交野歴史健康ウォーク 第134回

淀屋シリーズⅡ
「八幡史跡めぐり」

2013.11.09(土) 京阪・八幡市駅 午前9時30分集合

行程 : 石清水八幡宮一の鳥居→神應寺→杉山谷不動尊(ひきめの滝)→
航海記念塔→高良神社→安居橋→淀屋旧邸→相槌神社→泰勝寺→
善法律寺→正法寺→八角堂→中ノ山墓地→松花堂・昭乗広場解散

ご案内  八幡観光ガイド協会  中村正孝様・丹波紀美子様
     
 (午後2時30分頃解散) 徒歩約6km  25名参加


神應寺本堂前で記念撮影
 11月9日(土)交野歴史健康ウォークは天候にも恵まれ総勢25名で石清水八幡宮の一の鳥居から松花堂まで史跡探訪を楽しんで来ました。今回も八幡市駅の改札口を出たところでは、集合時間よりも30分も前から本日の案内をお願いしている、八幡観光ボランティアの中村さんたちが待ち構えておられた。 早速、参加者名簿を取り出し案内レジメを配布。早朝にもかかわらず続々と集合され出発の9時30分には、総勢25名が元気な顔を揃えられた。

 次いで八幡市駅前の八幡市観光案内所の前に集まり、先ず世話役の毛利さん(淀屋研究会代表)より本日の行程など挨拶のあと、八幡観光ボランティアの中村さんから本日の訪問先の概略などの説明を受けた後、最初の訪問先「石清水八幡宮の一の鳥居」に向けて元気に出発した。

 今回の企画は淀屋シリーズⅡ・石清水八幡宮周辺を探訪、特に「淀屋」にゆかりの深い「神應寺」では11月1日より開かれている「京都非公開文化財特別公開日」に当たり、普段見られない貴重な文化財の数々を学芸員さんの詳しい説明を聞きながら拝見できたことはラッキーだった。
 <神應寺の主な文化財>
   ◎鰐口(京都府有形文化財) ◎狩野山雪筆杉戸絵竹虎図(八幡市指定文化財)
   ◎狩野山雪筆瀑布図(八幡市指定文化財) ◎矜猲羅童子(こんがらどうじ)像(八幡市指定文化財)
   ◎制多伽童子(せいたかどうじ)像(八幡市指定文化財) ◎神應寺書状・太閤御朱印
   ◎文殊菩薩坐像(江戸時代) ◎行教律師像(国の重文) など
 その後、淀屋関連の神應寺本堂の扁額、淀屋の墓碑、ひきめの滝から淀屋辰五郎邸跡まで水を引き水の音を楽しんだという「砧の手水鉢」のことなど、八幡の神社・寺など数々の史跡を巡ることが出来ました。

  毛利さんには今回の歴史ウォークに先立ち、八幡市観光ボランティアの方々と連絡を取ってもらい、ガイドや案内資料などを事前に手配頂いたお陰で、当日はスムーズに開催できました。重ねて御礼申し上げます。
  また、当日頂いた「八幡史跡めぐり」のレジメの掲載を快諾下さり有難うございました。

 本稿を記載するにあたり、
「八幡散策」京都八幡市から発信するときめきページを参照させていただきました。
 記して感謝申し上げます。

淀屋シリーズⅡ 八幡史跡めぐりMAP



石清水八幡宮周辺イラストマップ(八幡市観光WEBより参照)


 当日の案内レジメ集
1.石清水八幡宮一の鳥居
鳥居は、石清水八幡宮の「山麓の顔」、神域と俗界の結界です。
室町将軍、足利義満は参詣の際、この一の鳥居前で牛車を降り本殿へ向かいました。
木造りによる鳥居の建立は度々おこなわれましたが、寛永13年(1619)に「寛永の三筆」のひとり「松花堂昭乗」の発案によって「石造り」に改められました。
鳥居の神額は古くは平安時代、一条天皇の勅によるもので書道の名人、藤原行成の筆でしたが、石造りに改められたときに松花堂昭乗が行成の筆跡をそのまま書き写しました。
惣銅版張りに金字で現されています。{八幡宮}の八の字は鳩の姿をかたどっています。


2.神應寺(じんのうじ)
今から1150年前の貞観二年(860年)八幡宮を勧請した行教律師が、応神天皇の霊を奉安して建立した寺で応神寺と言っていたが、後に天皇の号をはばかって「神応寺」と改めた。
はじめは法相宗・真言宗・天台宗等を学ぶ四衆兼学の道場であったが、室町時代に曹洞宗に改宗、以降は曹洞宗に属している。
文禄年間(1592~1596)、征韓ノ役にあたって秀吉は、石清水八幡宮に詣で軍の先鋒に八幡宮の神官を望んだが、神社側は恐れて命に服さなかった。秀吉は機嫌を損じたが、この時神応寺の住職の機転により、征韓のかどでにはまず応神天皇の御寺に参詣すべきことを進言したので秀吉は機嫌を直したと伝えられています。{当時の12世弓箴善彊(キュウシンゼンキョウ)住職は尾張中村の出身で秀吉とは同郷のよしみがあった}
そのかいもあって、秀吉から120石の朱印状を賜る。(禅宗5カ寺で500石)
堂内には本尊薬師如来および日光・月光菩薩、秀吉の衣冠束帯の像があり、さらに特異な風貌をあらわした行教律師坐像(重要文化財)が安置されています。この像は元は石清水八幡宮の開山堂にあったものを、廃仏毀釈のおり仏像ではないあかしに烏帽子を被らせこの寺にもたらされたと伝えられています。

〇当寺と淀屋との関係
① 本堂(大雄殿)
本堂玄関扁額「神応禅寺」元禄6年揮毫、淀屋4代目重当の寄進。
本堂正面の扁額「大雄殿」淀屋4代目重当の寄進。
② 墓碑
淀屋家の墓は、中央に2代目个庵、左西側に3代目箇斎、右側に五郎右衛門(个庵の弟で3代目の実父)の供養墓碑。
西側脇には5代目淀屋辰五郎(広当)の墓(1684年から1717年)
戒名は「潜竜軒咄哉个庵居士」
上記のことからも淀屋の援助が相当あったものと想像される。


3.杉山谷不動尊(厄除け不動尊)
不動尊の謂れは、平安時代にこの谷より出没する悪鬼を鎮めるために行教律師が弘法大師自刻の不動明王を安置したことに始まると伝えられています。
元は石清水八幡宮が管掌していたが、1750年の修理に際し神応寺が私費で再建したことから神応寺が管掌することになった。
堂宇は昭和9年室戸台風で崩壊、昭和48年に再建され現在に至っている。
① 本尊:大聖不動明王(秘仏)
 一刀三礼(いっとうさんらい)による弘法大師自刻と伝えられる。
ご開帳は60年に1回(直近は平成22年)
御利益:不動明王は、悪魔及び煩悩を断ち切り幸運と繁栄を招くとされています。

② ひきめの滝
石体の不動明王を滝の下に安置。行者・信者・病人等が神仏等に祈願して滝の霊水を浴びる行場。石清水八幡宮の安居(アンゴ)神事では頭役は祭事に入る前に「精進潔斎」するため、滝で身を清めることから始められる。
又、淀屋个庵(2代)は、このあたりから谷の水を引き放生川に筧を掛け淀屋邸の庭先まで引き込み、常にその水の音を聞き楽しんでいます。(男山考古録より)


