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東高野街道V(河内街道)を歩く
 2002.2.7 大阪府四條畷市、寝屋川市

忍岡古墳、高宮廃寺跡、寝屋古墳など

河内街道河内街道
 河内街道は、江戸時代には枚方道と呼ばれ明治時代になり河内街道と呼ばれたらしい。
 道筋は、「北河内郡枚方町大字伊加賀の国道第2号路線より分岐して、中河内郡竜華村植松の八尾停車場敷地界に達し、近年まで北河内と中河内を結ぶ主要道でした。
 その道筋には、小楠公墓地・雁塔(四條畷市)、高宮廃寺跡(寝屋川市)、磋だ神社・一乗寺(枚方市)などの史跡も存在しています。
 しかし、最近の交通事情の変化により、広い道路がどんどん開通し、今では河内街道という名すら忘れられようとしている。

コース: JR学研都市線忍ヶ丘駅→忍陵神社・忍岡古墳→河内街道(旧170号線)→
讃良川→高宮廃寺跡→寝屋川公園→寝屋古墳→星田駅(解散)(行程約7.5km)

東高野街道河内街道)を歩くMAP

 2/7(木)、AM9:40過ぎ、JR学研都市線河内磐船駅を乗車、忍ヶ丘駅で下車。駅前より西へ200〜300mばかり行った小高い丘の上に忍陵神社はあった。1,200前の延喜式内社。昭和9年の第1室戸台風で神社が倒壊し、復旧工事中に竪穴式石室が発見された。北向の前方後円墳で全長87m、後円部径45mの忍岡古墳である。後円部に忍陵神社が建っている。

 この小高い丘は、近世、夏の陣で、2代将軍徳川秀忠が本陣を設営し勝利したので、御勝山(おかちやま)ともよばれている。同日、初代将軍家康は本陣を星田平井家および新宮山に設営し大阪城を目指した

 
また先生より、この丘より南にある四條畷の雁屋遺跡から弥生時代の人骨が20体ばかり発見された事、また北側に東から西に流れる讃良川の遺跡は、旧石器、縄文後・晩期、古墳時代、白鳳時代に創建されたと推定される更良寺等々の遺跡が重なりあった貴重な地域であることなど詳しく説明を受けた。

 ※人骨の展示を見たいと思い早速、2/10、四條畷市立歴史民族資料館を訪れ、四條畷市の旧石器時代から始まる沢山の歴史遺産を見学した。こうやまきの木簡に横たわる弥生時代のミイラに感激。また、1500年前の四條畷は馬の牧場で沢山の馬が育てられ王朝に供給された。鎌田遺跡のまつり場からは馬の下あごが発見されたこと、他にも、馬の埴輪、ミニチャアの人や馬の形代など沢山の遺物が展示されていて、職員さんから詳しく説明を受けた。四條畷市立歴史民族資料館(裏側)JR学研都市線から見える

 忍陵神社から西へ歩き、河内街道(旧170号線)を北進、途中讃良川を渡り高宮神社に寄る。住宅街の細い路地を東に歩き、大社御祖神社の鳥居をくぐり、本殿に到着。この境内に、白鳳時代、高宮廃寺が建っていた講堂、金堂、東塔、西塔、中門、南門を備えた薬師寺式の大規模な寺院であった。
 ここで、昼食。午後は、神社を後にして閑静な住宅街を北に歩き、大阪市水道局豊野浄水場を左に見ながら、東へ進むと府立寝屋川公園に到着。野球場や陸上競技場、ソフトボール広場、テニスコート、芝生広場などを完備した素晴らしい公園に驚いた。公園の北側、寝屋川サナトリウムの東に寝屋古墳があった。北河内地域で最大の横穴式石室を有する、古墳時代後期のものである。
 JR学研都市線を東に越して、東高野街道を北に大谷の静かな家並みを眺めながら、星田駅に到着。午後2時過ぎ解散。13年度の市民講座も本日を持って最終日でした。
 この1年間、いろんな所をご案内いただき有難うございました。来期もどうぞよろしくお願いします。


