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2001.5.17

東高野街道@を歩く

四条畷神社、飯盛山城跡、野崎観音など

 5/17(木)、9:35発 河内磐船駅を出発、四条畷駅で全員集合。平成13年度第1回目と言うことで、参加者も多いようだ。元気な顔が揃った。

 四条畷駅を出発、商店街を西へ約5〜6分まっすぐ抜けたところに、小楠公の墓所がある。樹齢550年といわれる大きな楠に守られて、小楠公の大石碑が建てられている。
 辻先生より、四条畷の謂れや、四条畷の合戦の事など楠木正行のお話をお聞きする。
四条畷の「畷(なわて)」とは、田圃の中の細い道、つまりあぜ道ののことだと。このあたりは昔、湿地帯だったので、あぜ道がたくさんあった?奈良時代の条里制のなごりで、四条通があり、四条畷となった。
 東に向かって真っ直ぐに、飯盛山に向かう。ふもとに四条畷神社があり、ここで参拝。一時休憩の後、いよいよ飯盛山城跡を目指して旧道を登る。戦国時代、重い甲冑を着けた武士が走って上り下りした道。
弁当と飲み水が入っただけの軽いリュックを肩に、ゆっくりと登る。20分くらい歩いたところで、休憩。後は一気に頂上まで。江戸時代の野崎まいりの様子
 先に登った、たくさんの方々が大阪平野を見下ろしておられる。直ぐ下に、四条畷・大東市の街が見え、昔の河内湖のなごりの深野池の一部が公園の中に残っているのが見える。
頂上には、城が築かれたであろうと思われる、格好の空き地が残っている。その一番上に、楠木正行の銅像がある。桜の木の下で、楽しい昼食をとる。
 午後は、野崎観音さんに向けて下るだけである。途中、NHKのFM局の電波送信塔があったり、自然の池を幾つか通りすごし、だらだら坂を下る。痛い右膝が気になりだす。下りは膝に来る。今まで、下りで膝が震えたことはあるが、痛みを伴うのは軟骨の老化現象か?
 野崎観音が間じかになった、高台(野崎城跡)で休憩。大東市の町並みが綺麗に見渡せる。
野崎まつりで有名な野崎観音さんに、お参りする。少し上に、お染久松の墓があった。
 東海林太郎の《野崎小唄》や、文楽、新版歌祭文− 野崎村の段 − の“お染め久松心中物語”で全国的に知られる野崎観音は、本来の寺名を慈眼寺と言い、毎年5月初旬の野崎参りは、老若男女で賑わう。などと、説明を受ける。
 後で、地図をじっくり見ると、四条畷駅は大東市であることを発見。飯盛山、野崎観音も大東市であった。
 今回は、交野市の直ぐ南の四条畷市と大東市の小楠公墓所、四条畷神社、飯盛山、野崎観音を縦走でき、頂上からは素晴らしい展望を楽しみ、河内の戦国歴史に触れることが出来た。また天候も良く、大変楽しい歴史ハイクとなりました。
 1ヶ月ばかり前より右膝に鈍痛があり特に動き出す時に痛みが酷く、皆さんと一緒に歩けるかと心配したが、全コース無難に歩けほっとした。
次回の八幡市の東高野街道と寺・神社廻りが楽しみである。

コース: JR四条畷駅→小楠公墓所→四条畷神社→
飯盛山城跡→野崎観音→JR野崎駅 (行程約.5km)

東高野街道を歩く
小楠公墓所、飯盛山、野崎観音行程地図

   小楠公墓所
 樹齢550年の大楠木

 JR学研都市線四条畷駅から西へ5分。  その昔、江戸時代まで飯盛山の麓は西に深野池があって、京と高野山を結ぶ重要なルートの隘路だった。
 そしてここで南北朝時代、四條畷の決戦が行なわれ、南朝方の楠木正行軍はここで北朝方と激突、飯盛山から駆け降りてきた北朝軍に挟まれ、敗走した。楠公神社は正行が討たれ戦死した場所と言われ、墓が立っている
 (場所は四條畷市域)
 四条畷の合戦

