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渡来人と日本文化
渡来文化の里 南山城を訪ねる
 安福寺、木津川、泉橋寺、高麗寺跡、
椿井大塚山古墳、祝園神社
など
2002.10.22 京都府相楽郡・木津町、山城町

 〔渡来人・高麗(こま)氏・狛(こま)  高麗寺(こまじ) 
 高麗寺(国史跡)高麗寺跡で辻先生より説明を受ける、足元に礎石がある
 7世紀初頭(飛鳥時代)に創建されたわが国最古の仏教寺院の一つである。この地がかって相楽郡大狛郷に属することから、朝鮮三国のうちの高句麗からの渡来系氏族・狛氏とのかかわりが指摘されており、文献資料からは、天平年中(奈良時代)に存在したことが「日本霊異記」に記されている。
 伽藍は、木津川を見下ろす台地に南面して立地し西に金堂、東に塔を持つ発起寺式の伽藍配置で塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装しており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続します。寺域は東西約200m、南北は190mの規模を持ち、その周辺には諸堂塔に葺かれた瓦を生産した高麗寺瓦窯や高井手瓦窯が存在し、北方には高麗寺造営氏族のものと考えられる大規模な居館跡(上狛東遺跡)が発見されている。(現地案内板より)

高麗寺跡は1934年(昭和9年)、山城町の上狛に住む中津川さんが発見した。
※埼玉県には「高麗郷」(日高市)、東京の多摩には「狛江市」があり、ここもまた高麗氏が渡来して開いたところである。
 創建については諸説があり、確かなことは未だ不明であるが、飛鳥時代に南山城に勢カを伸ばした渡来氏族高麗氏・狛氏によって創建されたと推定されている。
 1938年(昭和13)の発掘調査で、東に塔、西に金堂、北に講堂を配する法起寺式伽藍配置が確認された。 高麗氏・狛氏は高句麗から渡来した氏族。高句麗滅亡時に渡来した者が特に多いと考えられる。 

【木津川】近世後期の木津の浜の絵馬(御霊神社蔵)、船の往来など往時の盛況振りが描かれている
 古くは輪韓鼻河(わからがわ)、山代河、泉河(いずみがわ)と呼ばれた。
鈴鹿山脈、布引山地を源とし三重県西部、京都府南部を西流し、八幡市橋本で淀川に流入する。
 古代から近江、山代、大和、摂津の四国を結ぶ水上交通の中核として利用されており、木材などが盛んに輸送された。
大阪湾につながる木津川

木津川は、三重県伊賀地域を源流とし、200余りの支流を合わせ、京都府、奈良県にまたがる延長約100kmの川です。京都府八幡市で、滋賀県や京都府を流域とする宇治川、桂川と合流し、淀川となって、大阪湾に注ぎ込みます。


 木津

 木津町の泉木津は木津川に沿う重要な津。ここには古代〜中世に大寺院などが泉木屋(いずみきや)と呼ばれる施設を有し、近世でも「津」として繁栄した。
周辺の水田を潤す用水としても重要。

《当日、渡った木津川の橋》
泉大橋(国道24号木津町ー山城町)   
  昭和26(1951)年架橋   長さ383.6m 幅7.5m    鉄筋コンクリート造   
 歩道が付け加えられたのは昭和49年9月11日
開橋(精華町北垣外ー山城町平尾)   
  昭和46(1971)年架橋   長さ436.4m 幅8.5m   鉄筋コンクリート造

コース: JR学研都市線木津駅→安福寺→木津川、泉大橋→泉橋寺→高麗寺跡→
椿井大塚山古墳→木津川、開橋→祝園神社→R学研都市線祝園駅(行程約8km)

