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渡来人と日本文化・市民講座バスツアー
邪馬台国はやはり大和だった?
山辺の道を訪ねる」
2002.11.21(木) 奈良県磯城郡田原本町、桜井市、天理市
詳細は、桜井市のWelcome さくらいHPをご参照下さい

コース: 交野青年の家→唐古遺跡→大神神社→狭井神社→ホケノ山古墳→箸墓古墳→
景行天皇陵→崇神陵→黒塚古墳・展示館→交野NTT付近(行程100km、徒歩約7km)

邪馬台国はやはり大和だった?山辺の道を訪ねるMAP

 〔山辺の道〕 山辺の道、竜王山麓から桧原神社へと向かう
 
大和は、かって「青垣」とも呼ばれ、小高い山々に囲まれた地。
「山の辺の道」は、奈良盆地の東方の山裾を縫うように南北に、三輪から奈良へ通じる古道です。大和平野には、南北にまっすぐ走る官道として、上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)の3つの道が7世紀の初め頃には造られていました。

 山の辺の道は、これらの道より古く、上ツ道のさらに東にあって、起伏に富み、曲折しながら村と村を結び、人々の生活の道でもありました。現在、その道は、はっきりわかりませんが山辺の道を北へと歩き、前方に景行天皇陵を望む歌垣(うたがき)で有名な海石榴市(つばいち)から、三輪、景行陵、崇神陵を経て、石上神宮更に奈良へと北上する道で、延長26キロとなります。
 
この中で、古代の面影をよく残し、万葉びとの息づかいを伝えているのが、大神神社の周辺から檜原神社を通り、石上神宮までの15キロの道です。この間には、古社寺や古墳、万葉歌碑をはじめ多彩な伝承の舞台が展開し、知らない間に訪れる人を古代神話の世界へ誘ってくれます。

 また、「日本書紀」が崇神天皇陵の場所の記述を「山の辺の道の勾(まがり)の岡の上(へ)の陵」としていることから、日本最古の官道でもあると言われている。 

巨大遺跡・纏向遺跡は邪馬台国か?
  「王都」纏向遺跡の出現
  ひときわ秀麗な姿を浮かべる神の山、三輪山。 その北麓から流れ出る古代「纏向川」のいくつもの流れが形成した扇状地。そこが「古事記」や「日本書紀」に、崇神・垂仁・景行三代の天皇が都したところとつたえられた「纏向」の地である。
 1971年以来、60ヶ所を超える発掘調査によって、3世記を中心とした纏向遺跡の特徴が次第に分かりかけてきた。
 1. 弥生時代の大環濠集落の衰退ののち3世紀になって突如出現し、中心はその後約100年間、周辺の前期の大型前方後円墳の造営と共に繁栄した。箸墓古墳と三輪山
 2.遺跡の範囲は、この100年間に限り、少なく見積もっても1km四方に及ぶ。この広さは、最大級の農業集落である奈良県の唐古遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡の4倍に当たり、平城京の規模に匹敵する。
 3.  遺跡内に、全長100m前後の同時期の前方後円墳5期と全長276mの王墓、箸墓古墳がある。
 4.  延々と矢板で護岸した運河や土木工事用の鋤など、大規模な工事の後がうかがえる。
 5.  広く瀬戸内西部から南関東の間で作られた土器が大量に運び込まれており、各地の物資や人々が盛んに行き来した様子が伺える。
 6.  掘立て柱建物群の中には、垣や板塀で仕切り、小さな付属建物(脇殿)をもち、軸線を東西南北方向にあわせた整然としたものが存在する。
 7.  川筋に集中して、多くの穴や建物、集水施設などが発見され、焼けた米や籾が、農具や土器と共に大量に出土している。
 8.  吉備地方で作られた特殊器台の破片や弧帯文様を施した木の板や石が出土している。
 9.  最近、この遺跡内の数基の古墳築造年代が3世記前・中期となってきた。
 ◎以上のことなどから、纏向遺跡は、ヤマト王権の最初の都宮であった可能性が高くなったと考えられ、そこが「邪馬台国」だったと推定されるようになってきた。