 1348年(正平3年、貞和4年)1月5日、四条畷で室町幕府方高師直軍6万騎が正行軍3000騎を撃破した合戦。
  四条畷神社本殿
 神社の元になっているのは、雁屋(かりや)の楠塚。この42坪ほどの墓域が3000坪へと拡張され、石碑が建立されたのは明治11年1月5日。
 この小楠公墓所に神社建設の議案が出たが、平地では景色が良くないとして、墓地の東100mの飯盛山の麓に神社建立となったそうである。 明治22年7月に神社創立特許が出され、小楠公社創立規約を定めて小楠公神社の名称の元に出発したが、工事半ばに現在の四条畷神社に改称されたそうである。 
 四条畷神社は、明治23年に楠木正行を初めとする25柱を祭神として建てられた神社である。
 (場所は四條畷市域)
   飯盛山頂上から
    〜大阪方面を見る〜
 四条畷という町自体が大阪の東の端に位置し、晴れた日には飯盛山の頂上から大阪湾だけでなく遠くは関西国際空港、明石大橋を望むこともできる。
 標高は318メートル、北西から見ると、ちょうど飯(いい)を盛った形に見えることから飯盛山と名づけられたと言われている。
 それほど高くはない山で、急崖をもってそびえ立つ飯盛山は、その昔河内から京都にいたる間の重要な戦略上の拠点となる位置だった。 
 飯盛城の全盛期は短く(約10年間)、松永氏がこれに代わり、織田信長が機内平定によってこの日本最大と言われた山城の命も終わるのでした。
  飯盛山 頂上
 (飯盛城址、楠木正行像)
 山頂にはかつて飯盛城があった。城址は残っていないがすぐ近くに楠木正行像が立っている   正行は楠木正成(大楠公)の長男。正行は父正成の志を継ぎ、南朝の後村上天皇に仕えた。
 1347年、室町幕府方畠山国清らを南河内に打ち破ったが、幕府はこれに対し高師直軍6万騎を差し向け四条畷の合戦となる。
(太平記)
    野崎観音
     大釣鐘

 本堂裏には、人形浄瑠璃の悲恋物語「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)・野崎村の段」で有名なお染久松の比翼塚があり、本堂横には1708年鋳造の鐘楼があります。
 この鐘楼の横からは標高318mの飯盛山に登ることができ、みどり豊かな雑木林をハイキングコースに沿って約6km、2時間歩くと、四条畷神社へと抜けられます。
野崎観音(慈眼寺)
 江戸時代の「野崎参り」で有名な曹洞宗の寺だが、もともとは行基の創建と言われ淀川沿いにあった。
 平安時代に西行との歌詠みで有名な江口の君(江口の君堂は大阪市東淀川区にある)がこの観音に参って病気が治癒し、感謝を込めて元の門真の地から現在の地に移したと言われる。
 戦国時代に焼失したが後に再建、江戸時代の賑わいとなる。


 小楠公墓所 伝、楠木正行(くすのきまさつら)の墓(大阪府史跡)  四条畷市雁屋南町
 四条畷の合戦に破れた楠木正行をここに埋葬したと伝える。
自刃の場所はもう少し南の北条あたり。京都嵐山・宝篋院の足利義詮(左)と楠木正行(右)の墓
始めは、小さな石碑が置かれただけであったが、明治時代になって高い評価を受け、大石碑が建てられた。(大久保利通筆)
大楠は、推定550年と言われる。(大阪府指定天然記念物)
小楠公首塚は、京都嵐山・宝篋院(ほうきょういん)境内に、足利第2代将軍義詮(よしあきら)と並んで墓所にある。⇒
 二人は宝篋院中興の黙庵(南北朝時代の夢想疎石の高弟)に教えを乞い、尊敬しあっていた。
義詮は、自ら墓所を正行の横を願った。