4.航海記念塔(五輪大石塔)
国の重要文化財。高さ6.08m、幅2.44mは日本最大級で鎌倉後期の建立です。
五輪(地・水・火・風・空)は宇宙を構成する五大を現すという密教思想から来ています。
五輪塔の始まりは平安末期、高野聖の勧進により普及し以後、宗派を越えて広まりました。

建立の謂れ
① 尼崎の豪商が日宋貿易の帰途、嵐に遭遇したとき石清水八幡宮の方角に祈り「南無八幡大菩薩」と称えると波も静まり無事帰国できたそうです。それを感謝して建立されたもの。以降、航海者の安全を祈願するところとなりました。
② 石清水八幡宮の八幡神を宇佐から勧請した大安寺の僧、行教律師の墓。
③ 蒙古襲来の際、西大寺の僧、叡尊が八幡宮で祈祷を行いました。神風(台風)が吹いて
元軍は敗れ去りましたが、亡くなった彼らの供養の為に叡尊が建立。


5.高良神社(こうらじんじゃ)
高良神社は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祭る石清水八幡宮の摂社です。
行教律師が貞観2年(860)6月15日に社殿を建立したと伝えられ、吉田兼好の「徒然草」52段にもその名がみえます。往時は頓宮、極楽寺とともに荘厳を極めていましたが、明治初年の戊辰戦争で焼失しました。現社殿は明治17年(1884)にいったん頓宮殿裏手に再建されましたが同39年(1906)に現在地に移されました。
一間社入母屋造りの檜皮葺です。
* ご神木のタブノキは樹齢700年で、延命長寿の木として古来、尊ばれています。


5.相槌神社(あいづちじんじゃ)
平安時代、源満仲公が筑紫国三笠郡土山の刀工を呼び寄せ「武将にも朝廷にも代々受け継がれる立派な刀を二振り打って欲しいと要望」しかし、なかなか満仲の願いにかなうような刀が打てませんでした。そこで刀工は石清水八幡宮に籠り一身に祈ったところ「汝の申すことよく分かった。良い鉄を使って打つがよい。最上の剣を二つ与える。」との託宣を頂いた。
その刀工は、良質の鉄を持ってきて山の井の水を使って昼夜を問わず懸命に刀を打っているとどこからともなく相槌を打ってくれる音がして、ふと吾に返ると神様が一緒に刀を打ってくれていました。刀工は霊験の厳かさに神様をこの場所に祀り相槌神社としました。
源満仲公もたいそう喜び罪人を使って試したところ、罪人の髭まで切れたことから髭切、もう一本は罪人の膝まで切れたところから膝丸と命名されました。


7.泰勝寺(たいしょうじ)
大正7年円福寺の住職で妙心寺の管長もされた神月徹宗老師が発願され、「松花堂保存会」を結成、当寺を建立されました。
また、熊本の細川候菩提寺、泰勝寺の寺号を移転して滝本坊を改め泰勝寺としました。
現在、臨済宗妙心寺派。
本寺は松花堂昭乗を祀る寺としられていますが、その昭乗は石清水八幡宮の社僧で、滝本坊の住職で、のちに「寛永の三筆」と呼ばれた能書家で、書・画・歌・茶の湯など、巾広い分野に優れた才能を発揮し、素晴らしい業績を残された人物です。
実乗、昭乗、乗円をまつる墓碑(乗円は、淀屋3代目箇斎の叔父さん)
茶席:「閑雲軒」小堀遠州好みを再現


8.善法律寺(ぜんぽうりつじ)(通称:紅葉寺)
 当寺は奈良唐招提寺の律宗寺院であります。鎌倉時代正嘉年間(1257年から1259年)に石清水八幡宮の27代検校善法寺宮清が自邸を僧坊として喜捨し、奈良東大寺より実相上人を招いて開山した。
1334年(建武元年)、後醍醐後天皇が鎌倉幕府を倒した諸将を引き連れ、石清水八幡宮に行幸、この善法律寺で紅葉を愛でながら酒宴を催したと伝えられています。

また、善法寺家は足利氏とゆかりがあり、特に宮清の孫である通清の娘・良子が、二代将軍足利義詮に嫁いで、3代将軍足利義満を生んだ。そのため、義満・義教・義政等歴代将軍が何度も参詣している。
母良子は、善法寺の菩提寺である当寺へ多くの紅葉を寄進し今も数十本の紅葉が茂っています。春は萌える新緑、秋は深紅の紅葉が美しく、当寺は「紅葉寺」と称されるようになった。
又、良子の妹紀仲子は後光巌天皇の皇后になられており当時隆盛が伺われます。

本堂は五間四方の建物で、本瓦葺入母屋造り、石清水八幡宮の旧社殿(鎌倉中期頃)の用材を用いたと伝えられています。寛永十六年(1639年)頃の移築とみられ、神仏習合の数少ない貴重な建造物である。奥殿は阿弥陀堂となっています。
本堂の本尊は八幡大菩薩像(平安時代作)もとは石清水八幡宮の本殿にあったが、明治の神仏分離の際、この寺に祀られた。左手に宝珠を捧げ、右手に錫杖をもち、本来は地蔵菩薩像であったと思われます。(市指定文化財)
慰霊塔は、昭和9年9月21日近畿地方を襲い死者不明者3000名を出した室戸台風で八幡小学校の校舎が倒壊し其の時に亡くなられた校長・教師及び生徒33人を弔うために建てられたものです。


9.徳迎山 正法寺(しょうぼうじ)
 鎌倉時代の1191年に鎌倉幕府の御家人高田蔵人忠国が天台宗の寺として創建。
室町時代後期に浄土宗に改宗、後奈良天皇の帰依を受け勅願寺となりました。
江戸時代に志水宗清の娘お亀(相応院)が徳川家康の側室となり、後の尾張藩祖・義直の母となります。その後本寺は相応院の菩提寺となり近世を通して尾張藩の厚い庇護を受けてきました。
① 本堂・大方丈・唐門  重要文化財
 寛永7年(1630年)相応院の寄付により建立
② 阿弥陀如来坐像(法雲殿内) 重要文化財
 元八角堂のご本尊で中品中生の説法印を結ぶ丈六の阿弥陀如来です。
鎌倉時代の製作。製作者は未確定ですが京都国立博物館研究員の見解では「快慶」ではないかと言われていますが未確定。ヒノキの寄木造、彫眼、像高283cm。
③ その他重要文化財(京都国立博物館に寄託) 元三大師坐像
 元三大師とは比叡山中興の祖と知られる慈恵大師良源のことで正月3日に亡くなったことから元三大師と呼ばれています。


10.八角堂(はっかくどう)
御堂は市内最大の前方後円墳である西車塚古墳の円頂部に建っている。
元は石清水八幡宮の西谷にありましたが、明治の神仏分離の際に現在地に移されました
堂舎は順徳天皇の願いにより八幡宮検校善法寺祐清が建保年間に建立(1212年乃至1213年頃、開眼供養導師は解脱房貞慶)したもので後に大破。慶長12年(1607)豊臣秀頼の御願によって、尾張国小出吉政が再建した。
現在、正法寺の法雲殿にある丈六の阿弥陀如来は元はこちらに鎮座されていました。
敷地は、平成24年1月に国の史跡に指定されています。