忍陵神社
忍岡古墳の後円部に建て
られているのが忍陵神社
手前が忍岡古墳
保存されている建物
左奥が忍陵神社本殿
大社御祖神社
(おおもりみおやじんじや)
この境内に高宮廃寺が建っていた
府立寝屋川公園
スポーツ施設が完備している
北側の一角に寝屋古墳がある

 ※史跡・概略説明

忍岡古墳(しのぶがおかこふん) 四條畷市岡山
 JR学研都市線「忍ケ丘」駅から200mほど西へ行くと、左手に小高い丘陵が見え、その頂上部にのぼる。
 忍陵神社で、ここが忍岡古墳である。忍岡古墳石室
昭和9年9月の第1室戸台風によって忍陵神社が倒壊した.その後復旧工事が行なわれ、昭和10年4月拝殿整地中に竪穴式石室が発見された

 石室の規模は、幅1m,長さ6mで板状割石を内面に揃えて小ロ積みしたもの。
 この忍陵古墳は、忍ケ丘丘陵の突端部の景勝地に築造したものである。‐
北向きの前方後円墳で、全長87m、後円部径45m、高さ6mの規模で、石室内から石釧、紡錘車、鍬形石、剣、斧、刀子が出土している。
 これらの出土遺物や石室・古墳の形から古墳時代前期につくられたと推定されている。
 北河内で同時期の古墳として、枚方市の万年寺山古墳、藤田山古墳、交野市の妙見山古墳があげられる

忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ)
 忍岡古墳の後円部に建てられているのが忍陵神社である。
社伝では、1200余年前より四條畷の岡山、岡山東、砂地区の守護神 熊野皇大神・藤原鎌足公・大将軍神・馬守大神を祭祀としてきたと伝える。(延喜式内社)
近世、大阪夏の陣では、2代将軍徳川秀忠の本陣が設営され勝利したので御勝山と称された。
同日、初代将軍家康は本陣を星田平井家および新宮山に設営し大阪城を目指した。

【讃良川(さらがわ)の遺跡
 忍岡古墳の北側、寝屋川市南端の台地との谷間に流れる川が讃良川である。
東の山々にその源を発して、門真市巣本附近で寝屋川に合流しているが、昔はこの丘陵の谷間を自由に流路を変えて流れ、西の平地にいたって天井川を形成していった。
 この讃良川畔一帯は、旧石器、縄文後・晩期、古墳時代、白鳳時代に創建されたと推定される更良寺等々の遺跡が重なりあった貴重な地域である

高宮廃寺跡(国指定)
白鳳時代の寺院(跡)塔の礎石
昭和28年大阪府教育委員会の調査で大社御祖神社(おおもりみおやじんじや)の境内に東塔跡が残っていたことから、寺の存在が知られていた
その後、周辺を含め宅地開発の申請があり緊急調査された。
その結果、推定されたとおり白鳳時代に創建された寺院跡が発見された。そして、昭和55年「史跡」として国の指定をうける。
寺院の特色
1、南大門から中門までの距離が約50mもあり同時代の他の寺院と比ぺると大変な距離をもつ。
2、南大門をはじめ、全ての建物跡から、白鳳時代始め頃の瓦が出土する。
(この大規模な寺院が短期間のうちに建てられたことを意味している。)
伽藍配置は、塔が二つ並ぷ薬師寺式とよばれる形式
3、高宮氏の氏寺として、高宮氏の邸宅跡に創建されたと推定される。
白鳳時代、ここに大規模な寺院を創建し、推持した高宮氏はきっと大きな勢力と財力をもつていたのだろう。
4、渡来系豪族高宮氏
 5・6世紀から飛鳥時代にかけて、朝鮮半島から多様な文化と技術をもった人々が海を渡って大和の国(とりわけ河内の河内湖の北・東の湖岸)に拠点をおいた。
高宮氏もそのような渡来系氏族の一つだっただろう。高宮廃寺・東塔心礎
しかし、記録上では不明なことが多い氏族である。
5、高宮郷の北隣には、茨田の堤築造工事に大きな力を発揮した渡来系技術集団の泰氏の拠点「太秦」がある。

