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交野歴史健康ウォーク 第109回

吉田山公園から如意ヶ岳大文字を望む
金戒光明寺〜真如堂〜吉田神社

京阪枚方市駅9:00→神宮丸太町駅→熊野神社→聖護院→須賀神社→
金戒光明寺→会津藩殉難者墓地→真如堂→陽成天皇陵→宗忠神社→
竹中稲荷神社→茂庵→吉田山公園→吉田神社→智恩寺→神宮丸太町駅
 14:30 解散  約7km徒歩

 2010..9.25(土)午前9時、京阪枚方市駅京都行きホームで集合。天候晴れ。時間通り元気な17名の顔が揃った。交野歴史健康ウォークは発足後第109回目を迎え、今回のウォークは、交野古文化同好会のメンバーである吉岡一秋氏の企画立案で、初秋の京都「金戒光明寺から真如堂、吉田神社」を案内して頂きました。

 
金戒光明寺の山門前にて記念撮影
当日のウォークMAP
神宮丸太町駅→熊野神社→聖護院→須賀神社→
金戒光明寺→会津藩受難者墓地→真如堂→陽成天皇陵→宗忠神社→

初秋の京都・左京を散策

中会長、京阪・神宮丸太町駅構内で出発の挨拶


吉岡さん、本日の行程のほか交通事故など注意点も説明


熊野神社
京都三熊野神社の一つ
<熊野神社、熊野若王子神社、 新熊野神社(いまくまの)>

聖護院の鎮守社であり、天台宗系本山派修験道の守護神として
尊敬された。八咫烏は神のお使い。


京阪・神宮丸太町駅で降り、丸太町通りを東に
東山丸太町角の熊野神社に参拝

平安末期、後白河法皇は度々熊野詣を行ったが、当社にも厚く尊信を寄せ、
同法皇が勧請した熊野若王子神社、 新熊野神社とともに
京都の熊野三山として、崇敬を集めてきた。
応仁の乱により焼亡したが、寛文六年(1666年)聖護院宮道寛法親王の
命令により再興され、 その寺域は鴨川に至る広大なものであった


本殿両脇に狛犬(向かって左)
吽の狛犬はオスなんですか?の質問にインターネットで調べましたら、
・・・神社を正面から見た時左にいる、口を閉じた狛犬
正式には無性だが、オスとして扱っているものが多い。


・・・神社を正面から見た時右にいる、口を開けた狛犬。
正式には無性だが、メスとして扱っているものが多い。
と、書かれていました。


提灯に八咫烏が描かれている

境内に、八ツ橋発祥の地の石碑あり
 
八ツ橋発祥の地の碑と 創始者 西尾為治の銅像が並んで建っている。

八ツ橋は 米粉で作った焼き菓子。独特のニッキの風味と“聖護院”の名前で, 観光客に一番有名な 京都のお菓子の一つ。明治の初め 聖護院村に生まれた西尾為治が,古くから伝わる製法に改良を重ね八ツ橋中興の祖と呼ばれた。
この碑は 平安遷都(ナクヨウグイス=794年)から1200周年を記念して 1994年に建てられた。

この熊野神社に並んで 北側には, 「八ツ橋発祥の家」という大きな提灯を掲げた西尾八ツ橋 の店がある。


八ツ橋 発祥之地

 西尾為治は, 明治12年(1879) 山城国愛宕郡 聖護院村の八ツ橋屋に生れ, 以来 昭和37年(1962)1月に永眠するまで, 84年の生涯を八ツ橋の発展のために心血をそそぎました。後年 中興の祖といわれ, 元禄からの古法を基調に改良に改良を重ね“京に八ツ橋あり”とその名声を拡げました。
平安遷都1200年を記念し, 八ツ橋発祥の地「聖護院の森」に 石碑並びに銅像を建立しました。
               熊野神社


八ツ橋西尾老舗(熊野神社の隣)

聖護院門跡
丸太町通りより一筋北の春日北通りへと渡り、聖護院へと進む
 900年前に現在の場所に建てられましたが、4回の火災で市内を点々とし、今の場所に戻ったのは約300年前のことです。明治までは西側に聖護院村があり、鴨川にかけてうっそうとした「聖護院の森」が広がっていました。

