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交野歴史健康ウォーク  2008.9.13 第90回
=交野古道を歩く=

山の根の道を歩く その3
郡津から村野を経て東高野街道へ

  行程; 妙見口バス停→星田神社→円通院→鍛冶ヶ坂→大分け分岐点→星田大池→
布懸遺跡→高岡山北麓→強地の湧水→大坂道→大谷南大師堂→四辻→東寝屋川駅
                             徒歩 約 3.5Km

当日の歴史ウォーク行程MAP



大谷南大師堂にて記念撮影

 2008.9.13(土)午前9時、妙見口バス停に集合。天候、雨のち晴れ。
いつもの元気なメンバー総勢12名の参加で、妙見口から星田の村〜東寝屋川駅まで、山の根の道周辺の史跡を巡りながら元気に歩いてきました。

 現地集合の上、歴史ウォークを決行するかどうか決断するということで、8時過ぎ家を出かけましたが、雨脚がひどくなり、平田さん宅に立ち寄り一緒に妙見口の集合場所に出かけた。妙見口のコンビニ前には、会長と道本さんの顔が見えた。暫くすると、次から次へと10人近く集まり、取り敢えず星田駅まで歩くことが決まった。

 妙見口のコンビニ前で中会長の挨拶の後、案内役の平田さんから当日ウォークの日程などについて説明を受け、取り敢えず星田駅を目指して出発。星田神社を過ぎ、円通院が建っていた所を通る頃にはすっかり雨も上がった。当初の予定通り、鍛冶が坂、星田大池など巡って、傍示川を渡り、静かな住宅街を抜けると、一面長閑な田園風景が広がり、ぬかるんだ足もとに気をつけながら畦道を歩き、大谷南の大師堂に到着。

 星田の旧跡などをゆっくりと説明を受けながら歩き、11時頃東寝屋川の四辻にて打ち上げ、解散しました。 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の平田政信さん有難う御座いました。
 
次回は、10月11日(土)、山の根の道(その1)をJR津田駅から神宮寺まで歩きます。
 集合は、午前9時、JR津田駅。

出発地点の妙見口交差点
 かってこの交差点に私市から星田へ抜けるトンネルがあったことを知る人は少ない。天井川であった妙見川とトンネル風景(昭和30年代?)

 昔、このあたりは星田の禿げ山から流れ出た沢山の土砂で一面妙見川原となり、流れる妙見川も大雨のたびに土砂で川底が埋まり、雨が止むと村人は総出で川底をさらえて、その土砂で両側の堤を一層高く、厚く盛り上げた。それを繰り返していると妙見川は高い堤の天井川となり、その下を通行に便利なようにトンネルが掘られた。トンネルの上にあった、地蔵さんは今は、妙見口の交差点の東南角に祀られている。

 昭和41年の妙見川改修大工事でトンネルはなくなり、旧川の跡は道路と住宅になり、妙見川原からこのトンネル跡までの350mは桜並木が延長され、下流の藤が尾地区には、府営と供給公社の団地が建ち、現在は一大住宅街となっている。
妙見口交差点(=左)とトンネルの上にあった、地蔵さんは、
今は妙見口の交差点の東南角に祀られている。
道行く人には、背を向けているため、案外と知られていない。

妙見口のコンビニ前で、中会長、平田さんの挨拶

1万年前から通じていた山の根の道
足元の小さい川は上垣内川だそうでこんな小川にも名前が付いている!
数分歩くと、星田神社に到着


星田神社は星田字向井にあり、祭神は住吉四神。

星田の地車(だんじり)小屋(星田神社の前)
毎年、秋祭りは10月16日(宵宮)、17日(本宮)の夜には
東西の地車が星田神社で引き廻される。

星田神社の放生池 (大きな鯉が泳いでいた)


神社の正面石段に、くぼみ石が見られる
昔の子供が、蓬(よもぎ)や草を石でたたいて遊んだ名残り。
星田神社の古さを物語る貴重な遺物である。

途中で見かけた、煙り出しのある豪壮なお家
黒壁に波のような模様が描かれたいる
新しく見つかった道標「左 妙見道 すぐ大阪道」(星田9丁目2)付近

山の根の道 (星田9丁目2付近) 
右手からぐるりと西へ曲がり、中川通りへ出ます。
星田会館前の中川通りには、三つの水車が昭和10年頃まで回っていた。
また、この付近に鎌倉時代の円通院があり、小田原藩大久保領の制札場があった。
江戸時代後期の星田村大絵図に描かれており、位置が確認できた
中川通りの四つ角の道標
 星田2-7-26
すぐ星田妙見道  南燈明講 弘化2年乙巳8月(1845)

山の根の道

山の根の道

中川通り(中川)
この付近に水車が3台回っていた

中川通りの二尊仏
鍛冶ヶ坂へと歩く
大分け鍛冶ヶ坂を下ったところの大きな五辻
(星田大池から放出した用水をここで方面分けした所)
星田大池の西堤防下で、交野で珍しい「ザボン」を発見!

