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2001.11.27  宇治市
宇治古道を歩く
 源氏物語 宇治十帖をめぐる
 源氏ろまん京都宇治ウェッブガイドで宇治を堪能して下さい。
晩秋の一日、市民講座で宇治古道を歩き源氏物語の宇治十帖の古跡を廻ってきた。
源氏物語は、じっくりと読んだことがなく理解できる域を越えているが、一つ一つ古跡を廻り、人々が源氏物語にかけた夢に少しでも触れることが出来た歴史ウォークでした。
 宇治にはこれまで何度か足を運んだが、大吉山には初めて登った。展望台から眺めた、宇治川と宇治の町並みが印象的であった。
 世界遺産・宇治上神社では宮司さんから、国宝・拝殿は平安時代の住宅建築を推察できる貴重な寝殿造りの建物であり、屋根の形が優美で妻に庇をつけた縋破風(すがるはふう)を用いていること、国宝・本殿に収められている内殿の三神社建物は日本最古のものなど、詳しくお話をお聞きした。
 また、三室戸寺や興聖寺の琴坂などの見事な紅葉を存分に楽しむこともできた。
 
源氏物語 
源氏物語のことを詳しくお知りになりたい方は、こちらをクリックして下さい。

1.平安時代の物語 全54巻
2.紫式部作 1001年〈長保3)以降1010年(寛弘7)頃までに成立
3.「伊勢物語」などの歌物語と、「竹取物語」などの伝奇物語を統合した物語文学の最高峰と評価されている
4.巻一「桐壷」から巻三十三「藤裏葉」までを第1部
巻三十四「若菜上」から巻四十一「幻」までを第2部
巻四十二「匂宮」から巻五十四「夢浮橋」までを第3部とするのが定説
とくに「橋姫」から「夢浮橋」までを「宇治十帖」とよぷ
・第1部は絶世の美男で、あらゆる能力に恵まれた光源氏の女性遍歴と無類の栄華を、第2部はその栄華の崩嚢を描く。
・第3部宇治十帖は光源氏の息子として生まれた薫と宇治の姫君たちの物語。

源氏物語絵巻(国宝)
 12世紀前半制作の現存最古の源氏絵の絵巻物「源氏物語」の各帖から1ないし3場面を遷ぴだして五グループで分担制作したものと推定されるが、現在では詞二十段、絵十九段の八帖分と若干の断簡が伝わるのみ
宇治十帖の古跡
 宇治の古跡沿いに宇治十帖の古跡が点在しています。もちろん源氏物語が紫式部の創作によるものですから、古跡も後の世の研究者などによる創作です。しかし、宇治の地や、いまに伝えられる平安時代の王朝文化の薫が、古跡を生み、いまに伝えられるのでしよう。

紫 式 部宇治川沿いの紅葉
 源氏物語、紫式部日記などの作者。生年は970年代、没年は1010年代と推測される。
父は兼原為時。母は藤原為信の女。本名不祥。女房名は藤式部。
「源氏物語」の女主人公「紫の上」にちなんで死後紫式部の呼称が生じたらしい。
藤原宣孝の妻となり、大弐三位を生む。学者で漢詩人の父に育てられ漢詩文の素養を身につけた。夫の死後に書き始めた物語が高い評価をうけて、藤原道長の女上東門院(一条天皇の中官)彰子に出仕。宮仕えの苦労が紫式部日記に記される。
「源氏物語」の執筆はその後も継続され虚構ではあるが同時代史でもある。

宇治古道 奈良街道宇治川と川向こうに見えるのが大吉山
 京都から奈良へ向かう街道は、現在は国道24号が最もポビユラーでよく利用されている。
 しかし、平安時代、都から前都平城京へむかう街道は、東海道の追分から分かれて山科盆地を縦断し、宇治山の山麓沿いを醍醐、黄檗、宇治(宇治橋)を経て奈良にいたる奈良街道が最もよく利用された。
その後、豊臣時代に桃山城が創建されてからは、伏見を経由して醍醐に入る奈良街道へ移つていった。

コース: 京阪宇治→東屋・椎本→手習い→三室戸寺→蜻蛉→総角→
大吉山(昼食)→宇治上神社→早蕨→興聖寺→塔の島→橋姫→
夢浮橋→京阪宇治(解散)     徒歩行程約4.5km



三室戸寺本堂
宝亀年間(7世紀)に光仁天皇が奇瑞により金銅千手観音像を得、大安寺の僧行表に宇治の御室を下付して伽藍を造営させたのが創建と伝える。

三室戸寺三重の塔
参拝路に添って奥へ進むと、鐘楼横に源氏物語宇治十帖の「浮舟の古跡」がありそのさらに奥には姿の美しい三重の塔が建っています。

興聖寺
琴坂の紅葉は素晴らしい
興聖寺へに参道は、参道脇の湧き水のせせらぎが琴の音に聞こえる事から琴坂と呼ばれている
三室戸寺の庭園風景
5000坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、5月にはツツジ(2万株)、6月にはアジサイ(1万株)7月にはハス・秋の紅葉と四季を通じて美しい花が楽しめます。
 
源氏物語宇治十帖古跡めぐり
 1.東屋(あずまや)《源氏物語第五十帖》 (東屋観音)
 さいとむるむぐらやしげき東屋の あまり程ふる雨あそそぎかな」
少将との婚約を破談にされた浮舟は、中君の許に預けられますが、偶然浮舟をみつけた匂官が強引に近づきます。
それを知った薫は、浮舟を宇治に隠します。