 四条畷の合戦
 1348年(正平3年、貞和4年)1月5日、四条畷で室町幕府方高師直軍6万騎が正行軍3000騎を撃破した合戦。
1347年11月26日、大坂瓜生野の戦いに敗北した足利軍は、12月に吉野攻略の為に大軍を動員。
翌1月、高師直軍6万騎が四条畷に進出。迎え撃つ正行軍3000騎が師直軍本陣へ攻撃したが、激戦の末敗北し、一族全員自刃。正行23歳だった。

 小楠公(楠木正行)
 楠木正成(大楠公)の長男。正行は父正成の志を継ぎ、南朝の後村上天皇に仕えた。
1347年、室町幕府方畠山国清らを南河内に打ち破ったが、幕府はこれに対し高師直軍6万騎を差し向け四条畷の合戦となる。(太平記)
 激戦の末、わずか3000騎の正行軍は敗れ、正行一族は自刃をとげた。


飯盛山城跡
 飯盛山 生駒山の北西にあたり標高318m。
 その形を北西方から見るとちょうど飯を盛った形に見えるところからこの名が付けられたのだろう。

 飯盛山城
 それほど高くはない山ですが、急崖をもってそびえ立つ飯盛山は、その昔河内から京都にいたる間の重要な戦略上の拠点となる位置だったようです。建武の新政後、北条氏の余党の佐々目憲法が飯盛を根拠にして旗揚げし、楠木正成に滅ぼされたという記録こそ、この飯盛山の歴史に登場する最初です。飯盛山頂上から大阪平野を眺める
 その後山麓で楠木正行の四条畷の合戦はすでに記しましたが、飯盛山が城として本格的性格をもつようになるのは戦国時代、畠山の家臣、木沢長政にはじまります。その後四国から出た三好長慶は、畠山氏と戦い、やがて飯盛城の城主となります。長慶は飯盛城を本格的な山城とし、勢を近畿一円に奮った。この時、まさに飯盛城は近畿の中心だったと思われます。
 その他、この長慶はキリスト教を保護したことで有名ですが、飯盛にも大東市三箇の城にも、また岡山の砂にも教会を建てたと伝えられる。
 しかし、この飯盛城の全盛期は短く(約10年間)、松永氏がこれに代わり、織田信長が機内平定によってこの日本最大と言われた山城の命も終わるのでした。

 三好長慶(みよしながよし)(1522年〜64年)
 阿波の国出身。戦国期の武将。三好元長の嫡男。1532年、父の討死により家督を継承。
細川晴元の将だったが、1548年離反、翌49年、将軍13代足利義輝と晴元を近江に駆逐。52年、義輝と和すが、翌年再び近江へ追う。53年、摂津の国(西宮)から芥川城(高槻)に移る。
 60年には、配下の松永久秀が大和を制圧。畿内全域と丹波、淡路、讃岐、阿波各国を支配下に置き、自らは河内の国飯盛山城へ入る。

 野崎観音野崎まいりで賑わう様子
 「野崎観音さん」とむかしから親しまれてきた慈眼寺は、飯盛山の西麓に建つ。
 江戸時代の「野崎参り」で有名な曹洞宗の寺だが、もともとは行基の創建と言われ淀川沿いにあった。平安時代に西行との歌詠みで有名な江口の君(江口の君堂は大阪市東淀川区にある)がこの観音に参って病気が治癒し、感謝を込めて元の門真の地から現在の地に移したと言われる。
 戦国時代に焼失したが後に再建、江戸時代の賑わいとなる。近松門左衛門の心中ものに登場する「お染め・久松」の塚も境内にある。
 本尊 十一面観音(平安前期)
 創建 行基(奈良時代後期)が自ら観音を刻み安置したのが寺の開創という言い伝え。
 戦国末期、兵火により焼失したが、慶長、天和年間(1596〜1624)に僧青厳が再興した。
春の祭り「無縁経」は、5/1〜5/10、野崎まいりとして賑わう。

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