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道教の聖地 交野が原
 道教・陰陽道を探る 2003.7.11 交野市

 野市の市民講座で、「道教・陰陽道を探る」歴史ウォークに参加してきました
2003年、7/11(金)午前10時、倉治の機物神社に集合。日本列島梅雨の時期、雨が心配されたが一転、晴となった。じーっとしていても、汗が噴出してくるような「むしむしとした天候」だったが、いつもの様に、70名の元気な顔がそろった。
 桓武天皇は平城京を棄て、新しい都を造り遷都しようと決めたが、はじめから長岡と決めていたわけはなかった。いくつかの候補地に思いを巡らせていたことだろう。その一つの候補地として交野が考えられていたことは間違いないだろう。と、辻先生は話し始められ、桓武天皇が、都を平城京から山背国に移し、長岡京・平安京を営んでからは、交野が原は神仙境となったと考えられ、ここ交野が原は都にとって特別な地域だった。今日は一日、ゆっくりとそれらの地域を歩いてみましょうと、案内頂いた。交野山観音岩の上で

 先ず、境内一杯に七夕祭りの沢山の笹飾りが祭られている、機物神社の本殿前で中村宮司さんより、神社の由来、七夕のお話、茅の輪のことなどのお話を伺った。茅の輪を左から右へと八の字にくぐって今年の無病息災を祈り、機物神社を後にして学研都市線を渡り源氏の滝へと向かった。
 木立に囲まれ薄暗い中を登ってゆくと、久しぶりに見る源氏の滝は、勢いよく水飛沫を上げて滔々と流れていた。滝つぼの近くに行くと、蒸し暑さに容赦なく溢れでる額の汗もひき、幾分かは涼しさを感じた。急な石段を上がると、滝不動さんがあり、不動護摩が毎年正月とお盆に行われていることを聞き、興味を覚える。機会があれば是非とも見てみたいものだ。
 大阪府警察学校の射撃練習を横目に見ながら、交野いきものふれあいセンターに向かって一歩一歩、ゆっくりとサワガニの小路を登った。汗を拭き拭き、小休止を取りながらやっと、センターに到着し、広場で楽しく食事を摂った。
 午後は、白旗池の堤防を歩き、交野山へと一登り。途中ふうふう云いながら、身体中汗を一杯掻きやっと観音岩に登った。遠く六甲の山並みがうっすらと見え涼しい風に吹かれた時、気分はこの上なく爽快だった。
やはり、ここ交野山は神仙境の中心なのだと実感した。

 帰りは、岩倉開元寺の跡が発掘された「石仏の道」を下った石仏の道には、弥勒仏坐像石仏、三尊磨崖石仏、阿弥陀如来立像石仏、阿弥陀三尊磨崖石仏、二尊石仏があり、昨年9月、廃岩倉開元寺関係石仏群として、交野市指定文化財として指定された。辻先生より、石仏一体ずつ丁寧に説明を受け、倉治公園で解散。
蒸し暑い中、本当にお疲れ様でした。ご案内頂き有難うございました。

機物神社の七夕祭り
境内一杯の笹飾り
辻先生のお話を熱心に拝聴
石仏の道、弥勒菩薩石仏前で

コース機物神社→滝不動(源氏の滝)→サワガニの小路→いきものふれあいセンター
(昼食)→交野山→石仏の道→倉治公園
(解散) (行程約5km)



道教の聖地交野が原

 桓武天皇が、都を平城京から山背国に移し、長岡京・平安京を営んでからは、交野が原は神仙境となったと考えられる。都にとって特別な地域だったのだろう。桓武天皇の生母高野新笠の同族・百済王氏の本拠地というだけでなく、都の安寧を祈る、山川の神を祭る神仙境と位置付けられたと思われる。
 桓武天皇から始まった「天神を祭る」祭天を交野が原・柏原で行ったこともその表れであろう。その祭天は、いたって道教的な祭天だった。神仙境の中心は、交野山山系とその周辺だっただろう。