2.椎本(しいがもと)《四十六帖》浮舟古跡(三室戸治境内) 彼方(おちかた)神社
 「たちよらむ蔭と頼みし椎が本 むなしき床になりにけるかも」
 薫から噂を聞いた匂宮も宇治に立ち寄り歌を贈ります。
 やがて八の宮は姫君に心を残しつつ亡くなりました。薫は姉の大君へ自らの想いを告げるのですが・・・。

3.手習(てならい)《五十三帖》 手習の杜
 「見を投げし涙の川の早き瀬を しがらみかけて誰かとどめし」
 意識不明の浮舟を助けたのは横川の僧都とその母尼でした。
 入水出来なかった浮舟は出家します。僧都から消息を聞いた匂宮の母明石の中宮は、薫にその話を伝えます。

4.浮舟(うきふね)《五十一帖》 三室戸寺境内・鐘楼の横
 「たちばなの小島は色もかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ」
 中君への手紙から、匂宮は浮舟が宇治にいることを知り、闇にまぎれ薫のふりをして浮舟と契る・・・
情熱的な匂宮と誠実な薫、二つの愛に苦悩する浮舟はついに入水を決意するのでした。

5.蜻蛉(かげろう)《五十二帖》 2mも自然石の石碑
 「ありと見て手には取られず見ればまた ゆくへも知らず消えし蜻蛉」
 浮舟が消え混乱のまま葬送が終わります。大君とは死別し、中君は人のものとなり、浮舟は手に入ったと思えば行方知れず・・・・薫は宇治の姫君たちとのはかない縁を思い、独り呟くのでした。

6.総角(あげまき)《四十七帖》総角古跡
 「総角に長き契りを結びこめ おなじ所によりもあはなん」
 大君は妹中君と薫の結婚を願いますが、薫は匂宮と中君を強引に結婚させます。しかし、高貴な匂宮は外出が難しく中君の元へ通えません。心痛のあまり大君は薫に見取られながら死んでいきます。

7.早蕨(さわらび)《四十八帖》
 「この春はたれにか見せむ亡き人の かたみにつめる峰の早蕨」
 父に続き姉をも失った中君を慰めようと、山の阿闍梨は早蕨などを贈ります。
やがて匂宮は中君を京へ迎えますが、薫の中君への親密な態度に嫉妬します。

8.宿木(やどりぎ)《四十九帖》
 「宿りきと思ひ出でずば木のもとの 旅寝もいかに寂しからまし」
匂宮は心ならずも佐大臣の娘と結婚し、薫は故大君の面影を求めて中君に言い寄ります。同情した中君は、大君に似た異母妹浮舟のことを話すのでした。新しいヒロインの登場です。

9.橋姫(はしひめ)《四十五帖》 橋姫神社・縁切りの神様
 「橋姫の心をくみて高嶺さす 棹のしづくに袖ぞぬれぬる」
 光源氏の異母弟の八の宮は宇治の山里で仏道に深く帰依し、俗聖と呼ばれていました。
自分の出生への不安から厭世的な薫は、その人柄に惹かれ宇治に通ううち、美しい二人の姫君を見いだします。夢浮橋古跡

10.夢浮橋(ゆめのうきはし)《五十四帖》
 「法の師とたづぬる道をしるべにて 思わぬ山に踏み惑うかな」
 薫は横川の僧都を訪ね、浮舟が生きていて出家したことを確認します。
浮舟の弟小君に文を託しても頑なに人違いと拒む浮舟に、誰かが恋人にして隠してでもいるのかと思う薫でした。
 ※「浮橋」とは、筏(いかだ)や舟を水上に浮かべ、その上に板を渡しただけの橋です。いつ流されるかわからない「はかない橋」は、源氏物語の根底に流れる「無常感」を象徴しているようでもあります。

史跡・概略説明

三室戸寺(明星山)】三室戸寺の見事な紅葉
1.本山修験宗別格本山
2.西国三十三所観音巡礼第十番札所  本尊 千手観音
3.創建 宝亀年間(7世紀)に光仁天皇が奇瑞により金銅千手観音像を得、大安寺の僧行表に宇治の御室を下付して伽藍を造営させたのが創建と伝える。
4.当寺は、平安後期以降盛んになった西国巡礼の札所として信仰をあつめ、また、室町時代には応仁の乱を避けて、公卿近衛政家が宇治に住まい、秋の紅葉狩りをはじめしぱしば当寺に遊んだことを日記に記している。
 現在の本堂は約180年前(文化2年)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背後には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼、三重塔がある。
 5000坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、5月にはツツジ(2万株)、6月にはアジサイ(1万株)7月にはハス・秋の紅葉と四季を通じて美しい花が楽しめます。

 世界遺産 宇治上神社宇治上神社拝殿
1.離宮上社とも。式内社
2祭神 応神天皇、仁徳天皇、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
3現在地は、応神天皇の皇子菟道稚郎子の離宮であった桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)の旧跡と伝える。
 明治期以前は宇治離宮明神、宇治離宮八幡などともいわれたが、明治初期に上・下二社に分かれた。
4.平安時代に建立された本殿は三棟の一間社流造をつなぐ構造をとり、現存最古の社殿といわれる。

 ※応神天皇の末の皇子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は幼くして学を好み広く書物に通じ、明徳なるゆえに天皇より愛され皇太子として立てられたが、天皇が亡くなり、太子は義を重んじて敢えて位につかず、兄(のちの仁徳天皇)に位を譲られた。兄も「先帝の定められたことを軽々にこれを変えることは出来ぬ」と、兄弟位を譲りあうこと3年、人民惑い、天下大いに乱れた。これを憂いて弟君「久しく生きて天下を煩らわさむ」と自ら命を絶たれ、兄君を皇位に即(つ)かせられた。


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