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伏見稲荷大社と東山トレイルを歩く
 2002.5.9 京都市伏見区、東山区
稲荷大社、泉涌寺、豊国廟など

 野市の市民講座で、「渡来人と日本文化」に触れる歴史ウォークに参加してきました
 コースは、商売繁盛の神さんで有名な伏見稲荷大社の千本鳥居を登り「四つ辻」から京都一周・東山トレイルの最南部のコースを標識に従い、稲荷山を下り泉涌寺に行き、六条山へと入り山道をたどり豊国廟へと歩いた。東山三十六峰をわずかに辿った、楽しいウォークでした。

渡来人・秦氏
 渡来系有力氏族。秦氏の氏寺稲荷大社
5世紀以後、西日本一帯に広範に居住する秦人の伴造(とものみやつこ)

本拠地は山背国葛野郡。天武朝の八色(やくさ)の姓で忌寸姓となる。
 一般には、古くから西日本一帯に渡来し、機織や農耕に従事していた新羅系の人々が欽明朝に王権に接近した山背国の勢力を伴造として氏族的にまとめたものとされている。
 以後、多くの献納によって王権を支えたので、一族は朝廷の倉の管理部門と関係が深い。推古朝に、峰岡寺(広隆寺)を建立した秦河勝がいる。

 『日本書紀』によると、推古天皇11年(603)に聖徳太子が、所持する尊い仏像を誰か礼拝する者がないかと臣下に問うたところ、秦河勝が進み出てこれを賜り、蜂岡寺を造った。広隆寺の前身である。そして、その仏像こそが国宝第1号に指定された、あの有名な弥勒菩薩半跏思惟像であるという。
 渡来人の血を引く桓武天皇が平安京に遷都した背景にも秦氏の強大な力があったといわれる。秦氏が大陸や半島の先進技術を伝えたことにより日本の文明の発展にどれほど貢献したかは計り知れない。こんにち日本人の心のふるさとといわれる京都の、根幹の部分に渡来人の活躍があったことを私たちは忘れてはならないだろう。

伏見稲荷大社の創建
 
5世紀以降、山背国を中心に近畿一帯に繁栄した渡来系氏族泰氏が、古来から神の宿る山として信仰されていた神体山に稲荷神が降臨したとして祀り、氏神として信仰してきた。
 

コース: 京阪・伏見稲荷駅→稲荷大社→稲荷山→泉涌寺→
豊国廟→京阪・七条駅(解散(行程約8km)

 5/9(木)午前9時31分、枚方市駅から急行に乗って伏見稲荷駅に到着。改札口を出て表参道を行くとその奥に伏見稲荷大社の本殿がある。
 ここで先生より、今年の講座のテーマは「渡来人と日本文化」について勉強することにしたこと。日本は古代からお隣の韓国、中国とは密接な関係にあり、友好関係が保たれていたが、近年ややもするとギクシャクする事が多くなって来ていることは残念であること。昨年の暮れに、今上天皇が初めて天皇家のルーツは百済と深いかかわりがあると言われたことは大変意義深いことだと、また5月31日から、日韓共催のサッカーW杯が開催されることを機に、より友好関係が良くなることを期待している、などと話しされた。正に言われる通りであり、スポーツを通して諸外国との友好関係が正常化することは誠に喜ばしいことと思う。
 続いて、伏見稲荷大社の由来、渡来人の秦氏の氏寺として栄えたこと、稲荷は稲生(いねなり)から生じたもので、五穀豊穣の神様を祀っている、今は商売繁盛の神さんで有名であること、また参道の周辺では、「すずめの焼き鳥」も有名で、お稲荷さんは元々は国の安穏を願い、五穀豊穣の神様ですから、すずめは稲を食べる外敵であり、それを食べて敵討ちをするのだとも言われている、などいろいろとお話を伺った。
 本日の参加者は80数名。皆さん熱心にメモしながら聞き入っておられた。