下の地図の左上から纒向遺跡全景


 2002.11.21(木)、AM8:30交野・青年の家をバス2台で出発。畿内説か九州説かに分かれている、邪馬台国探しに出かけた。果たして卑弥呼に出会えるか?楽しみである。
 天候は晴れ。まさしく行楽日和となった。「今日はいい天気でよかったですね」と朝の挨拶があちこちで交わされた。バスも163号線から24号線へと順調に走り、奈良市内、郡山も過ぎて唐古遺跡へと9時40分ごろ到着した。トイレ休憩後、唐古遺跡を見学。
 駐車場から数段の階段を上ると、国史跡・唐古遺跡と彫られた大きな石碑が立っており、フェンスに囲まれた池の南に楼閣はあった。発掘された土器に書かれていた絵が復元されたそうで、渦巻状の屋根飾りはどこか幻想的なムードを漂わせていた写真を撮り、楼閣をバックに記念撮影をした。

国史跡 唐古・鍵遺跡 (唐古遺跡パンフレットより)復元された唐古遺跡の楼閣

遣跡のあらまし
 唐古・鍵遺跡は、奈良盆地のほぼ中央、初瀬川と寺川に挟まれた沖積地(標高50m前後)に立地します。1936・7年、末永雅雄博士らによっておこなわれた唐古池の発掘とその報告書は、弥生時代研究の基礎を作りました。その後、40年ぶりに再開され、毎年数次にわたる調査が実施されています。それらの調査成果は、日本を代表する大環濠集落であることを明らかにしました。そして、1999年1月には国の史跡として指定を受けました。

 発掘調査では、ムラを囲む環濠や竪穴住居、井戸、木器を貯蔵する穴、青銅器の工房跡、木棺墓、土器棺墓などが検出されています。また、大量の土器や石器のほか、楼閣などの絵画土器、岡山県東部や静岡県西部から搬入された土器、青銅器の鋳造に伴う鋳型など弥生時代でも貴重な遺物がたくさん出土しています。

楼閣(復元)の構造

 楼閣は高さ12.5mの二階建てに復元しました。建てられた場所は唐古池の西南隅となっていますが、これは戦前の発掘調査の際に弥生時代の生活遺構が完全に失われており、遺跡の保存上問題が無いと判断されたためです。
 柱は4本で、太さ50cmのヒバ材を使用しました。屋根は茅葺きで、丸太いで放射状に押さ唐古遺跡の建物が描かれた土器片えています。壁は外面が網代壁、内面が板壁です。

 唐古・鍵遺跡の建物の絵に特徴的な渦巻き状の屋根飾りは藤蔓で作り、梯子は刻み梯子で復元しています。土器に描かれた屋根の上の逆S字状の3本の線は渡り烏と解釈し、木製の鳥を東西両面にそれぞれ3羽ずつ設置しています

 再び、バスで大神神社(おおみわじんじゃ)まで移動。国道から神社に入るところで、大きな鳥居をくぐったが、この大鳥居は、昭和59年の昭和天皇ご親拝を記念に建てられたもので高さが32mもあるそうだ。厳粛な面持ちで参道を上り、参拝。ご神体は後ろにそびえる三輪山で、本殿はなく拝殿のみで、この豪華な拝殿は寛文4年(1664)徳川家綱による再建されたものだ。
 大神神社は庶民から「三輪さん」と親しまれ、特に酒造業者からは酒の神と崇められており、造り酒屋の軒先に吊される杉玉はここから授与されるとか。狭井神社の参道を歩く
 拝殿から北へ狭い道を10分ばかりあがると、狭井(さい)神社がある。ここで、三輪山のご神水を飲んだ。コップ1杯の水をありがたく頂戴する。また、ここで入山料を支払い、ご神体の三輪山に登ることができるそうだ。また、機会があれば、登って見たいものだ。
 山辺の道を、くねくねと歩くこと30分ばかり、桧原神社に11時30分ごろ到着。珍しい三つ鳥居の前で辻先生より、三輪山に係わるお話を詳しく聞く。またここから見える二上山が綺麗そうだが、残念ながら雲があり見ることが出来なかったが、風もなく暖かい太陽の日差しもあり、ゆっくりと昼食を摂り休憩した。

