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交野歴史健康ウォーク 155回
淀川洪水の史跡をめぐる(No1)
淀川資料館〜明治18年洪水碑〜水面回廊

 案内人:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)

日時:平成28年7月9日(土)  午前9時30分 
集合場所 京阪交野市駅
  12名参加
 行程 : 京阪交野市駅 → 枚方市駅 → 淀川資料館 → 明治18年洪水碑 →桜町(旧堤防跡)
       → 水面回廊 → 合同樋門跡 → 京阪枚方公園駅 12時解散
  徒歩約3km
 大型台風第1号の影響で前日からの天気予報では朝から昼過ぎまで雨模様とのことで開催が危ぶまれましたが、7月9日当日は幸い早朝には雨も上がり、京阪交野市駅に集合。ところが集合時間頃にまた、雨が降り出しましたが、12名の元気な皆さんが参加されました。

 今回の歴史健康ウォークに先立ち、5月28日の勉強会で、講師の高尾秀司氏より「淀川大洪水と治水翁大橋房太郎」のテーマで、「淀川の大洪水の歴史と治水・改良工事」について詳細にお話しいただきました。今回は、淀川大洪水の史跡をめぐる第1回目として、淀川資料館の見学と明治18年の大洪水の史跡を訪ねる、交野歴史健康ウォークとして実施されました。
 
 淀川資料館を出た午前11時頃には幸い天候も回復、少し蒸し暑さを感じる程度で、淀川堤防上をゆっくりと歩き、明治18年の大洪水碑、桜町(旧堤防)、水面回廊をめぐり京阪枚方公園駅で解散しました。

 今回の歴史健康ウォークは、資料館では大変詳しく説明を受けて「淀川の歴史と治水・改良工事」を改めて知ることが出来たこと、また水と歴史のふれあい場所として保存公開された「水面回廊」など初めて歩いて大変良かったですねぇ!との感想でした。

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメとその他、国土交通省の淀川河川事務所・資料館の諸々の資料を参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。
淀川洪水史跡をめぐる(No1)レジメ
淀川洪水史跡めぐりのMAP
淀 川 資 料 館







淀川資料館
淀川資料館、ここは淀川の魅力を楽しく学べる資料館です。
今回は特に明治18年の大洪水の歴史を中心に学びたいと思います。
本日は約30分の予定で資料館の専門家からお話をお聞きしたいとおもいます。
その後短時間ですが館内の見学をいたします。
淀川の歴史と大洪水と改良工事
古文化同好会の為にパワーポイントで大変詳しく解説頂きました!
 明治になると、淀川にも蒸気船(外輪船)を導入する計画が立案されました。しかし、当時の淀川は土砂の堆積が著しいうえ、平均水深は40cm程度で、外輪船を導入するためには水深150cmを確保する必要がありました。そこで雑木などを束ねた粗朶を川底に沈めた粗朶沈床による水制工が行われました。これが、技師デ・レーケが中心となって明治8年(1875年)から行った「淀川修築工事」です。
 水制工とは、河川の両岸に構造物を設置する工法のことで、これにより、流れを川の中央に集めて水深を確保、また、水路を曲げることにより流れを緩やかにし、外輪船が航行するのに適した水量、水流を作り出すのに成功しました。
 明治18年(1885)、6月15日朝から17日夜まで降り続いた豪雨によって、18日午前3時、三ツ矢村・伊加賀村の淀川堤防が決壊しました(伊加賀切れ)。その切れ口は80mで、濁流はたちまち茨田郡一円を水没させ、讃良・交野・東成郡の一部から大阪市中にも及びました。7月にも再び豪雨にみまわれ、切り口から水が流入し、大阪府内で755村、7万戸余が浸水するという未曽有に被害をもたらしました。

態と切り 大阪市内に流入した水を大川へと流した


仮堤防図
決壊か所は水深が5.5mもあり、水勢も激しいことから、
旧堤防から後退して弓型に堤防が築造されました。
土砂は御殿山(万年寺山付近)から採取され、大勢の人夫を動員して、
全長約400mに及ぶ大規模な工事でした。
 淀川改良工事は、上流から下流まで流域全体を見据えたスケールの大きい斬新な考え方に基づいたもので、その範囲は琵琶湖から大阪湾までにおよびました。新淀川の開削のほか、毛馬閘門と毛馬洗堰の建設、瀬田川洗堰の建設、宇治川の付け替えなど、明治43年(1910年)までの約14年にもわたる歳月をかけて完成しました。


