河内森駅前で、中会長、平田さんの挨拶
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佃通りから京阪電車を望む
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廃千手寺から佃筋を東へ、小久保川から分流している幅70cm用水路の上の田んぼのあぜ道に、佃筋の仏さんがまつられています。
思わずひざをついて手を合わせたくなるような小さな阿弥陀さんは、田んぼの水を守り、村人の悩みを静かに聞いてくださったのでしょう。
千手寺に寄進された田の管理者の直営田を「佃」といいます。佃はこの一帯にあったので、「佃通り」という地名がついたと言われています。
ここから東へ進むと、天田神社にたどり着きます。 |
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綺麗なお花が供えられていました
小さい仏さんで、ゆっくりと歩かないと見過ごしてしまいそう! |
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天野川地方条里制・一条通り |
現在では、私市・天田の宮付近に一条通り、佃通りの地名が残っている。
また、京阪電車からも数年前までは、条里線が確認されたそうだが、今では家が建ち並び分からない。
私部には、町通り(ちょうどおり)−四条通り、枚方市の山の上が(古い名で南条村)−なな(七)じょう村などと残っている。
大化改新令の
班田法(はんでんほう)
奈良時代前期(七世紀)に、おこなわれた大化改新令により班田収授法が施行された。
七世紀の初め頃、聖徳太子は、天皇の全国の統治者として「天下の土地人民の主は天皇だけだ。外の豪族たちの勝手な徴税や人民使役はいけない。」(天にふたつの日なく、国に二つの王なし。この故に天下を兼ねあわせて、万民を使いたまうべきは、ただ、天皇あるのみ。)といって、全統治者天皇と全人民を直結しようとする大理想を抱かれた。しかし、それは当時、鼻息の荒い曽我馬子のために実現できず、法隆寺斑鳩の宮で亡くなった。
この聖徳太子の理想を受け継いで、ついにそれを実現したのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、それを制度化したのが大化改新令である。
班田とは田を国民に分配することで、死ねばこれを国に収め、子供が生まれて六歳になると授けるというので収授といい、その田を口分田(くぶんでん)といった。
こうした口分田(くぶんでん)を各人に公平に分配できるようにと、全国の河や湖に近くて、稲作に便利な所に、条里制の区画を設けることになり、交野地方でも天の川付近やその他にこの区画ができた。
(交野市史より転載)
交野地方の稲田は弥生時代から開かれていたが、大化改新の際に、天の川沿岸の全域におこなわれた。
その地域は、南は、私市天田の宮から、北は枚方市禁野(ひらかたしきんや)−枚方市駅付近までの間、南北54町、幅は私市・森・星田付近の広い所で約18町、私部(きさべ)郡津(こうづ)付近から下流で5から6町となっている。(現在反別にすると、510町歩、約505ヘクタールの面積であった。)
この条里制も藤原摂関政治の時代になると、班田収授法も崩壊し、貴族や寺社の勢力がつよくなり、荘園制が発達して貴族や寺社への土地の寄進が行われた。寄進された荘園は管理人(荘官)により運営され、荘官は直営田をもらい荘民に耕作させた。この土地を佃(つくだ)といった。
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天田神社へと続く一条通り |
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「和田坂(わだんさか)」
小路(しょうじ)から松宝寺へ行く道で、京阪交野線の上の百重ケ原橋の手前で左の方へ入り井手の内へ下る細い坂道ある。坂の下は十字路になっている。
この坂を「わだんさか」という。「和田坂」と書くが、「わだ」は万葉集にも出ている古語で、川や入江の屈曲した所をいう。この坂も屈曲した坂の意味であろう。「わらんさか」で「蓑(わら)の坂」の意味だと言う人もあるが、「わだ」の方が実景を表わしていて妥当かと思われる。
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古代天野川地方条里区画一条通遺跡の碑
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私市・森を流れる加賀田用水 |
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加賀田用水 : 江戸時代中頃(1700年代)、私市の池堂から森の加賀田に用水を引き、草川を通して私部の官田まで水を流したのが始まりで、明治16年頃、天野川の井堰が完成。
その後、大正12年10月の大雨で諸川が氾濫し加賀田用水堰が崩壊したため、美田50町あまりが荒野になり村民は悲嘆に暮れた。私市の田圃の持ち主であった西村忠逸氏(1872〜1941)が深くこのことを悲しみ、同志たちと水利組合を組織して復興にあたることにした。同年12月に起工し、昭和10年5月に完成した。上流の堰を復旧しただけでなく、下流に一つ堰を設けて、新たな水路をつくった。かが田の「かが」は利益・利得の意味で、収穫の多い田と言う意味であろう。
加賀田用水路への取り口は、市大植物園に渡る日の出橋の上流300mの場所にあり、落差10mはあろうか、天の川を石組みで堰き止め左手に造られている。加賀田用水は、私市から森、私部へと広く田圃の灌漑用水として今も利用され続けている。天の川の水を上手く取入た先人たちの汗の結晶である。
※ 私市の水利組合としては次の5つの組合がある。
1.加賀田水利組合 2.上代水利組合 3.開水利組合
4.潰れ池水利組合 5.持久水利組合
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西念寺(さいねんじ)
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墾田(ごんでん)地蔵
私市の西念寺の門を入った南側に、東面して立っておられる。