神仙境の中心・交野山

交野山からの眺望は素晴らしい!山頂の観音岩からは360度の眺望
遠く大阪、神戸、京都方面、生駒山などが一望できる。
江戸時代に描かれた交野山
源氏の滝を源とする元倉治中川は
機物神社の北側を流れていた
散策当日は、参加者が次々へと交野山の
観音岩に登って360度の眺望を楽しんだ
岩倉開元寺多宝塔跡地付近の展望台
開元寺が鎌倉時代に交野山の山頂に移され、後、織田勢に焼かれたその跡地
梅雨時の蒸し暑さに噴出す汗を拭き、一息いれる


長岡遷都
 桓武天皇は平城京を棄て、新しい都を造り遷都しようと決めたが、はじめから長岡と決めていたわけはなかった。いくつかの候補地に思いを巡らせていたことだろう。その一つの候補地として交野が考えられていたことは間違いないだろう。
桓武天皇は幼少期を交野で過ごす?
 当時のしきたりを考慮すれば、傍系の皇族の子女山部王(桓武天皇)は、母方の祖父百済王敬福が国司として勢力を持ち、拠点としていた交野郡中宮で多くの月日を過ごしたことだろう。そして、百済王氏の貯えた大陸の政治思想、文化、生活様式を多く学んだことだろう。
 平安時代、桓武天皇が打ち出した数々の政治手法は大陸の影響を受けたものが多くあった。


桓武天皇の長岡・平安遷都を支援

 奈良時代末、桓武天皇は即位すると、新しい親政を目指し、しがらみの多い平城京からの遷都を進めた。 遷都先に決定されたのは山背国だった。
 山背国には、経済的にも、社会的にも大きな影響力をもつ渡来系氏族秦氏や淀川沿線には実母高野新笠の外戚百済王氏が居住していて幼少時より文化的影響を受けてきたことが、新京地決定の大きな要素となったことだろう。
 それに応え、秦氏も百済王氏も新京造営に大きな力を発揮した。
 遷都後、桓武天皇はしばしば交野が原を訪ね、百済王氏宅を行宮とした。
 桓武天皇は「百済王らは朕の外戚なり」として、政権の中枢に多くの百済王一族を登用した
 また、桓武天皇の右腕として活躍した大納言藤原継縄の夫人は、後宮の責任者(尚侍)の百済王明信だったので、天皇はたびたび継縄の楠葉にある別荘を行宮にして遊猟を楽しんだ。


天神崇敬の実践地

 785年・(延暦4)、桓武天皇は「交野柏原」で国家的な事業である祭天の行事をおこなった。これが、日本で行なわれた、初の祭天だった。
 祭天というのは、中国・朝鮮の政治思想に基づくもので、天子は世界に君臨する王者として天帝の意に従って内外を統治することを明らかにするものであった。
 日本が唐の世界的な文化を取り入れて、しかもこれと対等の天帝観をいだき、天意に基いて国を治める決意をこの祭天によって示そうとしたものであった。
 この天神崇敬の思想は、幼少時から母方で育ち、百済文化を通じて中国の政治文化を学んだ結果だろうと考えられる。
 祭天は「交野柏原」の少し高いところに郊祀壇を設け、天皇(または使者)が南から北に向いて、天神を祭り、祭文を誌み上げた。
 交野柏原については、定かではないが、伝承として、片鉾地区の杉ケ本神社南側、一本松の古木があった所という言い伝えがある。
 また、いまの交野天神社の位置でなかったかとも推定されている。
 祭天は、その後も787年(廷暦6年)、856竿(斉衡3)にも交野柏原で行なわれた。


機物神社(はたものじんじゃ)

ご祭神 天棚機比売大神(あまのたなばたひめ)、栲機千々比売大神(たくはたちぢひめ)
由来 創建の年代は不詳。記録によると、文明8年(1476)に神祗管僚卜部兼倪の奉幣があり、元亀3年(1572)、織田信長機物神社社前に禁制札を立て、軍勢狼藉陣取放火寄宿を禁ずる。天正元年(1573)、信長は神境を東西260間、南北67間に定め、神職16人の席次も決めた。