 先ずは本殿にお参りして、いよいよここから楽しいハイキングコースの出発点である。稲荷大社の鳥居
 いろんな姿をした、お稲荷さんの神の使い、「お狐さん」を眺めながら、本殿の裏から階段を上ると沢山の鳥居のトンネルが見える。「千本鳥居」を過ぎ、少しずつ登りがきつくなり、やっとたどり着いた場所が、「四つ辻」。額から汗が噴出し、息が弾む。日陰に座りしばし休息。吹き上げる冷たい風にほっとし、高台から見える京都市内の眺めは素晴らしかった。
 今回は稲荷山の三つの峰に鎮座する上社・中社・下社に詣でる「お山巡り」は時間の関係で割愛、次回の楽しみとする。

 四つ辻を左折してなだらかな山道を泉涌寺へと下る。200mばかり住宅街を通り、再び山の中へ、両側に御陵がありそこを過ぎると泉涌寺の山門にでる。「御寺泉涌寺」と書かれていた。拝観料を支払い、境内に入ると正面下に素晴らしい本殿が目に付く。先ず、境内左手の、有名な楊貴妃観音像を参拝した。素晴らしいお姿にしばし、うっとりとする。
 昼食後、見上げるような素晴らしい本殿の建物と釈迦・弥陀・弥勒の三尊仏に圧倒される。歴代の天皇陵の霊明殿、月輪陵など拝観する。

 午後は、泉涌寺をでて、市内の住宅街を東山トレイルの道標に従い、六条山入り口に着き、ここからは山道を20分ばかり登ったり下ったりしながら、豊国廟に到着。
 慶長3年(1598)、秀吉は伏見桃山城で63才の生涯を閉じた。遺体は遺言によって、ここ阿弥陀ケ峰の中腹に葬られ、廟と社殿が建立された。500段の階段を登った所に豊国廟があり、墳上には巨大な五輪石塔が建てられている
 約30名の方が500段の階段に挑戦された。 
 帰りは、京都女子大学がある「女坂」を下り、京阪七条駅で解散した。

 当日の学習状況は、交野市の社会教育課のHP・学習会の記録
 掲載されている。どうぞ、ご覧ください!


伏見稲荷大社
伏見の「お稲荷さん」といえば、
赤い鳥居と「お狐さん」がすぐ
思い出される。
全国3万余の稲荷社
の総本山として有名である。
伏見稲荷のお狐さん
祭神宇迦御魂神は田の神とされ、
狐を神使とする信仰で、五穀豊穣を
願う多くの庶民が崇敬した。
伏見稲荷大社の鳥居
朱の鳥居を建てて祈願と感謝を表す
信仰が盛んでその鳥居の数は数千に及び、
千本鳥居
と呼ばれる中世から近世には、
商業経済の発達にともない、農耕神から
商売繁盛の神として各地に勧請された。
御寺・泉涌寺
東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に
静かにたたずむ泉涌寺。
ひろく「御寺(みてら)」として
親しまれ天長年間に弘法大師が
この地に庵を結んだ事に由来する。

泉涌寺・月輪御陵
境内にある霊明殿には、天智天皇から、
昭和天皇までの歴代天皇の
御尊牌(位牌)が祀られている。
また、その裏に位置する月輪御陵は、
四条天皇、後水尾天皇をはじめ
二十五陵五灰塚九墓からなり、
これだけ多くの皇族が葬られて
いるのはここだけである。

豊国廟の石段の登り口
NHKの大河ドラマ『秀吉』
最初のシーンで、幼い日吉丸が
力一杯かけのぼっていった階段です。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉は
伏見桃山城で63才の生涯を閉じた
遺体は遺言によって、ここ阿弥陀ケ峰
の中腹に葬られ、廟と社殿が
建立されました