渡来文化の里 南山城を訪ねるMAP

 2002.10.22(火)、AM9:40過ぎ、学研都市線木津駅下車。10月に入り、気候がよくなり参加者も増えたようだ。駅前がいつもの元気な顔で一杯になった。辻先生からウォークの行程など説明を受けたあと、安福寺に向けて出発した。駅から北へ学研都市線の踏み切りを渡り、10分ばかり歩いたところに神社があり、境内に入ったところの左手に、平重衡の墓と書かれた十三重の塔があった。安福寺にある、平重衡の墓
 本堂に上がり、住職さんから平重衡が南都焼討をしたこと、南都焼討に怒った東大寺・興福寺の宗徒の要求で重衡が木津川の河原で処刑されたことなどユーモアたっぷりのお話しを伺った。
また、辻先生より木津川の水運、分けても古代の平城京、藤原京などの造営に係わる木材の運搬はここ、木津川の浜に荷揚げされ陸路を通って運ばれたことなど詳しくお聞きした。
 長い泉大橋を渡り、741年頃行基が泉川に架橋した時、供養のため建立したという、泉橋寺に寄った。南都焼討の犠牲者を供養した立派な五輪石塔に、鎌倉時代の5mにも及ぶでっかい地蔵石仏に圧倒された。
 製茶業を営む沢山の商家の町並、山背古道を北に向かって歩き東へ24号線を越して、さらにJR奈良線を跨ぎ大きな墓地を通り越した所に、高麗寺跡があり、塔心礎の周りで高麗寺のこと、渡来系氏族高麗氏・狛氏のこと、また紫式部の枕草子に書かれた「山は鹿背山(かせやま)など色々と教えて頂いた。木津川を南に、東に鹿背山、雄大な眺めの場所に古代の寺院が建っていた。
 昼食後、JR上狛駅で小休止。再び山背古道を北進、静かな町の中をくねくねと歩くこと40分、JR奈良線を東に越した山の麓に、椿井大塚山古墳があった。古墳の墳墓上から見える、木津川流域は素晴らしい眺めだった。北西の方向には交野の倉治の山と鉄塔が見えた。木津川を一手にした時の権力者が葬られるに相応しい場所であった。
 帰りは、山背古道から外れ木津川の開橋を越し祝園神社を訪ねた。薄暗い神社の中で興味深くお聞きした、イゴモリ神事(忌み籠もる)のこと、いつまでも忘れないだろう。
今回は、古代の南山城の史跡を訪ね、往時の人々の生活と繁栄の跡を窺い知ることが出来た一日でした。


    高麗寺(国史跡)
 塔跡…12・8uの瓦積基壇を有し、中央に心礎。
心礎には表面に円柱穴、側面に舎利孔を持つ、
全国でも唯一の形式。
(舎利孔=写真の左側、側面に孔を穿ってある)
         泉橋寺の五輪塔
 1180年(治承4)平重衡の南都焼打の際焼失、そのときの犠牲者を供養した五輪石塔(国重文・室町)
 重要文化財。高さ2・4m、花崗岩でつくられていて、室町時代の初期に製作されたものと推定されている。
椿井大塚山古墳の上で
三角縁神獣鏡、耶馬台国の
女王卑弥呼
の話など詳しく説明を受ける
椿井大塚山古墳からの展望
古墳の前方部には民家が建てこんでいる
遥か向こうに倉治の山が見えた

 ※史跡・概略説明

安福寺 
 哀堂(あわれどう)と称されてきた。
 平清盛の5男で、一ノ谷の戦いで捕らえられ平重衡が,南都焼打で興福寺・東大寺を焼き払った罪で、1185年(文治元)木津川の河原で斬首され、その菩提を弔うために創建された。当初は衰堂と称された。

南都焼討安福寺
 1180年(治承4)平氏政権が行なった奈良の寺院勢力討伐事件。源平の争乱のなかで、反平氏勢力として蜂起した南都の寺院勢力に対し、平重衡を大将とする討伐軍は、12月28日の夜、奈良市中に火を放ち攻略した。
 これにより、東大寺大仏殿をはじめ東大寺・興福寺の堂舎や僧房はことごとく焼失した。
 1184年(寿永3)一ノ谷の戦いに敗れ捕虜となって鎌倉へ送られる途中、1185年東大寺・興福寺の宗徒の要求で奈良に送られ、木津川の河原で処刑された。

泉橋寺  玉龍山泉橋寺。浄土宗
泉橋寺の地蔵像
 寺伝 行基が5畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)に造営した49院の一つと伝えられている。
 木津川に架かった泉大橋の北詰め、木津川の堤防下に泉橋寺がある。
741年(天平13)頃行基が泉川に架橋したとき、供養のため建立した橋寺で、完成時には聖武天皇も訪れ、食封(じきふ)100戸を与えた。
当時は方1町の大寺で「蜻蛉日記」の筆者藤原道綱母も968年(安和元)初瀬詣の途次宿泊している。
1180年(治承4)平重衡の南都焼打の際焼失、そのときの犠牲者を供養した五輪石塔(国重文・室町)が境内にある。
焼失後、金堂、講堂など再建されたが、中世の兵火で哀え、現在は1690年(元禄3)建築の表門、本堂、観音堂を残すのみである。

