景行天皇陵→崇神陵→黒塚古墳・展示館→交野NTT付近(行程100km、徒歩約7km) |
〔山辺の道〕 大和は、かって「青垣」とも呼ばれ、小高い山々に囲まれた地。 「山の辺の道」は、奈良盆地の東方の山裾を縫うように南北に、三輪から奈良へ通じる古道です。大和平野には、南北にまっすぐ走る官道として、上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)の3つの道が7世紀の初め頃には造られていました。 山の辺の道は、これらの道より古く、上ツ道のさらに東にあって、起伏に富み、曲折しながら村と村を結び、人々の生活の道でもありました。現在、その道は、はっきりわかりませんが、歌垣(うたがき)で有名な海石榴市(つばいち)から、三輪、景行陵、崇神陵を経て、石上神宮更に奈良へと北上する道で、延長26キロとなります。 この中で、古代の面影をよく残し、万葉びとの息づかいを伝えているのが、大神神社の周辺から檜原神社を通り、石上神宮までの15キロの道です。この間には、古社寺や古墳、万葉歌碑をはじめ多彩な伝承の舞台が展開し、知らない間に訪れる人を古代神話の世界へ誘ってくれます。 また、「日本書紀」が崇神天皇陵の場所の記述を「山の辺の道の勾(まがり)の岡の上(へ)の陵」としていることから、日本最古の官道でもあると言われている。 巨大遺跡・纏向遺跡は邪馬台国か? 「王都」纏向遺跡の出現 ひときわ秀麗な姿を浮かべる神の山、三輪山。 その北麓から流れ出る古代「纏向川」のいくつもの流れが形成した扇状地。そこが「古事記」や「日本書紀」に、崇神・垂仁・景行三代の天皇が都したところとつたえられた「纏向」の地である。 1971年以来、60ヶ所を超える発掘調査によって、3世記を中心とした纏向遺跡の特徴が次第に分かりかけてきた。 1. 弥生時代の大環濠集落の衰退ののち3世紀になって突如出現し、中心はその後約100年間、周辺の前期の大型前方後円墳の造営と共に繁栄した。 2.遺跡の範囲は、この100年間に限り、少なく見積もっても1km四方に及ぶ。この広さは、最大級の農業集落である奈良県の唐古遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡の4倍に当たり、平城京の規模に匹敵する。 3. 遺跡内に、全長100m前後の同時期の前方後円墳5期と全長276mの王墓、箸墓古墳がある。⇒ 4. 延々と矢板で護岸した運河や土木工事用の鋤など、大規模な工事の後がうかがえる。 5. 広く瀬戸内西部から南関東の間で作られた土器が大量に運び込まれており、各地の物資や人々が盛んに行き来した様子が伺える。 6. 掘立て柱建物群の中には、垣や板塀で仕切り、小さな付属建物(脇殿)をもち、軸線を東西南北方向にあわせた整然としたものが存在する。 7. 川筋に集中して、多くの穴や建物、集水施設などが発見され、焼けた米や籾が、農具や土器と共に大量に出土している。 8. 吉備地方で作られた特殊器台の破片や弧帯文様を施した木の板や石が出土している。 9. 最近、この遺跡内の数基の古墳築造年代が3世記前・中期となってきた。 ◎以上のことなどから、纏向遺跡は、ヤマト王権の最初の都宮であった可能性が高くなったと考えられ、そこが「邪馬台国」だったと推定されるようになってきた。 下の地図の左上から纒向遺跡全景 |
2002.11.21(木)、AM8:30交野・青年の家をバス2台で出発。畿内説か九州説かに分かれている、邪馬台国探しに出かけた。果たして卑弥呼に出会えるか?楽しみである。
再び、バスで大神神社(おおみわじんじゃ)まで移動。国道から神社に入るところで、大きな鳥居をくぐったが、この大鳥居は、昭和59年の昭和天皇ご親拝を記念に建てられたもので高さが32mもあるそうだ。厳粛な面持ちで参道を上り、参拝。ご神体は後ろにそびえる三輪山で、本殿はなく拝殿のみで、この豪華な拝殿は寛文4年(1664)徳川家綱による再建されたものだ。 大神神社は庶民から「三輪さん」と親しまれ、特に酒造業者からは酒の神と崇められており、造り酒屋の軒先に吊される杉玉はここから授与されるとか。 拝殿から北へ狭い道を10分ばかりあがると、狭井(さい)神社がある。