有名な聖護院大根や八つ橋はこの聖護院村で作られていたことから
「聖護院」の名が冠せられたのです。

須賀神社(交通神社)
春日北通りと岡崎通りの角の道標

左 ちおんいん  右 くろたに

右 北の天満宮  左 ちおんいん

左 ち於んゐん(知恩院)

金戒光明寺
 京都の人たちに黒谷さんで親しまれている「金戒光明寺」へ。

 此処は、正安5年(1175)、法然上人が比叡山の黒谷を下り、この地に草庵を結んだのが起こりとされている。そのため、昔は比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んでいた。その後いつの間にか岡崎のほうを黒谷と呼ぶようになった。
 紫雲山光明寺から後光厳天皇より「金戒」の文字を賜り現称となった。
  映画のロケによく使われる。

 幕末には、京都守護職会津藩陣所となっていて、近藤勇が藩主松平容保から「新選組」の名をもらった所でもある。広い境内、大きな山門(三門)や本堂が整然と建っている。
 6年ほど前に上映された、大河ドラマ「新選組」のタイトル画面で隊士達が駆け上がる石段は此処ではないかとの声。そう言えば広い石段、上に見える山門、きっと此処に違いない。

浄土宗には総本山、大本山の他、寺院七千余ヶ寺、檀信徒六百万、ハワイ、北米、南米にも寺院があって浄土宗の伝道(布教・教化)が行なわれている。
  総本山:知恩院   大本山:増上寺、金戒光明寺、知恩寺
など

金戒光明寺の南の入り口の小門
京都守護職会津藩陣所・金戒光明寺  新選組発祥の地
近藤勇が藩主松平容保から「新選組」の名をもらった所でもある


 幕末の頃、この寺は松平容保が率いる京都守護職の本陣であった。
 容保が金戒光明寺を選んだ理由は三つあった。
  1.御所や粟田口などの要所に近いこと
  2.大小52の宿坊があり、1000人の軍隊が駐屯できること
  3.城構えである。徳川家康は、直轄地として二条城を作って所司代を置き、
   有事の際には軍兵を配置できるように、黒谷と知恩院を秘密裏に城構えと
    していた。
    大軍が一度に入ってくるのを防ぐため、南には小門しかない。また、西側には
   高麗門が城門のごとく建てられた。



会津藩殉難者墓所の石碑

石段の上に素晴らしい三門(山門)が望めます


小高い岡になっている黒谷は自然の要塞で、
大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。
境内に、「西翁院」があり、淀看(よどみ)の茶席が設けられ、
淀川の帆船を見ることが出来た。

広い境内、大きな山門(三門)や本堂が整然と建っている。石段も広い。

御影堂  昭和19年に落慶


浄土宗の寺らしく本堂の建物は、堅牢で重厚で巨大。法然は念仏を唱えれば
善も悪も浄土に行けると説いた。その教えにすがる人々を受け止める
大きさが必要なのだろう。晩秋になると左の銀杏の彩りも素晴らしさを増す。



熊谷直実が出家した時に 鎧を掛けた松

三重塔

会津墓地参道への石碑
会津藩殉難者墓地

 文久2(1862)年閏8月、会津藩主松平容保は京都守護職に任ぜられ、同年12月24日、家臣千人を率いて京都に到着し、京都所司代、京都町奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣しました。
 黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地でした。大きな寺域を持っており一千名の軍隊も駐屯することができました。
 当時の京都は、尊攘激派による暗殺の坩堝と化していましたが、守護職となった会津藩は治安の維持にあたりました。しかしながら会津藩の犠牲は大きく、戦死や病死する者が続出しました。そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られました。
 その数は文久3(1863)年から慶応3(1867)年までの六ヶ年に二百三十七霊を数え、後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀しました。


真如堂
正しくは真正極楽寺。紅葉の名所として知られる。
真如堂は天台宗の寺で、比叡山にゆかりがある。



紅葉にはまだ早いものの境内は静かで心が癒される



本堂の南側には、「春日局」お手植えの「縦皮桜」がある




まだ、朝顔が真っ盛りでした!