11.中ノ山墓地
万称寺(1654年開創、正法寺の末寺で常念仏回向で近在から多数の信者が集まっていた。)の西側に開かれた墓地で、19世紀前半に現在の景観が形成された市内最大の共同墓地である。
墓地は、龕前堂(ガンゼンドウ、阿弥陀仏を祀る)を中心に北に十三仏・南に25菩薩の石仏を配し来迎の場面を立体的に表現されている。

① 正平塚
当初、大正末期に西村芳次郎により塚が整備され、昭和19年に今中伊兵衛が現在のように再整備した。八幡宮を拠点としていた南朝方は北朝の圧倒的な大軍を前に窮地に陥っていたが、四条隆資は後村上天皇の退却を助ける為、自ら少数の兵を率い天皇が吉野へ落ちのびるのを助けた忠臣で当時の世相を反映した塚となっています。

② 吾妻与五郎墓
「男山考古録」では上臈墓は「俚俗吾妻墳ともいう」とあります。文楽や歌舞伎で演じられる「引窓」の主人公傾城吾妻のことをさすとおもわれます。
「八幡史蹟名勝誌」には「淀屋辰五郎の変名なり、近世まで夫婦二基ありし」とある。
宝永2年豪奢な生活を咎められ闕所処分を受けた淀屋辰五郎が遊里で執心した傾城吾妻を身請けし、共に隠棲した。それが引き窓の主人公吾妻と与五郎であるという西村芳次郎の考えによって墓碑が立てられている。(竹中友里代:中ノ山墓地の景観と庶民信仰より)



12.松花堂庭園
明治中頃から昭和の中頃にかけて井上忠継、西村芳次郎親子が旧泉坊書院及び草庵茶室「松花堂」を中心に保存整備をおこなってきたが、昭和52年八幡市が市制施行を記念し購入しその年の11月市制施行と同時に公開。
① 淀屋ゆかりの「砧(きぬた)の手水鉢」
淀屋家の別邸にあった手水鉢で、不動谷から筧を使って水を流し、この手水鉢の横より水を通して噴水を楽しんだとのことですが、この水の流れる音がどんどんと響き、また手水鉢に入れた玉石が噴き上がる水で動いてコトコト音がし、洗濯物を打つ砧の音に似ていることから砧の手水鉢と呼ばれました。
江戸時代初期の豪商

淀屋の業績

【大坂三大市場関係】
  ①正しい相場のための米市設立と運営
    (全国の米相場をたて、大坂を天下の台所といわれるまでに)
  ②青物市の設立と運営
   (途絶えていた市を自宅用地内に設立し、農産物の需給に寄与) 
  ③靭海産物市場の設立と運営
   (自己の開発した浜に干物・塩魚・鰹節などの市を設立し町民の生活に寄与)

【土木建設関係】
  ④淀川の大改修
   (太閤堤や文禄堤の改修と身代を投げ打っての再改修)
  ⑤中之島の開拓と淀屋橋の架橋
   (荒れ地の開発で、江戸時代は蔵屋敷、現在はビジネスの中心地に)
  ⑥葭島・南堀川の開発
   (未開拓の地を開発し、商業地域として活用)

【社会貢献】
  ⑦行政への参画と地域への貢献
   (市民自治の大坂で、総年寄・年寄として、また船場の代表格として)
  ⑧神社仏閣への多大な寄進
   (神仏への信仰心から、歴代にわたり神社寺院に膨大な寄進を)

【海運・貿易・金融】
 ⑨北方交易の先鞭
    (北風彦太郎と加賀米の回漕から北前航路の先鞭をつける)
 ⑩糸割符の導入
    (認められていなかった生糸の輸入権を大坂にもたらせた)
 ⑪困窮大名に融資
    (幕府の施策により困窮した各藩に他の商人のしない条件での融資を)
 
 
 
淀屋シリーズⅡ 「八幡史跡めぐり」  (PDF) 
 淀屋の関連資料 (PDF)

  八幡市駅前

毛利さんより開会の挨拶
 
中村さんから散策行程など概略説明がありました

石清水八幡宮 
 石清水八幡宮境内が平成24年1月24日、国の史跡として指定された。
   詳細は、八幡市のホームページを参照してください。

  <概要>

石清水八幡宮境内は、八幡神を祭神として平安時代に創建された、我が国を代表する神社境内であり、淀川左岸の標高約120メートルの男山丘陵に立地する。

 その創始は、貞観元年(859年)、僧行教が宇佐八幡宮で受けた神託に従い、山城国男山山頂に八幡大菩薩を勧請したものとされる。

 天慶2年(939年)には伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得、天下第二の宗廟と称された。天皇・上皇の一代一度の参詣も慣行となり、藤原氏の参詣も相次ぐなど、朝廷・貴族の厚い崇敬を受けた。
 また、武家の棟梁として台頭してきた源氏に厚く信仰され、鎌倉・鶴岡八幡宮を代表として八幡神は各地に勧請されその信仰が広まった。
 創始当初から廃仏毀釈まで神仏習合の宮寺の形態をとり、境内には寺院施設、社僧の坊が多数設けられていた。

 八幡市教育委員会による発掘調査によって、護国寺跡や坊舎跡などの遺構が良好に残っていることが確認されている。
 古代以来の神社境内の趣きを今に伝えるとともに、神仏習合の宮寺として坊舎跡などの遺構も良好に残り、我が国の宗教史を理解する上で重要である。 
 
石清水八幡宮

 男山山頂にある石清水八幡宮は、応神天皇、神功皇后、ヒメ大神(八幡三所大神という)をまつる旧官幣大社である。八幡宮の遷座以前は、男山山中から湧き出ずる清泉を神としてまつっていたと伝えられている。

 貞観元年(859)、奈良大安寺の僧、行教(俗称紀氏)が、九州・豊前国(今の大分県)の宇佐八幡の神託をうけ、八幡神をこの地に勧請。時の清和天皇の命を承け、木工寮権允橘良基が宇佐宮に准じて、本殿三宇、礼殿三宇からなる神殿六宇の造営に着手し、翌貞観2年(860)4月3日に「石清水八幡宮」は完成した。以来、朝廷の崇敬を得て、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と崇められ、源氏もまた八幡神を氏神として仰いだため、八幡信仰は全国に流布した。

 特に源義家は、7歳になった寛徳2年(1045)の春、石清水八幡宮に於いて元服。以降、「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名である。

 さて、仏教が盛んであったころ、石清水八幡宮は僧侶によって管理され、その神宮寺は雄徳山護国寺といい、男山に48の堂舎僧坊が甍を並べた。江戸時代末期にあっても23坊を数えた。本殿に通じる参道の両側に並ぶ石灯篭は、往時の旺盛を偲ばせる。

 現在の社殿は、寛永8年(1631)から寛永11年(1634)にかけて三代将軍徳川家光の造営によるもので、楼門、舞殿、幣殿、外殿、本殿、廻廊からなっており、すべて重要文化財に指定されている。楼門は、入母屋造り、桧皮葺で、左右に廻廊を出して外囲いを作り、前方に唐破風の向拝(ごはい)をつけた珍しい建築である。

