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交野歴史健康ウォーク 2007.9.22 第84回
東高野街道を歩く その1

八幡・石清水八幡宮から交野・郡津まで歩く

  行程; 京阪交野市駅乗り換え→八幡市駅下車→東高野街道の起点・御幸橋→安居橋→放生川→
八幡市民図書館→頼風塚→寝物語国分橋古蹟の碑→正法寺→八角堂→松花堂→
円福寺・洞ヶ峠(昼食)→枚方ハイツ(バス停)→高野道→枚方企業団地→
大谷橋・新大池→国道一号線→出屋敷北→山田池入り口→出屋敷→円通寺→
枚方市立総合体育館→四辻→村野浄水場→出鼻橋→郡津・茶屋付近(解散)
                             徒歩 約 13Km

当日の歴史ウォーク全行程MAPはこちら
大阪府都市整備部交通道路室作成の東高野街道MAP


 
 2007.9.22(土)午前9時、京阪電車交野市駅京都行きホームに集合。天候、晴れ。
いつもの元気なメンバーに新メンバーを加えて総勢22名の参加で、八幡市・石清水八幡宮から交野市・郡津の茶屋まで、東高野街道周辺の史跡を巡りながら元気に歩いてきました。

 八幡市駅前にて、本日の行程など案内役の中光司会長、平田さん、綱分さんよりお話を伺い、早速駅前を出発。まず、京阪電車踏み切りを北へ、東高野街道の起点に当る、木津川に架かる御幸橋へ向う。京からの旅人は桂川・宇治川を下り八幡の御幸橋を起点に、高野山へと向った。
 再び駅前に戻り、放生川(大谷川)沿いに東高野街道の辻々に建つ沢山の道標・史跡を廻りながら南へ歩く。途中、正法寺、八角堂を散策、松花堂にて小休止。朝から晴天、残暑厳しく日差しもきつく、全身汗まみれで12時15分頃、円福寺に到着。
 境内のあちこちで夫々昼食を摂り、12時40分過ぎ出発。直ぐ近くの枚方ハイツバス停で6人は楠葉駅へ。高野道から企業団地、新大池、出屋敷を通り、四辻、出鼻橋へと、完歩者13名全員元気に郡津に到着。午後3時、郡津の茶屋付近で解散しました。真夏の炎天下同様の天候の中、皆さん本当にお疲れ様でした。当日の大阪の最高気温は35℃でした。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。
講師の中会長、平田さん、綱分さん有難う御座いました。

 次回は、10月13日(土)、東高野街道を星田から東寝屋川まで歩きます。
  集合は、午前9時、JR星田駅前。


 ※文中の観光案内については、京都府、ウォーク&ウォークの「男山を石清水八幡宮から松花堂へと逍遥する5km」、「八幡ぶらり名所旧跡を訪ねて」、などWEBの記事を参照させていただきました。
  記して感謝申上げます。

八幡市駅前で中会長・平田さんの挨拶
御幸橋
御幸橋(ごこうはし)をバックに記念撮影
木津川、宇治川、桂川の三川合流地にあり、
男山の山裾から木津川と宇治川を渡って
京都市の南端、淀に通じている。
巨岩で男山を表す 木津川に架かる御幸橋
男山から御幸橋を見下ろす

 
 上の写真は男山の上から御幸橋(ごこうはし)を見下ろしたもの。
くの字に折れて連続しているように見えるが、手前は木津、向こうは宇治に架かる別々の橋である。名前は同じ御幸橋。橋は男山に鎮座する石清水八幡宮の参道であり、旧の京街道である府道13号が通じている。橋名は朝廷から石清水八幡宮への使者が渡ったことに由来する。
 ここでは、二つの川は背割堤という1km以上もある長大な堤を隔てて流れている。背割堤は木曽三川などにも見られる、大河の合流をスムーズにし出水時の危険を減ずるためのもので、二川の堤を兼ねている。宇治・木津の背割堤上には密に桜が植えられ、花期には大勢の花見客で賑わう。


放生川付近の風景


安居橋(あんごはし)
八幡八景の一つで、大きな半円の形をした美しい橋です。
歌人柏村直絛は、次のような和歌を詠んでいます。
「神わざにつかふる雲の上人もつきをやめづる秋の川はし」。
たいこ橋とも呼ばれています。