この石仏は、もともと寺の北側の小久保川を越した北の墾田筋(ごんでんすじ)に立っておられたのをここに移したのだと言われている。美しく整なった地藏さんで室町中期の作と言われ、村人たちの悩みをお救いされた有難いお地蔵様である。また、この西念寺の庭は、本堂から西に向かって本尊の阿弥陀様、西側から本堂に向かってお地蔵さまと有難い庭である。
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西念寺本堂 |
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西念寺から北へ100メートル、きれいなほこらの中に2対の阿弥陀さんがまつられています。
昔、道路沿いの小川の改修工事の時に出土した仏さんだそうで、いつも真新しい花が供えられている手入れが行き届いた石仏さんです。
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【史跡ミニガイド】
坂口の三又堰
松宝寺の台地の下一帯、現在は水田になっている。条里制の一条通りの南側にあたり、松宝寺から山間に池が点在し、池の名も、池堂、池谷、潰池などが付けられていたが、今は埋められてしまい松宝寺池だけが残っている。
この谷は、水の出の良い所であるので、谷をせき止めてため池を造っている。その池の水の管理若しくは用水の流れを方向別に分ける分水地の役目をしていたものである。
そのことを示すのに、天田宮幼稚園と道を隔てた南側に「三又の堰(せき)」がある。ここから松宝寺、中通り、佃筋の三方に水を配分したのである。水の管理には十分気を配ったのである。
小久保川は普段は殆ど水はないが、一度大雨が降ると水が溢れ山砂がどっと流されてくる。
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私市3丁目(どぼ池付近より)西念寺、雲林寺、松宝寺方面を望む
♪さいたか さいたか 西念寺、 ういたか ういたか 雲林寺、
まつのたからの 松宝寺(まりつきの唄)
大正の初めごろ当時の男の子も女の子も夏の遊びは天野川の水遊びと決まっていた。
たれがさそうとはなく、女の児が美しい河原に集まった。白いおこしの子供たちが川に入る前に合掌した。「さいたか さいたか」で始めた唄につれて深みにはいりもって輪をつくった。最後の「「松の宝は松宝寺」と唄い終わった時、皆がいっしょに頭の上で手をひろげた。(ふるさと交野を歩く ひろい話より) |
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千手寺は亀山上皇 安在所
千手寺(せんじゅじ)は今は一小庵ですが、亀山上皇が病気の時、獅子窟寺の薬師仏に祈願され、ここを安在所(あんざいしょ)として千手観音をまつって寺とされました。
左の写真は千手寺、直ぐ北へと続く付近の露地を通って京阪電車・河内森駅へと出る。 |
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千手寺(観音寺)
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寺標の辻
愛宕山の伏拝みの石碑などが建っている
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亀山上皇行在所跡
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千手寺の方形造りの収蔵庫
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愛宕山の伏拝の石碑が立つ廃千手寺の境内に二尊仏がひっそりとまつられています。
鎌倉時代、亀山上皇が獅子窟寺の薬師如来に病気の回復を祈願し、回復を喜んだ上皇が、滞在した場所に観音寺(現在の廃千手寺)や、この寺を管理するための田を寄進しました。現在、この地域にある「院田」という地名は、この名残と考えられています。
廃蓮華寺や廃千手寺の仏像は、境内の収蔵庫に安置され、そのうち、聖観音立像と如意輪観音坐像は市指定文化財にも指定され、春と秋に一般公開されています。 |
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千手寺の北通りの風景
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石清水八幡宮三宅荘園墾田跡 石碑
小久保川の北側の道の下にあり、分かりにくい場所に建っている
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樋の尻川
小久保川の堤防の下を通っている |
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小久保川の堤防の下を通って北へと流れている
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磐船街道の六角形の道標
私市の旧道の入口に道標としては
珍しい六角形のものが、常夜灯とともに保存されている。
ここは、「かいがけの道」の分岐点である
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磐船街道へと進む |
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くぼみ石(雨だれのあと?)
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磐船街道を歩く |
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力石(門口に)
60kgくらいの重さ、昔、力持ちが競って持ち上げた石
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西川原古墳(平田菜園内)
平田さん、お孫さんと一緒に手作りの古墳
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森古墳群1号墳の1/100も模型 |
古墳の模型のある平田菜園には、大きなスイカがごろごろ! |
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私市の四辻
この街道を、昔はダンプも通った!
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四辻から私市橋(西へ)と歩く |
年金街道?