 石清水八幡宮 一の鳥居
 
鳥居は、石清水八幡宮の「山麓の顔」、神域と俗界の結界です。
室町将軍、足利義満は参詣の際、この一の鳥居前で牛車を降り本殿へ向かいました。
木造りによる鳥居の建立は度々おこなわれましたが、寛永13年(1619)に「寛永の三筆」のひとり「松花堂昭乗」の発案によって「石造り」に改められました。
鳥居の神額は古くは平安時代、一条天皇の勅によるもので書道の名人、藤原行成の筆でしたが、石造りに改められたときに松花堂昭乗が行成の筆跡をそのまま書き写しました。
惣銅版張りに金字で現されています。{八幡宮}の八の字は鳩の姿をかたどっています。 
 
 石清水八幡宮一の鳥居、右の谷川沿いにいくと、右手に神應寺の山門が見えてくる。

絲杉山(ししんざん) 神應寺(じんのうじ)

神應寺公式ホームページを参照ください!
 今から1150年前の貞観二年(860年)八幡宮を勧請した行教律師が、応神天皇の霊を奉安して建立した寺で応神寺と言っていたが、後に天皇の号をはばかって「神応寺」と改めた。
 はじめは法相宗・真言宗・天台宗等を学ぶ四衆兼学の道場であったが、室町時代に曹洞宗に改宗、以降は曹洞宗に属している。

 文禄年間(1592~1596)、征韓ノ役にあたって秀吉は、石清水八幡宮に詣で軍の先鋒に八幡宮の神官を望んだが、神社側は恐れて命に服さなかった。秀吉は機嫌を損じたが、この時神応寺の住職の機転により、征韓のかどでにはまず応神天皇の御寺に参詣すべきことを進言したので秀吉は機嫌を直したと伝えられています。{当時の12世弓箴善彊(キュウシンゼンキョウ)住職は尾張中村の出身で秀吉とは同郷のよしみがあった}
 そのかいもあって、秀吉から120石の朱印状を賜る。(禅宗5カ寺で500石)

 堂内には本尊薬師如来および日光・月光菩薩、秀吉の衣冠束帯の像があり、さらに特異な風貌をあらわした行教律師坐像(重要文化財)が安置されています。この像は元は石清水八幡宮の開山堂にあったものを、廃仏毀釈のおり仏像ではないあかしに烏帽子を被らせこの寺にもたらされたと伝えられています。

〇当寺と淀屋との関係
① 本堂(大雄殿)
 本堂玄関扁額「神応禅寺」元禄6年揮毫、淀屋4代目重当の寄進。
 本堂正面の扁額「大雄殿」淀屋4代目重当の寄進。
② 墓碑
 淀屋家の墓は、中央に2代目个庵、左西側に3代目箇斎、右側に五郎右衛門(个庵の弟で3代目の実父)の供養墓碑。
 西側脇には5代目淀屋辰五郎(広当)の墓(1684年から1717年)、戒名は「潜竜軒咄哉个庵居士」
上記のことからも淀屋の援助が相当あったものと想像される。
 

鐘楼

本堂正面の扁額「大雄殿」淀屋4代目重当の寄進

行教律師座像(ぎょうきょうりつしざぞう)
 (平安時代、重要文化財) 
 平成25年度 第49回  京都非公開文化財特別公開 拝観の手引きより参照
 像高は約77センチ。木造一木造、彫眼、剃髪、法衣を着し、左足を結跏趺坐する僧形像である。もとは岩清水八幡宮の開山堂に安置されていたが、明治の神仏分離令による「廃仏毀釈」のあおりを受けて、明治6年、行教律師が開山した神應寺の安置されることになった。頭部に烏帽子を釘づけし、僧侶の像ではないとして、その難を逃れたとも伝わる。
 像は量感のある豊かな体躯、神秘的で独特の表情で、行教律師没後まもなく作られた肖像として、その人柄を良く表現していると言われる。また、衣のひだや渦巻文様に9世紀の彫刻の特徴をよく示している。
 

行教律師座像(平安時代、重要文化財)
 

普賢菩薩像掛軸

 神應寺境内の墓地
  境内には、江戸時代に活躍した大阪の豪商・淀屋辰五郎をはじめ江戸城大奥の総取締役・右衛門佐(えもんのすけ)、淀城主・永井家一族、模型飛行機の元祖・二宮忠八翁の墓などがある。更に細密写実主義を貫き、円山派から脱皮して独自の画風を開いた長澤廬雪(ながさわろせつ)の墓もある。
 

開山行教大和尚の墓

長澤廬雪(ながさわろせつ)の墓

模型飛行機の元祖・二宮忠八翁の墓
 淀屋の墓碑
 淀屋家の墓は、中央に2代目个庵、左西側に3代目箇斎、右側に五郎右衛門(个庵の弟で3代目の実父)の供養墓碑。
西側脇には5代目淀屋辰五郎(広当)の墓(1684年から1717年)、戒名は「潜竜軒咄哉个庵居士」

  「潜龍軒咄(せんりゅうけんとつ)哉(さい)个(こ)庵(あん)居士(こじ)」と読む。
 
 
 淀屋辰五郎(よどやたつごろう)
   貞享元年(1684)?~享保2年(1717)12月21日

●闕所と辰五郎

 5代目淀屋三郎右衛門(廣當、通称辰五郎)が莫大な淀屋の家督を引き継いだのは元禄15年(1702年)のことでした。時に辰五郎14歳。(17歳という説もある)
 その3年後の宝永2年(1705年)、淀屋は闕所(けっしょ)となります。つまり、財産をすべて没収され、大坂から所払いとなってしまうのです。その理由が「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」というものでした。たしかに、辰五郎はわずか1年半の内に1万貫(現在の価値にすると約100億円)にものぼる遊興費を使うなど、目に余るものがありましたが、それだけの理由で天下の豪商を取りつぶすのは、あまりにも横暴極まりない処罰だったといえます。


●闕所の本当の理由

 闕所となった本当の理由は明らかになっていませんが、上方以西の大名で淀屋から借金をしていない者はないと言われるぐらい、4代目重當の時代から大名貸しが盛んに行われていました。その総額は20億両ともいわれており、現在の価値に換算すると120兆円にものぼるものでした。そして、その債権によって諸大名が淀屋に対し抜き足ならない状況に追い込まれていました。
 そこで幕府は、諸大名の窮迫状況を救うため、倹約令違反という口実のもとに淀屋を取りつぶしたものと考えられています。

 ●辰五郎、八幡の地に眠る

 淀屋辰五郎は、八幡に帰ってきてから1年後の享保2年12月21日、30歳(35歳の説もあり)の若さでこの世を去り、石清水八幡宮を勧請した行教建立の神應寺墓所に眠っています。桂川、宇治川、木津川の三大河川が一望できるここには4つの石碑があり、そのうち3つは2代目の淀屋个庵(言當)、3代目箇斎、3代目の父にあたる五郎右衛門(二代目言當の弟)。しかし、この3人のお墓は大阪の大仙寺にありますので、ここにある3つの石碑は墓石ではありません。