石清水 清き流れの絶えせねば やどる月さえ 隈なかりけり
男山・石清水八幡宮 能蓮法師歌碑

やわたの道しるべ
八幡橋・宇治街道・奈良街道の石碑(高さ210m)

 昭和3年三宅安兵衛依遺志建之

                   「京都三宅安兵衛遺志碑」
 大正末年から昭和初年(1921〜1930年)にかけて、京都市中京区在住の西陣帯地卸商、三宅清治郎が、京都府南部を中心に建設した石碑群の呼称です。この事業は父安兵衛の遺命にもとづいて行われ、ほとんどの石碑の裏面に「京都三宅安兵衛依遺志建之」(京都三宅安兵衛の遺志により、これを建つ)といった記載があるため、このように呼ばれています。
 八幡市内には、道標70基近く、その他旧蹟碑を含めると、120基余り建立されている。
  (郷土史双書・やわたの道しるべを参照)


放生川(大谷川)

 八幡平谷の買屋橋から京阪八幡市駅に近い全昌寺橋の200メートルの間、大谷川はその名を「放生川」と変える。この名は、石清水八幡宮の神事の放生会(ほうじょうえ)に由来する。

向 右 松花堂墓所
正面 小野頼風塚
日門上人墓所本妙寺

八幡市民図書館付近

正平役園殿口古戦場(左)    金剛律寺故址(右)    
頼風塚

 八幡市民図書館の南西、菓子店「志゛ばん宗」の横に頼風塚の碑が建っています。その1メートルにも満たない細い路地を行くと民家の南裏に小さな石塔「頼風塚」があります。その塚には、このような伝説が残っています。

 平安時代の初期にあたる806年から808年、平城天皇の時代に小野頼風という人が八幡に住んでいました。彼は京の都で仕事に就いていて、京の女性と深い契りを結んでいました。その後、頼風は八幡に帰ってしまうと、いつしか二人の間に秋風が吹くようになっていました。京の女性は思いあまって八幡へと頼風を訪ねてきました。しかし、頼風が他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり放生川の上流「泪川(なみだがわ)」に身を投げて死んでしまいました。やがて、川のほとりに彼女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲きました。

 頼風がこの話を聞いて、花の元に寄ると、花は恨んだ風情をたたえながら頼風を嫌うように遠退き、離れると元のようになるのを見て、頼風は「それほどまでに私を恨んで死んだのか」と、自責の念にかられ、同じように放生川に身を投げて死んでしまいました。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたといいます。


萩とススキと女郎花(おみなえし)

右 宇治近道  昭和二年春 三宅安兵衛依遺志建之

東高野街道に面して、風情のある立派な民家


「巡検道」
右 宇治道

寝物語古跡国分橋

 八幡市民図書館から南へ300メートルほど行くと、左に入る道があります。そこには「巡検道」と刻まれた大きな道標が建っています。ここは「馬場」と「神原」との字界で、巡検道は、ここを起点とし、幅3メートルに満たない道は曲がりくねり、東へと延びています。旧市街地を抜けて大谷川を渡り、田園地帯を下奈良まで、その距離は約2キロメートルです。 古くはこの道を境にして、南を綴喜郡、北を久世郡とした、いわゆる郡界であったと言います

 神原町には寝物語古蹟国分橋の碑(郡や村の境を決める際、両方の村から人が出て、出会った場所をその境界とした伝説ですが、寝過ごしたため領域が減ってしまったというもので、このような伝説は各地に残っている)や、その碑の前にかかる「かへらずの橋」(国分橋のこと)があります。いずれも江戸時代以前からの伝承にちなんでつけられたものであると思われます。


神原交差点
正法寺

 
 1191年の開創で、1546年に後奈良天皇の勅願寺となり、徳迎山と正法寺の勅額を賜っています。現在の伽藍は、1630年に尾張藩祖徳川義直の母(徳川家康公の側室志水亀女)の菩提寺として再建された七堂兼備の大坊です。書院西にある庭園は府指定名勝で、境内は府文化財環境保全地区に指定されています。大方丈の金箔襖絵は、江戸時代初期の絢爛豪華な趣を伝えています。
 ※拝観は事前に連絡を。 TEL 075-981-0012