真如堂山門前で記念写真


宗忠神社→竹中稲荷神社→茂庵→吉田山公園→吉田神社→智恩寺→神宮丸太町駅

陽成天皇陵
真如堂の参道をまっすぐ西へ行くと御陵がある
宗忠神社


黒住教の教祖、黒住宗忠を祀る神社
黒住教は幕末の新興民衆宗教として知られている。

宗忠神社(むねただじんじゃ)は、吉田山の南丘陵上に立つ黒住教の神社
 黒住宗忠の生地で黒住教の本部のある岡山にも宗忠神社がある



黒住教参道を上る

吉田山へ 竹中稲荷神社の鳥居
吉田山公園の茂庵

ここ茂庵は大正時代、実業家谷川茂次郎が神楽岡(吉田山)の山頂に
茶室八席・月見台・楼閣など広大な森の茶苑を築きあげたそうですが、
そのなかで当時食堂棟だった建物なのです。

現在は、2階がカフェーとして営業されている。


「くれない萌ゆる岡の花
 さみどり匂う岸の色
 都の花にうそぶけば
 月こそかかれ吉田山」

これは京都大学に伝わる「旧制第三高等学校寮歌〜逍遥歌」

如意ヶ岳の大文字

大文字が真向こうに望める公園で昼食
大文字山に数人の登山客が米粒のように見えた

菓祖神社の鳥居

山蔭神社


山蔭神社は、吉田神社創建に貢献された藤原山蔭卿を祀る社で、
     卿は調理・調味づけに秀でたと言われており、料理飲食の祖神として、
     多くの料理店や業界の方々等の信仰を集めております



吉田神社 斉場所大元宮

吉田神道を創始した吉田兼倶が吉田神道の拠点として1484年に
吉田神社境内に斎場所大元宮を創建。

この斎場所大元宮は、八角形の本殿に六角の後房を付けた、
極めて特異な形状をしており、延喜式内全3132座の
天神地祇八百万神を祭っています。




節分で名高い吉田神社

寒さの厳しい節分の日を中心に前後で約三十万人が訪れるという。
参道には数百という露店が並び、身動きできないほどだという。

この節分の日、大元宮では、節分信仰の中心をなす
「厄塚」が設けられる。

八角の台に八角の白木の棒を立て、神殿正面から
八本の注連縄を引き渡したものである。
この塚に触れることにより、心に潜む鬼を塚に封じ込め、
社殿とつながった注連縄を通して八百万の神との感応を願い、
一年の健康を祈るという、節分の習わしである。

さざれ石

東南に青龍石

西南に白虎石

西北に玄武石

四つの霊石をめぐる 
東北の朱雀石は、内陣にあると書いてあります。


吉田神社の大鳥居

「徒然草」の吉田兼好は、吉田神社の神官の子だった。

京都大学の正門・時計台前を過ぎ、東大路通りに出ると、
四つ角に道標を発見!京大正門前バス停前。


吉田本町道標

宝永六年(1709)に建立された道標。京都市登録史跡。
埋没や亀裂のため、読みづらいが、「さかもと」、「右白川(の道)」、
「からさき」、「左百まんへん(の道)」
と行き先などが記されている。
(括弧内は現在埋没して判読できない)


百万遍の智恩寺

普段は、静かな境内ですが、毎月15日は「手作り市で賑わいます。

知恩寺 百万遍の名前で知られる。
悪病が都を襲った元弘元年(1331年)、善阿上人が
念仏を百万遍唱えると悪病が治まったという。

毎月15日には、
「知恩寺の手作り市」が開催される。

京都旅楽の知恩寺の手作り市をご覧ください!


暑い中、皆さんご苦労さんでした!中会長の挨拶

次回は、10/9、定例勉強会で(青年の家 204号)
文化祭準備の検討会が開催されます。
こぞって参加下さい!



9/11の「かるた巡り」に続き、今回も元気に参加下さいました!
皆さん、本当にお疲れさまでした!

次回の歴史ウォークは、
11月13日(土)、「中之島界隈の史跡を訪ねます」
弁当を持参下さい!誘い合わせてご参加下さい!
京阪天満橋駅(京都側改札口)午前10時集合


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