淀屋家の墓は、中央に2代目个庵、左西側に3代目箇斎、
右側に五郎右衛門(个庵の弟で3代目の実父)の供養墓碑。

西側脇には5代目淀屋辰五郎(広当)の墓(1684年から1717年)
戒名は「潜竜軒咄哉个庵居士」

 「潜龍軒咄(せんりゅうけんとつ)哉(さい)个(こ)庵(あん)居士(こじ)」と読む。
 ●辰五郎、戒名の謎

 3つの石碑の左手に、ひときわ小さい墓石があります。これが辰五郎のお墓です。先代の石碑と比べてもかなり小さく、豪商の面影を見ることはできません。これは、闕所となった自分を先祖に詫びているのでしょうか。また、この墓石に刻まれた辰五郎の戒名の「潜龍軒咄哉个庵居士」。「龍」は辰五郎の「辰」と自身のことと解すれば、次のような意味を持つのではないでしょうか。

「闕所という理不尽な処分を受け、この身は雨宿りをするが如く、今は軒の下に潜めてはいるが、いずれ世に打って出てやるぞ」と。
 
 
神應寺の縁側からの素晴らしい眺望
 
神應寺の縁側からの素晴らしい眺望
 
神應寺の縁側からの素晴らしい眺望神應寺の縁側からの素晴らしい眺望
 
淀屋の墓碑付近からの風景

京阪男山ケーブルの下を歩いて、杉山谷不動尊へと向かう

橋脚の高さは50mだそうです

杉山谷不動尊(厄除け不動尊)
 不動尊の謂れは、平安時代にこの谷より出没する悪鬼を鎮めるために行教律師が弘法大師自刻の不動明王を安置したことに始まると伝えられています。
 元は石清水八幡宮が管掌していたが、1750年の修理に際し神応寺が私費で再建したことから神応寺が管掌することになった。
堂宇は昭和9年室戸台風で崩壊、昭和48年に再建され現在に至っている。

本尊:大聖不動明王(秘仏)
 一刀三礼(いっとうさんらい)による弘法大師自刻と伝えられる。
 ご開帳は60年に1回(直近は平成22年)
 御利益:不動明王は、悪魔及び煩悩を断ち切り幸運と繁栄を招くとされています。
 深く切れ込んだ谷の一隅に建てられた堂は、昭和9年室戸台風による山津波で本堂と観音堂が倒壊・流出した。以来、不動明王は仮堂に安置されていたままであったが、昭和48年7月、今の堂舎に再建された。

 その本堂には、悪魔降伏のために憤怒の形相をした不動明王が座し、両脇には善悪を掌るコンガラ、制多迦(せいたか) の2童子が控えている。不動堂の横を流れる谷川には、霊泉瀧(ひきめの瀧ともいう)があり、静寂のなかに清らかな水音を聞くことができる。


ひきめの滝
 ひきめの滝
 石体の不動明王を滝の下に安置。行者・信者・病人等が神仏等に祈願して滝の霊水を浴びる行場。石清水八幡宮の安居(アンゴ)神事では頭役は祭事に入る前に「精進潔斎」するため、滝で身を清めることから始められる。

 又、淀屋个庵(2代)は、このあたりから谷の水を引き放生川に筧を掛け淀屋邸の庭先まで引き込み、常にその水の音を聞き楽しんでいます。(男山考古録より)

航海記念塔(五輪大石塔)
国の重要文化財。高さ6.08m、幅2.44mは日本最大級で鎌倉後期の建立です。
五輪(地・水・火・風・空)は宇宙を構成する五大を現すという密教思想から来ています。
五輪塔の始まりは平安末期、高野聖の勧進により普及し以後、宗派を越えて広まりました。


建立の謂れ
① 尼崎の豪商が日宋貿易の帰途、嵐に遭遇したとき石清水八幡宮の方角に祈り「南無八幡大菩薩」と称えると波も静まり無事帰国できたそうです。それを感謝して建立されたもの。以降、航海者の安全を祈願するところとなりました。
② 石清水八幡宮の八幡神を宇佐から勧請した大安寺の僧、行教律師の墓。
③ 蒙古襲来の際、西大寺の僧、叡尊が八幡宮で祈祷を行いました。神風(台風)が吹いて元軍は敗れ去りましたが、亡くなった彼らの供養の為に叡尊が建立。 

大きさが実感できます!
 この五輪石塔の巨石を積み上げる際、石工が金テコを使ったところ、
石の間から火が噴き出した。そこで八幡の竹を使って無事完成したという。
 

高良神社
 高良神社は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祭る石清水八幡宮の摂社です。
行教律師が貞観2年(860)6月15日に社殿を建立したと伝えられ、吉田兼好の「徒然草」52段にもその名がみえます。往時は頓宮、極楽寺とともに荘厳を極めていましたが、明治初年の戊辰戦争で焼失しました。現社殿は明治17年(1884)にいったん頓宮殿裏手に再建されましたが同39年(1906)に現在地に移されました。
一間社入母屋造りの檜皮葺です。

ご神木のタブノキは樹齢700年で、延命長寿の木として古来、尊ばれています。
 
 石清水八幡宮の麓の頓宮横にあり、貞観2年(860)行教律師が建立した神殿の跡に鎮座している。もとは、河原(カワラ)社と称し、馬場先本道を挟んでその前方を流れる放生川の側にあった。貞観3年(861)に行教によって建立された古い神社である。同社は慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いによって消失してしまったが、明治15年(1882)に再建され、現在にいたっている。

 高良神社の有名な逸話として、元徳3年(1331)、兼好法師が著した「徒然草」に見ることができる。

 
「ある日、仁和寺の和尚が石清水八幡宮を詣でようと訪れ、極楽寺、高良神社を詣でた。参詣を済ませ、さて帰ろうとしたとき、人々は山頂をめざして階段を登っていく。何だろうと思ったが、私は今回の旅の目的である石清水八幡宮に参詣を済ませたのだからと帰ってしまった。後で石清水八幡宮が山頂にあることを知って、どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した」というものだ。


ご神木のタブノキは樹齢700年で、延命長寿の木として古来、尊ばれています。

安居橋(あんごばし)
 安居橋は、大谷川が放生川と名を変える八幡平谷の買屋橋から京阪電車踏切手前の全昌寺橋までの200mの間のほぼ中ほどに架かる反り橋をいう。その姿は、川面や男山の緑に映えて美しく、八幡八景の一つに数えられ、古くは歌人柏村直絛は、次のような和歌を詠んでいる。

    「神わさにつかふる雲の上人も月をやめつる秋の川はし」

木造の安居橋は、欄干に12の葱宝珠がついている。橋の北側中央の張り出した舞台のようなものは、その昔、放生会がこの川で行われていたときの様子を再現しようと、1975年(昭和50年)9月の架け替えときに作られたものである。

 江戸時代の放生川には、今より多くの橋が架けられており、川上から五位橋、安居橋、六位橋、高橋という順に架かっていたと記録に残っている。安居橋の名の由来は、川上に1457年(康正3年)に架けられた五位橋の後に架けられたことから、相五位橋といわれ、これが変化して安居橋になったのではないかとー「男山考古録」は記している。そして今、これらの橋のうち、名前が残っているのは、安居橋のみとなっている。