 高宮廃寺跡は、高宮にある古代寺院跡です。高宮の集落の東側は標高30m 前後の小高い丘陵になっていて、遺跡はここに鎮座する式内社大杜御祖神社(しきないしゃおおもりみおやじんじゃ)の境内を中心に広がっています。
1979年(昭和54年)に市教育委員会によって、寺域の範囲や伽藍(がらん)の確認調査が行われ、金堂・講堂・回廊の位置が確認されました。伽藍配置は、神社社殿部分が未調査のため確定できませんが、この部分に塔跡があるとすれば、金堂の前面に東西2塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置に復元されます。
 発掘調査で出土した瓦は、7世紀後半のもの(素弁八葉蓮華文軒丸瓦・複弁八葉蓮華文軒丸瓦)と8 世紀のもの(複弁四葉蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦)、13世紀から14世紀のもの(巴文軒丸瓦・唐草文軒平瓦)と大きく3時期のものに分類できます。
 このことから高宮廃寺は白鳳時代(7世紀後半)に創建され、奈良時代にかけて営まれたあと廃絶し、中世に一時期再建されたと考えられます。
 中世の瓦は講堂跡付近でしか出土していないので、再建された寺院は大杜御祖神社の神宮寺になっていたと推察されています。


寝屋古墳(ねやこふん)(大阪府指定史跡)寝屋古墳内部
 
 寝屋川公園北側の一角に存在する、横穴式石室をもつ古墳です。古墳の周辺は公園整備に伴う大規模な造成工事ですっかり地形が変わってしまいましたが、古墳は南側を流れる打上川の北岸の丘陵南斜面に立地しているようです。


 古墳は墳丘の盛土部分が変形していますが、現状で直径22m、高さ5mをはかる円墳です。南側の谷に向けて横穴式石室の入口が開かれています。横穴式石室は巨石を使用して築かれており、現状の規模は幅2.5m、高さ1.6m、奥行き5.5mです。しかし、石室内には大量の土砂が流入しているようで、高さは本来2m以上あると考えられます。

 平成4年(1991)に公園整備に伴う試掘調査が大阪府教育委員会によって行われ、その結果石室の通路(羨道)および奥室(玄室)の一部が寝屋古墳破壊を受けており、現状の石室が玄室部分であることがわかりました。調査成果より石室の全長を復元すると、10m程度となり北河内地域最大、大阪府下有数のものとなります。
 石室内などから遺物はほとんど出土しておらず、古墳の築造時期は明らかではありませんが、石室の構造等から古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初頭)に築かれたと考えられます。
 (寝屋川市HPを参照)


四條畷市立 歴史民族資料館
四條畷市塚脇3-7 
TEL 072-878-4558
JR学研都市線四条畷駅下車北へ10分

 四條畷市立歴史民族資料館の展示物
 2/10(日)、歴史民族資料館を訪ねた。

 学生さんが10人ばかり歴史の勉強に当館を訪れていました。職員さんから、展示物について分かりやすく親切に説明をして頂いた。
 雁屋遺跡から出土した、弥生時代の人骨(本物)をまじかに見ることができ感激しました。

  四條畷市雁屋遺跡
  河内潟をのぞむ拠点的集落
 雁屋遺跡は四條畷市雁屋・江瀬美町・美田町にかけて分布する弥生時代中期から後期にかけての遺跡です。その最初の調査は1986年でした。その調査によって弥生時代中期の方形周溝墓の全容が解明されたのです。
 方形周溝墓は当時そのままの状態で発見され話題になりました。方形周溝墓は、死者を葬る四角のマウンドがあり、その周りを溝がめぐるものです。1辺13m前後のものが4基発見され、それぞれ2〜11人が葬られていました。
 厚さ13cm以上もあるコウヤマキ製の立派な組合せ式木棺は、腐らずにそのままの姿で数基発見されました。この中の人骨はすでに消えていました。 その他、カヤ・ヒノキ材がつかわれていました。これらの木棺はほとんどが腐っていましたが、人骨がそのまま残っているものもありました。

木棺に眠る人骨はムラのリーダー!
木棺に眠る人骨

(四條畷市立歴史民俗資料館の資料より)

当日頂いた資料並びに関係HPを参照して作成しました。

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