露座の地蔵像
 寺の入口西側に「山城大仏」と呼ばれる鎌倉時代の丈六(約5m)の巨大な地蔵石仏がある。石仏の頭部と両手は応仁の乱の際の兵火で焼損し、1690年(元禄3)に補修された。

椿井大塚山古墳(つばいおおつかやま)
築造年代と規模
古墳時代前期前半の3世紀後半から4世紀初頭の築築造と考えられている。椿井大塚山古墳図面
全長185m,後円部径108m、高さ19m、前方部巾68mで、竪穴式石室。
前方部のバチ形が特徴。南山城最大の前方後円墳。築造年代、規模、形態から発見当時から桜井市にある箸墓古墳(卑弥呼の墓と言い伝えられる古墳)と比べられてきた。

発見
 1953年(昭和28)に旧国鉄の保線工事中に大雨で墳丘の一部が崩れて石棺が露出し、古墳と分かり調査が行なわれた。その後、1971年と1992年(H4)にも行なわれた。
出土品
 三角縁神獣鏡32面。内行花紋鏡等4面。鉄製刀剣銅鏃などの武器額。
工具・農具・魚具など約300点に及んでいる。特に、三角縁神獣鏡32面は発見当時大反響を呼んだ。

三角縁神獣鏡三角縁神獣鏡のイラスト説明
 三角縁神獣鏡32面は中国魏時代の舶載鏡で、これと同笵の鏡が各地の古墳から出土している。この古墳の被葬者は大和政権の有力者と推定され、同笵鏡の分布が大和政権の確立過程ををみるうえで貴重な手がかりになるのではないかと考えられている。
 魏志倭人伝には中国の魏と日本列島に所在した邪馬台国との密接な交渉が記録され、三角縁神獣鏡のなかに魏の年号や地名がみえることから、耶馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から賜った銅鏡百枚をこの三角縁神獣鏡にあてる説もある。
 椿井大塚山古墳には日本列島の古墳から出土した総面数の1割にあたる銅鏡を埋葬していた。


祝園神社(ほうそのじんじゃ)
  祭神:天児屋根命【あめのこやね)祝園神社
    健御雷命(たけみかずち)

    経津主命(ふつぬし)

 創建:詳細は不明であるが、延喜式内社で、奈良時代にはすでに存在していたと考えられている。
  祭礼:1月庚申の日から3日間行なわれる神事いごもり祭(京都府指定祝園の居籠祭)はよく知られている。

「日本書紀」によると、武埴安彦(たけはにやすひこ)が崇神天皇に背いてこの地で討たれ、反乱軍の屍が溢れたので、羽振苑(はふりえん)と呼ばれるようになったとあり、それが後に転訛して祝園(はふりえん)という地名になったという。
居籠祭は武埴安彦の霊を鎮めるために始まったと伝えている。


居籠神事(京都府指定祝園の居籠祭)
 祝園の祭事の3日間は、文字通りイゴモリ(忌み籠もる)で各家門戸を閉じ、井戸水は汲まず置き水を使い、米も洗わず、家の内外の掃除もしないというのが昔のしきたりだった。いごもり祭りの松明
釜の蓋は 縄で十字に縛り、煮炊きなどせず、一切物音がしないようにして、前日までに作った精進料理を食べて、斎戒沐浴し、ただ祈りの神事をするというものである。
 物音が全くしない沈黙の祭りである。

 崇神天皇の時代に、朝廷にそむいた武埴安彦(たけはにやすひこ)がこの地で討伐されましたが、その霊は鬼神となって柞の森(ははそのもり)にとどまり、人々を悩ませていました。これを鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたのが祝園神社であるといわれています。毎年、1月の中ごろ3日間行われるいごもり祭りは京都府の無形民俗文化財に指定されています。柞の森にこもった鬼神を鎮めるために神様にお願いしたのがこの祭りの始まり。暗闇のなかで、たいまつを持った人が種まきのまねをする儀式が行われます儀式が行われている間は、村全体が消灯するなど古いしきたりが残されています。


当日頂いた資料並びに関係HPを参照して作成しました。

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