淀川河道は大きく高槻側へと変更された。
破線が旧河道で、現在の淀川河川公園の北半分は、高槻市境である。

成25年の台風18号の大豪雨により、淀川河川公園を
大きく水が溢れて堤防まで1mと迫った。
淀川資料館 展示風景

淀川と淀川洪水碑
明治18年・洪水碑
この碑は元々は、枚方大橋南詰の下にあつたが立体交差が出来た時、その道路脇に移されていたが、最終的にこの場所に移された。枚方市三矢の淀川左岸から淀川の流れを見守っているように見えます。
明治18年・淀川洪水解説板(洪水の説明書)
この説明板は枚方市教育委員会が2010年(平成22年)に、明治18年6月に起こった淀川堤防の決壊の為おこった大水害の様子を書き留めていると同時にこの附近で堤防から後退して弓型の仮堤防を造つた経緯などを解説してあります。
明治18年・淀川洪水解説板  (平成28年3月  枚方市教育委員会)

 明治18年(1885)、6月15日朝から17日夜まで降り続いた豪雨によって、18日午前3時、三ツ矢村・伊加賀村の淀川堤防が決壊しました(伊加賀切れ)。その切れ口は80mで、濁流はたちまち茨田郡一円を水没させ、讃良・交野・東成郡の一部から大阪市中にも及びました。7月にも再び豪雨にみまわれ、切り口から水が流入し、大阪府内で755村、7万戸余が浸水するという未曽有の被害をもたらしました。
 決壊か所は水深が5.5mもあり、水勢も激しいことから、旧堤防から後退して弓型に堤防が築造されました。土砂は御殿山(万年寺山付近)から採取され、大勢の人夫を動員して、全長約400mに及ぶ大規模な工事でした。
 この洪水碑は明治19年に建立されたもので、洪水と復旧の経過が記され、淀川治水の重要性を今に伝えていることから、平成26年(2014)に枚方市重要文化財に登録しました。なお、弓型の仮堤防は、旧堤防の完全復旧によりその役割を終え、今は桜町の道筋に名残を留めています。

郵便屋の渡し碑
明治10年(1877)、対岸に鉄道が開通した為、淀川左岸一帯の郵便物は、
枚方の渡し(大塚の渡し)で淀川を渡り、高槻駅まで運ばれました。
桜町 旧堤防跡
桜町に残つている仮堤防
この堤防は応急処置として旧堤防から後退して弓形に仮堤防が造られました。土砂は御殿山(万年寺山附近)から採取され大勢の人夫を動員して、全長約400mに及ぶ大規模な工事でした。
現在は周囲に民家が立て込こんでいて当時の堤防の様子は分かりにくくなつておりますが、写真の所ではその面影が若干残つております。

旧堤防の名残り


増田邸
桜町の仮堤防にそって西に歩いてゆくと、写真のような豪壮な邸宅が見えてきます。
表札には「増田」とあり、あの有名な「つたや」の社長の邸宅だそうです。
水面回廊(みなもかいろう)
水面回廊(みなもかいろう)  水と歴史のふれあい広場

 この用水路は昭和40年までこの地で淀川から取水して北河内一帯約5000ヘクタールの田畑を潤していました。その名残りを樋門に、また淀川を往来していた三十石舟もモニュメントとして配置し、歴史を感じられる緑豊かな親水広場として、市民の皆さんが憩つていただけるよう願つています。 (現地説明板より)
合同樋門跡

 合同樋門は北河内一帯を洪水から守り、かつ利水をはかる為、淀川用水樋普通水利組合が淀川左岸に点在していた8つの樋管を統合して、昭和5年春に大規模な工事により完成させたものです。ここから淀川の恵みを取り入れ、大阪市の毛馬閘門まで続く16kmの用水運河をとうして、この地域約5000ヘクタールの田畑に潤いと実りをもたらしていました。その後淀川改修による川床の低下のため取水が困難になり、その役割を木屋ポンプ場に譲りました。 (現地説明碑より)
枚方公園駅で解散


 次回は、第156回歴史健康ウォーク、7月20日(水)、「かいがけの道の仏」。
 集合はいきいきランドに、午前10時〜12時まで。ガイドは平田政信氏。 
  お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました

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