ここで、三輪山のご神水を飲んだ。コップ1杯の水をありがたく頂戴する。また、ここで入山料を支払い、ご神体の三輪山に登ることができるそうだ。また、機会があれば、登って見たいものだ。 山辺の道を、くねくねと歩くこと30分ばかり、桧原神社に11時30分ごろ到着。珍しい三つ鳥居の前で辻先生より、三輪山に係わるお話を詳しく聞く。またここから見える二上山が綺麗そうだが、残念ながら雲があり見ることが出来なかったが、風もなく暖かい太陽の日差しもあり、ゆっくりと昼食を摂り休憩した。 午後は、みかん畑や静かな田園風景の中をゆっくりと下り、左手に鬱蒼と草が茂った纏向川を見ながら、ホケノ山古墳に12時35分ごろ着いた。2年前(2002.4.9)、発掘現場の現地説明会に待ち時間2時間を辛抱して参加したことを思い出す。 ホケノ山古墳の墳頂に上り、先生より纏向遺跡の全容を書いた手元のイメージ図をもとに、三輪山から纏向山、そして目の前に見える箸墓古墳、ずーと向こうに見える纏向小学校の建物付近にある勝山古墳、石恁テ墳、矢塚古墳などの方向を指差しながら、最近の発掘調査などからこの地域一帯に初期の大和政権の古代都市があった可能性が高いこと。 また、右手山麓の山辺の道には、景行天皇陵、崇神天皇陵などがある柳本古墳群があり、崇神天皇陵の国道を隔てて西側には、平成9・10年に発掘調査が行われ、特に33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳があることなど、説明を受けた。 邪馬台国はやはりこの地に栄えたのだろうか?卑弥呼の時代に造られた古墳?が次々と発掘調査され全容が解き明かされつつある。 とてつもなく大きい箸墓古墳をぐるりと巡り、卑弥呼はどこかと探し求めたが・・・見当たらず、国道を北上して垂仁天皇纏向珠城宮跡と書かれた石碑が建っている場所から、景行天皇陵、崇神天皇陵を目指して山辺の道を再び北へと歩く。 国道に面して、立派な濠を備えた大型古墳が二基あり、当時の大王の権力をまざまざと見せつけられた。 最後に訪ねたところは、黒塚古墳。古墳の上に上がり、竪穴式石室が発掘され33面の三角縁神獣鏡が出土した平成10年当時、4時間〜6時間の待ち時間を辛抱して現地説明会に立ち会われた時の感動などをお聞きした。その後、天理市立黒塚古墳展示館で復元展示されている竪穴式石室と33面の鏡などを見学した。33面の素晴らしい鏡に、暫し呆然と立ちつくし見惚れてしまった。 今回の市民講座・バスツアーは、「邪馬台国はやはり大和だった?」と銘打って、「卑弥呼」を探し求めた盛り沢山の内容で、参加した考古ファンの期待に充分に応えるものだった。今回のツアーでは、卑弥呼は見つけられなかったが、幻の古代国家を垣間見ることが出来た。 現在は宮内庁管轄の天皇陵などがいずれは公開される時が来るだろう。そうなれば、我々の目の前に、古代の歴史がより鮮明に解き明かされることだろう。 |
※史跡・概略説明 【三輪山と大神神社】 三輪山伝説 三輪山王朝 箸墓古墳は多彩な伝説に彩られた話題の古墳。初期大和政権の中心と考えられてきた纏向遺跡を取巻く纏向古墳群の盟主。 全長276mの巨大な前方後円墳。 1、伝説 大神神社のご祭神大物主神と結婚したと伝える倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトティモモソヒメ)の墓と伝承。モモソヒメが卑弥呼と同一人との説もあって、卑弥呼の墓といわれてきた。 2、築造時期 従来から、日本最古の古墳で3世記中・後に築造されたと考えられてきた。現在も、時期の変更はないが、最近の発掘調査の結果、箸墓古墳より古い古墳が数基考えられるようになった。 3、墳丘の特徴 全長276m。後円部の径156m。前方部の長さ126m。くびれ部の幅60m。前方部の前面幅132m。前方部の広がりが大きくてバチ形になっている。 4、出土品 宮内庁管理のため現在調査ができない古墳。しかし、台風被害、調査等で採集された土器片、埴輪片などがある。 5、箸墓古墳の評価 築造時期、規模から考えて、ヤマトに出現した最初の大王墓といえる。
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