私市郵便局へと続く道、年金を受け取りに良く使われる古道
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私市仁左衛門 旧宅地
四辻(旧磐船街道)から西へと歩くと左手に、私市仁左衛門の旧宅跡があり
、今は駐車場となっている。元禄2年(1689)2月に当地方を訪れた
当時六十才の貝原益軒が仁左衛門宅に一夜を借りた。
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貝原益軒は紀行文「南遊紀行」に当時の天野川の情景を次のように記している。
「獅子窟山より天野川を見下ろせばその川、東西に直に流れ、砂川に水少なく、その川原白く、ひろく、長くして、恰も(あたかも)天上の川の形の如し、さてこそ、この川を天野川とは、只天野川の流れの末ばかりを渡りて、古人の天野川と名付けし意を知らず。おおよそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天野川と名付けしこと、むべなり。 |
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『南遊紀行』は益軒六〇歳の春、元禄二年(一六八九)二月一〇日から二週間の旅日記で、この折には京都を出発して、河内・和泉・紀伊、高野山から吉野山、千早赤坂へと旅し、最終日に枚方から八幡宮に参詣して京都に帰っている。
三〇〇年前、益軒が見た北河内の風物を、この『南遊紀行』から改めてたどってみたい。
二月一〇日朝、京都東洞院の宿を出た益軒は、淀から八幡へ、洞が峠へと東高野街道を田口から郡津へと向っている。獅子窟寺と岩船をみるために私市への道をたどり、この日は私市農長二左衛門の家に泊っている。
紀行には「此辺は旅人の通路にあらざれば、村民いづれも行客をいぶかしみて、宿を借さずといへども、二左衛門情有て宿をかし、あつくあるじまうけす。かくいつくしみある主にあへるは、旅客の幸なり。」と感慨をこめて記している。人づてに交野市・私市にある二左衛門の旧屋敷を尋ねると、今は人知れずひっそりとした佇まいながらも、その立派なお屋敷には、三〇〇年前の面影が宿っていた。
翌一一日、益軒はまず東方山中の獅子窟寺に参詣している。獅子窟寺は聖武天皇勅願の寺と伝え、本尊薬師仏は国宝、鎌倉時代亀山院が病気平癒祈願をされており、最盛期を迎えたが、大阪の陣で全山焼亡の難にあっている。益軒が訪れた折には、本堂・庫裏・蔵があったようである。境内からの眺めはすばらしく、眼下に天野川、枚方丘陵から淀川、遠く大阪湾も眺められ、紀行の「最佳観也」の四文字で窺うことができる。また、「おおよそ、此山、大石奇岩多く、また糸桜多し。今日幸にして花盛也」の記述も見られる。
益軒は、その後磐船の渓谷を辿り田原へと向っている。
仁左衛門宅の説明(交野市私市・裏口方向より撮影)↓
「にらさん」の屋号で呼ばれ八幡の八幡宮とのかかわりが深い。
25代目当主は平成7年10月にこの地を離れた。
(北河内の歴史「貝原益軒の見た北河内」より参照) |
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私市橋付近で休憩後、ついしょ川を越えて、
藤が尾団地(富士ケ尾)を右に見ながら、妙見口に到着
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妙見口の石仏 |
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本日のウォークの到着点・妙見口の交差点に着く。
平田さんより、「昔の妙見口交差点付近の妙見川は天井川で、私市と星田を行き来する住民は、川を越すために上り下りしていたこと、また昭和の40年ごろまで通行に便利なように天井川の下がトンネルになっていた」ことなどをお聞きする。
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かってこの交差点に私市から星田へ抜けるトンネルがあったことを知る人は少ない。
昔、このあたりは星田の禿げ山から流れ出た沢山の土砂で一面妙見川原となり、流れる妙見川も大雨のたびに土砂で川底が埋まり、雨が止むと村人は総出で川底をさらえて、その土砂で両側の堤を一層高く、厚く盛り上げた。それを繰り返していると妙見川は高い堤の天井川となり、その下を通行に便利なようにトンネルが掘られた。トンネルの上にあった、地蔵さんは今は、妙見口の交差点の東南角に祀られている。
昭和41年の妙見川改修大工事でトンネルはなくなり、旧川の跡は道路と住宅になり、妙見川原からこのトンネル跡までの350mは桜並木が延長され、下流の藤が尾地区には、府営と供給公社の団地が建ち、現在は一大住宅街となっている。
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妙見口交差点(=左)とトンネルの上にあった、地蔵さんは、
今は妙見口の交差点の東南角に祀られている。
道行く人には、背を向けているため、案外と知られていない。
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午前11時30分、妙見口にて解散しました。
今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の平田さん有難う御座いました。
参加された皆さん、梅雨の晴れ間蒸し暑い中、お疲れ様でした!
次回は、9月13日(土)、山の根の道を妙見口から大谷南・東寝屋川駅まで歩きます。
集合は、午前9時、妙見口。
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