正法寺隣 ・安心院境内
弘仁時代の一里塚跡石碑

東在所道

左 京街道

楠葉道
小野篁  十王像閻魔庵

水月庵

正平役血洗池古蹟
右 八角堂
八角堂
西車塚跡  八角院

 1607年に豊臣秀頼によって再建されたと言われ、明治期の神仏分離により男山山上から移築、正法寺の境外堂宇の一つとなりました。八角円堂ですが、正方形の四隅を切りとった隅切八角形の珍しい建築で、堂内には巨大な阿弥陀如来像が安置されています。石清水八幡宮固有の特殊な伝統を具現した唯一の建物です。
 明治35年八角院境内の土木工事を行った際、偶然に石室を掘り当てた。西車塚古墳跡である。全長は115m、後円部の径70m、後円部の高さ約8m。

松花堂
 竹林に囲まれた草庵、茶室、露路庭がある松花堂庭園は史跡に指定されています。美術館は松花堂昭乗ゆかりの館蔵品を展示しています。江戸時代初期(寛永年間)に石清水八幡宮の社僧であり、寛永の“三筆”の一人として当時を代表する文化人でもあった松花堂昭乗は、書・画・和歌・茶の湯に秀で、当代一流の文人墨客との交流で数多くの芸術作品を遺しています。
正平七年役  神器奉安所   岡の稲荷社
左 奈良街道
 岡の稲荷社は、正平7年(1352)後村上天皇が、北朝足利方に攻められ大和賀名生へ落のびる際、この地に三種の神器を隠し置いたと伝えられ、それを狐が守護していたため後に稲荷社が建てられたという。
 左 奈良街道、右 高野街道。八幡から河内の国境の洞ヶ峠まで15丁、河内を縦断する東高野街道の起点である。
右 高野街道  峠 15丁  津田二里

正平塚 吾妻與五郎墓 万秤山

向って 左 峠五丁 長尾三十丁
円福寺

 円福寺は筒井順慶が山崎の合戦の折り、戦況の有利な方に味方しようと日和見をしたといわれる洞が峠の北側にある。その洞が峠も、今は大阪と京都を結ぶ国道1号がまたぎ、騒音の渦中にある。円福寺は、その国道近くにあるにもかかわらず、一歩境内に足をいれると静寂の世界が広がっている。3万坪の境内には、山門、本堂、禅堂、有栖川宮家旧御殿などが甍を連ねている。

枚方へ入る
枚方ハイツ、及び 高野道バス停
新大池・招提交差点
出屋敷北から山田池へ
昔の面影を残す出屋敷付近
出屋敷の住宅街
風情のある出屋敷の住宅街を歩く

東高野街道の道標


円通寺表札

円通寺

円通寺の掲示板
  東高野街道は、洞ヶ峠から高野道・招提新大池・出屋敷、中宮大池・交野市郡津を経由して茄子作を通過するが、出屋敷は家並みと共に、かっての面影を今に留めており、旧街道に臨む多田家の生垣には、人々の往来を偲ぶように道標がひっそりと佇んでいる。

いよいよ交野も近し、
交野山が見えてきました!

枚方市立総合体育館付近


四辻交差点

村野浄水場付近
交野市・出鼻橋交差点

交野市・出鼻橋交差点
元気な12名の皆さん!
東高野街道・出鼻橋付近で記念撮影

 参加の皆さん、炎天下の中、本当にお疲れ様でした!
 枚方に入り、高野道から企業団地、新大池、出屋敷を通り、四辻、出鼻橋へと、完歩者13名全員元気に郡津に到着。午後3時、郡津の茶屋付近で解散しました。真夏の炎天下同様の天候の中、皆さん本当にお疲れ様でした。当日の大阪の最高気温は35℃でした。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。
 講師の中会長、平田さん、綱分さん有難う御座いました。

 次回は、10月13日(土)、東高野街道を星田から東寝屋川まで歩きます。
  集合は、午前9時、JR星田駅前。

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