 午後は、みかん畑や静かな田園風景の中をゆっくりと下り、左手に鬱蒼と草が茂った纏向川を見ながら、ホケノ山古墳に12時35分ごろ着いた。2年前(2002.4.9)、発掘現場の現地説明会に待ち時間2時間を辛抱して参加したことを思い出す。
 ホケノ山古墳の墳頂に上り、先生より纏向遺跡の全容を書いた手元のイメージ図をもとに、三輪山から纏向山、そして目の前に見える箸墓古墳、ずーと向こうに見える纏向小学校の建物付近にある勝山古墳、石恁テ墳、矢塚古墳などの方向を指差しながら、最近の発掘調査などからこの地域一帯に初期の大和政権の古代都市があった可能性が高いこと。 また、右手山麓の山辺の道には、景行天皇陵、崇神天皇陵などがある柳本古墳群があり、崇神天皇陵の国道を隔てて西側には、平成9・10年に発掘調査が行われ、特に33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳があることなど、説明を受けた。

 邪馬台国はやはりこの地に栄えたのだろうか?卑弥呼の時代に造られた古墳?が次々と発掘調査され全容が解き明かされつつある。
黒塚古墳の墳頂で、発掘当時の状況などをお聞きする
 とてつもなく大きい箸墓古墳をぐるりと巡り、卑弥呼はどこかと探し求めたが・・・見当たらず、国道を北上して垂仁天皇纏向珠城宮跡と書かれた石碑が建っている場所から、景行天皇陵、崇神天皇陵を目指して山辺の道を再び北へと歩く。
 国道に面して、立派な濠を備えた大型古墳が二基あり、当時の大王の権力をまざまざと見せつけられた。

 最後に訪ねたところは、黒塚古墳。古墳の上に上がり、竪穴式石室が発掘され33面の三角縁神獣鏡が出土した平成10年当時、4時間〜6時間の待ち時間を辛抱して現地説明会に立ち会われた時の感動などをお聞きした。その後、天理市立黒塚古墳展示館で復元展示されている竪穴式石室と33面の鏡などを見学した。33面の素晴らしい鏡に、暫し呆然と立ちつくし見惚れてしまった。

景行天皇陵の前で
 今回の市民講座・バスツアーは、「邪馬台国はやはり大和だった?」と銘打って、「卑弥呼」を探し求めた盛り沢山の内容で、参加した考古ファンの期待に充分に応えるものだった。今回のツアーでは、卑弥呼は見つけられなかったが、幻の古代国家を垣間見ることが出来た。
 現在は宮内庁管轄の天皇陵などがいずれは公開される時が来るだろう。そうなれば、我々の目の前に、古代の歴史がより鮮明に解き明かされることだろう。

 ※史跡・概略説明

三輪山と大神神社 
 奈良県桜井市の山。標高467m。秀麗な円錐形の山容で、西麓に鎮座する大神神社(おおみわじんじや)の神体山。大神神社の拝殿
 「延喜式」神名帳に大神大物主神社とあるように祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)で、孝霊天皇の皇女倭迩迹日百襲姫i(ヤマトトトヒモモソヒメ)命を妻にしたといい、その子で三輪君の始祖の大田田根子(たねこ)が祭ったと伝える。
大和国一宮。全国の大物主神の総本社。