 ※史跡・概略説明

伏見稲荷大社 京都市伏見区
 伏見の「お稲荷さん」といえば、赤い鳥居と「お狐さん」がすぐ思い出される。全国3万余の稲荷社の総本山として有名である。正月の初詣では全国5指に入るほど、全国から多くの人々が参拝する神社である。正月だけでなく、日常的にも稲荷詣をする人は多く、昔から稲荷講が桔成され、定期的に惣参や代参が行なわれてきた。「稲荷詣」の話は「大鏡」にも「枕草子」にも出ているので、既に平安時代から盛んであったようだ。「稲荷詣」といえば、もともと稲荷山を巡って、三つの峰に鎮座する上社・中社・下社に詣でることだった。(お山巡り)

伏見稲荷大社の概要
式内社 22社 旧官幣大社
祭神 宇迦御魂大神(うかのみたまのたいしん)、佐田彦大神、大宮能売大補
 祭神宇迦御魂神は田の神とされ、狐を神使とする信仰で、五穀豊穣を願う多くの庶民が崇敬した。

創建 711年(和銅4)秦伊侶具(はたのいろく)の創建と伝える。
 5世紀以降、山背国を中心に近畿一帯に繁栄した渡来系氏族泰氏が、古来から神の宿る山として信仰されていた神体山に稲荷神が降臨したとして祀り、氏神として信仰してきた。

信仰の広がり
 平安時代には教王護国寺(束寺)の鎮守として、その勢力を背景に広く崇拝され稲荷信仰が広まった。
中世から近世には、商業経済の発達にともない、農耕神から商売繁盛の神として各地に勧請された。
 信仰内容は多面的で一様でないが、穀霊神の性格が強く、関束・束北地方では、稲荷を屋敷神として魔溝るところが多い。

稲荷神社起源の伝説
 伝説によると、秦伊侶具は稲を植えて栄え心が徹って、餅を的に矢を射たところ、餅は白鳥と化して稲荷山の山頂三ケ峰に飛び去り秦氏も衰えたので、三ケ峰に上中下の社を建てたという。
 稲荷の名は稲生(いねなり)から生じたと考えられ、農業神として信仰されてきた。現在も2月の初午祭で授与される験の杉は田に植えて根がつけば豊作、枯れれば不作という農耕の豊凶占い生じたものである。(「山城国風土記」逸文より)

稲荷大社の祭礼
大山祭 1月5日 注連縄張神事
初午祭 2月初午 稲荷神降臨日
稲荷祭 5月3日 例大祭
お田植祭 6月10日 豊作祈願
本宮祭 7月22・23日 本宮参拝
抜穂祭 10月25日 稲刈神事
火焚祭 11月8日 ふいご祭


泉涌寺 
 東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、順徳天皇の御 代(健保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師が時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事により寺号を泉涌寺と改 めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。
 仁治三年(1242)に四条天皇が葬られてからは、歴代天皇の御陵がこの地に営まれるようになり、以来、皇室の菩提所として厚い信仰を集めている。楊貴妃観音像
ゆえに「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。

境内には、重要文化財の仏殿・舎利殿を始め、天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る
霊明殿などの伽藍が並ぶ。楊貴妃観音像⇒
釈迦・弥陀・弥勒の三尊仏が有名である。

◇関連史跡としての泉涌寺◇
夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
 誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、清少納言の有名な歌です。
泉涌寺の境内の片隅には、この歌碑が建てられています。
清少納言は定子が没した翌年に宮仕えを辞去したものと思われ、晩年は鳥辺野近くのこの
泉涌寺の辺り(月輪)に隠棲し、朝な夕なに定子の眠る鳥辺野の御陵を拝しながら生涯を終えたと言われています。

昭和49年11月に、当時の平安博物館館長であった角田文衞氏が、泉涌寺が清少納言と密接な関係があるので、ぜひとも歌碑を建てたいと希望され、建立されたようです。

豊国廟
 慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見桃山城で63才の生涯を閉じた。遺体は遺言によって、ここ阿弥陀ケ峰の中腹に葬られ、廟と社殿が建立された。豊国廟の五輪塔
 しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓にお参りする人もなく、むなしく風雨にさらされていた。
 明治30年(1897)秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた
 なお社殿は、明治13年(1880)旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として再建されている。

当日頂いたパンフレット資料並びに関係HPを参照して作成しました。

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