚕神社(こかい)は、養蚕・機織・染色の技術で繁栄した秦氏ゆかりの摂社で、木島神社本体の通称となりました。
 本殿の西の元糺の池に建つ、明神鳥居を三つ組み合わせた3方正面の三鳥居(みつどりい)は、三方から拝むことが出来ます(京都三珍鳥居の一つ)。
 元糺の池(もとただす)からは、清水が湧き出ているそうですが、池のある森を元糺の森と云い、下賀茂の糺の森と関連があるとも考えられ、秦氏と賀茂氏との結びつきが想像されます。

木嶋神社 (このしまじんじゃ) 通称:蚕ノ社(かいこのやしろ)京都市右京区太秦森ヶ東町50
 (正式には木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社)

主祭神:天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、瓊々杵命(ににぎのみこと)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
境内説明図

木嶋神社 本殿

かいこのやしろ

京都三鳥居のーつとされる石製三柱鳥居(ミバシラトリイ)が建つ。

元糺の池
大酒神社(おおさけじんじゃ)
大酒神社(おおさけじんじゃ)
  (祭神・秦始皇帝、弓月王(ゆうづきのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)

 「広隆寺来由紀」によると秦始皇帝をを祖神とし、日本に渡来した功萬王(こうまんおう)(秦氏遠祖)が勧請したとする。古くから太秦一帯を開発した秦氏の氏神であったと推測され、大酒神社は秦酒公(はたのさけきみ)と大酒神を関連ずける説もある。
 酒公(秦氏)は機織りのみでなく、大陸の先進文明をわが国に移入に努め農耕、造酒、土木などに大いに功績がありました。元この神社は広隆寺に鎮守の宮として祀られていたが明治の神仏分離にて現在地に移る。
広隆寺・弥勒菩薩像
広隆寺(蜂岡寺・秦公寺・太秦寺・葛野寺)

 広隆寺は推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺院であり四天王寺、法隆寺等とともに聖徳太子建立の寺である。同年秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、それを本尊として祀り、この本尊が現存する弥勒菩薩であることが寺の古文書からあきらかであります。
 広隆寺は弘仁9年(818)、久安6年(1150)に火災にあったといわれるが多くの仏像がよく保存されているのは、これらの仏像がいかに強い信仰の対象となっていたかが窺がわれます。     (寺院発行の冊子より)

弥勒菩薩半跏思惟像
広隆寺の弥勒菩薩 
  (新霊宝殿に安置・外に貴重な仏像が沢山祀られ同時に拝観することが出来ます)

 この弥勒菩薩半跏思惟像は国宝第一号で、製作は飛鳥時代であり、赤松の一木造りで、高さ124 cm、右足を左膝に乗せ、右手指先をほほの近くに延ばし、わずかに微笑んで、物思いにひたっている。この時代の仏像でこれ程人間的なものはないと同時に、人間の純化がこれほど精神的なものに近づいていることも他に類をみない。
 この仏様はお釈迦さまに代わって、この世のすべての悩み、苦しみを救ってくださる慈悲の仏様です。(寺院発行の冊子より)

国宝 弥勒菩薩半跏思惟像

国宝 弥勒菩薩半跏思惟像(宝?)

秦河勝像 及び 夫人像(重文)

南大門
上宮王院太子殿(本堂)(霊宝殿の南側にあり)
 享保15年(1730)に建立された入母屋造りのこの堂は、本尊として聖徳太子像を安置している。

南大門を背に記念撮影
帷子ノ辻駅で下車、駅前の中華料理店にて昼食後、蛇塚古墳へと進む。
蛇塚古墳
蛇塚古墳 (国指定史跡、昭和52年5月)右京区太秦面影町

 この巨石の石組みは古墳時代末の7世紀頃築造された京都府下最大の横穴式石室である。本来は全長約75mの前方後円墳であった。早くから墳丘封土が失われ、後円部の石室だけが露出しているが周囲の輪郭をたどると現在でも前方後円墳の形をとどめている。石棺を安置する玄室の幅は奈良の石舞台古墳よりも大きく、床面積では三重県高倉山、岡山県こうもり塚古墳より大きく、石舞台古墳につぐ全国第4位の規模である。

 蛇塚の名は石室に蛇が棲息していたからという。又この古墳の埋葬者はこの附近一帯を治めていた秦氏(河勝)の墓ではないかと言われている。(現地の説明板より)
車折神社
(くるまざきじんじゃ)
車折神社(くるまざきじんじや)

 平安時代末期の儒学者・清原頼業公(きよはらよりなりこう)(1 1 2 2〜1 1 8 9)を祀る。社伝によれば、後嵯峨天皇が牛車に乗ってこの社前を通ろうとした時突然牛が動かなくなり車の軸が折れたことから車折神社と呼ばれるようになったといわれている。

 昔から学問の向上商売繁盛、売掛金回収に御利益があると云われ、社務所で授与された小石に祈願をこめ、家に持ち帰り願が成就したらお礼の石を一個添えて神前に返納するという慣わしがある。
 境内には「芸能人神社」があり芸能上達を祈願する人に厚い崇敬をうけている。又当社の宮司でもあった富岡鉄斎の『筆塚』がある。5月には「三船祭」がある。(京都市)

返納されたお礼の石

昔から学問の向上商売繁盛、売掛金回収に御利益があると云われ、
社務所で授与された小石に祈願をこめ、家に持ち帰り願が成就したら
お礼の石を一個添えて神前に返納するという慣わしがある。
長慶天皇陵 参拝
長慶天皇陵 嵯峨天竜寺角倉町

 第98代長慶天皇は97代後村上天皇の第一子で正平23年(1368)後村上天象崩御後、即位せられる。16年間皇位に遭って、弘和3年(1383)皇弟後亀山天皇(99代)に譲られた。その後摂津住吉、吉野に移り応永元年(1394)太上天皇となって同年亡くなられたという。陵墓は各地にある。

 大正13年茨城県北茨木市の竹内家から同天皇に関する文書が見つかり、同天皇は私市の獅子宮寺で亡くなったことが分かり歴史学者ハ代国治氏が調査したが確定することは出来なかった。しかし現在でも長慶天皇に関連する言い伝えは附近にたくさん残っております。

長慶天皇嵯峨東陵

長慶天皇皇子承朝王墓
番外編
歴史ウォーク解散後、番外で天龍寺庭園を訪ねました!
午後から雨も上がり薄日が差しむ境内、
紅葉真っ盛りの庭園風景を存分に楽しみました。


このあと、京阪七条で下車、京都国立博物館で開催されている
「国宝展」を見学、大変充実した一日でした。
天龍寺・庭園見学


史跡・特別名勝 天龍寺庭園「曹源池」 
夢窓国師 晩年の作
庭園の周回路の紅葉も丁度見頃でした!

 最後までご覧いただきありがとうございました。

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