星田緑池(星田大池に隣接している)
星田大池
面積が3.9ヘクタールと交野市で一番大きい池である。
池の1/3が埋め立てられ交野3中の敷地になっている。
元の面積は6ヘクタールほどあった。星田大池は高岡と楯石・梶ヶ坂の丘陵に挟まれた広い谷地を高い堤防を築いて堰止めして造られた人工の池である。いつ頃築造されたかは不明であるが、古記録によると、元禄11年(1698)に堤防の改修を行っているので、相当古くから出来ていたことになる。

池の1/3が埋め立てられ交野3中の敷地になっている
池の向こうに、グランドと校舎が見える

星田大池改修工事 昭和46年竣工
大阪府営事業として、昭和44年から3カ年計画で大改修された

星田大池堤防からのパノラマ風景


布懸遺跡(のうかけいせき)
 昭和54年に旭小学校西隣の電電公社社宅建設予定地より
旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された
旧石器128点と石鏃1点が出土した。直径数メートルの範囲に、約10cmほどの
深さの中に、ナイフ形石器を作りだすまでの剥片、砕片などが集中していたことから
この場所が、ナイフ形石器の制作場所であった可能性が高い。
旧石器のほとんどはサヌカイトで、二上山からの搬入と考えられている。
傍示川を渡る


山の根の道MAP

 
 傍示川を渡り、静かな住宅街を抜けると、一面長閑な田園風景が広がり、ぬかるんだ足もとに気をつけながら畦道を歩き、大谷南の大師堂に到着。

星田妙見道の道標


星田妙見道の道標(山根街道)
「大坂道」、弘化2年乙巳6月 南燈明講 願主 何某
強地の湧水
強地(ごわじ)
石ノ本の南
、ちょうど阿曽谷と左ヶ谷に標高70〜80mぐらいの丘陵が出ている。
その間の谷と谷を出た台地状の土地を「強地」と呼んでいる。
 「強い(こわい)」というのは、固い、ごわごわするといった意味である。
水気の少ない固いめのご飯を「こわいご飯」と言い、赤飯のことを「おこわ」
「こわめし」というが、この「こわい」は、いずれも固いという意味である。
 「強地」は、粘土質で岩盤が上まで上がっている固い土質であったことから、
耕作するのに非常に骨の折れた土地、
苦労した土地という意味をこめて付けられた地名であろう。

最近、この上が開発された為か、湧水も枯れかかっている!
この上に、海成粘土層が見られる。
収獲近し、案山子が大活躍


東高野街道との合流地点に到着
大谷南大師堂

東高野街道と山根街道との合流点に、大谷南大師祠が祀られている

大師堂前で記念撮影

東高野街道が北(向こう)からこの場所で
合流して、南(左)へと通る
弘法井戸

打上地区の東高野街道沿いに「弘法観念水」がある。
ずっと昔からいかなる日照が続いてもこの井戸の水はかれたことがない
と言われてきたもので、弘法信仰に燃えての旅人、
それに商人・武士・村人など多くの人々がこの水に助けられました。


弘法井戸
 空海は、774 年に讃岐国(現在の香川県)に生まれました。2年間中国で真言密教(しんごんみっきょう)を学んだ後帰国し、紀伊国(現在の和歌山県)の高野山金剛峯寺を創建し、後に弘法大師と言われました。
 空海は水なき所に池を掘り、橋なき所に橋を架け、道なき所に道をつけ、食の貧しい者には食を得る方法を教え、病む者のためには良医となり、人々の苦しみを解決しようとしました。
 こうしたことから、弘法大師にまつわるお話は全国各地にあり、「弘法井戸」と呼ばれる井戸もいたる所に存在します。寝屋川市国松にある共同井戸、田井の共同井戸、平池の清水の井戸、郡の湯屋ケ谷の井、清水ロ井、高宮の大蛇井などが寝屋川市内にありますが、今はほとんどが枯れていたり、使えなくなっています。
四辻(東高野街道)
打上の道標
JR東寝屋川駅を上った東北方の四つ角に、この道標が立っている。
安政4年(1857)の造立で各面に文字が刻まれている。
  • 安政四 為父母 施主
  • 南 かうや のさき 大坂みち
  • 東 なら いせ ミチ
  • 北 京 八はた 柳谷 星田妙見

この碑の南北に続く道が東高野街道で昔の姿が偲ばれます。
 
 さらに四辻から南に50mほど行った先に、大峰山の石碑が立てられている。ここで、予定通り星田妙見口から東寝屋川まで、山の根の道(東高野街道)を歩きました。直ぐ左下が、JR東寝屋川駅です。
 皆さん雨の中、お疲れ様でした。
でも、10時頃には幸い雨も上がり、絶好のウォーク日和となりました。

次回は、10月11日(土)、山の根の道(その1)をJR津田駅から神宮寺まで歩きます。
 集合は、午前9時、JR津田駅。 
(5月10日が雨のため、順延したコースを歩きます)


最後までご覧いただき有難うございました!

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