 また、反り橋の形状をもっていたのは、川下50mに架けられていた高橋であり、安居橋は平らな橋であった。安居橋が今日のような反り橋になったのは、いつの頃か定かでない。 安居橋は、上津屋の流れ橋とともに、八幡市の名物橋となっている。

 

 淀屋辰五郎邸跡
 闕所、所払いとなった淀屋辰五郎は宝永6年(1709年)、大阪の地を離れ、江戸に潜行します。そして6年後の正徳5年(1715年)、日光東照宮100年祭の恩赦で初代淀屋常安が徳川家康から拝領した八幡の山林300石が淀屋に返還されます。そしてその翌年の享保元年(1716年)に辰五郎は八幡に帰ってきて男山のすそ野に近い八幡柴座の地に住まいを構えました。淀屋辰五郎旧邸跡の碑が建っている所には、辰五郎が住まいしていた当時の門だけが残っています。
 淀屋辰五郎(よどやたつごろう)
貞享元年(1684)?~享保2年(1717)12月21日

●闕所と辰五郎

 5代目淀屋三郎右衛門(廣當、通称辰五郎)が莫大な淀屋の家督を引き継いだのは元禄15年(1702年)のことでした。時に辰五郎14歳。(17歳という説もある)
その3年後の宝永2年(1705年)、淀屋は闕所(けっしょ)となります。つまり、財産をすべて没収され、大坂から所払いとなってしまうのです。その理由が「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」というものでした。たしかに、辰五郎はわずか1年半の内に1万貫(現在の価値にすると約100億円)にものぼる遊興費を使うなど、目に余るものがありましたが、それだけの理由で天下の豪商を取りつぶすのは、あまりにも横暴極まりない処罰だったといえます。

●闕所の本当の理由

闕所となった本当の理由は明らかになっていませんが、上方以西の大名で淀屋から借金をしていない者はないと言われるぐらい、4代目重當の時代から大名貸しが盛んに行われていました。その総額は20億両ともいわれており、現在の価値に換算すると120兆円にものぼるものでした。そして、その債権によって諸大名が淀屋に対し抜き足ならない状況に追い込まれていました。
そこで幕府は、諸大名の窮迫状況を救うため、倹約令違反という口実のもとに淀屋を取りつぶしたものと考えられています。

 「砧の手水鉢」(きぬたの手水鉢)

辰五郎は邸宅に杉山谷不動尊に近い「ひきめの滝」あたりから竹の樋を使って邸に水を引き、楽しんだという「砧の手水鉢」が松花堂庭園内の書院前に今も残っていて、栄華を極めた淀屋の夢にふれることができます。

 

 東高野街道石碑
やわたの道しるべ
八幡橋・宇治街道・奈良街道の石碑(高さ210m)

 昭和3年三宅安兵衛依遺志建之
    「京都三宅安兵衛遺志碑」
 大正末年から昭和初年(1921~1930年)にかけて、京都市中京区在住の西陣帯地卸商、三宅清治郎が、京都府南部を中心に建設した石碑群の呼称です。この事業は父安兵衛の遺命にもとづいて行われ、ほとんどの石碑の裏面に「京都三宅安兵衛依遺志建之」(京都三宅安兵衛の遺志により、これを建つ)といった記載があるため、このように呼ばれています。
 八幡市内には、道標70基近く、その他旧蹟碑を含めると、120基余り建立されている。
      (郷土史双書・やわたの道しるべを参照)
 
 

相槌神社(あいづちじんじゃ)
 平安時代、源満仲公が筑紫国三笠郡土山の刀工を呼び寄せ「武将にも朝廷にも代々受け継がれる立派な刀を二振り打って欲しいと要望」しかし、なかなか満仲の願いにかなうような刀が打てませんでした。そこで刀工は石清水八幡宮に籠り一身に祈ったところ「汝の申すことよく分かった。良い鉄を使って打つがよい。最上の剣を二つ与える。」との託宣を頂いた。

 その刀工は、良質の鉄を持ってきて山の井の水を使って昼夜を問わず懸命に刀を打っているとどこからともなく相槌を打ってくれる音がして、ふと吾に返ると神様が一緒に刀を打ってくれていました。刀工は霊験の厳かさに神様をこの場所に祀り相槌神社としました。
 源満仲公もたいそう喜び罪人を使って試したところ、罪人の髭まで切れたことから髭切、もう一本は罪人の膝まで切れたところから膝丸と命名されました。
 下馬碑北にあるこの井戸の前に「山ノ井戸」の碑が立っています。井戸は、「寛保3年注進記」によると、元禄9年(1696)9月幕府御金銀改役の後藤庄三郎長春が石井筒を組み「藤木井筒」と銘が入れられました。

 その後、寛保3年(1743)には刀工小鍛冶宗近が焼刃の水に用いたといいます。八幡五水のひとつといわれる山ノ井は、『山城名勝誌』に「山井今荘園町南」とあって、場所も定かではありませんが、『男山考古録』の作者は、この藤木井を山井としています。他に高良神社前に「藤井」、一の鳥居内に、「筒井」があり、山上供御所の水に供せられたといいます。「竹の下の井」と「桜井」は山腹にあったといいますが不詳です。

泰勝寺(たいしょうじ)
 大正7年円福寺の住職で妙心寺の管長もされた神月徹宗老師が発願され、「松花堂保存会」を結成、当寺を建立されました。
また、熊本の細川候菩提寺、泰勝寺の寺号を移転して滝本坊を改め泰勝寺としました。
現在、臨済宗妙心寺派。

 本寺は松花堂昭乗を祀る寺としられていますが、その昭乗は石清水八幡宮の社僧で、滝本坊の住職で、のちに「寛永の三筆」と呼ばれた能書家で、書・画・歌・茶の湯など、巾広い分野に優れた才能を発揮し、素晴らしい業績を残された人物です。

滝本坊住職:実乗、昭乗、乗円をまつる墓碑(乗円は、淀屋3代目箇斎の叔父さん)
茶席:「閑雲軒」小堀遠州好みを再現

久遠山  本妙寺
 手前の石碑には「日門上人墓所本妙寺」と書かれています。日門上人が開基した法華宗のお寺で、山号は久遠山です。

 日門上人はもともと真言宗の僧侶だったようですが、日蓮宗に改宗し、盛んに布教活動をしていたようです。この布教活動がのちの「安土宗論」に発展する一因となったということです。

 安土宗論とは、天正7年(1579年)、安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論で、織田信長の命によりひらかれました。宗論の内容は難しくてよくわかりませんが、結論は法華宗の負けでした。外で待機していた日門上人はその場で捕えられ切られたそうです。

 平成8年(1996年)、不審火で本堂が焼失しましたが、平成12年(2000年)に本堂が再興されました。

 もう一つの石碑には、「正平役城之内古跡」と書かれています。「正平役」とは、南北朝の戦いのうち、正平7年(1352年)、八幡を主戦場とした争いです。


 頼風塚 五輪塔
 金剛律寺前南頬は、小野上町(尾上町)と呼ばれ、「八幡名所記」と題する古本には、小野家町といい、町家の裏にある頼風塚の由来に関する小野頼風の名と関連させています。頼風塚は、金剛寺門前、南西側の町家の裏にあります。