伝説 5〜6世紀、交野山西麓に機織り技術をもった渡来人が住み着き、木綿の生産と機織りで豊かな村をつくっていた。天武朝には、リーダーの豪族は「交野忌寸(かたのいみき)」の姓を与えられるほどの力を貯えていた。その豪族が、氏神として創建したのが機物神社の起こりと伝えられている。
周辺には、8基の後期古墳(円墳)が築かれていた。 

機物神社本殿前 茅の輪

茅の輪(ちのわ)の由来

茅の輪(茅草(かやくさ)で作られた大きな輪)は、正月から六月までの半年間の罪穢(つみけがれ)を祓う夏越しの大祓(おおはらえ)に使用され、それをくぐることにより、疫病や罪蔵が祓われるといわれています。 くぐり方は「水無月(みなつき)の夏越しの祓する人はちとせの命のぶというなり」という古歌を唱えつつ、左まわり・右まわり・左まわりと、八の宇を書くように三度くぐり抜けます。 こうして、心身ともに清らかになって、あとの半年間を新たな気持ちで迎えるのです。 茅の輪の起源については、善行をした蘇民将来(そみんしょうらい)が武塔神(むとうのかみ)(素盞鳴尊すさのおのみこと)から「もしも疫病が流行したら、茅の輪を腰につけると免れる」といわれ、そのとおりにしたところ、疫病から免れることができたという故事に基づきます。


七夕伝説
 平安時代、天皇・貴族の遊猟地「交野が原(枚方、交野)」に往来する貴族の間で、天の川、機物神社を題材に七夕伝説や和歌が生まれたのだろう。

《伊勢物語》
 御ともなる人、さけをもたせて野より出きたり。此の酒をのみてんとて、よき所をもとめ行くにあまの川といふ所にいたりぬ。みこ。むまのかみ、おほみきまいる。みこのた給ひける。かた野をかりてあまの川のほとりにいたるを題にて、歌よみて盃はさせと、のたまふければ、かのむまのかみ、よみたてまつりける。
 
[古今]
  かりくらし たなはたつめに 宿からん
             あまのかはらに 我はきにけり
   業平朝臣

 みこ、歌をかえすかえすいたまふて、かえしえしたまはす。紀ノありつね、御ともにつかうまつれり、それか返し
 
[古今]
   ひととせに ひとたひきます 君まては
              宿かす人もあらしととそ思ふ
     紀 有常

滝不動(源氏の滝)源氏の滝

護摩・祈祷
 薄暗く、そして香の煙に包まれた寺院の中に僧侶たちの読経が響く。やがて中央に設えた護摩壇に積まれた護摩木に火がともされ、僧が次々と護摩木を焚きつつ何事かを一心に祈願している。やがて炎の中に祈願がとどき、成就される。これが密教における「護摩」の修法の様子である。

護摩の本尊
 護摩が仏の崇拝の一手段であるから仏が護摩の本尊になりうるが、日本密教では不動明王が一般的な本尊となる。
 炎の神格化といえる不動明王を通じて、炎そのものを仏と見立て、さらにその炎の仏を通じて、仏の世界に住するさまざまな仏に供え物を捧げることが自然なために不動明王が護摩の本尊として利用されていることが多いのである。

不動護摩による願望達成
 不動明王を本尊として、さまざまな願望を達成するための護摩である。
敬愛。調伏。息災。増益。願望によって、炉の形や衣の色が異なる。
一般的には、健康増進。延命長寿を願う「息災」や商売繁盛、学力増進、金運を願う「増益」がよく行われている。滝不動では、毎年正月とお盆に不動護摩が行われる。

護摩・祈祷
薄暗く、そして香の煙に包まれた寺院の中に僧侶たちの読経が響く。やがて中央に設えた護摩壇に積まれた護摩木に火がともされ、僧が次々と護摩木を焚きつつ何事かを一心に祈願している。やがて炎の中に祈願がとどき、成就される。これが密教における「護摩」の修法の様子である。