三輪山伝説
 神と人間の婚姻を主題とする伝説の一つ。「古事記」「日本書紀」に伝えられる。
 「日本書紀」崇神天皇10年条によれば、三輪山に住む大物主神が、ヤマトトトヒモモソヒメを見初めて妻とした。ところが夫は、昼は姿を見せず、夜のみやってくる。明るい光りのもとで夫の麗しい顔を見たいと懇願する妻に対し、彼は、姿を見ても決して驚かないとの条件で承諾した。
 翌朝、彼女が櫛を入れる箪笥をあけてみると、そこには美しい蛇がはいっていた。三輪山の神オオモノヌシ神は蛇身だったのである。蛇身であることを知られたオオモノヌシ神は、大空を飛んで三輪山にのぼり、後梅したヤマトトトヒモモソヒメは、箸で陰部(ほと)をついて死ぬ。それで、大市(おおいち)に葬られた彼女の墓を、人々は箸墓と呼んだ。

三輪山王朝
 三輪山周辺に、崇神・景行両天皇の山稜と伝えられるものを含む前期の大型前方後円墳が存在することから、これを「古事記」「日本書紀」の崇神以下三代の天皇の宮居についての所伝や、崇神と大三輪神との関係についての伝承などから、4世紀の三輪地方に崇神天皇を祖とする一つの王朝が成立したとみなし、それを三輪王朝と称している。
 記紀の所伝では、この時期の天皇諡号に「イリ」という称号が共通してみられることから、イリ王朝とも称する。

伝承卑弥呼の墓・箸墓古墳纏向古墳群
 箸墓古墳は多彩な伝説に彩られた話題の古墳。初期大和政権の中心と考えられてきた纏向遺跡を取巻く纏向古墳群の盟主。ホケノ山古墳から箸墓古墳を望む
 全長276mの巨大な前方後円墳。
1、伝説
 大神神社のご祭神大物主神と結婚したと伝える倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトティモモソヒメ)の墓と伝承。モモソヒメが卑弥呼と同一人との説もあって、卑弥呼の墓といわれてきた。
2、築造時期
 従来から、日本最古の古墳で3世記中・後に築造されたと考えられてきた。現在も、時期の変更はないが、最近の発掘調査の結果、箸墓古墳より古い古墳が数基考えられるようになった。
3、墳丘の特徴
 全長276m。後円部の径156m。前方部の長さ126m。くびれ部の幅60m。前方部の前面幅132m。前方部の広がりが大きくてバチ形になっている。
4、出土品
 宮内庁管理のため現在調査ができない古墳。しかし、台風被害、調査等で採集された土器片、埴輪片などがある。
5、箸墓古墳の評価
 築造時期、規模から考えて、ヤマトに出現した最初の大王墓といえる。
箸墓古墳で調査されたこと
・葺石
 後円部および前方部の斜面全面に葺石が並ぺられていた。(池の講査)
 葺石は近くを流れる初瀬川から採集された川原石。
・埴輪
 円筒埴輪、壷形埴輪の破片。「都月型埴輪」と呼ばれるタイプに属している。
・土師器片。底部に孔をあけた壺形。
  ホケノ山古墳

 
 ホケノ山古墳は箸墓古墳とホケノ山古墳の石囲い木槨の模型同じ桜井市箸中にあり、前方部が短い纏向型といわれる古墳である。 墳丘規模は全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mである。墳丘には周濠(しゅうごう)が巡り、ほぼ全面に葺石(ふきいし)が敷かれている。築造時期は、庄内式の土器が発掘されたことにより、箸墓古墳よりも古い、3世紀の中ごろとされる。

 現在までに、画文帯同向式神獣鏡1面、内行花文鏡片・半肉彫表現の鏡片若干、素環頭大刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後、銅鏃60本以上、鉄鏃60本以上、農工具などの鉄製品多数、二重口縁壺20体以上が出土している。石囲い木槨という埋葬施設をもつ。
 

  石塚古墳

 墳丘は、後円部長径64m、短径61mの不整円形で、東南方向に前方部幅32m、長さ32m、括れ部幅約15mの前方部が付くいわゆる纒向型の前方後円墳であるといわれる。以前は、円墳であるが、帆立貝式の墳丘の可能性もあるとされていた。とにかく、纏向地方で最古の古墳といわれる。
 出土した土器から3世紀前半の築造と発表されたが、異論もかなりあるようである。周濠からの出土遺物には纒向T式期の土師器とともに木製鋤、朱塗の鳥型木製品、弧文円板等がある。しかし、銅鏡の出土はなく、肝心の棺については、大正時代に石の棺のようなものが見えたという記録だけが残っている。
  勝山古墳