 「拾遺都名所図会」には「頼風塔」として「八幡金剛寺前町人家の裏にあり」とあります。「山城名勝誌」には、頼風塚を女塚ともいい「今一所放生川河上土人涙川ト云、此川南端八幡山下町筋ヨリ東ニ又号女塚アリ」と記しています。

 しかし、「男山考古録」では、「山城名勝誌」の記述を批判し、頼風の住家跡が頼風塚で、悲恋のため涙川に身を投げ、頼風も自責の念にかられて後を追ったため、世人が頼風のために築いたもので、「此塚を女塚と云ハ証無し、男の誤か」としています。
 
現松花堂の女郎花塚の対塚とみられます。現在、片葉の葦といわれ、葉が女郎花塚の方になびいて片方にしか生えないという葦の生い茂る中の小さな五輪石塔をそれと伝えています。


小野頼風の五輪塔

 志ばん宗のういろ ちょっと寄り道してお買い物。

 ★ういろ  【ネチッとした抜群の食感おいしさ二通り
志ばん宗 電話075-981-0064


 志ばん宗のういろは、八幡市を代表する銘菓のひとつです。
同店は八幡市民図書館の近く、八幡今田の地に店を構えるういろの老舗で、古くから石清水八幡宮への参詣者を相手に商いをされていたそうです。

 八幡市はういろ発祥の地ではありませんが、この店で作られるういろは、おいしいと定評があります。(その日にいただくよりも、冷蔵庫の中で1日置いたほうがおいしい)白砂糖と黒砂糖を使った2種類の色が織りなす味は、そのねっとりとした食感と相まってまさに絶妙。すぐに売り切れるので予約したほうがいいでしょう。志ばん宗TEL075-981-0064(毎週火曜日定休)  

 善法律寺(ぜんぽうりつじ)
通称:紅葉寺
紅葉の時期には少し早かったですが綺麗な風景にホッとしました。


善法律寺は八幡馬場の男山中学校跡地の馬場運動広場南側にある律宗の寺である。
 当寺は奈良唐招提寺の律宗寺院であります。鎌倉時代正嘉年間(1257年から1259年)に石清水八幡宮の27代検校善法寺宮清が自邸を僧坊として喜捨し、奈良東大寺より実相上人を招いて開山した。

 1334年(建武元年)、後醍醐後天皇が鎌倉幕府を倒した諸将を引き連れ、石清水八幡宮に行幸、この善法律寺で紅葉を愛でながら酒宴を催したと伝えられています。


 また、善法寺家は足利氏とゆかりがあり、特に宮清の孫である通清の娘・良子が、二代将軍足利義詮に嫁いで、3代将軍足利義満を生んだ。そのため、義満・義教・義政等歴代将軍が何度も参詣している。

 母良子は、善法寺の菩提寺である当寺へ多くの紅葉を寄進し今も数十本の紅葉が茂っています。春は萌える新緑、秋は深紅の紅葉が美しく、当寺は「紅葉寺」と称されるようになった。
 又、良子の妹紀仲子は後光巌天皇の皇后になられており当時隆盛が伺われます。

 慰霊塔は、昭和9年9月21日近畿地方を襲い死者不明者3000名を出した室戸台風で八幡小学校の校舎が倒壊し其の時に亡くなられた校長・教師及び生徒33人を弔うために建てられたものです。
 

善法律寺の石碑
 
 
 
 
本堂  本尊は八幡大菩薩像(平安時代作)
  本堂は五間四方の建物で、本瓦葺入母屋造り、石清水八幡宮の旧社殿(鎌倉中期頃)の用材を用いたと伝えられています。寛永十六年(1639年)頃の移築とみられ、神仏習合の数少ない貴重な建造物である。奥殿は阿弥陀堂となっています。

 本堂の本尊は八幡大菩薩像(平安時代作)もとは石清水八幡宮の本殿にあったが、明治の神仏分離の際、この寺に祀られた。左手に宝珠を捧げ、右手に錫杖をもち、本来は地蔵菩薩像であったと思われます。(市指定文化財)

かって大乗院にあったといわれる五輪塔

石仏

徳迎山 正法寺(しょうほうじ)
 鎌倉時代の1191年に鎌倉幕府の御家人高田蔵人忠国が天台宗の寺として創建。
室町時代後期に浄土宗に改宗、後奈良天皇の帰依を受け勅願寺となりました。


江戸時代に志水宗清の娘お亀(相応院)が徳川家康の側室となり、後の尾張藩祖・義直の母となります。その後本寺は相応院の菩提寺となり近世を通して尾張藩の厚い庇護を受けてきました。

① 本堂・大方丈・唐門  重要文化財
 寛永7年(1630年)相応院の寄付により建立

② 阿弥陀如来坐像(法雲殿内) 重要文化財
 元八角堂のご本尊で中品中生の説法印を結ぶ丈六の阿弥陀如来です。
鎌倉時代の製作。製作者は未確定ですが京都国立博物館研究員の見解では「快慶」ではないかと言われていますが未確定。ヒノキの寄木造、彫眼、像高283cm。

③ その他重要文化財(京都国立博物館に寄託) 元三大師坐像
 元三大師とは比叡山中興の祖と知られる慈恵大師良源のことで正月3日に亡くなったことから元三大師と呼ばれています。
     亀女と徳川家康
        しみずかめじょ
      志水亀女(相応院)  天正元年(1573)~寛永19年(1642)

 石清水八幡宮社務であった田中家の分家に当たる正法寺・志水宗清の娘亀女は徳川家康に嫁ぎ、尾張徳川家の祖、義直を出産。このため、正法寺(挿し絵)は江戸時代、尾張藩の庇護を受け、隆盛を極めた。

 
女は、竹越定右衛門に嫁ぎ、息子、正信をもうけたが、夫と死別。天正17年(1589)、16歳で離婚し、息子とともに正法寺で暮らしていた。
 あるとき、亀女が息子の正信をタライに入れて行水させていると、徳川家康の行列が通り、亀女はあわてて息子をタライに入れたまま運び去った。これを見た家康は、「この女性ならきっと強い子を産んでくれるに違いない」と見初めたという。こうして文禄3年(1594)、徳川家康(53歳)の側室として迎えられた亀女は、文禄4年(1595)に仙千代を出産(6歳で没)。慶長5年(1600)には、五郎太(後の義直)を産んだ。このとき、亀女27歳であった。


 慶長15年(1610)、石清水八幡宮領を「検地令免許、守護不入」の地とする徳川家康の朱印状が石清水八幡宮に届けられた。これは、石清水八幡宮の権威によることも大きかったのですが、尾張藩の祖義直を産んだ亀女の働きによることが大きかったと考えられる。また、これを裏付けるように、慶長16年(1611)8月12日、亀女から石清水八幡宮社務三家へ書状が届けられ、そこには八幡宮社領が検地免除されたことを喜ぶとともに、そのお礼に八幡宮山上山下惣衆から家康に対し菖蒲革10枚が贈られたことに対するお礼の言葉が述べられている。これを初めとして、毎年正月に八幡宮社士惣中から年頭礼として菖蒲革3枚を献上するため、江戸へ参府されている。