左の写真は他の寺院で行われた護摩焚きの様子ですが、滝不動でも毎年正月とお盆に不動護摩が行われる。

四方に矢を射り浄める

炎を上げて燃え出す大護摩


交野が原にまつわる諸説井上氏主宰の「あるっく」より

 8月の終りに生駒山で、木内鶴彦さんを囲み、子供達も大勢参加して星の観察会が開かれました。翌日は星田妙見宮、機物神社、交野天神社を巡るミステリーツアーを楽しみました。後日、その時の取材を特集記事にまとめるため、今度は一人で同じコースを歩いたのですが、その時、機物神社の中村宮司が興味深い話を聞かせて下さいました。
 以前、枚方のある病院長が中国の西安を訪れ、要人と名刺交換をした際、枚方と書かれていたのを見て『枚方とは交野が原のことか?』と問いかけられたそうです。
 『交野が原なら機物神社というのがあるはずだ』とも言われたとか。大昔に自分たちの祖先が、農耕文化と織物の技術を交野が原に伝えたと言う伝説は中国でも語り継がれていたんですねえ。驚きました。まさにシルクロードですねえ。
 
惟喬親王、交野ヶ原遊猟(河内名所図会) 機物神社では古式ゆかしい 七夕祭のほかに、冬至の太陽をお祀りするため、毎年大晦日に大火焚きの神事を行ないます。
 交野が原は星がきれいなところでしたから、天上を地上に映したのが機物神社でした。紀元前3世紀の頃、中国で発生した陰陽道(おんみょうどう)が仏教伝来と前後して日本にも伝えられましたが、星を神とし、天文を観測して万物を占う陰陽道では、都の南というのは要点とされ、交野が原は長岡京の南に当たることから大事にされたんです

山岳宗教が盛んになる前、交野が原は陰陽師の修行場であったとも言われています……。


◎桓武天皇が交野が原で北極星を祀る

 桓武天皇は平城京から長岡京に遷都した翌年の延暦4年11月、都の南効にあたる交野郡柏原(枚方市片鉾の西南)に郊祀壇(こうしだん※都の郊外で行う祭天のための土壇)を築いて北極星を祀り、長岡京遷都の大事業をなしえた神恩を謝して祈られた。これは、中国の皇帝が毎年冬至に天壇を設けて北天を祀る例にならったもので、日本ではこれが最初のことであった。

中国では古くから北極星の存在を知り、日月星辰の運行を測って暦が作られていたから、皇帝は毎年これによって季節を知り、農民を導いた。なるたけ多くの年貢米を取り立てるためにも、天体の測定は国の元首の重い任務であるとされた。そのため宮廷の近くに大規模な天壇を造って、皇帝自ら北辰を礼拝し、司天台(天文台)の役人は天体観測と翌年の暦を立てた。わが国でも奈良時代に、大宝令で陰陽寮(おんようりょう)という役所を朝廷内に設けてそれと同じ仕事をしたが、日本の天皇で星を祀られたのは桓武天皇が最初であった。(「交野市史」「枚方市史」「郷土枚方の歴史」参照)

◎北斗七星と織女星 中国古代の皇帝の袞衣(こんい※竜の模様の縫い取りをした天子の礼服)には、左袖に北斗七星、右袖に織女星が置かれている。……(中略)……織女は天帝の娘といわれ、その身分はこの上なく高い。その主掌するところは瓜果、糸綿、および婦人の手技としての機織である。それに対する北斗も天上の回転する (たま)であり、天の中央に在って四郷を治め、諸事万般はもちろん、とりわけ、農耕の規準となる尊い星である。両者ともに身分は非常に高く、身分の高さは古代にあっては最高の司祭者を意味する。この二星が主管する「耕」と「織」も、二つながら古代中国においては皇帝と皇后による祖廟祭祀の中心をなしている。

以上の理由から袞衣の両袖上の北斗と織女星はワンセットと見なされ、この組み合わせはとりもなおさず古代中国宗廟祭祀の表出として受け止められている。(吉野裕子著「陰陽五行と日本の天皇」人文書院より引用)


当日頂いたパンフレット資料並びに関係HPを参照して作成しました。

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