 桜井市東田町に所在する勝山古墳は、後円部径65m、墳丘長110mの規模を有する前方後円墳であるといわれる。出土土器は寺沢編年の布留0式期なので、箸墓古墳と同じ年代の築造であると推定される。しかし、この勝山古墳も、出土したのは、木材や木の製品らしきものだけで、古墳を連想させるものは出土していない。
  なお、平成13年、勝山古墳の前方部くびれ部より、多数の木片が発掘され、これらについて、橿原考古学研究所が年輪年代法による年代測定を依頼した。発表によると、伐採年代測定可能なものが1片あり、その年代は、西暦198年頃とのことである。同様の方法で、ホケノ山古墳から出土した木片の伐採年代を推定したところ、これは、177年±20年との結果が出たという。これによると、勝山古墳とホケノ山古墳は2世紀後半から遅くとも3世紀前半には築造されていたことになる。しかし、そうなると、土器による年代測定とは異なることになる。
 橿原考古学研究所の意見は、「様々な異論はあろうかと思われるが、この事実を偶然の一致と見なすのではなく、積極的に評価して、勝山古墳の推定築造年代を3世紀前半の中におさまるものと考えたい。」である。


大和古墳群と黒塚古墳 (天理市立黒塚古墳パンフレットより)
 
 大和古墳群は、奈臭盆地の東側で春日断層崖の傾斜地に沿って築かれた古墳群である。発掘当時の黒塚古墳古墳時代前期(3世紀後半から4世紀代)に、南北約4.5km、東西1.5kmの範囲で、前方後円墳30基以上、前方後方墳4墓、円墳などで構成されている。
 渋谷向山古墳(景行天皇山辺道上陵として管埋されている)は、全長300mの現模を誇る。後方は行燈山古墳(崇神天皇山辺勾岡上陵として管理されている)で、全長は242mの規模を有する

 史跡黒塚古墳は、この行燈山古墳の西に位置し、東側には史跡櫛山古墳が位置している。地形的には櫛山古墳から盆地に向かって延びる丘陵上にこれらの古墳は築かれ、黒塚古墳はこの西端の微高地が築造地として選ばれたようである。
 大和古墳群が作られた地域は、我が国の古墳時代の始まりとしての前方後円墳を誕生させ、倭国の統合の象徴とされたのであろう

竪穴式石室
  石室は盗掘や地震による大規模な破壊があったが、後円部中央に南北方向に作られていた。長さ約8.3m、幅約0.9〜1.3m、高さは約1.7mという長大な石室である。
 石室の構造は、下部には川原石を積み、上部は板石で合掌形に積まれ、いかにも不安定な壁構造である。石室の周辺に散乱する石は、石室を支える裏込め石である。
 石室の中央には、棺を置いた粘土棺床がある。 木棺はクワの巨木(直径約1m,長さ約6m)が用いられたが、すべて腐っていて残存していない。粘土棺床の中央と周辺には、鏡や鉄製品が副葬された当時のままで検出された。

鏡の配列出土した三角縁神獣鏡(レプリカ)
 中央の特に赤い部分は、粘土棺床に付着した水銀朱の色である。この部分に遺骸が安置されていたと推定される。頭部付近には、写真中央にある画文帯神獣鏡が置かれていた。文様面を南に向けている。画文帯神獣鏡の左右には刀・剣が置かれていた。これらが棺内に納められた副葬品である。
 粘土棺床と壁の間には、三角縁神獣鏡が配列されていた。鏡面を内側にして立てていたのである。正面には三角縁盤龍鏡が見える。

当日頂いた資料並びに関係HPを参照して作成しました。

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