 亀女は家康の死後、「相応院」と名乗り、義直のいる名古屋城で暮らすことになる。晩年には、志水家菩提寺の正法寺に千両という大金を寄進し、本堂、大方丈、唐門を建立した。また、没後には遺言によって百両を寄進、その後も尾張藩の庇護を受け続けた。亀女の先夫の子、竹越正信は、尾張藩の家老職に就き、藩を盛り上げた。


唐門  国重要文化財
 現在の建物は、寛永7年(1630年)に再建されたもので、本堂・方丈・唐門・鐘楼など七堂伽藍を備えている。寺宝の本尊阿弥陀三尊像は、平安時代末期の作品で、中尊は来迎印を結んで結跏趺坐し、観音菩薩は両手で蓮台を持し、勢至菩薩は合掌して、それぞれ趺坐する来迎形式をとっている。

 絵画では、高麗時代(918~1392年)の「絹本著色釈迦如来像」があるが。これは説法印の釈迦立像を描いたもので、昭和52年(1977年)に重要文化財に指定された。

男山の麓を取り入れた庭園は、ツツジの名所である。


鐘楼  京都府指定文化財

正法寺の裏門

 八角堂
 御堂は市内最大の前方後円墳である西車塚古墳の円頂部に建っている。
元は石清水八幡宮の西谷にありましたが、明治の神仏分離の際に現在地に移されました。

 堂舎は順徳天皇の願いにより八幡宮検校善法寺祐清が建保年間に建立(1212年乃至1213年頃、開眼供養導師は解脱房貞慶)したもので後に大破。慶長12年(1607)豊臣秀頼の御願によって、尾張国小出吉政が再建した。


現在、正法寺の法雲殿にある丈六の阿弥陀如来は元はこちらに鎮座されていました。
敷地は、平成24年1月に国の史跡に指定されています。
 
 八幡西車塚古墳
 八幡市の代表的遺跡である、西車塚古墳は、八幡市八幡荘式部谷にある前方後円墳で、全長約115m・後円部径約80m・前方部幅約32mあり、後円頂部に八角院という仏堂があるが、後円部が著しく大きいのが特徴。

 本古墳は、東車塚古墳から北東に100m前後と隣接していることから、被葬者は、東車塚古墳と同族の首長と考えられる。
 明治35年の埋葬施設調査では、長さ2.7m・幅0.6m・高さ0.9mほどの竪穴式石室内で、銅鏡・車輪石・石釧・鍬形石・石製合子・勾玉・管玉・ガラス玉などが出土。

銅鏡には三角縁神獣鏡・盤竜鏡・画文帯神獣鏡・彷製六獣鏡・彷製品規矩鏡など9面の同笵鏡が確認されていた。
これらの埋葬品から5世紀前半の築造と推定されている。

しかしながら、これら貴重な埋葬品は散在・拡散してしまい、今日行方不明の状況。

 中ノ山墓地
 万称寺(1654年開創、正法寺の末寺で常念仏回向で近在から多数の信者が集まっていた。)の西側に開かれた墓地で、19世紀前半に現在の景観が形成された市内最大の共同墓地である。

 墓地は、龕前堂(ガンゼンドウ、阿弥陀仏を祀る)を中心に北に十三仏・南に25菩薩の石仏を配し来迎の場面を立体的に表現されている。

万称寺の西の万称山(中ノ山)は古くから墓地として利用され、
正平の役で敗死した四条隆資ほかの正平塚があります。

万称寺跡石碑

火袋のない珍しい灯篭

龕前堂(ガンゼンドウ、阿弥陀仏を祀る)
 正平塚
  正平塚

 当初、大正末期に西村芳次郎により塚が整備され、昭和19年に今中伊兵衛が現在のように再整備した。八幡宮を拠点としていた南朝方は北朝の圧倒的な大軍を前に窮地に陥っていたが、四条隆資は後村上天皇の退却を助ける為、自ら少数の兵を率い天皇が吉野へ落ちのびるのを助けた忠臣で当時の世相を反映した塚となっています。

最近、正平塚は八幡をきれいな町にをキャッチコピーに活動している
NPO法人『21世紀八幡ルネッサンス運動』の人達の掃除で綺麗になりました。

正平塚石碑

300人塚と忠臣塚

墓地は、龕前堂(ガンゼンドウ、阿弥陀仏を祀る)を中心に
北に十三仏・南に25菩薩の石仏を配し来迎の場面を立体的に表現されている
 
十三仏が立体的に表現されている
 吾妻与五郎の墓
吾妻与五郎墓
「男山考古録」では上臈墓は「俚俗吾妻墳ともいう」とあります。文楽や歌舞伎で演じられる「引窓」の主人公傾城吾妻のことをさすとおもわれます。

「八幡史蹟名勝誌」には「淀屋辰五郎の変名なり、近世まで夫婦二基ありし」とある。
宝永2年豪奢な生活を咎められ闕所処分を受けた淀屋辰五郎が遊里で執心した傾城吾妻を身請けし、共に隠棲した。それが引き窓の主人公吾妻と与五郎であるという西村芳次郎の考えによって墓碑が立てられている。
        (竹中友里代:中ノ山墓地の景観と庶民信仰より)
 

吾妻与五郎墓

中ノ山墓地からの眺望

六地蔵

岡の稲荷社 東高野街道石碑
 岡の稲荷社は、正平7年(1352)5月、後村上天皇が、北朝足利方に攻められ大和賀多生へ落ちのびる際、この地に三種の神器を隠し置いたと伝えられ、それを狐が守護していたため、後に稲荷社が建てられたといわれています。

 しかし、『男山考古録』などに当該の稲荷社の記事はありません。また、碑の東南東200メートルの田の中に豊吉稲荷神社がありますが、関連は不明です。

 八幡宮門前の人家ようやく離れ、八幡出口の目印ともいうべき東西両軍塚を越えると、いよいよ本格的に高野への道です。河内国境の洞ケ峠まで15丁、河内を縦断する東高野街道の起点です。


 松花堂庭園
 明治中頃から昭和の中頃にかけて井上忠継、西村芳次郎親子が旧泉坊書院及び草庵茶室「松花堂」を中心に保存整備をおこなってきたが、昭和52年八幡市が市制施行を記念し購入しその年の11月市制施行と同時に公開。

淀屋ゆかりの「砧(きぬた)の手水鉢」    (上記の淀屋辰五郎邸跡を参照ください)

 淀屋家の別邸にあった手水鉢で、不動谷から筧を使って水を流し、この手水鉢の横より水を通して噴水を楽しんだとのことですが、この水の流れる音がどんどんと響き、また手水鉢に入れた玉石が噴き上がる水で動いてコトコト音がし、洗濯物を打つ砧の音に似ていることから砧の手水鉢と呼ばれました。 

月夜田の交差点 向かいが松花堂庭園
 

松花堂の昭乗広場で解散しました。

皆さん、お疲れ様でした!

今回も色々な歴史・史跡に出会うことが出来ました。
案内役の八幡観光ボランティアの中村さん、丹波さん、有難う御座いました。


次回は、12月7日(土)、「大和王権発祥の地・国史跡「纏向遺跡」」周辺を巡ります。
  集合は、午前9時、京阪・河内磐船駅です。
 弁当持参(食堂有)願います。
  河内磐船駅 9時3分発 木津行に乗車しますので、時間厳守お願いします。
最後までご覧いただき有難うございました!

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